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六、昭和二十年八月二十日日曜日

 赤坂街塔区は第十三階層から第十五階層までが白系露人街になっていた。ロシア革命によって放逐されたロシア人たちが東へ東へと流れ、この赤坂に流れ着いたのだ。露人街は自然と洋風な街並みとなった。これまでロシアといえば、ロシヤパンというロシアとは塵ほどの関係もない行商のパン屋くらいしか思いつかなかった日本人が本物のロシアに観光気分で足を踏み入れられる、そんな街となった。そして、その露人街でも最も人気が高かったのが、第十五層のネフスキイ大路だった。サンクトペテルブルクの目抜き通りを偲んで名づけたこの通り沿いには洋装服飾店や宝石店、百貨店、ロシア料理を出すレストランや製菓店が軒を連ねている。

 午前十時半、青いダットサン・クーペはネフスキイ大路とアルバート通りの交差点付近に停車した。有川と篠宮は『ポルフィリー製菓』と日本語とロシア語で併記されたガラス窓の前に立っていた。一口で頬張れるかわいらしいチョコレートが箱詰めされて、ガラス製の陳列ケースに並んでいる。一方で、クリームとチョコレートをふんだんに使った洋菓子やシュークリーム、日本風に梅シロップで味つけしたタルトが厨房から出てきて陳列されていくそばから次々とお客が買い上げていく。作ることと買うことに関する、その目まぐるしさはまるでカリフォルニア特需のようだった。お客のほとんどは赤坂の十五階より上の階層に家を持つ人々で、大抵が運転手つきでやってくる。そして、同様の客は青山や上野からもやってくるほどの盛況ぶりだった。

 ポルフィリー製菓の十字路の角のところにあるガラス戸を開けると、チリンチリンと鈴が鳴った。判事か銀行重役の夫人といったところの中年女性が一番高いチョコレートの箱詰めを一つ、贈呈用にリボンをかけるようにと注文しているところだった。

 女性が店を出ると、売り子のロシア人女性が日本語で、何かお探しのものはありますか、と訊ねたので、有川は、

「コンスタンチン・ヴァシーリエヴィチに会いたいんですが……」

「社長にですか?」

「はい。有川正樹が会いたがっていると一言お伝え願えますか?」

 二人は待った。そんなに長く待ったわけではなかったが、待っているあいだに桃のタルトが三つ、チョコレートケーキが四つ、そしてチョコレートの二十五個詰め合わせが二つ売れていった。

「有川!」銅鑼でも鳴らしたような大声がカウンターの奥から聞こえてきた。「久しぶりじゃないか!」

 恰幅がいいというには少し太りすぎな気がする中年のロシア人がやってきた。そのロシア人は満面の笑みでカウンターから出てきて、しっかり有川の手を握った。

「どうも、ポルフィリーエフ」

「最後に会ったのは謝肉祭以来だな」ポルフィリーエフは篠宮を指した。「そっちの若いのは? 初めてだな」

「相棒の篠宮です」有川が説明した。

「よろしく」篠宮は会釈した。「あの、有川とはどんな付き合いで?」

「私と私の家族の命の恩人だよ!」

「それは大袈裟ですよ、ポルフィリーエフ」

「大袈裟なもんか。あの人間のクズどもは本気で私たちをソ連に送り返そうとしていたんだ」

「何があったんです?」篠宮が訊ねた。

「卑劣な裏切りだよ」ポルフィリーエフは唾を吐く真似をして言った。「私の製菓店を日本人の共同経営者が乗っ取ろうとしたことがあってね。書類をでっちあげて、私をハメたのさ。店を譲り渡すか、ソ連に強制送還されるか。どちらか選べ、と。もし、ソ連に送り返されれば私たち一家は強制収容所送りだ。だが、店を失えば、私たち一家は路頭に迷って、この国で乞食をするハメになる。それで万事休すってときに彼と(そう言って有川を指し)彼の叔父である有川順ノ助氏が(今度は上を向いて十字を切った)私のために動いてくれたんだ。こんなうまいウイスキーボンボンが食べられなくなるなんてとんでもない、由々しき事態だって言ってくれてね。順ノ助氏は相手側のペテンを見破って証拠もそろえてくれた。おかげで日本人の共同経営者は詐欺と恐喝、文書偽造でブタ箱送り。私は今もこうして菓子作りを続けていられる。君と叔父さんは私たちの恩人だよ。それ以来、毎年、うちで一番のとびっきりのウイスキーボンボンを贈ることにしている」

