第2話 抱擁
風切り音が聞こえ、次いで目の前の床が爆散する。飛び散る破片が顔に降りかかってきた。生身なら目をつぶされていたかもしれないが、私の目は硬質な音を頭に響かせながら破片を弾く。
急に飛びすさったせいか、勢い余って着地の拍子にバランスを崩してしまった。思わず手をつくと爪が食い込み、ガリガリと床が削れる。
何とか止まって顔を上げると、片腕人形の出てきたところから一つ離れた扉の前にいた。床には長々と三本の線が引かれている。
でたらめなのは腕力だけではなかったようだ。下手に飛び跳ねたりすると壁に突っ込みかねない。
まあ、私なら壁に突っ込もうが天井に刺さろうが大した問題はないだろう。だがそんなことになったら抱えているリンはただでは済まない。
人形はまだ腕を振り下ろしたままだ。光を反射しない黒い体は、暗闇の中でもそこにぽっかりと穴があいているような異様な存在感を放っている。
様子をみながら後ろへ下がる。あの腕が届く範囲にいるのは自殺行為だ。とにかく奴から離れなければ。
脚の力加減を確認しつつこの場から離れようとすると、腕の中から咳き込む音が聞こえる。下を見ると、粉塵のせいか涙目になりながらもリンがこちらを見上げていた。
「ありがとう、マイン……。ちょっと色々びっくりしちゃって……。怪我してないし、自分で動けるよ」
彼女がもぞもぞと動くので、抱えていた体を離した。彼女は地面を確かめるように立ち上がり、片腕の人形を見つめる。
「ここにもあいつがいるってことは、父さんの仲間はもう……」
リンは泣きそうな顔でそうつぶやいた。
どうやら彼女の父親とその仲間は、あの巨大な人形と敵対関係にある者たちだったようだ。しかし、リンのつぶやきから察するに彼らからの助けは期待できない。とにかくここから出るのが先決だ。
逃げるため合図しようとリンの肩を叩こうとしたとき、片腕人形の頭がぐるりと回転した。相変わらずどこが前かわからないが、私たちを見ているのだとなんとなしにわかる。腕を地面から引きあげ、体を軋ませながら緩慢な動きでこちらへ向かってくる。
「あいつらは近くにいる生き物を手当たり次第に叩きつぶそうとするの。みんな、あいつらに……」
そこまで言うとリンは恐怖に耐えるようにぎゅっと目をつぶる。その拍子に、大粒の涙が頬をつたって地面にしみをつくった。
私と出会う前、彼女になにがあったのかは知らない。しかし、尋常でない目にあったであろうことは容易に想像できた。いままでの何でもないような振る舞いは恐怖に押しつぶされないように、意識的にそうしていただけなのだろう。
そっとしておきたいが、今はそうもいかない。私はリンの肩をたたき、人形と反対方向の廊下を指さす。リンは顔を上げると無言で頷き、涙も拭わずに走り出した。私もその後を追う。人形の動きは遅く、その姿はあっという間に暗闇に消えた。
私とリンが出会った部屋の前を通り過ぎてからしばらくして、私たちは走る速度を緩めて歩き出した。彼女は疲れたらしく、息が荒い。
「これで少しは大丈夫かな……」
息をつきながら後ろを振り返るリンを見ながら、私は先ほどの人形について考えていた。あれはいったい何だろうか。急に現れたと思ったら、犬を叩き潰し、私たちも殺そうとした。いや、私に関しては壊そうとした、が正しいのか?
