お姉さま、事件です 2
一度全員を見渡すと、遥先輩と凛子先輩に、お騒がせしてます、と頭を下げた。
いつもと少し空気が違って、落ち込んでいるようにも見える。
顔を上げた薫は、気遣ったように二人の先輩を見た。
「部屋に入る前に、ちょっと聞こえてましたけど、凛子先輩も間違ってはないですよ。私は今日の今日まで、そのうちなんとかなると思ってたんで、口を挟まれても断ってたと思います」
「それじゃあ、今日はなんともならないと思ったということ?」
遥先輩に聞かれて、薫は困ったように頭をかいた。
ふいに、ふわりとシャンプーの匂いが漂ってきて、薫が既にお風呂を済ませたことに気付く。
部屋着のラフなTシャツとランニングズボン。
そんなに前に帰ってきたわけでもないだろうから、寮に帰ってきてすぐ、ざっくり体を洗ってきたという所か。
それで花奏とすれ違ったのだろう。
夕食は食べてないかも知れない。
何事かあった薫が、まさかのんびりするために入浴タイムを設けたとは考えにくい
そもそものんびりしていたなら、今、ここに来る理由もない。
気持ちを切り替えるためだと思うのが自然だ。
薫、大丈夫なのかな?
心配になりつつ、先輩方の手前、中々口には出ない。
「まあ、今日は流石に」
凛子先輩に座るように促されて、遥先輩が席を譲ると、薫は素直に椅子にかけた。
「聞いたかもしれませんが」
と今日の出来事を話し始めた。
時は少し遡り、陸上部の部室にて。
今日も陸上部としてのトレーニングをまださせてもらっていない薫は、少しばかり状況に呆れてしまっていた。
ここ数日はずっとこんな感じだ。
入学前から薫をメンティにしようと声を掛けてきたのが、2年生の前田光希先輩。
前田先輩は3年の陸上部部長である有沢綾さんを助言者に持っている。
陸上部は代々、部長が次期部長とペアになるのが伝統らしく、薫はいずれ部長になるようにと声を掛けられたらしい。
とは言え、そういったことに薫は興味がない。
最初はのらりくらりと。それでも諦めて貰えないので、理由は言わずにはっきりと断ったのが、結局2年生全員の気に障ったらしい。
2年生一同に陸上部のメニューを断られた時は、確かに困ったが、それでもその時間、自主トレくらいは出来たのでそんなに気にしなかった。
そもそも体が動かせれば良いと思うところが薫にはある。
だが、ここ数日は違う。部長が二年生の話を聞いている時間は、それなりに体を動かすことも出来たが、どちらかと言えば部長は二年生側。薫の説得をするつもりだ。
相手の状況や気持ちを説明して、薫に折れるように説得をしてくる。
納得しないで時間がたち部活動の時間が短くなると、仕方ないとようやく練習に行かせてくれるという繰り返しだった。
しかも今日は自主トレで軽く汗を流した程度の所で、先に話に決着をつけましょうと部室に呼び出され、いつもより体を動かせてもいない。
そのことで少々苛立ち、口が軽くなってしまってたように思う。
いつも通り、前田先輩のペアになるように説得をし始めた有沢部長の話を遮るように口を開いた。
「失礼ですが前田先輩はここ最近、スランプのようにも思えます。元々の記録も私が早いくらいです。私がペアになることで本当にお互いにプラスになると思いますか?」
「......」
「私は、前田先輩とペアになる気はないんですよ。そもそも助言者になる前に、前田先輩は今の自分の問題を解決したほうがいいと思います。そうでなければ、前田先輩も私もお互いで足を引っ張り合うだけです」
やれやれ、といった感じでそう付け加えると 、陸上部部長である3年生、有沢静樹さんは眉を顰めて黙り込んでしまった。
真面目で、争い事を好まない穏やかな性格の有沢部長は、2年生の言い分を聞いてから、やんわりと前田先輩とペアになるように薫に勧め続けていた。
そうすれば2年生との関係は、有沢部長が改善出来るようにするからどうかと。
その言い方は、押しつけることもなく、本当にそれが一番良いのだと思っている口振りだ。
前田先輩のメンティーになる必要性を全く感じていない薫は、有沢部長の言い分が理解出来ず、その少し的外れに見える様子に、つい判断を誤った。
これは相手側には言ってはならないと思っていたことを、理由として口にしてしまったのだ。
『自分より記録の出ない人に教わることはない』
これは本心ではあったが、有沢部長の表情を見ると、やはり言うべきことではなかった。
薫がペアになるのを断った前田光希さんは、他でもない有沢部長のメンティーである。
可愛がっているペアの後輩が、こんな言われ方をすれば機嫌が悪くなるのは当たり前の話だ。
これは有沢部長からも叱られるなと覚悟を決めた。その時。
「そう。そうね。分かったわ」
有沢部長は、そう言って深く頷いた。
その眼差しの深い色に、薫がぎょっとして何が分かったのか聞き返そうとすると、その前にさっと部室を出ていってしまった。
どうしたのかと後を追うと、様子を伺っていた2年生の中から、前田先輩を呼んだところだった。
小走りで前田先輩が有沢部長の前に立つと、有沢部長は難しい顔をしたまま、少し考え込んでから口を開いた。
