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八、昭和二十年八月二十二日火曜日

 市ヶ堀がいつから釣堀をやっていたのかは分からないが、店主の話では江戸時代の中頃から代々ここで釣堀を営んでいるという話だった。この釣堀は湯興仁の釣堀と違って、天井というものがなかった。つまり空を仰ぐことができた。市ヶ堀のある一階から第二十三階層のてっぺんまで吹き抜けていたのだ。薄暗いが陽光が届く時間がわずかにある。そんな市ヶ堀は四辺を覆い被さるような枝葉が縁取っている上に道路からも遠い場所にあって、とても静かだった。ここが帝都の真ん中ではなくて、どこか遠い郊外の池で夕闇の中、釣りをしているような気分になれる。

 午前九時の開園から有川と篠宮はやってきて、竿を借りて、釣りをしていた。有川は無理を言って、貸切にしてもらった。もっとも貸切にせずとも、この釣堀を訪れるのはこの二人くらいのものだった。

 二人で並んで竿を振り、棒浮きが沈む瞬間を待った。

「食いつくかな?」

「絶対食いつく。餌が特別製だ」

 棒浮きがピッと音を立てて勢いよく沈んだので有川は素早く合わせた。

「ほら、食いついた!」

 引き寄せてみると、手のひらより少し大きいくらいの鮒がタモ網に入った。

 有川はその鮒を自分の魚籠に入れて言った。

「配合に拘った極秘の練り餌だ。食いつかないほうがおかしい。これで二十三匹目だ」有川は時計を見た。正午まで後五分だった。「時間も時間だし、こりゃ俺の勝ちだな」

「ちょっと待った。確かに僕は十五匹しか釣ってないけど、そのうち一匹はウナギなんだよ」

「だから?」

「ウナギの珍しさを考慮して、ウナギは十匹分の価値があるとするべきだ。そうしたら、二十四対二十三で僕の勝ちになる」

「冗談言うな。ウナギでもマグロでも一匹は一匹だ。それに珍しさを考慮するとしても、せいぜい五匹分だ。どのみちお前の負けだよ」

「まだ五分残ってる。それでウナギを釣れば一気に逆転だ」

「あきらめの悪いやつだな」

二人は餌をつけて、また竿を振った。

 濁り水に浮かぶ棒浮きを見ながら、篠宮が言った。

「食いつくかな?」

「絶対食いつく。餌が特別製だ」

 入口から二人の男が姿を見せた。一人は日本人、もう一人は外国人だった。

「ほら、食いついた」

 有川はそう言うと、二人組に声をかけた。

「そこで止まれ。池を挟んだ状態で話をしよう。どうせここには俺たち以外に人はいない」

「あれは一体どういうことだ?」日本人のほうが声を震わせて訊ねた。「あれをどこで手に入れた!」

「そんなことどうでもいい」有川が言った。「あんたのことは何ていえばいい」

「大村忠志。陸軍大佐だ」と、名乗り、大佐は横に立っている外国人を紹介した。「アメリカ陸軍、ハロルド・シップショー大佐」

「日本語は?」

「分からない。だが、彼もアメリカ側がこの計画のために派遣した責任者だ。同席は拒めない」

「じゃあ、その人への通訳は大佐にやってもらおうか」その後、有川は付け加えるように言った。「大佐、あんたは神社、そっちのアメリカさんは教会に行って祈るんだね。俺たちが刺されたり、撃たれたり、殴られたり、血を吐いたり、雷に当たったり、鯛の天ぷらにあたったりして死なないように。これから五十年以内に、もし、俺たちが五年間行方不明になるか、くたばるかしたら、あのマイクロフィルムは全世界に公開することになっている。もう複写は六十取って、数十人の弁護士に俺たちの身に何かあった場合は広島計画が公開されるよう環境は整えてある」

 大法螺だったが、効き目はあった。大佐がシップショー大佐に通訳した。頑丈な顎と百八十センチを越える体躯が怒りで震えているのが、遠くから見ていても分かった。

「そうだ」有川は釣竿を脇で挟むと、ポンと拳で手のひらを打った。「ソ連や人民連合に渡す前にまず日本の海軍にバラすってのはどうだろう? 艦隊丸々一つ造れるだけの予算をだよ、陸軍が海軍に内緒でガツガツ貪り食っていたってことが知れたら、海軍の連中怒るかな? 怒るかな?」

