翼を得たもの 2 陸上部のお姉さま
智子さんは、駅の自動販売機に気づいて、缶ジュースを二本買ってきた。
「楓は野菜ジュース、だったよね」
いつも通りの一本を渡して、もう一本は自分用のミルクティー。
見なくても分かる。智子さんは牛乳があれば牛乳を買うが、自動販売機には牛乳がないところが多い。そう言う時はミルクティー。
大会で記録を更新したり、練習が夜遅くまでなったり。
そういう時に、智子さんは良くこうして、飲み物をご馳走してくれた。
なんだか懐かしい気持ちになる。
そう、あの時はいつも「楓と一緒にお疲れさまってしたいんだ」
そう笑っていた。
「ありがとうございます」
お礼を言ったものの、タブに手をつけるのが躊躇われた。
「楓、うちの大学に来ると思ってたから、すっごくガッカリしたんだよ」
「すみません」
小さな先輩から不満そうに言われて、思わず体を小さくする。
「いーよ。こっちの大学の監督、教え方上手いって評判だもんね。楓、頑張るんでしょう?なら、許す」
悪戯っぽく笑った智子さんの表情は眩しかった。
だから、目をそらして下を向いた。
「私ね、楓に言わなきゃならないことがあって来たの」
来た。
その言葉に、背中から緊張が走って固まった。
智子さんは、そんな私には気付かないように、空を見上げている。
「私ね、楓がメンティになってくれて、すっごく嬉しかったの」
「え?」
予想外の言葉に驚いて智子さんを見ると、向こうはこっちの方なんて見てもいなかった。
だから、私は自分がどんな顔をして聞けば良いかなんて、考えなくていいことに気付いた。
「楓が高校の陸上部に入って来た時、すごく理想的な子が入ってきたなって思ったの。私は小さいでしょう?どうしても不利な所があるじゃない?」
理想的。
初めて聞いた智子さんの気持ちに、嬉しい気持ちにしてしまう。
「楓は私が持ってないものを沢山持ってる、すっごい一年生だったの。嬉しかったし憧れた。もうすっごく仲良くなりたくて、それこそ親友になりたかった」
「……」
「私は、何も先輩として教えなかった。だって楓は私が教えなくても凄いんだもん。私が何か教えることはないなって思ってた」
智子さんの言葉はキラキラしていて、私の心に降ってくるみたいだった。
優しい温かい言葉。
「それも自慢だったの。私が凄いんじゃなくて、楓がすごい。そんな楓のペアだってことが誇りだった。しかも、楓ったら後輩指導も完璧でさ。誰も私が助言者だから凄いなんて勘違いしなかったよ」
温かい言葉に、泣きそうになる。
だってそれは間違いだから。
私は凄くない。
智子さんが笑って見ていてくれたから、頑張れたんだ。
そうちゃんと言えれば良いのに、泣きそうになるから言葉が出ない。
「楓」
智子さんはようやくこっちを向いた。
「ペアなのに、1人で自己満足しててゴメンね。私のメンティになってくれてありがとう」
「智子さん」
「あー、うん。それね、それも」
「え?」
なにが「それ」なのか意味が分からずに聞き返すとら智子さんはポリポリと頬を掻いた。
「お姉さま、って呼びたかったんでしょう?私は変わらず、ともちゃんって呼んで欲しいけど、そういうのもこれから話し合ってみよう」
「これから、ですか?」
「嫌じゃなかったら」
勿論、嫌なわけがない。
私は慌てて頷いた。
これからの関係が続くということが嫌なわけなんてあり得ない。
あり得ないのだが、浮かんだ疑問を口にした。
「どうして急に、そんなこと考えたんですか?」
そう聞くと智子さんは、うーんと悩むように目を閉じた。
「いや、最初はね。もっと違う話をする気だったの。でもここに来るまでに色々考えてさ。思ったんだ」
「はい」
「私はね。陸上部の家系なんて、ちっとも興味ない。今の子達にアドバイスする気も全くない」
きっぱりと言ってから、智子さんはミルクティーをゴクゴクと飲んだ。
それから、私を見てにっこりと笑う。
「でもさ。出来れば楓とは、大学違ってもずっと仲良く親しい間柄でいたいなって思ってるよ」
「私と、ですか?」
「うん。高等部卒業してからも、ずっと絵ハガキくれたでしょう?楓、そういうの下手くそなくせに」
下手くそと言われて、曖昧に笑うしかない。
「でも、嬉しかった。楓をメンティにした時と変わらず嬉しかったよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。だからね。私はそういう関係がずっと、ずーっと続く気がしてた」
智子さんは急に真顔になった。
こちらをじぃっと見つめてくる。
「でも、気がしてたじゃダメだった。もう高校とは違う。私たちにはもう関係を繋いでるバッチがないんだもん。だから、ちゃんと楓の気持ちを聞かなきゃいけないんだって気付いたの」
「私の気持ち?」
「そうだよ。大学も違うし、私は楓より凄い先輩じゃないし、物足りないかもしれないけど、私は楓と仲良くしていたい。だから、どんな風にこれからを作るのか、作らないのか。ちゃんと2人で決めなきゃダメじゃない?」
そう言われて、これからも智子さんを大好きでもいいんだって言われてるみたいで。
なんだかとても嬉しくて嬉しくて。
涙が出そうになって、空を見上げた。
でも、泣かないと決めて、ぐっと堪えた。
卒業式の日、智子さんの前で泣いて後悔したから、もう泣きたくなかった。
「私」
代わりになる言葉を探して、口にすると、智子さんは何?と聞き返した。
「私、智子さんにいつも励まされてました。智子さんに褒められると嬉しくて。なんかそれがあるとめちゃくちゃ頑張れたし、それがないと本調子が中々出なくて」
「そうなの?」
智子さんは心底驚いた様子で目を見開いた。
本当です、と言ってから、ああ、と声が漏れた。
「私、常葉学園の大学部に行けば良かったなぁ」
「はあ?」
なによ、今更と言われて。そうだなって思う。
それについては今更だ。後悔したって遅い。
智子さんは急ににぃっと悪い笑みを浮かべた
「そうよ。楓は常葉学園の大学部に来るべきだったのよ。そしたらその口から二度と「お姉さま」なんて言わせないし、『ともちゃん』を強要してやったんだから」
「あぁ、いやその」
思わず口ごもりながら。
智子さんのその言葉に今までつかえていたものが、取れた気がした。
ずっとあった重苦しいものが、どこかに消えてしまった。
私はふっと笑ってしまう。
「いつか『ともちゃん』も努力します」
「本当に?絶対だよ!?」
「はい」
『ともちゃん』なんて恐れ多い、とんでもないとずっと思っていたが、智子さんの話を聞いてたらなんだかそれも良いかなと思えてきた。
『お姉さま』と呼べて嬉しかった気持ちにも嘘はない。
だけど、そのどちらにも特別な気持ちがあるのなら、『ともちゃん』と呼ぶ努力をしてもいいかもしれないって思えた。
自慢のメンティだった。
そう思ってもらえていたことがとても嬉しかった。
私はようやく、野菜ジュースを開けて、一口飲んだ。