いずれにせよ、なぜかあの片腕人形は私たちを害そうとしている。もしかしたら警備用の機械だろうか。そうならば侵入者に対して攻撃しているだけかもしれないが、リンの言うことからするとそうは思えない。
リンはあれについて何か知っているようだが、私にはそれを訊く術がない。仕方なく、隣を歩く彼女の横顔を見つめることにした。
砂埃で薄汚れてはいるが、ぱっちりとした翡翠色の瞳が目を引く整った顔立ちだ。ほんの少し上がった目尻と髪色のせいか、黒猫のような印象を受ける。背は私より頭一つ分低くて少し華奢な体つきだが、顔立ちのせいか活発そうに見える。
そんなことを考えていると、彼女はこちらが不躾に眺めているのに気付いたようで、顔をゴシゴシとこすって、なんか付いてる? とでも言いたげに眉をひそめた。涙の痕を見られまいとしたのだろうか。しかし、私が後ろにちらっと視線を向けたのを見て、あの片腕の人形を気にしているのだと上手い具合に勘違いしてくれた。
「さっきも言ったけど、あいつは腕の届くところにいる奴は手当たり次第に攻撃するのよ。近くにいなくても生き物がいれば、そっちに近づいてくるわ。すっごくのろいけど。でも、腕の動きは速いから、下手に近づくのは危険……」
急に黙ったのを不思議に思い、リンの視線を辿る。その先には、ボロボロになった壁があった。行き止まりだ。
ここに来るまでの廊下の長さと扉の数は相当なものだった。それだけの大きさがあるのに、廊下の片方には出入り口がない。この施設を設計した人物は、利便性という言葉を知らなかったとみえる。
「そんな、行き止まりだなんて……」
リンの顔が曇る。
私は壁を破れないか叩いてみたが、どっしりとした感覚が返ってくる。もしかするとここは地下なのだろうか。下手に壊して崩落に巻き込まれたりしたらまずい。他に出口はないかと周囲の扉をこじ開けてみたが、どの部屋もガラクタが積まれているだけだった。
どうしたものかと思ったとき、リンが少々焦った風に口を開いた。
「天井! そうだ、天井に穴をあけて出よう! 私が踏み抜くぐらいだし、マインの力なら穴空けるなんて楽勝だよ!」
そう言って部屋に入ると、彼女は辺りを物色しだした。私も一緒になって辺りを探すと、手ごろながれきを見つけた。手のひらに収まる程度のものだが、私の手の大きさを考えれば十分な威力が出そうな大きさだ。
天井は最初いた部屋と同じくかなりの高さがある。だが、私の身体能力を考えればこれを天井に投げつけるぐらいはできそうだ。
リンに少し離れるように合図した後、腰を低く落としてすくい上げるようにがれきを投擲した。
がれきは壁ギリギリをかなりの速さで突き進む。狙い通りだ。がれきはそのまま壁近くの天井にぶつかったが、脆くなっていたのか衝突した瞬間に砕け散ってしまった。
ならばもっと頑丈なものをと周囲を見渡すと、おあつらえ向きのものを発見した。胴ほどの大きさがある何かの機械で、搬送のためか鎖が巻き付いている。少し長くなっている部分をもって軽く振ってみたが、かなりしっかりしていた。これならいけそうだ。
再度リンに離れるように指示し、私は少々広めの場所へ移動した。天井に向かって角度をつけて振り回せるように、地面より一段高くなっているところに立つ。両手では持ちにくかったので片手で鎖をつかみ、ゆっくりと回し始めた。徐々に速度が付き、ごうごうと音が聞こえてくる。腕からはギリギリと軋む音がしていて、かなりの負担がかかっているのが感じられた。
十分速度がついたところで、タイミングを見計らって手を離す。勢いに任せてその場でくるりと一回転すると、視界の端で天井が吹き飛んだ。
「さすがマイン!」
体勢を整えると、リンが手を叩きながら天井を見上げていた。天井からはばらばらと破片が崩れ落ちており、人一人は楽に通れそうな穴があいていた。腕も滑らかに動き、壊れた様子はない。どうやら上手くいったようだ。
「うん、穴の位置もちょうどいい。マインの爪なら、壁にひっかけて登れると思う。わたしは背中にしがみついてるから」
安堵した表情でそう言われる。自分が母猿か何かのように思えてきたが、リンの顔をみると何も言えなかった。まあ物理的にも何も言えないのだが。
ここまでは順調だった。問題はこの次の段階で判明した。私が近くの壁に爪をたててみると壁材がボロボロと崩れたのだ。何カ所か試してみたが、どこも脆くなっており爪をたてたそばから崩れ落ちてしまう。
それを見たリンの笑顔が固まる。途中までは上手くいっていた分、落差が大きくて余計にショックを受けたのだろうか。止まっていた涙がぽろぽろとこぼれだす。
「どうしよう。これじゃもう……」