「じゃあ、あのウイスキーボンボンはあなたのお店で?」篠宮の目が輝いた。「僕、あのボンボンの大ファンなんです。毎年、楽しみにしてて。こんな素晴らしい知り合いがいたことを隠してたなんて、有川も人が悪いなあ」

「悪かったな、人が悪くて」

 有川とポルフィリーエフはお互いの近況を聞きあったりと当たり障りのない世間話を数分ほどした。会話がエンジンのように温まったところでそろそろ本題を切り出そうと思ったとき、ポルフィリーエフから話を振ってきた。

「で、何の用事だ。私の菓子を誉めに来てくれただけではないんだろう?」

「ええ。人を探しているんです。この十五階層に住んでいる男爵らしいのですが……」

「名前は?」

「分からないんですよ」

「おいおい、帝政ロシアの男爵なんてこの街には何ダースいるか分からんよ。もっと絞ってくれないと」

「そうですね。じゃあ――」有川は声を落として言った。「ハルビンに唯一の海外支社を持つ貿易会社の社長と付き合いのある男爵。これでどうです?」

 依然、顔は笑っていたがポルフィリーエフの表情から冗談めいた雰囲気が消えた。

「もしも」ポルフィリーエフは言葉を切って、少し吐いてまた息を飲み込んだ後に続けた。「私がその男爵を知っているとしたら、一体何の用事だと言って、つなげばいい?」

「八月十五日に殺された神宮寺弘の件で会いたいと伝えてください」

「そう言えば、通じるんだな?」

「たぶん」

「わかった。五分くれ」

 ポルフィリーエフはカウンターの後ろへ戻り、奥の壁かけ電話から受話器を取ると、交換手に日本語で番地を伝えた。そして、つながるとロシア語で何か話し出した。意味は分からないが、声の調子からとても丁寧に気をつかって話しているのは何となく理解できた。話しながら、うなずきながら、ときどきチラリと有川たちのほうを見やったりした。これが捜査の進展につながればよし、つながらなければまた一から洗い直しだ。最後にスパシーバと言って受話器をガチャンとフックに引っかけると、ポルフィリーエフは乾いた手のひらをこすりながら帰ってきた。

「男爵が会いたいそうだ。私が案内するよ」

 ポルフィリーエフは息子二人に取りあえず、いろいろことづけして店を任せてから、ホンブルク帽とステッキを手に外に出た。

「ところで、飯はもう食ったかね?」

「いえ、まだです。男爵に会ったら、あそこのレストランで軽く何か食べていこうと思ってるんですが」

「やめとけ、やめとけ」

「あの店はダメなんですか?」

「あの店だけじゃない。ネフスキイ大路沿いの店は全部ダメだ。給仕はみな薔薇色のルバーシカを着たウクライナ人で、流す音楽は古臭い民謡ばかり。シチーと来たらこれがまるで申し合わせたようにボルシチしか置いてないんだからな。一番許せないのはピロシキだ。なんで油で揚げるんだ? ピロシキは焼くのが常識だろうに。そもそもボルシチもピロシキもレストランで出すものじゃない。あれは家庭料理だ。ロシアで出すとしてもせいぜい立ち食い屋だ。要するに日本人向けの店だよ、ここいらは」

「そうは言うけど」有川は冷やかすように笑った。「あなたの店だってネフスキイ大路沿いに大きく構えてるじゃないですか。味だって日本人の好みに合うように研究したんでしょう?」

「それはそれ。これはこれだ」ポルフィリーエフは全く悪びれた様子もなく言ってみせた。「さあ、お二方。本物のロシア人が行く本物の店に行こう。陰気で、暗くて、レスチェンコのタンゴがかかっている、本物の料理を食べさせてくれる店だ」