「光希。私のバッチを返しなさい」
「え」
有沢部長とは全く違う、気の強そうな目をした前田先輩は、意味が分からないといった顔をしている。
「あなたとのペアは解消します」
「待ってください、お姉さま」
慌てたように前田先輩は有沢部長の手を取った。
「高村さんを練習に参加させなかったことを怒っていらっしゃるんですか?」
「そうではないわ」
落ち着いて首を振った有沢部長は、どこか淡々とした口調で続けた。
「あなたは、高村さんが陸上部のエースになると思って、自分のペアにしようと思ったんでしょう?」
「それは、そうです」
「私も高村さんはもっと実力を伸ばせると思うの」
そう言って有沢部長は言葉を途切れさせた。迷うように一瞬考えてから、口を開く。
「だから、あなたが彼女の助言者になれないのなら、私がなるのがベストだと思うの」
「え」
「あなたとのペアを解消して、高村さんの助言者になると言っているの」
その言葉に驚いたのは、前田先輩だけではない。
周りで様子を見ていた他の2年生も駆け寄り、震えている前田先輩を支えるように有沢部長に向き合った。
「有沢部長、ちょっと待ってください。それじゃあ光希が可哀想です」
「可哀想?光希が可哀想だから、1年生の練習や成長を妨げても良いと考えているの?」
「それは...」
激しさはないが、いつも穏やかな有沢部長が真っ直ぐな眼差しで問う言葉にすぐに反論出来る2年生はいなかった。
誰よりも有沢部長が自分自身を責めるような表情を浮かべているし、2年生には勝手に薫の練習を阻止しようとした事実がある。
「光希はそれでなくとも、ここ最近記録が伸び悩んでいたでしょう?」
有沢部長はため息をついて、前田先輩を見つめる。宥めるように、優しいが反論を許さないという口調だ。
「あなたは肩に力が入っているのよ。次の部長にならなくては、頑張らなくては、と思って、逆に本来の力を発揮出来ないでいるように見えるわ。私とのペアを組んでいることが、重荷なんじゃないかとは思っていたの」
「そんな、そんなことは」
青ざめた前田先輩の表情は固まってしまっていて、言い返しきれないように見えた。
確かに薫が以前見せて貰った、前田先輩の記録は昨年度のものより、最近のものが悪くなっていた。
それが有沢部長には、次期部長へのプレッシャーに見えているらしい。
だが、行き詰まった前田先輩が、せめて自分のペアに1年生のエースである薫を置いて、後輩育成に力を入れようとしていたというなら、確かに多少強引すぎる誘いになっていたのも納得出来る。
図らずも、薫は有沢部長にとって、悩みの種でもあった痛い所を突いてしまったらしい。
スランプの原因が、次期部長のプレッシャーなら、その原因をなくしてしまえばいい、と考えてしまったらしいのだ。
「私とのペアの解消を受け入れなさい、光希」
「嫌です!」
弾くように返答した前田先輩の顔は悲壮感が溢れていて、思わず薫は目を逸らした。
普段、強気な態度が当たり前の前田先輩が崩れるのは、見ているのが辛かった。
「嫌、です」
駄々を捏ねるような声に、前田先輩が泣き出したのが分かった。
2年生の先輩方が気を遣って囲むように前田先輩を隠したが、その嗚咽を聞けば状況くらい分かった。
揉め事は苦手なはずなのに、その様子を身じろぎせず見つめて、全く意志を揺らがせることのない有沢部長の背中を見つめて、薫は自分が思ったより性質の悪い問題の渦中にいることに気づいた。
それだけ有沢部長にも、前田先輩のスランプは心配事だったということだ。
強制で助言者制度に加わるということでなければ問題ないだろうと思っていたが、それぞれの考えや感情で話が変わって来るのだ。
だが、ここまで有沢部長のペアであることに感情が入っている前田先輩を目にして、部長のメンティーになりたい気持ちはなかった。
一度大きなため息をついて覚悟を固めてから、なんてことないような口調で有沢部長へ、そしてその向こうの2年生達にも聞こえるように声を出した。
「申し訳ないですが、2人がペアを解消しても、私は有沢部長のメンティーにはなりませんよ」
振り返った有沢部長の顔を見ずに、出来るだけ太々しく聞こえるように、呆れた声を出した。
「有沢部長とペアになっても、こんな状況じゃ部活になりませんよ」
「あなたねぇ」
前田先輩を取り囲んでいた2年生の1人が、カチンと来たように声を荒げたので、薫は早口で付け足した。
「練習しないなら、このままこうしていても仕方ないですね。私は帰ります。お疲れ様でした」
そう言ってすぐさま背中を向けた。
その場の人間には、随分飄々とした態度に見えただろうが、冗談じゃない。
こっちは裸足で逃げ出すくらいの気持ちだ。
慌ただしく部室の中にあった着替えをスポーツバックに入れた。寮は近いから、いつも制服に着替えることはない。
問題の解決にもなにもなっていないが、薫は寮に帰ることにした。
ひとまず、寮で汗を流してから頭を冷やそう。
自分の行動が正解とも思わなかったが、この場の空気に巻き込まれる気にもなれず、薫は逃げ出したのだ。