肩を震わせながらへたり込んで泣き続けるリン。出会ったときの雰囲気はもはや全く感じられなかった。
「もう無理だよ……」
いままで我慢していたものがあふれ出したのか、嗚咽まじりのすすり泣く声は止まる気配がない。
私がどうするべきか迷って立ち尽くしていると、リンは髪飾りを取り外して抱きしめるように握った。
「父さん……」
祈るような声だった。
彼女はいままで必死に恐怖と闘ってきたのだろう。一人だったことや、彼女の言動から考えればつらい道程だったろうに、出会ったとき彼女の瞳にはまだ光が残っていた。
しかし、死の危険に追われながらに袋小路に突き当たってしまった絶望感がとうとう彼女の心をへし折ってしまったようだ。
リンは顔をうつむけたまま動こうとしない。このままでは、そのうちあの人形に追い付かれてしまう。
私一人なら、無理やり外へ出られるかもしれない。しかし、リンは私が目覚めてから会った初めての人間だ。しかも今のところは唯一の。
人とは言えない私と共に行動してくれる名付け親を見捨てるような真似はしたくなかった。
私はリンのそばで膝をつき、彼女の頭を胸に抱えるように抱きしめた。
幸い私は見た目が人間の女性に近いようだし、彼女は私の顔をきれいと評していた。多少の安心感は得られるだろう。
リンはびくりと肩を震わせ、驚いたように顔を上げたが、私はそのまま抱きしめ続けた。はじめは身を固くしていたものの、少しすると私の胸に顔を押し付けてきた。
胸に顔をうずめるリンは思った以上に小さく、とても弱々しい存在に思えた。
「(大丈夫、私がいるよ)」
聞こえないことはわかっているが、思わずそう言った。
その瞬間、リンがガバッと顔をあげ、目を見開いたまま固まる。
「いま、なんて……?」
まさか、聞こえたのだろうか。
「(聞こえているのかい?)」
もう一度声を発してみたが、リンに伝わっている様子はない。
やはりリンの気のせいだったのだろうか。
……待てよ。さっき声が聞こえたとき、リンは頭を私の体に押し付けていた。
しゃべろうとして出る擦れるような小さな音が声だったとしたら、もしかすると……。
もう一度リンを抱きかかえるようにして胸に押し付ける。頭を抱えられた彼女は、訳がわからないという顔をしていたが、次の瞬間には驚きと嬉しさが入り混じったような声を上げた。
「聞こ……て……かい?」
「!! 聞こえる! 聞こえるよ!」
やはり思った通りだった。声は最初からちゃんと出ていたのだ。ただ、耳を私の体につけないと聞こえないぐらい小さな声だっただけで。
「(聞こえているんだね。よかった。これでリンと話ができる)」
「ちょ、ちょっと待って。声が小さすぎるし、よく聞きとれないよ。もっとゆっくりしゃべって」
ふむ、普通に話しては聞き取りづらいか。ぶつ切りにしゃべってみよう。
「話、できる、良かった」
「うん、ちゃんと聞こえる。わたしもマインとお話しできてうれしいよ」
「私、リン、助ける。安心」
「マイン……。ありがと。あ、勝手に名前付けちゃったけど、しゃべれるならちゃんとした名前で呼ぶよ?」
「名前、わからない。私、マイン。リン、つけた、好き」
「……そっか」
そう言って私を見上げたリンの顔色はだいぶ良くなっている。少しは元気になったようだ。
「リン、元気、出る。良かった」
私がそう言うと、リンは手を私の腰に回してしがみついてきた。
照れ隠しだろうか。
話したいことは色々とあるが、いまはそんな時間はないな。それはここを出た後にゆっくり聞くことにしよう。
「ここ、逃げる。最初、部屋、穴、出る」
「最初の部屋? あ、わたしが落ちたところか」
最初いた部屋は、リンが落下してきた穴があいている。その下には、鉄板が立てかけられており、リンはそこに落ちたあと、滑り落ちたはずだ。
彼女が落下した衝撃でも壊れない程度の強度があるなら、爪をたてても崩れたりはしないだろう。
「あれは痛かったなあ……。お尻が燃えるかと思った……」
「鉄、板、登る」
「そうか、あの頑丈な鉄板なら」
「片腕、人形、来る。行く、急ぐ」
「そうだね。わかった」
涙を拭ったリンの翡翠色の瞳には、輝きが戻っている。これならもう大丈夫そうだ。
私がリンを離そうとすると、ぽそっとつぶやきが聞こえた。
「これって傍からだと、抱きついて泣きながら独り言言ってたようにみえるのかな。……なんか恥ずかしいかも」
確かにちょっとおかしいかもしれない。
「マイン、いま変だと思ったでしょ」
言い当てられた。声に出してはいなかったはずだが。
「この事、他の人には言わないでね」
リンはそう言って苦笑いした。