「うわあ、怒るね。そりゃもうすごい怒るよ」

 大村大佐が声を震わせて言った。

「言え! お前たちの目的は何だ? 誰に雇われている? どこから金をもらってこんなことをしている! まさか本当に海軍に雇われているんじゃないだろうな!」

 大村は疑心暗鬼の虜になっているのだろう。逆に言えば、広島計画の漏洩はそこまで軍部を追いつめるものだったわけだ。とりあえず大村大佐とシップショー大佐には好きなだけ狼狽してもらおう。そうなればなるほど、有川たちには都合がいい。

 「こっちはお前らの新型兵器に興味はない」有川が言った。「ただ、真相が知りたい。神宮寺弘が殺されたわけを知りたい。それだけだ」

「ふざけるな。お前たちが真相を他言しないという保証はどこにある?」

「そんなものない。信じて話すか、ソ連やアメリカ人民連合国を含む全世界がこの計画の中身を知るかだ。俺たちにはこの図はさっぱり理解できないが、世界中にばらまけば何人かはこの図が意味するものにピンとくるんじゃないか?」

 大村とシップショーの間で英語の口論が始まった。大体、十分間くらい経ってから、大村があきらめてポツリポツリと話し始めた。

 きっかけはカリフォルニア特需だった。この、日本を大いに儲けさせた戦争特需が諸刃の剣となり始めたのは昭和十六年ごろからだった。日本の全企業があまりにも深入りしすぎたのだ。アメリカ内戦に対してはどの国も局外中立を唱えていて、かつアメリカ合衆国がアメリカ人民連合国を国家として承認しないことを名分に日本はカリフォルニアに大量の軍需物資を輸出できたのだ。だが、売掛金が膨らみ始めると、企業家は不安に思い始めた。万が一、アメリカ合衆国が敗北したら……。日本政府は局外中立の手前、軍事介入はできないが、それでも合衆国の戦時公債を買い支えることくらいならできた。この結果、日本はカリフォルニア特需への売掛金とアメリカ発行の戦時公債という二つの泥沼に足を踏み入れてしまった。万が一、アメリカ合衆国が敗北すれば、多大な売掛金を回収できず、購入した戦時公債が紙くずと化す。そのために特需で得た外貨でアメリカ合衆国を勝利させるための戦時公債を買い支えるという悪循環が生まれた。そうせざるをえないのだ。合衆国が負けたら日本は経済どころか国が傾く。特需で合衆国に入れ込み過ぎた日本は途中から傍観者の立場を捨てるハメになった。一蓮托生、なんとしてでも、アメリカ合衆国に勝ってもらわなくてはならなかった。

 そして、昭和十七年――一九四二年、アメリカ合衆国からある計画が持ちかけられた。戦況を一変できる新型爆弾の製造に関する計画だった。日本側もその計画を首相と陸相が認可し、将来大陸での行動が多くなることも見越して、広島に陸軍広島特別工兵管区という研究施設を設けた。こうして新型兵器『原子爆弾』の開発を目的とした『広島計画』が始動した。ベルギー領コンゴで採掘されたウランを輸入し、鴨緑江沿いの桓仁に米国から形だけ亡命ということにしたアメリカ人学者らを派遣し、ウラン精製工場をつくった。アメリカ国内ではいつ人民連合国の襲撃を受けるか分からず、また核実験を極秘裏に行えるほどの砂漠がなかった。合衆国が保持するカリフォルニアの砂漠はあまりにもネバダやアリゾナに近すぎて、原子爆弾の情報が人民連合国に流れるリスクが高かった。そのため、原子爆弾の開発はアメリカ本土よりずっと安全な日本と満州において日米合同で秘密裏に進められた。これは局外中立に明確に違反しているから、機密保持には万全の対策が取られた。日米合同で広島計画は遂行され、研究開発は進み、ついに昭和二十年七月、満州の荒野で起こした核実験も十分な成果が得られ、また爆発自体も軍の不良爆弾の一斉処理ということで隠蔽された。

