七、昭和二十年八月二十一日月曜日
さんざん気炎を上げ、串カツと芋焼酎ですっかりいい気持ちになった二人が事務所に戻ったのは、午後十二時四分過ぎだった。
八階ワルツ丸商店街を歩いてきた二人は自分たちの事務所の明かりが点けっぱなしにしてあるのを見つけた。それぞれがお互いに消し忘れたんじゃないのかと責任をなすり付け合い、階段を上りながら、お互いのあら探しに必死になっているうちに事務所のドアが開き、受付部屋を通り過ぎて、所長室に入った途端、二人の顔から血の気がさあっと引いていって、酔いが一発で醒めた。
所長室の長椅子に響子・ポクロフスカヤがスースー寝息を立てていた。有川は一時的だが、現実逃避した。篠宮流に観察したのだ。青いベレー帽にトルコ石のブローチ、白のブラウス、青と黒とグレイのチェックのスカート、そして黒い靴――現実逃避はそこまでだった。有川と篠宮はそれぞれ手帳を取り出し、八月二十日の欄を見た。
《夕方に響子Pに報告。口答も可》
確かにそう書いてあった。
こんなとき、武士だったら楽だ。腹を切って死ねばいい。
でも、有川と篠宮は武士ではない。
「本当にすみませんでした!」
響子を起こすと二人はひたすら謝った。響子も謝った。八来軒の老婆に合鍵で開けてもらって(あのババア、合鍵なんて持ってたのか! これには有川も驚かされた)、勝手に長椅子に座って待っていたんですが、隣の資料室の散らかりようが気になったので、これも勝手に整理してしまいました。もちろん中身は見ていません。全部アイウエオ順に、後は数字で追えるようにして整理しました。勝手なことだとは思っていたのですが、気になって気になってしょうがなくなって、本当にすいません!
いえ、こっちこそすいません、約束をすっぽかした上に資料の整理までしていただいて、本当に、本当にすいませんでした!
お互い謝り尽すと少し考える間ができた。今なすべきことは――響子を青山の家まで送り返すことだろう。有川は高階婦人に電話をかけると、案の定まだ起きていた。事情を話すと、高階婦人はホッとしたようだった。
「これから送り届けますので。はい、すいません」
篠宮はもう帽子をかぶって、外に出る仕度をしていた。
「じゃあ、響子さん。おうちまでお送りしますので」
「はい」
「それで報告のほうは?」
「明日に延期でどうでしょうか?」
「はい、それで」
「ご希望の時間帯は?」
「午前の遅く、十一時ごろに」
「わかりました。では、午前十一時に」
帽子かけに近づいたところで、また電話が鳴った。
有川はテーブルに戻って、受話器を取った。
「はい、こちら有川探偵事務所です」
「……」
「もしもし?」
「うっ、うっ……」
呻くような泣き声が聞こえてきた。
「どちらさまで?」
「僕だよ、有川……」
声を聞いてピンときた。
「なんだ、寺井か。おい、お前。俺たち、お前も誘おうと思って、今日さんざん電話して――」
「僕は馬鹿だ」
「そんなこと昔から知ってるよ。悪いが、いま取り込み中で――」
「大馬鹿なんだ! 馬鹿な自分に嫌気が差して死のうと思って、つい今さっきカルモチンを大量に飲んだんだ。でも、今は死ぬのが怖いんだ」
寺井は電話の向こうですすり泣き、そして叫んだ。
「うっ、うっ、お願いだよ、有川! 助けて、死にたくないよ!」
「水を飲めるだけ飲んでから口に指を突っ込んで錠剤を吐けるだけ吐け! いますぐそっちに行く!」
有川は受話器を叩きつけるように置くと、上着を引っかけて、帽子をかぶりながら、「篠宮! 車出せ!」と叫んでいた。
「え? な、なに?」
「寺井って俺の友人が睡眠剤をあおって死のうとした! 四谷まで車を出せ!」
「わかった! あっ――」
「なんだ! はやく――」
篠宮が叫んだ。
「響子さんは! 一人にしておけない!」
有川はそれに気づいて、どうしようか数瞬迷ってから響子のほうを振り返った。
「すまない、響子さん! 一緒にきてくれ!」
三人は篠宮のダットサン・クーペに乗り込むと、二十分後には四谷街塔区の第九階層の住宅街に車で入っていった。寺井に家は生垣に囲まれた一軒家で門をくぐると有川は鍵のかかったガラスの引き戸をガタガタ揺らして叫んだ。
「寺井! おい、寺井!」
「返事がないよ!」
有川は肘でガラスを割って手を伸ばし、鍵を外した。
電灯の下、居間には浴衣姿一枚で仰向けに倒れている男がいた。有川はそのそばに屈むと、寺井の頬を力いっぱい叩いた。ロイド眼鏡がすっ飛んだ。二度、三度叩くと、寺井がぼんやりとだが、目を覚ました。
「寺井! 俺の声が聞こえるか!」
「う、うん。大丈夫だよ、有川」寺井の視線が宙を彷徨った後に篠宮と響子の顔に行き当たった。「やや、こちらの方々は?」
「探偵事務所の相棒の篠宮と依頼人の響子・ポクロフスカヤさんだ」
「ポ、ポクロフ?」
「あ、ええと、父がロシア人で母が日本人なんです」響子が言った。
「へ、あ、そうなんですか。よろしく」
と、寺井が寝そべったままの状態でぺこりと頭を下げたので、
「いえ、その、こちらこそ」と、響子もぺこりと頭を下げた。
有川がいらだたしげに言った。
「で、何錠飲んだ?」
「飲んだって、何を?」
「カルモチンだよ」
「そうだった、ちょっと待って、えーと……五十錠だよ、間違いない」
「五十錠? で、吐き出したのは?」
「ちょっと待ってて……あ、誰か僕の眼鏡――」
「これですか?」篠宮は座布団の上に乗っかっていたロイド眼鏡を手渡した。
「これです、これです。ありがとう、ええと――」
「篠宮です」
「はい、篠宮さん。はい」
寺井は眼鏡をかけると、じゃあ、いってきます、といって、トイレに向かい、水洗便器に浮かぶ錠剤の数を数えた。
「全部で三十一錠吐き出したよ」
「カルモチンは酒で飲んだのか?」
「ううん、ちゃんとお水で飲んだ」
「そうか。じゃ、おやすみ。せいぜい良い夢見ろよ。おい、篠宮、帰るぞ」
「ま、待ってくれよ!」寺井はそう言いながら出て行こうとする有川の腕をすがるようにつかんだ。「子どものころからの親友が自殺未遂を起こしたのに、それを放って帰ろうっていうのかい?」
「そうだ。悪いか?」
「悪いよ! 全然良くないよ! もっと心配すべきだよ!」
「あー。もううるせえなあ。あのな、寺井。人間はたかだか五十錠のカルモチンを飲んだくらいじゃ死ねないんだよ。百五十錠飲んで生きてたやつがいたくらいなんだぞ。大体、なんで警察や消防署じゃなく、まず俺に電話するんだよ?」
「だって警察や消防署だと後で怒られるじゃないか」
「俺だって怒るよ、ド阿呆!」
ひえっ、と怯える寺井に対して、
「まあまあ」と、篠宮が間に入った。「とりあえず靴を脱ごうよ、ね? 土足じゃなんだから。話はそれから」
それから妙なことになった。ぐずっている寺井に対して、真ん中に有川が胡坐をかき、左に篠宮が膝を抱えて座り、右に響子が座布団の上に正座していた。