 ネフスキイ大路を曲がって、しばらくすると瓦屋根に障子張りの日本家屋がぼちぼち混じり始め、観光向けではない露人街が目に現われてきた。久留米絣を着たロシア人の秋水売りが背中にタンクを背負ってジュースを売り歩いていたり、リボンつきの聖ゲオルギー十字章を五つも胸に飾ったコサックの老人が七輪で餅やカマスの干物を焼いていた。ネフスキイ大路を見ると、ロシア人が帝都に華やかなヨーロッパ文化を持ち込んだように見える。だが、大路から裏路地へと歩みを変えれば、実際にはロシア人の日本化が進んだことが分かる。浴衣姿でくつろぐ男もいたし、急須で煎茶を入れる一方でサモワールには蜘蛛の巣が張った家も少なからずある。一九二〇年以降に生まれたロシア人はみなほぼ日本語を話すことができた。

「支那人や朝鮮人ほどじゃないが――」進みながら、ポルフィリーエフが言った。「帝都のロシア人社会もなかなか口が堅い。ここに住んでる連中で男爵のことを軽々しく口にするやつなんて居やしないさ。もし警察に、男爵はどこだ? と訊かれたら、イワノフ男爵とかパブロフ男爵といった、そこらの貧乏アパートでぜえぜえ息をして死にかけてる人畜無害な落ちぶれ貴族の名前が挙がるだけだ。警察は本物の男爵には決して辿り着けない」

「でも、俺たちは会える」

「そういうことだ」

 進めば進むほど道は狭く暗くなり、大抵は併記されていた日本語とロシア語の看板から日本語が消えた。ここは帝都のロシア人社会で進む日本化を跳ねつけたものたちが住んでいる露人社会の最奥部だ。風はないのに路地はひんやりしていて、人気がなかった。閉ざされたドアとカーテンを引いたままの窓が幾十か続き、ついにとうとう行き止まりになった。階段が半地下の店の扉にまで続いている。

「これこそが本物のレストラン」ポルフィリーエフは自信たっぷりに言った。「テストフだ」

 テストフ・レストランの照明は頭上からぶらさがる小さなランプと壁につけられた細口ランプ風の電球、そして蝋燭の火だけだった。薄暗い店内だったが、蝋燭は店のあちこちにあった。コップの中に、テーブルの上に、カウンター席の端に、厨房とフロアの仕切り壁の近くに、そして壁にかけられた聖母マリアのイコンの前には長いものや短いもの、太いものや細いものと何十本という蝋燭が溶けて混じり合いながら、聖母の慈笑を照らし出していた。

 客――初老の黒い服を着た男たち――は壁に広げられた白、赤、青に双頭の鷲という亡国の旗の下で頭を寄せ合い、ひそひそと何かを話していた。何組かの客は蓄音機から流れてくるピョートル・レスチェンコの切なげなタンゴを聴いているようだった。給仕たちは白いシャツに黒の蝶ネクタイ、黒のチョッキ、白い前掛け姿でキビキビと、しかし、店の雰囲気を崩さないよう注意しながら働いていた。注文のやり取りはロシア語でなされ、メニュー表もロシア語のみを表記していた(だが、一枚だけポーランド語表記のメニュー表があった。これは常連のポーランド人がやってくるときのみ使われた)。

 ポルフィリーエフは給仕を一人つかまえて、ロシア語でいくつか質問した。返答を聞いた後、ポルフィリーエフは二人のほうへ振り返った。

「席はもう予約されているそうだ。あの奥の席だ。壁龕みたいになっていて、内密に話したければカーテンを閉めて話し合うこともできる。あそこで待っていよう。男爵は間もなくやってくるはずだ」