 全てがうまくいったように思えた。

 だが、実験が成功した直後、計画の成果が漏洩したのではないかという疑いが出てきた。

 理由はハルビンのセミョーノフが動き出したからだった。そして、そのときになって判明したがセミョーノフが秘匿している金塊は三十キロや三十トンではなく、五百トンであったことが判明した。セミョーノフは白軍に渡った金塊の全てを手に入れていたのだ。セミョーノフが普通の白系露人ならそれを私的に流用して豪奢な暮らしに費やすだろうが、セミョーノフは普通の白系露人とは違った。ソ連への復讐のみに生き、その機会を狙って金塊を寝かせていた。セミョーノフは河豚計画で満州に逃れてきた亡命ユダヤ人科学者たちを強制的に参加させて、独自に原子爆弾を作ろうとしていることが分かった。セミョーノフはウランまで手に入れていた。

「金と設備と材料と技術者」篠宮は指折りして数えた。「あとは作り方だけ。広島計画を横取りして原子爆弾をつくろうと言い始めたのはセミョーノフと神宮寺、どっちだい?」

「おそらく神宮寺だ」大村大佐が答えた。「計画が漏れたのは広島だった。神宮寺は少なくとも五月の終りまでには広島計画の全容をマイクロフィルムにして所有していた。六月の終りまでにはセミョーノフに広島計画について一部分のみを教えた。セミョーノフは一撃でモスクワを吹き飛ばす新兵器に興味を持ち、神宮寺はセミョーノフの信頼を得ることに成功した。セミョーノフが金塊を現金化して技師や設備を作り始めたのは、その後からだと思っていい」

「そもそも、ただの貿易商だった神宮寺が陸軍広島特別工兵管区に関心を示したのはなぜだ?」

「こっちが訊きたいくらいだ。だが、推測は出来る。陸軍広島特別工兵管区は核実験を満州で行う都合上、関東軍のトップに話をつけておく必要があった。そして、神宮寺は関東軍の自動車部品について出入り商人のような仕事に従事していた。おそらく関東軍の上級将校が下級将校に口をすべらせ、そして下級将校が神宮寺に口をすべらせたのだろう。関東軍の将校たちは驕慢が過ぎて脇が甘い。ただ、神宮寺が手に入れた情報は本当にわずかだったはずだが、神宮寺の中の何かが彼の興味を広島へと釘付けにしたようだ。やつがいつから陸軍広島特別工兵管区に探りを入れていたのかは分からない。だが、神宮寺が広島計画を手に入れた経路は分かった。馬鹿馬鹿しくて話にならないものだ」

「へえ」と、篠宮。「どうやったの?」

「シカン世代が特別軍管区内にまで染み込んでいたんだよ。広島の研究施設で働いていた物理学者の一人が少年愛倒錯者だった。神宮寺は人を雇い、男娼窟でそいつらの行為を隠し撮りして学者を恐喝した。たったこれだけで新型爆弾の全てが記録されたマイクロフィルムが神宮寺の手に渡ったんだよ」大佐は顔を歪めて笑いながら、篠宮のほうを顎でしゃくった。「お前もあと十年若ければ、お稚児さんにしてもらえたんじゃないか?」

「減点一」クスリともせず、篠宮が指を一本立てた。「三点たまったら、アウトだ」

 溜飲を下げたのか、大佐はそれ以上言わなかった。

 撮影――有川は考えた。神宮寺は広島でおそらく地元の探偵を使って撮った。私立探偵を雇うのは初めてではなかったわけだ。

 しかし、話を聞けば聞くほど神宮寺という男が分からなくなる。プロのスパイではない、ただの貿易会社の社長に過ぎない神宮寺がなぜここまで大きく、かつ危険な計画にのめり込んだのか? 報酬が莫大だとしても危険過ぎる。彼の会社は順調だったし、高階婦人や響子嬢と血はつながってなくても幸せな家庭生活を築いていた。仕事も生活も満ち足りていた神宮寺にとって広島計画はそれら全てを失うことになりかねない危険な賭けだったはずだ。

大佐は説明を続けた。当時、陸軍の情報部は日米が三年間かけて開発した原子爆弾を、セミョーノフが短期間に独力で開発できるとは思っておらず、広島計画の情報漏洩があったに違いないと踏んだ。