「で――」有川が問い質すように言った。「何が原因で死のうとしたんだ?」
「それが、それが……」寺井はぐずりながら心底痛ましい様子で言った。「小説が書けないんだ」
「なんだ、そのくらい」有川はせせら笑った。「編集者に土下座して締め切り延ばしてもらえば済む話じゃないか」
寺井はぶんぶん首を左右に振った。
「出版社に渡す分はとっくに書き終わってる」
寺井は座卓の上に積みあがった原稿用紙を指差した。
「問題はもう一つのほうなんだ」
「もう一つ?」有川が訊ねた。「なんだよ、そのもう一つってのは?」
始め寺井は口の中で言葉を転がすようにぼそぼそと言った。有川がもっと大きな声で言えというと、寺井は、
「探偵小説が書けないんだ!」
と、心臓が破裂しそうなほど大きな声で言った。
「書いても書いても駄目なんだ。まったく事件になっていないんだ! 本物の事件には絶対起こらない不純物が混じるんだ。どれだけ不純物を取り除いても、どうしても不純物が僕の邪魔をするんだ」
そのうち寺井は明治のころのものと思われる大きな銅貨を懐から取り出して両手で握りしめ、ぶつぶつ願掛けを始めた。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。探偵小説の神さま、僕に探偵小説を書くための才能をください。本物の事件を書くための才能をください。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……あ、なんだか、また眠くなってきた。有川、布団敷いてくれる?」
往復ビンタをくれてやろうとする有川を篠宮が押さえているあいだに響子が布団を敷いた。その間もずっと寺井は銅貨を手の中でこすりながら南無阿弥陀仏と唱えていた。そして、銅貨を握りしめたまま、眠ってしまった。
「結局、カルモチンを十九錠は飲んでるんだからな。こりゃ、夕方まで目が覚めんぞ」
寺井の家に篠宮と依頼人である響子・ポクロフスカヤと一緒にいる。一体、どこで何をどうしたらこうなるのだろうと考えているうちに玄関から、
「寺井くん! 寺井くん!」
戸がガタガタ動く音がした。
「寺井くん、大丈夫なのかい!」
寺井の野郎、一体何人に電話したんだ、と思いながら、沓脱ぎ石のところにいる男と対面した。男は有川や寺井より五、六ほど年上なように見えた。
「どうも」有川がペコリと挨拶した。
「あ、どうも」相手も挨拶した。「あの寺井くんは?」
「大丈夫です。飲んだカルモチンは致死量に達しない五十錠で、そのうち三十一錠は吐き出したそうです」
「じゃあ、寺井くんは?」
「楽しい夢の中です」
男は柱に寄りかかりながら、ヘナヘナと座り込んだ。
「全く心配させられる」
「ほんとにその通りです」
「あ、僕は少弐恵介といいます。よろしく。寺井くんと同業の物書きです」
「有川正樹です。職業は私立探偵で寺井とは古い付き合いがあって。まあ、こんなところで立ち話もなんですし、どうぞ居間のほうへ。今、寺井の顔に落書きするための墨を擦っているところです」
有川が少弐恵介を奥に通して、墨を擦っている篠宮とちゃんと布団をかけなおしている響子に少弐を紹介した。すると、響子がハッと息を飲んだ。
「ひょっとして、『水中花』や『二胡は唄う』を書いたあの少弐先生ですか?」
「え、は、はい。そうですけど――」
「あ、あの私、少弐先生の小説全部読みました!」響子は今までに見せたことのないほどの熱っぽさで言った。「『躓石』も『大楡の下で』も『月がのぼらない世界』も!」
響子は少弐をつかまえて、あの場面は良かったこの場面は良かったと褒めちぎり、響子の手帳に少弐のサインを書いてもらえて、ようやく一段落ついた。
「ところで」と、少弐は寺井の顔にカイゼル髭を描いている有川に訊ねた。「あれは新作かい?」
少弐が指した先には、座卓に積みあがった原稿用紙があった。
「ええ、そうみたいですよ。出版社に渡す分はもう書き終わってるって言ってました」
そうか、と少弐はつぶやいて、しばらく爪を噛んだり庭の縁側で敷島一本吸ったりして逡巡した後、
「すまない。けど、許してくれ、寺井くん。好奇心には勝てない」
と、言って原稿を読み出した。
題名は「船曳きミーチャ」。中篇くらいの分量の小説だった。少弐が座卓で正座してぺらぺらと原稿をめくっている間、有川は寺井の顔をキャンバスにして迸る情熱をぶつけていた。
もうこれ以上描けないといったところまで描いたところで、少弐も原稿から目を離し、ため息をついた。
「寺井くんはロシアに行ったことはないし、ロシアの船曳きに取材をしたこともない。それでも彼にはわかるのだ。人類全般が引きずっている船が、船を引きずることの苦しみを、そして、そこから放逐されることの悲しみを確かに捉えているんだ」
有川も篠宮も響子も寺井の原稿を見た。一切の書き足しや取り消しのないきれいな文書だった
「清書ですか?」響子が訊ねた。
「いや、草稿だよ。正確には清書として完成した草稿」
「どういうことです?」
「寺井くんの原稿は書き損じが一切ないんだ」
言葉を切った後、少弐の口から言葉が迸った。
「寺井くんは――彼に自覚はないだろうが――今の文壇では頭一つずば抜けてる天才だ。彼はね、言葉の天皇なんだよ。彼は一度も言葉に裏切られたことがないんだ。純文学に限って言えば、彼は原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて、いらだたしげにゴミ箱に投げ捨てたことが一度もない。普通の作家は言葉に何度も裏切られる。自分の思い通りの描写をするため、思い通りの会話を登場人物にさせるためにあらかじめ言葉を頭の中できちんと配置しておく。あるいは熱情の赴くまま筆を走らせる。ところが、実際に原稿用紙に書いてみると、冷静に文を組もうが情熱で文を組もうが、そこにあるものが全く違うものになっているんだ。そうやって裏切られる度に二重線で裏切りものを消して、新しい言葉を入れてやる。そうして、修正した言葉たちを含む一文を読んでみると最初の三回はうまくいったように見えるけれど、四度目か五度目には不安になり、六度目には間違いなく修正前のほうが素晴らしい表現だったと思ってしまう。つまり、裏切ったのは別の言葉たちで僕に誤った粛清を行わせるために僕を惑わしたということになる。そうなると、大変でこの裏切りに加担したと思われる言葉に片っ端から二重線を引き訂正をしまくる。だが、この訂正にも裏切られているような気がして、くしゃくしゃに丸まった原稿が増えていく。最後のほうになると、その原稿全部が僕を裏切っていたとしか思えなくなる。もし僕が洒落た洋館に住んでいたら、原稿は暖炉に放り込まれ、杉が焼かれる香ばしい匂いとともに消えてなくなっていただろう」