 有川と篠宮は席についた。だが、有川たちが何度勧めてもポルフィリーエフは席につこうとしなかった。

「座って待てばいいのに」

「いや。男爵が会いたいのは君たちであって、私じゃないからな」

 一方、二人の東洋人の来店はテーブルごとに寄り集まってひそひそ話をする男たちの耳目を引いた――あいつらは何者だ? どうやってこの店にやってきたんだ? 何が目的だ?――神聖な場所を侵されているという感情が店のロシア人たちの心に芽生え始めた。この店には近衛騎兵連隊の軍旗や聖アンドレーエフ旗、剣つきの聖ゲオルギー十字章、そして最後の皇帝ニコライ二世の写真が飾られていた。この店はロマノフ王朝のためにドイツ軍やオーストリア軍、そしてボルシェヴィキと戦ったもののみが入ることを許される聖域なのだ。

 誰かが二人の東洋人に対して行動を起こそうとしないか、あるいは起こすべきではないか、黒い服の男たちは料理もそっちのけでお互いに違うテーブルのグループに対して期待と非難が入り混じった複雑な視線を浴びせ合っていた。

 ドアが開く音がして、男たちの視線がそちらに移った。これもやはりロシア人が一人、東洋人が二人ついてきていた。

 だが、彼らの来訪で先の東洋人たちがなぜこの店にやってきたのか理解できた。

 彼らは男爵に会いに来たのだ。

 有川たちも男爵を見た。黒いホンブルク帽と黒い仕立ての三つ揃え、帽子を脱ぐと灰色になった髪が見えた。すぐ給仕が丁寧に応対し、既に待っている有川たちのテーブルへ案内した。薄暗い店だったが、近づいてくるにしたがって、少しずつ男爵の顔のつくりが分かってきた。まず灰色の口髭が戯画化された支那人のように長く伸びていたが、頬髯やロシア人が好んで生やす顎鬚はきれいにカミソリをあてられているようだった。痩身で、まだ六十前だと思うが、八十の老人のようにも見えた。男爵の右耳はきれいになくなっていた。そして、かつて右耳があったであろう場所からひどい傷痕が前へ前へと走り、右目に達していた。右目はガラスの義眼だった。そして残った左目は千里の彼方を見ているような、人間味の薄い青い眼をしていた。男爵は連れている二人の東洋人に号令をするように短く言葉を発した。そこで二人の動きが止まった。支那の言葉でも、ロシアの言葉でもない不思議な言葉、ひょっとするとモンゴルかもしれないと有川は考えた。男爵の連れている東洋人はおそらく双子で着ているものも黒のホンブルク帽と黒の三つ揃えだった。二人はまた男爵に何かを命じられると、そのまま下がってカウンターの席についた。有川たちが男爵と話しているあいだ、あそこで待つつもりなのだろう。

 男爵はまずロシア語でポルフィリーエフと挨拶を交わした。近況の報告など当たり障りのない会話が少し続いた後、男爵は有川たちのほうへ顔を向けて、日本語で言った。

「では、彼らかね?」

 流暢でまったく違和感のない発音だった。

 ポルフィリーエフはええ、そうです、彼らです、と言った。

「じゃあ、私は席を外すよ」ポルフィリーエフは二人に言った。「うちの店で使える技がないか、この店の厨房をスパイせんといけないのでね」

「その通りだ、コンスタンチン・ワシーリエヴィチ」男爵がポルフィリーエフに声をかけた。「得るものはたくさんあるとも」

 ポルフィリーエフは笑いながら、厨房の仕切り戸を開けて、奥に入って見えなくなった。

 男爵は有川のほうに手を差し出した。

「ロマン・フョードロヴィチ・フォン・ウンゲルン=シュテルンベルクだ。よろしく」

 男爵の差し出した手を有川が握って、有川正樹です、と名乗り、篠宮も握って、同じように名乗った。男爵の手は、ついさっきまでかき氷に突っ込んでいたかのように、ひどく冷たかった。