「それでセミョーノフに広島計画の情報を売ろうとした神宮寺を殺したのか?」

「違う。神宮寺を殺してなどいない」

「どうして殺した後に燃やしたんだ?」

「違う! 我々は一切神宮寺に手を出してはいない!」

「信じろってのが無理な話だな」

「神宮寺が広島計画の図面を入手しマイクロフィルムにしたという情報は神宮寺の死後、ハルビンのセミョーノフの下に潜ませたスパイからの報告で分かったことだ。だいたい神宮寺の生前にそれが分かっていたら、神宮寺は我々の手で捕らえられ、フィルムの在り処を吐かせることが出来た」

「聞いたか、篠宮。この軍人さん、堂々と誘拐謀議を吐き出したぜ」

「何とでも言え」

「僕は信じるよ。もし、神宮寺の生前にマイクロフィルムの所在が分かっていたら、所轄の警察から前代未聞の方法で捜査権を奪うなんて無様なことはしなかった。あなたたちはマイクロフィルムの所在がまったく見当つかなくって焦ってあんなことをしたんでしょ?」

 大村は水面が揺れるくらい強く地団駄を踏んだ。

「くそっ! お前たちはあの爆弾の重要性をまったく理解していない! 我々の手に入れば、バトンルージュが陥落し、十二年続いたアメリカ内戦が終結する。平和を作り出せるのだ! だが、セミョーノフの手に渡れば? 爆弾はモスクワで爆発して、再び世界大戦が勃発する、それくらいのことが分かるだろうが!」

「バトンルージュは陥落するんじゃなくて、消滅するんだろ? 何人住んでるか知らないが」

 有川と篠宮は竿を上げた。餌はとっくに魚に取られていた。二人は帰り支度をしながら、大村、シップショー両大佐に言った。

「僕らに手を出したら、広島計画は全世界の人間が知ることになる。これが条件だったけど、契約に多少変更を加える。もし原子爆弾をバトンルージュに落としたら、マイクロフィルムは全世界に公開だ」

「約束が違う!」大村が怒鳴った。

「そりゃ戦争を終わらせるのはいいことだけどさ」篠宮はせせら笑った。「ただ僕らとしては大量虐殺の片棒は担ぎたくないんでね。寝覚めが悪くなる。だから、甲案に乙条項を加えることにした。あなたたちに許されるのはとても凄い爆弾を手に入れたという優越感だけ。もし使ったら、全世界が原子爆弾の開発レースに参加することになる。そんな世界が行き着く末がどんなものか、そこんところを大統領か総理大臣か知らないけれど、それぞれの上司によく納得するよう言い聞かせるんだね。アメリカの内戦は新型爆弾以外の出来るだけ平和的なやり方で終結させてください。以上。あ、所長から何かありますか?」

「いや」有川も釣られて笑った。「特になし」

「では、解散。みなさん、ごきげんよう」

 釣竿を手に立ち去る二人の背に顔を真っ赤にさせたハロルド・シップショー大佐が何かを英語でまくしたてた。有川には何を言っているのかちんぷんかんぷんだったが、ジャップ、ニップ、ファッキン・イエロー・モンキー、ユー・ファッキン・ピース・オブ・シットといった単語くらいは理解できた。


 午後三時、八階ワルツ丸商店街を歩きながら、二人は頭をひねった。

「結局、神宮寺を殺したのは誰なんだろうな?」

「全貌が明らかになってみると、一番怪しいのはセミョーノフだね」

「どうして?」

「神宮寺が情報の値段を釣り上げたり、自分の仕出かすことの大きさに怯んで協力を拒んだりして殺されたのかもしれない」

「そうなると、セミョーノフは殺し屋を使ったのかもしれないなあ」

「男爵の話じゃ、最後のほうでは神宮寺とセミョーノフは直接取引していたって話だし、下手人を挙げるのは無理かもしれないね」

「あんなでかい陰謀を叩き潰したのに、肝心の神宮寺殺しが未解決ってのは後味が悪いなあ。どうだろう。まだ手がかりが出てくるかもしれない。もう一度、男爵に会いに行ってみるか?」