そこで一呼吸置いてから、少弐は半ば興奮した様子で続けた。
「でも、寺井くんにはそれがない。多くの作家たちを小馬鹿にし、疑心暗鬼に追い込み、致死量のカルモチンを飲ませるまでに到らせた言葉たちも寺井くんには敵わない。寺井くんは言葉の鼻先をつかんで左へ右へ引き回し、彼の望む場所に、彼が望むようにして言葉を文章に昇華することができる。彼の原稿には一度も書き足しや二重線がない。既に頭の中で言葉を完璧に従わせているから、編集者が手を入れる余地もない。かといって驕慢になるわけではない。彼は繊細でその性根には善意が溢れている。例えば、二銭銅貨」
そういって、彼は布団から突き出た寺井の手に握りっぱなしになった大きな銅貨を指した。
「あれは探偵小説が書けるようにとお守り代わりに私が送ったんだけど、彼はちゃんと身につけて離さないでいてくれている」
「あの銅貨と探偵小説のあいだに何の関係があるんですか?」
「江戸川乱歩の『二銭銅貨』を読んだことがないのかい?」
「あ、私はあります」響子が言った。
「恥ずかしながら」と、有川と篠宮は首を左右に振った。
「日本の探偵小説の元祖だよ。読んでみるといい。面白いから」
じゃあ、早速と言って、篠宮は寺井の本棚を漁り、江戸川乱歩の短編集を取り出した。
「あ、あった。二銭銅貨」
篠宮が短編集を読んでいる間にも、少弐は興奮して、有川と響子を相手に、何というか――彼流の『寺井論』を論じていた。
「探偵小説か」少弐は言った。「これがなければ、寺井くんのことは《書く機械》にしか見えなかっただろうし、そうなると僕は彼を蛇笏のごとく嫌いぬいただろうな。なぜなら人間が機械に負けるのは屈辱以外の何物でもないからだ。そして、これから多くの分野で人間は機械に負け続けるだろう。僕は最終的には感情という人類最後の砦においても、人間は機械に負けると思っている。何事にも無感動無関心な人間たちの代わりに機械たちが怒り、喜び、悲しみ、涙を流す日が遠からずやってくるだろう。もちろんそのときには人間は小説でも勝てなくなっている。そんな世の中、私は嫌だ。でも、人間が人間に負けるのならば正当だ。そして、この探偵小説へのこだわりで寺井くんが機械なのではなく《書く人間》なのだと教えてくれる。だから、僕は自分が負けたとしても寺井くんが好きなんだ」
表の戸がまたガタガタ鳴り始めた。
「寺井くん! 寺井くん!」
若い女性の声だった。
「またか」と、有川。「本当に寺井のやつ、一体何人に電話したんだ?」
若い女性は白のブラウスに紺のスカートといった簡単な余所行きを着て、沓脱ぎ石のところから電気のついている部屋を覗っていた。有川は廊下から玄関に姿をあらわすと、若い女性は驚いて言った。
「あ、有川くん?」
「よお、赤松。お前も寺井に呼ばれた口か?」
「寺井くんは? 大丈夫なの?」
「飲んだカルモチンが五十で、吐き出したのが三十一。差し引き十九のカルモチンでいい夢見てるよ」
赤松は少弐のときと同じようによろけて柱によりかかり、へなへなと座り込んだ。
「もう、本当に本当に心配したんだから!」
「俺もそう言って、さんざんシバいたよ」有川が立ち上がるのに手を貸した。「まあ、立ち話も何だから、中に入れよ」
有川は居間の三人に赤松を紹介した。
「こちらは赤松千鶴。寺井の馬鹿に呼び出された五人目の被害者だ」
篠宮と響子と少弐がポカンとしているそばで、有川は千鶴と座って、気のおけない談笑をしていた。
「赤松なんか寺井と会うのは十五、六年ぶりじゃないのか?」
「そうでもないわよ。今撮ってる映画の原作、寺井くんが書いたの。だから、ちょくちょく撮影所で会ってるのよ。《麦わら帽子と外套》って名前の小説なんだけど聞いたことない?」
「知らん。もともと本は読まないからな。ましてや、寺井の書いた本なんて余計読めないよ。どんなに真面目な場面でも書いてるのがこの寺井なんだぜ。絶対笑っちまう」
「えー、私は好きよ。寺井くんの書いた小説」
談笑の途中で、ちょっとちょっと、と篠宮は有川の袖を引っぱり寺井が眠っている隣の部屋に連れ出した。
「ひょっとして赤松千鶴は?」
「元少年探偵団だけど?」
「一度も聞いてないよ!」
「そんなことない。テキ屋横町でちゃんと言ったろ。いつも一緒につるんでいたのは照山、田島、寺井、そして赤松」
「そんな説明だけじゃ、その赤松が赤松千鶴だなんて夢にも思わないよ!」
一方、千鶴は響子と談笑していた。響子にしてみたら、わけのわからない夜だろう。捜査の進捗を聞くはずが、いつのまにか寝入って、起きたと思ったら若手作家の自殺未遂現場に連れてこられ、かと思ったら、今度は流行作家と映画スターの二人に一度で出会ってしまう。めまぐるしい夜だった。
「あ」と、響子は言った。「報告」
有川は騒々しくなった寺井宅を出て、裏庭で一服していた。
「あの、有川さん」と、響子は後ろから声をかけた。「簡単なものでいいですから、報告を聞かせてもらえますか?」
あ、そうだった。有川は思い出すと、煙草を踏み消した。篠宮は千鶴につかまって、そんなきれいな顔してるんだから勿体ない、オーディションを受けてみなさいよと迫られていて、それどころではなさそうだった。
有川と響子は庭で向かい合った。
「とりあえず、十七日から二十日までの調査報告をします。こんなことを言うと、気を悪くされるでしょうが、まず俺は犯人として高階婦人に見当をつけていました」
「そんな!」響子は頭を左右に振った。「高階のおばさまが叔父さまを殺すなんて絶対ありえません!」
「一応、可能性があれば、調べるのが探偵の仕事です。神宮寺氏と高階婦人は事件発生時に同じ場所にいたのです。偶然にしてはできすぎている」
「真犯人が高階のおばさまに疑いが向くように仕掛けた可能性は?」
「ゼロではありません。しかし、救世軍婦人会の会員から取った高階婦人のアリバイは虫食いだらけな上に事実誤認が多々あり、とてもアリバイと呼べたものではありません。しかし、一方で高階婦人がガソリンらしきものが入った容器を持って移動しているのを見かけたものがいないか、これも訊ねたのですが、皆無でした」
高階婦人についての説明を聞いている響子の顔は本当に辛そうで、このまま話を続けると、この子は壊れてしまうのではないかと危惧するほどだった。
「どうしますか? 続けますか?」
響子はうなずいた。
「もし、高階婦人が犯人だとしたら、動機は? お金じゃないことは確かです。後は男女間の諍い、たとえば神宮寺氏が浮気を――」
響子がまた反論しようとしたのを、両手のひらを見せて制した。
「これはないと俺たちも考えています。それならあなたを青山の自宅に引き取る理由が分かりませんからね」