「僕、あの人、苦手」

「俺だって苦手だ」

 英会話速成法教授塾の前に大八車が止まっていた。二人の少年が有川たちに近づいてきて言った。

「旦那、旦那」少年の片割れが言った。「チェリー五十本入り一缶七十銭でどうだい?」

「いらないよ」有川は手を振った。「どうせ闇タバコだろ」

「いやだなあ、旦那」もう一人が言った。「本物バージニア種、大蔵省は専売局のモノホンですぜ」そう言って缶を開けた。「ほら、匂いが違うでしょ?」

「わかった」有川は探るような目で二人をねめつけた。「これ、盗品だろ?」

「しゃあない。旦那にはかなわねえや。一缶五十銭」

 有川は一円札を出した。

「二缶くれ」

 その後も大八車で盗品の煙草たくましく売ってまわる少年たちを見ながら、有川はチェリーの丸缶を二つ抱えながら肩をすくめた。

「世に盗人の種は尽きまじ、とは言うけれど、故買屋の数もつきないなあ」

「盗人の数と同じ分だけの故買屋は存在するからね」

「ああ、そう――」

 盗人の数だけ故買屋がいる――鮫ヶ淵はどうだ? 盗人だらけなら、当然――

 有川は篠宮を見た。篠宮も有川を見た。

「もしかして同じことを考えているのか?」

「ああ。僕らは馬鹿だ。大馬鹿だ」

 二人は声を揃えて言った。

「ガソリンなんて運ぶ必要も隠す必要もなかったんだ!」


 帝都で空を仰ぐ場所に暮らせるのは大金持ちか貧乏人だけだった。

 大金持ちは街塔区の最上階に邸を持つ。彼らの空は澄んでいる。

 貧乏人は塔から外れた第一階層に住み、ボール紙とブリキでできた家に住む。彼らの空は灰と煤で靄がかかっている。

 その日の午後は雨が降った。

 一階の雨はあたると肌がひりつくほどの有毒物質を含んでいるが、街塔区の最上階の雨は普通の雨に過ぎない。あとのものは雨など関係なく街塔区内のトンネル通りで生きていく。

 普通の雨が最も経済的に恵まれたものにのみ許された贅沢品なのだ。それを考えると帝都は物の価値観までが歪んでしまったのかも知れない。

 ゴロンゴロンと遠くで雷が鳴っている。青山の第二十三階層に青いダットサン・クーペが入ってきたのは、午後三時半ごろ。ダットサンのクーペは邸宅街をそのまま以前教えられた住所の玄関まで車を走らせた。洋風の鉄柵がどこまでも続いていく。ようやく見つけた玄関にはインターフォンとボタンがあった。有川が車を降りて、ブザーを鳴らした。

「どちらさまですか?」

「高階雅美さんはご在宅ですか? 有川が会いに来たとお伝えください」

「少々お待ちください」

 有川は無害な雨にあたるという贅沢を楽しみながら頭の中で数を数えた。 一、二、三……七十七、七十八、七十九。

「お待たせしました、有川さま。ただいま門をお開けします」

 鉄製の門がガラガラと開いた。

 ダットサンはそのまま高階邸の車まわしまで走り、そこで止まった。この家は高階婦人のものであり、両親とは住まいを別にしていた。この家はかつて、高階婦人が結婚していたころの邸だった。

 有川と篠宮がやってくるとすぐに女中がやってきた。

「奥様の御部屋までご案内します」

 ピアノで弾かれた賛美歌が聞こえた。

「高階婦人が弾かれているのですか?」

「はい、奥様が弾いておられます」

 唄うもののいない賛美歌が終わるころ、二人は部屋に着いた。

「奥様」女中は言った。「お客さまをお連れしました」

 高階婦人はちょうどピアノから立ち上がるところだった。

「ああ、有川さん」高階婦人は言った。「響子さんは今、バイオリンのお稽古で出かけていて……」

「いえ、いいんです。御用はむしろあなたに関することなんです」

「私に関すること?」

「はい」

 有川は女中がいなくなったことを確認してから篠宮をちらりと見やった。篠宮は小さくうなずいた。

「高階雅美さん」有川は言った。「あなたは昭和二十年八月十五日、神宮寺弘氏を鮫ヶ淵で殺害し、遺体を燃やしましたね」

 高階婦人は目をつむった。午後三時半、無害な雨が窓にぶつかり伝い落ちる。ゴロンゴロンと雷が聞こえる。そして、その音が遠ざかっていくに従って、ゆっくりと瞼が開いていった。そして、

「はい」

 と、ただ一言答えた。


 六月の終りごろのことでした。あの人と愛を交わした後のこと、あの人はいよいよ私と結婚できると言ったのです。私は今すぐにでも結婚したいと言いました。でも、あの人は私の資産と神宮寺の資産が同等のもとで結婚したいと言っていました。

 ここまで言えば、お分かりでしょう。あの人が原子爆弾を売るのは私と結婚したいというただ一つの目的のために行われたのです。原子爆弾を売れれば、高階の資産に匹敵する資産が持てると言うのです。私はあなたが満足なら私は自分の資産を全て放棄しても構わない、あなたの名義にしてもいいと言いました。でも、私が資産を放棄したり名義変えしたくらいでは彼のプライドは満たされるどころか、より激しく傷つくのです。あの人はいいました。絶対にそんなことをしないでくれ。僕は必ず君にふさわしい男になって、求婚するんだ、と。でも、私たちは十分幸せでした。あの人と響子さん、それに私。三人でとても幸福に暮らしていたのです。でも、あの人はどうしても高階の資産に匹敵する資産を独力で築き上げてから結婚したがりました。彼は言いました。新型爆弾はおそらくモスクワとバトンルージュに落とされる。僕も君も誰一人モスクワやバトンルージュに知り合いはいないだろう、と。そういって、あの人は私を抱きかかえ、僕と君、響子の三人で幸せになろうと耳元でささやきました。私は恐ろしさに身もすくむ思いをしました。モスクワやバトンルージュの人々が私の幸せのために死んでいく。私の愛するあの人はそのことが分かっていない、いや分かっていてわざと麻痺させている。そんなあの人を見ていると、私はこの人を止められるのは私しかいないと思うようになりました。でも、あの人の決意は固くなかなか翻意してくれそうにはありませんでした。この話題が持ち上がる度に、あの人は言うのです。これは私と響子のためなのだ、と。もうすぐ全てがうまくいくんだ、と。

 私があの人を殺すことで原子爆弾の開発を止めようと決心したのは、昭和二十年八月十五日、まさにあの日の朝でした。あの日、私は夢を見ました。地上のあらゆるものが炎と熱によって薙ぎ倒されました。何万もの人々が火傷で爛れた皮膚をボトボトと垂らしながら、黒く焼け焦げた街の中で苦痛のうめき声をあげ、救いを求めて歩いていました。彼らは目が見えていませんでした。一歩歩くごとに足の裏の皮が一枚、また一枚と剥がれていき、最後は骨が地面にあたって、焼け爛れた人々は苦痛に対してただ力のない苦悶をしながら、今度は膝で動き、そして膝の骨があらわになって擦れるようになると、最後には手で這って、自分たちを救ってくれる人を探して、彷徨っていました。

 あの人たちを救えるのは私だけ。

 目を覚ました私は何の躊躇もなく、書き物机に飛びつきました。そして、あの人宛てに、響子さんの将来に関わる重大な事実が分かってしまったから、誰にも告げずに鮫ヶ淵のこの物置まで八月十五日の午後六時に来てくれるよう地図を書いて頼みました。以前の炊き出しのとき私はその物置部屋の前を通りかかったことがあったのです。内容は全て紙一枚にまとめました。そうすれば、あの人は手紙を持参します。会社に紙を置いたままにさせないために考えたことです。響子さんと鮫ヶ淵という場所の不釣合いにきっと彼は驚き、誰にも告げずにあの物置小屋にやってくる。そう確信していました。その後、私は自分の狡猾さに驚きました。私はあの人を罠にかけて殺そうというのです。私はメッセンジャーボーイを雇って、手紙を会社にいるあの人のもとに正午までに届けるよう頼みました。