「おばさまは私が寂しいだろうと心配して、一緒に済みましょうと言ってくれました。私も叔父さまの死を一人ではとても抱えきれないから、おばさまの言葉を本当にありがたくて――」
「そのことなら聞いています。三人は本物の家族のようだった、と」
「家族だったのです」響子は言った。「私たちはかけがえのない絆で結ばれた家族そのものでした。高階のおばさまがそんな恐ろしいことをするなんて――」
「そこで私は神宮寺氏の別の面から調査を進めました。その結果分かったこととして、神宮寺氏は満州のハルビンに住む白系露人の顔役に武器を売ったことが判明しました」
「武器? 叔父さまが?」
「ええ」有川は言った。「その白系露人は反ソ侵攻を実行に移すための武器をかき集めているようでした。神宮寺氏はかなりの武器を売り払ったようです。これは危険な取引です。取引相手の白系露人もさることながら、そんな取引をしていることを共産主義者の過激派に知られれば、神宮寺氏の命は間違いなく狙われることになります」
そこで初めて気がついた。響子の両目に涙が溜まって、頬を伝い落ちていた。
「叔父さまはそんなことをしていたのですね」響子は声を震わさずに静かに淡々と言葉を紡いだ。「変ですね。葬儀の席でも出なかった涙が今になって出てきました。叔父さまは死んだのだと今になって実感が湧いてきました。父と母が亡くなってから、私はずっと叔父さまの庇護のもと暮らしていました。私は叔父さまにかわいがられ、私は叔父さまを実の父のように慕っていました。起業して休日もろくに取れなくても、いつも私のことを気遣ってくれて。叔父さまに頼りきりでした。叔父さまがそんな危険な橋を渡ろうとしていたとき、私はただの邪魔者でしかなかったのですね――私に何か出来ることがなかったのでしょうか?」
すがるような目だった。有川は苦い顔をして頭の後ろを掻いた。
「こういうとき、相棒の篠宮ならきっと気の利いたことを言って慰めてくれるか、泣くための胸を貸してくれると思うんですが、俺はそういうのに不得手で。申し訳ない。でも――」有川は言葉に力を込めて言った。「あなたの叔父さんを殺したやつは必ず捕まえてみせます。それだけはお約束します。俺にできることと言ったらそのくらいですから」
響子は自分のハンカチで涙をぬぐうと、恥ずかしいところを見せてしまいましたね、と軽く笑って、これからもよろしくお願いしますとペコリと軽くお辞儀した。
「寺井の馬鹿が何人に電話したか知らんが、これから何人かやってきた際に事情を説明するため誰か一人が、まあ、朝まで残らなきゃいけない」と、有川は言った。「俺が残ろうと思う」
それで、と言いながら、有川は篠宮と響子のほうを向いた。
「篠宮、響子さんを送り届けろ。大変大変申し訳ありませんでした、と平謝りしとけ」
「でも、ここに来たのは、私にも半分責任があります」と、響子が言った。「帰ろうと思えば、夜間の飛行船タクシーが使えたんですし」
「そう言ってもらえると――」篠宮が頬をぽりぽり掻きながら言った。「とても助かります」
篠宮と響子を乗せたダットサン・クーペがパルパルパルと夜道を走り、少弐も円タクを拾って帰ることになった。
だが、千鶴だけはすぐに帰ろうとしなかった。二人は寺井宅の縁側に座り、上階層のファンがまわる音を聞きながら、何をどうするということもなしに話をした。
「こうして、有川くんと話すのも久しぶりじゃない?」
「尋常小学校が終わるころ以来だな」
「うそ。私が帝宝のオーディションを受けた後に会ったじゃない」
「そうだったか?」
「そうよ。それからだいぶ時間が開いて――あ、でも、有川くんは田島くんや照山くんと結構会ってるんでしょ?」
「ん、まあな」
有川は座卓から灰皿を持ってくると、チェリーをつけた。千鶴もランソンのライターを取り出して、チェリーをつけた。千鶴はふーっと紫煙を吹きながら言った。
「有川くんと田島くんと照山くん……なんだか羨ましいなあ」
「帝宝の大スターが何をおっしゃる。大体、はやく帰ったほうがいいんじゃないのか?」
「どうして?」
「カストリ雑誌にすっぱ抜かれるぞ。銀幕のスター赤松千鶴、深夜の密会!」
「寺井くん相手なら別にすっぱ抜かれても平気よ」
「なんだそりゃ――と思いつつも不思議に納得いくのが、寺井なんだよなあ」
「でしょ?」
涼しい夜だった。物音らしい物音は階層天井のファンの音とときどき呻かれる寺井のトンチンカンな寝言だった。
「ねえ」千鶴が訊ねた。「今、有川くんって事件を追ってるの?」
「まあ、一応」
「昔みたいねえ」
「そんなうっとりした顔しなさんな。変な話だが、俺がこのこんがらがった事件に首を突っ込むと、照山や田島が妙に嬉しそうにはしゃいで至極協力的になるんだよ」
千鶴は笑って言った。
「私も照山くんと田島くんの気持ちはよく分かるわ。ときどき夢に見ることがあるの。名探偵有川順ノ助と少年探偵団。ひょっとすると、あの時期が人生で一番楽しかったんじゃないかって。私たちはたくさんの冒険とともに生きることができたじゃない。それを考えると有川くんと一緒に事件を追ってる照山くんや田島くん、それに篠宮さんがうらやましいなって思うもの」
「妙な話だな。刑事になった照山、記者になった田島、作家になった寺井、女優になったお前。お前らはいまだに少年探偵団のことで夢を見るのに、肝心の探偵になった俺はすっかり冷めちまってるんだもんな」
「そんなこと言って、そのうち叔父さんみたいな名探偵になれるかもしれないわよ」
「名探偵ねえ」有川は苦笑いした。「俺は別に今のままでも構わないよ。食ってけるし、それなりに楽しいしな。そういうそっちはどうなんだ? 女優業は?」
「やりがいはあるけど大変よ。仕事の掛け持ちをして二つの作品でそれぞれ別の役をやったりすると、性格が真っ二つに分かれて、その辺に飛んでいっちゃいそうな気がするの。だから、ときどき一休みしてフラフラ飛びかけた私をもう一度結びつけるの。そんなとき、ふっとあのAのバッジのことを思い出してね。思うのよ。もし、私が女優じゃなくて女探偵だったら?」
「確かに私立探偵に女はいないな。でも、まあ、探偵はそう冒険じみた仕事はまわってこない。順ノ助叔父さんが異常なのであって、普通の探偵は浮気調査とか遺産相続がらみの身辺調査とか人の不幸をタネにして飯を食ってる。女探偵赤松千鶴が一ダースの家庭崩壊劇に付き合うよりは、銀幕の大スター赤松千鶴として活躍するほうが俺は好きだ」
「そんなこと言ってるけど、有川くん、私が出てる映画、見たことないでしょ?」
有川は苦笑した。「いいにくいが、お説の通りだ。お前の映画って好いた惚れたの映画が多いだろ。探偵やってるせいか、好いた惚れたってのが奇妙に思えてな。素直に映画を楽しめない性格になっちまったんだよ」
ふーん、と言いながら、千鶴は灰皿にチェリーを押しつけた。