 でも、その手紙を出した後で、私はとんでもない間違いを犯していることに気づきました。その日は鮫ヶ淵の炊き出しで私は現場に付きっ切りになってしまうのです。それに気づくと私は安堵とも焦りとも取れる奇妙な陶酔状態に陥りました。あの人が新型爆弾を売るかどうか、大勢の人間がその爆弾で死ぬか否かという岐路において、私はとんだ失態をおかしたのです。結局、私に殺人など無理なのだと思っていましたが、そう思いながら私は露店で売られているナイフを買っていました。不可能だと思う私の中ではまだできると思っている私がいるのです。

 レインコートは青山の下の階で買って、ずっと隠し持っていました。鮫ヶ淵に行くときも丸めて、紙で包んで外側から分からないようにしました。救世軍婦人会に参加された他の方々も似たような包みを持っていました。ひどく暑くなり汗をかくから手ぬぐいやタオルのようなものをたくさん持っていこうと考えていたようです。そのためか、私が紙で隠し包んだレインコートを持ち込むことも怪しまれることはありませんでした。

 返り血を浴びないためのレインコートを買い求めたときから、私はほとんど願うように自分に言い聞かせてました。自分に殺人なんて出来るわけがない。こんな恐ろしいことできっこない。そうに決まっている。もし、それをしたら頭が真っ白になる。きっとそうなると思ってました。私は血まみれのナイフを手にしたまま、ただ立ち尽くし、警察に逮捕されるのだ、と。でも、実際は違いました。物置部屋の入口に背を向けて立っていたあの人の背中に、私はナイフを構えて、精いっぱいの力でぶつかりました。あの人がうつ伏せに倒れた後、私の頭の中には行うべき様々な作業が浮かんできました。彼を仰向けにし、彼の持ち物を探り、マイクロフィルムを探そうとしました。でも、どこにあるのか見当がつきませんでした。そもそも私はマイクロフィルムがどのくらいの大きさでどんなふうなものなのかも知りませんでした。マイクロと言うくらいだからとても小さいのだろうと、思っていましたし、フィルムと名がつく以上は何かの映写機を使うのでしょう。もし、マイクロフィルムが背広の内側に縫い込まれたりしていたら、少し目には気づきません。時間がありませんでした。私は血まみれのレインコートを彼の亡骸にかぶせて、ナイフをすぐそば吹き抜けの橋から池に捨てると、第二給食所に戻りました。鮫ヶ淵中の住人が集まって、給食所は目のまわるような忙しさでした。けれど、私はすんなり戻ってきました。たったいま愛する人を刺したにも関わらず、豚汁をすくう私の手はちっとも震えませんでした。それどころか食事をよそっている最中にも次々と考えが浮かんできました。マイクロフィルムが見つからないなら、焼いてしまえ。ガソリンを手に入れろ、全て焼いてしまえ、と頭の中を考えが巡っていました。私の中にこんな狡猾さと冷酷さがあったことを私はあの日初めて知りました。私は空のどんぶりを手に豚汁を注いでもらおうと待っている老人にたずねました。次回は活動が夜遅くになっても大丈夫なように電球つきの小さな発電機を持ってこようと思っています。この町でもガソリンは手に入りますか? 老人は、大きく頭を二度縦に振り、ガソリンを売っている店を六つも七つも教えてくれました。そのうち一つは私があの人を殺した場所から三分と離れていない場所でした。その店がいわゆる故買屋で盗品を扱っていることは私も見当がついていました。私は豚汁をもらいにくる人たちが減ったのを機に第一給食所に行ってくる、と言い残して、故買屋に向かいました。件の故買屋はさび付いたトタン板に横三十センチ縦六十センチの小さな窓が開いているだけの場所でした。人の顔は見えませんでした。私は自分のものとは思えないほど落ち着いた声でガソリンを下さいといって、五十銭を払いました。すると、穴から注ぎ口付きのガソリン缶が出てきて、気づいていたら私の手から缶がぶら下がっていました。缶のなかでガソリンがタプンタプンと音を立ててました。あの人が横たわる部屋に戻った私はレインコートを剥いで、虚しく空を眺めるあの人にガソリンをかけました。そして、彼をレインコートで覆い、またガソリンをかけました。そして、マイクロフィルムに関するものが隠されていそうな彼の持ち物全てにガソリンをかけました。私はこのとき暴発を避けるために彼の銃から弾を抜くことを忘れませんでした。鍵束と銃から抜いた弾はポケットに入れました。鍵束は火をつけるくらいで損なわれることはないから、家に持ち帰り工具でへし曲げることにしました。でも、弾はなぜポケットに入れたままにしたのか、自分でも分かりませんでした。

私はあの人に火をつけました。黄色いレインコートの上を橙の炎が走り、ゴムの焼ける悪臭とともにあの人が焼けていきました。火のついたあの人を後に残して、炊き出しの場に戻る私はこれが平和のための炎なのだと思うようにしました。これで多くの人の命が救われる。浄化のための炎なのだと思うようにしたのです。しかし、そんな偽善に自分を浸らせることは不可能でした。炎で浄化する。そんなふうに納得できるのは狂人だけです。

全てが済んで、給食所に何食わぬ顔で戻れたとき私はまるで自分のことが生まれながらのテロリストのように思えました。

間もなく火事は知れて、鮫ヶ淵の人々があっという間に火を消しました。そして、どうやら誰かが焼け死んだらしいという噂が走りました。その日の炊き出しは中止となり、私たちは警察の方の先導で鮫ヶ淵を後にしました。

多くの人々の命を助けたという気持ちは湧きませんでした。ただ偽善とこれまで自分でも知らなかった狡猾さ。あの人を殺して残ったのは、その二つだけでした。

 私は当時身を寄せていたあの人の家へ戻りました。響子さんは、今日は叔父さまはいつ帰られるのかしら、最近お忙しいから中々会えなくて寂しいわ、と言って、食事の支度にかかっていました。

 私は家に帰ると、工具箱からペンチを取り出して、あの人から奪った鍵を全部へし曲げて使えないようにしました。これでマイクロフィルムがどこかの金庫に入っていたとしても手に入れることはできなくなりました。

 十五日の夜、あの人が帰らず、そして、十六日にも出社していないことがわかると、響子さんは顔を蒼くして、叔父さまに何かあったのでは心配しました。そして、二人で警察に失踪届けを出しました。響子さんは心の芯が強い子でしたが、あのときは叔父さまに何かあったら、とひどく心配しました。私はその手に自分の手を重ねてさすりながら、大丈夫よ、きっと大丈夫よ、と言いました。響子さんは私の肩に頭を預けて、きっと無事ですよね、おばさま、と言いました。私は何度も大丈夫だと言いました。

 私は卑劣な女でした。そうやって、ただ一人遺された響子さんに母性的な愛情を注ぐことで自分の罪を償おうとしたのです。

 でも、そこで偽善に溺れかけるたびに私は六発の弾丸を引き出しから出して、それらを手のひらにのせて、ぎゅっと握りしめるのです。そうやって自分のしたことを、自分の本性を思い出すのです。

 監察医務院で焼けたあの人を見たとき、私は泣きました。立てなくなりました。私は初めてあの人が死んでしまったと実感したのです。でも、響子さんは泣きませんでした。毅然とした態度を見せていたのです。私は思いました。もうじき、きっとこの子も同じようにあの人の死を実感するときが来る。打ちひしがれるときが来る。そのとき、私はあの子を助けてあげたい、守ってあげたいと強く思いました。

 でも、私にそんな資格はないのです!

 あの人の命を奪い、あの子を一人にしてしまった私にその資格はないのです。でも、私が愛情を注がなければ、あの子は本当に一人になります。

 では、どうするべきだったのでしょう?

 あの人を殺さなかったら?

 モスクワやバトンルージュの人々が何十万人と焼け死に、その上に幸福な家族を築くことが赦されるものなのでしょうか?

 もう私には何が正しくて何が間違っているのかも分かりません。


 「あの爆弾はどうなりますか?」全てを告白した後、高階婦人が訊ねた。

 「あなたが危惧しているような使われ方はされません」有川が答えた。「出来ないように釘を刺しておきました」

 「そうですか」

 ほお、と高階婦人は憑き物が落ちたように息をついた。

「もうじき響子さんが帰ってきます」篠宮が言った。「僕らから話しますか?」

「いえ」高階婦人は言った。「私が自分で話します」

 玄関から響子・ポクロフスカヤの、ただいまもどりました、という声が聞こえてきた。


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