千鶴は立ち上がったので、夜間の飛行船タクシー乗り場まで有川が送った。
「有川くん」千鶴はタクシーのドア枠に手をかけながら振り返って言った。「いつか私が、女探偵を演じる映画に出たら、見てくれる?」
「まあ、それなら見られるかな」
「じゃあ、約束ね」
目覚まし時計は午前七時に鳴った。結局、一秒も寝ていない。寺井は全く目を覚ます気配がないが、寝息はきちんと聞こえている。このままにしても問題ない、と思って外に出ると、水道橋まで飛んでいく飛行船があと五分で出船というところだった。事務所のある市ヶ谷街塔区を跳び越して、水道橋街塔区の第九階層にある貧乏アパートに駆け込むと、自分の部屋に入り、水で濡らした手ぬぐいで体をきれいにぬぐって、石鹸をつけて顔を洗い、無精鬚をそり落とし、新しいシャツと下着、ズボンに上着、ネズミ色の中折れ帽をかぶる。その後、売店で買ったあんぱんを食いながら、大急ぎで市ヶ谷へ行く乗り合いバスに乗る。眠気は全く取れなかった。バスの車体の横っ腹には確か《除倦覚醒剤! 頭脳の明晰化 眠気一掃》と謳われたヒロポン錠剤の広告があった。なるほど、その手もあったか、と思ったが、鮫ヶ淵で見たあの哀れな転向者の最期が思い出され、やめた。事務所に着いたら、五回くらい冷たい水で顔を洗おう。それで頭もシャッキリするだろう。
有川が事務所に行くと、篠宮が先に着いていた。
「その顔、一睡もしてないね」
「全部、寺井が悪い。でも、まあ、羽根突きで百連敗してもあそこまでならないってくらいの落書きをしてやったからな。それでチャラにしてやろう」
それぞれテーブルに着くと、篠宮が言った。
「今日は午前中に響子さんがくるから、そのおつもりで」
「響子さんには俺が簡潔に報告したぞ。セミョーノフ絡みのところまで」
「うん。だから昨日の夜、車で帰る途中に頼んだんだ。明日の午前十時半ごろにもう一度事務所に来てくれって」
「どうして?」
「一つ仮定があってね」
「仮定? なんだそりゃ?」
「とにかく試したいことがあるんだ」
「何を試すんだ?」
「それは秘密。カンが外れたとき恥ずかしいから」
その後、二人はすっかり整理された資料室をじっくりと観察した。全てがアイウエオ、ABCD、123で揃えられ、収納されていた。文句のつけようのない整理整頓ぶりだった。響子はさらに本棚の整理もしてくれたらしく、これも作者の名前をきちんとアイウエオ順に追えるようにしてあった。
午前十時半、事務所の窓から橋を渡ってくる響子の姿が見え、三分後には所長室の戸を開けていた。高階婦人の姿は見えなかった。
「昨日はいろいろすいませんでした。今日、高階婦人は?」
「救世軍婦人会のほうの会合でまた私一人です。それと、昨日は私のほうこそいろいろとすみませんでした」
おそらく涙を見せたことを言っているのだろう。有川は対面の椅子を勧めると、篠宮が有川の横にやってきて、妙なことをやり出した。かつて篠宮が女の子相手に絶対にやってはいけないことと言ったことをやり始めたのだ。
「青を基調にした百合柄の半袖のシルクのブラウス、トルコ石のブローチ、紺のスカート、ストッキング、黒くてかかとの低い靴、香水はラベンダー系」篠宮は立て板に水を流すようにとうとうと諳んじた。「これはあなたが初めてこの事務所にやってきたときの服装です。次にこれは昨夜、あなたがここに来たときの服装ですが、青いベレー帽にトルコ石のブローチ、白のシンプルなブラウス、青と黒とかなり淡いグレイのチェックのスカート、かかとの低い黒の靴、香水はシトラス系でした。そして、今日の服装ですが、淡い紫を基調にしたワンピース、リボンブローチ付きのベレー帽、付け襟で左にトルコ石のブローチ、浅葱色のリボン、手袋、香水はフローラル系」
あっけに取られた響子に篠宮はにこりと微笑むと、僕は出会った女性が着ているものをできるだけ覚えておこうとしているんです、と言った。
「それで気がついたのですが、響子さん、あなたの服装はいつも一つのアクセントに合わせて服を選んでます。というより、あなたのファッションがそれに引きずられていると言ってもいいでしょう。そのトルコ石のブローチです。これは僕の仮定ですが、そのブローチ、神宮寺氏が亡くなる少し前にもらったものではないでしょうか?」
響子はとまどいながら、はい、確かにそのとおりです、と答えた。
「そのとき、神宮寺氏は肌身離さず身につけているように言いませんでしたか?」
「はい。あれ? でも、どうしてそのことを?」
「お願いがあるんですが、そのブローチ、僕にお貸し願えませんか?」
「はい」
篠宮はブローチを受け取ると、それをテーブルに置いた。そして、銃を抜くと、戸惑う響子に対して、
「ちょっと乱暴なことをします。もし、これが僕の勘違いなら一生僕のことを嫌いぬいてくださっても結構です」
そういって、真珠層で出来た銃の握りを振り下ろした。銃の握りはブローチに命中し、トルコ石の破片が四方八方に飛び散った。
壊れたブローチから六十三と刻印された小さな鍵と半分に切ったコイン、それに四つ折りにされた小さな紙が出てきた。篠宮は銃をしまいながら言った。
「昨日、二銭銅貨の話を呼んでから何だか頭がもやもやしていましてね。ひょっとしてひょっとするとと思っていたんです」
有川は虫眼鏡で小さな紙片に書かれた字を呼んだ。
「飯田橋一階 見附三―二―七 湯興仁」
響子は驚いて鍵と半分に切ったコインを見ていた。
「でも、私、こんなものがブローチに隠されていたなんてこれっぽっちも知りませんでした」
「たぶん、亡くなった神宮寺氏は折りを見て、教えようとしたのでは?」有川が言った。「自分一人で持つよりは保険をかけたほうがいいと思ったんでしょう」
「でも、まあ、ブローチの秘密を告げずに死んでしまったんですから、意味はないんですけどね。こういう秘密を共有させるのはタイミングがひどく難しいんですよ」
「飯田橋の第一階層は唐人町だな」有川が渋柿でも食らったような顔をした。「すいません。響子さん、これはあなたにもご一緒してもらわなければいけないかもしれません。この鍵、おそらく湯興仁という人物が経営するヤミ金庫の鍵です。一応割符のコインもついていますが、ひょっとしたら本人の確認もしないといけなくなるかもしれません」
「はい。では、今から?」
「ええ、今からいきます」
飯田橋唐人町はとにかく騒がしい町だった。ここに住む支那人の大半は広東人で広東語が飛び交う。ここの人間は食べるか賭けるかのどちらかしかしない。ただし食べながら賭けたり、賭けながら食べたりはしなかった。賭けるときはひたすら賭ける。食べるときはひたすら食べる。彼らは常に一つのことに対して真剣であろうとした。
路上料理屋で鶏の首が次々と跳ね跳びスープにぶち込まれ、持ち上げた蒸篭から真っ白な饅頭が現れる。それでも足りぬと野菜や米、羽根をむしられた鶏や干したヒラメを乗せたオート三輪が次々とやってくるのは唐人町に住む広東人の胃袋を満たすためなのだ。店の幟が派手に立つ目抜き通りでも人は食べるか賭けるかしている。山にした碁石を四つずつ取っていき、ある程度まで少なくなったらお椀をかぶせ、四つ取り続けて、最後にいくつ余るかを張り合うという簡単なファンタン賭博から、何十という役を積み重ねてアガリを目指す支那流本場の麻雀までいろいろあるが、中には魚屋のザルに山盛りに入ったイワシが何匹いるかに全財産を賭けるほどの中毒者もいる。三国志の英雄を祀った祠の前では中国式のトランプの真っ最中で賭け金として重ねられた一円札十数枚の上に南部十四年式拳銃が重し代わりに乗っかっていた。
もちろんアヘンの悪習もきっちり受け継がれていて、食べるのと賭けるので騒がしい大路から薄暗い横道に曲がれば、あっちこっちのアヘン窟から人間をやめた餓鬼たちのチュッ、チュッとアヘンの煙を煙管から吸い込む音が聞こえてくる。
飯田橋第一階層の見附三―二―七は奥まった場所にあった。扉を抜けると、支那式提灯型の電気ランプに照らされた一〇×一〇メートルはある正方形の大きな池が目に入った。釣竿を立てかけたカウンターから小太りの支那人がしていた書き物から目を上げ、有川たちを見た。
「日本語はできるかい?」有川は訊ねた。
「話せますよ」支那人がニコニコして言った。
「湯興仁を探しているんだ。あんたかい?」
「いかにも。私が湯興仁でございます」
黄色い声が上がった。見てみると、池の向こうで十四、五の双子の少女がトランプ遊びをしていた。
湯興仁はニコニコ顔のまま続けた。「釣りしますか? 一時間五十銭、二時間で八十銭ね」
有川は鍵と半分に割れた銅貨を出した。湯はすぐに引き出しを開けた。引き出しには同じような割符が五十個近くキチンと正方形に区切られた中に納まっていた。二秒もしないうちに湯興仁は有川たちの割符の片割れを見つけ出し、白虎の絵柄がピタリと合うのを確認した。
「これで大丈夫」湯興仁は引き出しを閉めながら、今度は別の引き出しから帳簿を取って、目当てのページをめくった。
「神宮寺弘さん、または響子・ポクロフスカヤさん?」
「私です」響子が言った。
「ハイハイ。まあ、鍵と割符さえ持ってきてくれれば誰でも開けます」湯興仁はカウンターからのそのそと出てきながら、強調するように人差し指を立てて言った。「でも、鍵があるけど割符がない、割符があるけど鍵がない、そういう場合はダメ。鍵と割符、この二つがどうしても必要」
湯興仁はトランプ遊びをしている少女たちに呼びかけた。「鈴玉! 鈴麗!」
その後、広東語で短く何かを伝えると、少女たちは奥の部屋へと消えた。
「神宮寺さんはとても上客」湯興仁はニコニコしながら言った。「一番高い 金庫を二十年も前払いで借りてくれた人。だから、こっちもおもてなしさせていただきます」
有川たちは池のそばの四人がけの赤い漆で仕上げた鶏の絵が描かれたテーブルに座った。そのとき、奥の扉が開き、学校用の水着に水中マスクを身につけた双子が現われて、次々と釣堀に飛び込んだ。湯興仁がまた何か短い言葉を発すると、少女たちは大きく息を吸い込んでから、イルカのように水中に潜っていった。水の透明度はほとんどなく少女たちの姿はあっというまに見えなくなった。
その奇妙な光景に目をパチクリしている三人をよそに湯興仁は下唇をつまんだり、口髭を撫でたりしながら、お茶談義に花を咲かせようとしていた。
「お茶を覚えたての人はすぐに龍井茶はうまいと感じます。事実うまいのです。でも、そこで素直にうまいといえず、逆に龍井茶は俗だといい、龍井を後生大事に飲む人たちを馬鹿にします。そして、その後も通ぶって正山小種や君山銀針を褒めたり貶したりして、同じ緑茶でも緑牡丹を褒めたりするのですが、十年二十年お茶を楽しむと結局最後には龍井茶に行き着くのです。長い時代、龍井茶が尊ばれたのは理由があってのことなのです。さて、今日のお茶はどうしましょう? 先ほど私は龍井は最高だと言いはしましたが、もう龍井茶は季節が終わってしまいました」湯興仁はしばらく考えてから、「そうだ、碧螺春にしましょう。このお茶は今が旬です」
湯興仁がさらにいろいろ話しているあいだに一分半が経過した。少女たちはまだ上がってこない。
「あの子たちは娘さんですか?」
有川の問いに湯興仁は、その通り、その通り、とニコニコ何度もうなずいた。「鈴玉と鈴麗。どっちも私の娘。私じゃなくて死んじゃった妻に似てくれてよかった。妻は絶世の美人。日本の皇帝が後宮を持ってなくて本当に良かった。もし、日本の皇帝が後宮を持ってたら、間違いなく妻は後宮に取り上げられたし、鈴玉と鈴麗も後宮に取られたね。でも、日本の皇帝、後宮持ってない。だから、あの子たちも私も安心して暮らせる。これはとても素晴らしいことです。目に入れても痛くない娘たちです」
「その目に入れても痛くない娘さんたちですけど」篠宮はちょっと心配した様子で言った。「潜ってから三分経ってますよ」
湯興仁は笑いながら、大丈夫、大丈夫、と答えた。「あの子たちのことなら心配いらない。私が心配するのはどうやってお客様をもてなすかですよ。お茶は碧螺春と決めましたが、はてどう淹れたものか? そもそも、こうも蒸し暑いと、どんな銘茶も喉には熱すぎて不快です。そうですね――しずく碧螺春にしてみましょう。これは真夏の日本で玉露を冷たくして飲むための方法だけど、碧螺春にもぴったり合う。ちょっと待っててください」
そう言って、湯興仁は奥の部屋へ行ってしまった。そのまま三分間、有川たちは池を見ていたが、あぶく一つ立たなかった。
湯興仁が日本茶で使う片口や氷の塊、茶碗を盆に乗せて戻ってくると、篠宮がもう潜ってから六分以上経っているけど、と心配そうに訊ねた。
「大丈夫、大丈夫」湯興仁は笑って言うのだった。「それよりもこの碧螺春。見てください。正真正銘太湖の洞庭山産。んっ、極上で確かな甘み。これを日本茶で使う片口に入れて、軟水の湧き水を凍らせて作った氷を葉の上に乗せる。氷は私、栃木の氷屋から買っています。帝都の水で淹れたら、せっかくの碧螺春が泣きます。よし、これで氷から溶け落ちるしずくの一滴一滴に碧螺春の風味が溶け込んで、冷たいのにおいしく碧螺春を飲めてしまう。後は長いこと待つだけ」
そう言って、しずくを貯め始めてから三分が経った。
「あの子たち、もう九分近く潜ってるよ」篠宮が腕時計を見て言った。
「大丈夫、大丈夫」湯興仁は片口に溜まった茶の様子を伺った。「おお、溶けてる溶けてる。まだ、足りないけど」
パン、と銃声が遠くない外から聞こえた。さらに広東語の罵声と二発目三発目の銃声が聞こえた。
微妙な顔つきの有川たちに湯興仁はまたあの、大丈夫、大丈夫をやった――誰かが撃たれて、トドメに二発撃たれただけです。
「唐人町もいろいろありまして」湯は言った。「国民党と共産党のシンパが それぞれ秘密結社を作って抗争に明け暮れています。お互いのことを嘲笑った風刺劇や影絵芝居をやっているうちにお互いの頭がカッカ熱くなって、賭場やアヘン売買の独り占めを企んだり、相手の大物を手斧とピストルで蜂の巣メッタ斬りにしたりと、どんどん話が大きくなっていくのですな」
「あなたはどっちが勝てばいいと思っているんですか?」
「どっちが勝ってもろくなことにならないと思っています」湯は首を振った。「蒋介石と毛沢東。どちらも皇帝になろうとしています。大総統とか総書記とか名前こそ違えども、その中身は間違いなく皇帝です。民国に必要なのは皇帝ではなく、議会です。しかし、中華民国に議会制民主主義を導入する機会は遠い昔、宋教仁とともに死にました。袁世凱が殺したのです」
「ところで娘さんたちのことなんですが……」
湯興仁はチョッキから銀の鎖を引っぱって懐中時計を覗いた。
「大丈夫、大丈夫」湯興仁は片口に溜まったお茶の様子を見た。「やあ、これはちょうどいい。冷たい碧螺春の出来上がりです。茶菓子に干し杏を用意しました。では」
そう言って、湯興仁は片口に蓋をかぶせてかすかにずらし、葉は入らず、冷たい茶のしずくだけを入れるようにして、三人の茶碗にお茶を注いだ。
「さあ、飲んでください」
そう言われて、有川たちは冷たい茶を飲んだ。なるほどあれだけ勧めるだけのことはあって、日本茶や紅茶にはない甘みと風味がある。部屋が蒸し暑いだけに余計にうまく感じられた。
「あと氷をまた入れておきましょう」と、湯興仁。「この碧螺春はまだまだ風味を出し切っていません」
そういって茶の入った片口に氷を足した。
「どうですか? おいしかったでしょう?」
「ええ。ところでお宅の娘さんたち、もう水の中に潜って十五分近く経ってますよ」
「大丈夫、大丈夫。それより干し杏をどうぞ。召し上がってください」
娘たちが潜って二十七分後、三杯目の碧螺春を飲んでいるときに、まずあぶくが次に、赤く六十三と書かれた大きな防水トランクを二人がかりで持ち上げた双子が顔を出した。
「ね、大丈夫だったでしょう?」
湯興仁はそう言うと、防水トランクの取っ手を握ると、よっこらせと持ち上げた。水から上がった双子の娘に駄賃をやると、娘たちは走っていって奥の小部屋に飛ぶように走っていった。
「これが一番安全な保管方法。六十三番の金庫。鉛でできた完全防水トランク。銀行は裁判所に命令されたら貸金庫の中身を見せるけど、うちは違う。お客さまの秘密はきちんと守る。中身の確認でしたら、あちらの小分けされた部屋でどうぞ」
小部屋の一つまで重いトランクを運ぶと、響子が六十三番の鍵を差込み、カチッと音が鳴るまで回した。
トランクを開ける。
中には映画用リールのような缶が二つ入っていた。片方は『広島計画』と書かれた紙が糊付けされ、もう片方には『ネガ』と書かれた紙が糊付けされていた。
有川の頭の中でカチッと音が鳴った――捜査を横取りした陸軍――陸軍広島特別工兵管区――広島計画。
「ちょっといいですか?」そう断ってから、有川は『広島計画』の缶を開けた。案の定、映画のフィルムのようなものが入っていたが、これが映画のフィルムではないことは一目瞭然だった。有川は少し引っぱって、伸ばしたフィルムを光にかざした。
「あの――」響子が訊ねた。「これは何なんでしょう?」
「マイクロフィルムです」有川はフィルムを篠宮に手渡した。「情報を小さなフィルムに焼いて記録保管したものです」
「中には何が書いてあったのでしょう?」
「わかりません」有川は首を振った。「でも、ここまで厳重に隠した以上、犯人はこれを狙い、あなたの叔父さんの命を奪った可能性が高いです」
「このフィルムが? でも、これが何なのか調べる方法はないでしょうか?」
篠宮はマイクロフィルムを少し長めに伸ばして、目を凝らしていった。「中身は図だの数式だのに溢れているね」
「図に数式か。何かの研究に関する情報ってことか?」
「それならそういうことが分かりそうな人がいるじゃないか」
有川と篠宮の頭の中に同じ名前が点灯した。
館林エネルギー研究所のブザーを鳴らし、ドアをノックしたが、返事がなかった。
「博士」有川が言った。「俺です。有川です」
ドアが少し開き、八来軒の老婆がいないことを確認すると、ドアを大きく開けて、素早く入るよう三人に促した。
閉めたドアに寄りかかると額の汗をハンカチで拭いながら、博士は胸を撫で下ろして言った。
「いや、あの老婆にはとことん参らされた。あれはピラニアじゃない。アリゲーターだよ。朝も昼も夜もずっと見張っているから、外に出られない。ここ二日は身を潜めて、買いだめしたビスケットと紅茶で暮らしている。まるで塹壕のイギリス兵になった気分だよ。おや、そちらのお嬢さんは初めてだね。私は館林、この館林エネルギー研究所の所長です」
「えっと、響子・ポクロフスカヤです。初めまして」
「有川くんたちとはどのようなお関係で?」
「仕事を依頼したんです」
「ほう、なるほど」と、館林博士は言ってから有川のほうへ振り返った。「それで何のようだね? お金を貸してほしいというお願いなら、残念ながら叶えられない」
「博士に見てもらいたいものがあるんです」
有川は広島計画と書かれた缶の中身を取り出して、博士に手渡した。
「ふむ、十八ミリロール式か」
「この中身が意味するところを博士に教えてほしいんですが」
「幸い十八ミリ式の投影装置を持っている。まだ電気は止められていないから見ることができるぞ」
そう言いながら、博士は乱雑に積みあがった実験器具や書物をどかし、ひっくり返して、投影装置を探し始めた。
「手伝いましょうか?」
「いやいや、それには及ばない。この一見乱雑に見えるものの中にも一応秩序はあってね。その秩序というのが私にしか分からんのだよ。まあ、そこで待っていてくれたまえ」
そう言いながら、ガラクタが次々と出てきた。コイルを巻いたエンジンの出来損ないやチラシの裏に描いた何かの設計図が山となって出てきた。そのうちの一つがたまたま山の上から落ちてきた。額入りのかなり古い集合写真。写っているのはみなヨーロッパ人のようだった。一番年嵩の老人が中央の椅子に座り、そのまわりを十九世紀風の大げさな髭をした壮年や青年たちが固めている。みな判で押したように黒のフロックコートを着ていた。後ろの段、右から三人目は凛々しい東洋人の若者――館林博士の姿があった。額の裏を見ると、こう書いてあった。『フンボルト大学 ベルリン 一九〇一年九月』
「やっと見つかった!」
館林博士がそう叫んで、引っ張り出したのはスーツケースだった。
「これはスーツケース型十八ミリロール式マイクロフィルム投影装置といってな。手軽に持ち運びができる改良型なのだよ。ほら、まずスーツケースを開ける。そして、ここの金具を立ててロールをはめ込み、金具を倒してからフィルムをここに通して――」
館林博士はテキパキ動いて、後はスイッチを押すだけになるまで準備をした。
「さて」博士は手をもんだ。「どんなものが描いてあるのか、見てみようじゃないか」
スーツケース型投影装置はスーツケースの内側三五×五〇センチの広さのスクリーンに明るくくっきりした像を映し出した。まだ小さかったが、そこに記された文字や記号を見るには対した苦労はなかった。
図。式。記号。館林博士は一言も発せず、スイッチを押して一コマずつフィルムを送って、その図の意味するところを理解しようとしていた。
一時間後、館林博士は全てを見た後にフィルムを巻き戻して投影装置から外すと缶に入れて、フィルムを返した。
「どうでしたか、博士」
「うん。いや、面白いものを見せてもらったよ、有川くん。誰が考えたか知らんが、これはまさに科学者向けにつくられた最高のおとぎ話だ」
「おとぎ話?」
「理論的には可能だが、実際にはできない」館林博士はスーツケース型投影装置をバタンと閉じた。「おそらくこれと同じことを考えている科学者が世界には私を含めてあと二十人はいるだろう。彼らも同様に、自分で組み立てたおとぎ話を指先で玩んでいるはずだ」
「あの、博士」有川が手を挙げた。「物理がトンチンカンな探偵どもに教えてもらえませんか? これが何で、どういう点がおとぎ話なのか?」
「世の中の物質はみな原子で出来ている。これについては聞いたことがないかね?」
「はい、あります」
「その原子の中でもウランのような特に重い原子の核はバラバラにならないよう非常に強いが不安定な力で互いを引っ張り合い原子を形成している」
「はい」
「この図式はその力を原子に中性子をぶつけて連鎖的に解放し、大量の原子を一度にバラバラにしてしまおうというために書かれたものだ」
「つまり?」
「想像してみたまえ。何千、何万、何億もの原子が一斉に自らを形成している力を解き放ってバラバラになるのだ。非常に大きなエネルギーが外側へと働きかける」
「そのこころは?」
「大爆発だ。太陽がくしゃみをしたような、誰も想像したことのないほどの大爆発」博士はそこで肩をすくめた。「これはそのエネルギーを利用した爆弾の設計図だ。私ならこのエネルギーで発電所をつくるがね。まあ、どの道、おとぎ話だ」
「なぜです?」
「科学の夢を挫折させるのはいつもこれだよ」教授は人差し指と親指で丸い輪をつくってから、うんざりしたように手を振った。「実際、これを実現させるとなると、費用は莫大なものになる」
「どのくらいかかるんです?」
教授は指を一本立てた。
「一千万もかかるんですか?」
「いや十億円だよ」教授は有川の手をしっかり握った。「そういうわけだ。いいおとぎ話を見せてもらえた。ありがとう」
響子を青山の家まで送るとき、有川はこのフィルムとネガを預かってもいいかと訊ねた。響子はぜひそうしてほしいと答えた。
「今日分かったことは少なくとも大きな前進です。ここからどう進むか、はっきりいって危なっかしい賭けに俺たちは出るつもりです。でも、あなたをそれに巻き込みたくないんです」
「わかりました」
有川たちが車に戻りかけると、響子は「あのっ」と呼びかけた。
「何ですか?」
「もし、途中で危ないと思ったら……このまま関わると死んでしまうかもしれないと思ったら、捜査も何もかも捨てて、逃げてください。それで犯人が分からなくなったとしても、私は構いませんから」
「心得ました」と篠宮が微笑み、有川も何とも言えない不器用な顔をして微笑んだ。
有川と篠宮はダットサン・クーペでパルパルパルと事務所に向かって走っていった。
「ちょっと止めてくれ」
有川は車を降りると、路上の新聞売りから日経新聞を買った。
夕暮れの連絡道路を走りながら、有川は助手席で新聞とにらみ合っていた。
「何を探しているの?」
「金の値段だ……あった。本日の取引、純金地金一グラムが四円六十一銭。つまり一キロなら四千六百十円。一トンなら、ええと、四百六十一万円。五百トンなら、ええと、うんと、二十三億五百万円」
「何の話だい?」
「この広島計画は明らかに新型兵器の開発計画だ。それも日本の陸軍が主導した極秘計画だ。その極秘のはずの計画がだ、神宮寺弘が借りたヤミ金庫から出てきた。でも、フィルムだけじゃただの絵に描いた餅だ。陸軍なら国家予算でこいつを生み出すことができる。だが、個人なら?」
「セミョーノフ」
「あたりだ。男爵は信じていなかったが、もしセミョーノフという男が本当に五百トンの金塊を隠し持っていたら? セミョーノフはこの新型爆弾を手に入れることができる。だから陸軍は特別捜査機関をつくって、警察から捜査を取り上げた。やつらの目的はこのフィルムだ」
押し黙ったまま、数十秒が経った。バタン式信号が『止まれ』の指示を出した。自動車やオートバイ、トラックが横切っていくのを見ながら、篠宮がつぶやいた。
「どうしたもんかな?」
「俺にまかせてみないか?」
「面白そうだ」
「四谷の浜島署に行ってくれ」
陸軍に乗っ取られた浜島署に足を運ぶのは考えてみると初めてだった。そして、足を踏み入れるのはこれで最後にしたいものだと思いながら、有川は篠宮を、エンジンをかけたままのダットサンに待たせておいて、署に足を踏み入れた。陸軍の何が嫌いかといえば、丸刈り頭が嫌いだった。まるで囚人のようじゃないか。
受付の向こうにいる、やはり丸刈りの陸助と目が合った。
「なんだ、貴様。何か用か?」
有川は襟章を見た。伍長だ。歳も二つ三つ下。上からより下から数えたほうがずっとはやい階級でもこの権柄ぶりなのだ。
「おい、貴様。答えんか!」
「広島計画」有川は言った。
「なんだって?」
伍長は本気で分かっていないようだった。
「よし、伍長」有川は広島計画と貼ってあるリール缶を取り出して、伍長の前に置いた。「このマイクロフィルムのリールを広島計画について知っている一番偉い人間に渡せ。そして、全てを説明できる人間を明日正午に、市ヶ谷第一階層の『市ヶ堀』という釣堀にやって来させろ。さもないと、明日の夕方までには広島計画を全世界が知ることになる。下手な小細工をしかけても同じだ。そうなった場合、伍長、お前は間違いなく満州国境勤務にトバされる。そうなりたくなかったら、尻に帆をかけて、こいつを上の人間に渡してこい!」
そう言い切ってポカンとしている伍長を残し、有川は背を向けて、とっとと署を後にした。
待っていたダットサンに乗り込むと、篠宮が訊いた。
「次の手は?」
「まずは寝る」ふああ、と有川は欠伸した。「で、明日の朝起きたら釣りに行こう」