 男爵は有川のほうを向くと、

「ポルフィリーエフと知り合いだそうだな」

「ええ」

「それは素晴らしい」男爵は小さくうなずきながら言った。「彼のような人物を友人にできれば、人生の苦渋を少しでも和らげることができる。ポルフィリーエフは好人物だ。陽気で、義理堅く、私たちのロシア人社会においてもその信頼は非常に厚い。ただ、その人の好さに必要以上につけ込んでは彼が気の毒だ。私と君たちとのあいだに横たわる共通の知人に関する話はきっとポルフィリーエフにとっては少々気の重いものになるに違いない。私はこの街のためにポルフィリーエフにはよきペイストリー・シェフでいてもらいたい。それ以上を求めてはいけないと思うのだ」

「同感です」有川がうなずいた。

「ああ、それと」男爵は自分の顔の傷痕を指差した。「気になってしょうがなくなる前に教えて置こう。この顔はレーニンの秘密警察にやられた。あの当時はチェーカーと言ったかな? 一九二一年の夜、私はノヴォニコラエフスク郊外の森の中で処刑された。部下に裏切られて、赤軍に引き渡されたのだよ。まったく。だが、やつらはたった五センチしか離れていない私の後頭部も満足に撃ちぬけないマヌケの集まりだったのだ。まあ、右目と右耳は失ったがね。私が顔の半分から噴水みたいに血を噴き出しているのを見て、死んだと思ったらしい」

「その後、よく生き残れましたね」

「なに歩いたのさ。ノヴォニコラエフスクからウラジオストックまで」

 有川と篠宮はロシアの地図をぼんやり思い出し、そしてお互いの顔を見合わせ、今度世界地図で確認しようと思いつつ、また男爵に視線を戻した。

「この傷痕は私に教訓を与えてくれる」男爵は続けた。「ロシア人は絶対に信用するなという皮肉だが、貴重な教訓だ。私の騎兵師団はドンやテレク、クバン、ザバイカルのコサックたち、チェルケス人やダゲスタン人、ブリヤート人、中国人、モンゴル人、カザフ人、それに数名の日本人など多種多様な民族によって構成されていた。だが、最後の最後で私をボルシェヴィキに売ったのは二人のロシア人副官だった。さて、前置きはこのくらいにしよう。君たちは神宮寺氏について訊きに来た。彼の身にふりかかった悲劇に関しては私も個人的に興味がある。私が彼の死の謎を解き明かすにあたってどこまで貢献できるかはまったくの未知数だが、最善をつくすことは約束しよう」

「では、いくつか質問してもよろしいですか?」

「もちろん。だが、その前に料理を注文しよう」

 男爵は給仕を呼んで、ロシア語で何か注文し、

「君たちはどうする?」

 と、訊ねてきた。

「メニュー表がまったく読めなくて」と、有川。「軽く食べたいんですが」

「それがいい。大食は罪だ。軽いが確かな食事が一日の残りを動かす力になる」

 前菜なしで二品か三品くらいということで、有川はひき肉と刻み玉ねぎ、そしてアンコウの肝を具にしたピロシキに五種類のきのこのスープ、篠宮は同じピロシキを頼み、スープは男爵と同じものを頼んだ。結局、ポルフィリーエフはレストランがピロシキを出すことについて、いろいろと不満を述べていたが、有川と篠宮は結局、ピロシキを頼んでしまった。

 その後、料理に関する気のおけない会話が十分ほど続き、男爵が言った。

「では、そろそろ始めようか」

「ええ」有川は手帳と鉛筆を手に取った。「神宮寺氏とはいつごろからの付き合いですか?」

「そう古くない。知り合ったのはそう、六月の初めか中旬ごろだった。二ヶ月前くらいだ」

「具体的に何を話したか教えていただけますか?」

「武器売買の仲介。彼はセミョーノフに話をつないでもらいたがっていた」

「セミョーノフ?」

「グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ。ザバイカル・コサックのアタマン、つまり統領だった男だ。今も統領を自称しているが、彼が率いていたコサック軍は二十年以上昔に消え去っている。彼の経歴を簡単に説明すると、十月革命勃発後にシベリア出兵した日本軍を後ろ盾にし白軍将領として戦ったが、結局赤軍に負けて、ウラジオストックから日本へと逃げるハメになった。一時期はアメリカにもいたようだが、今はハルビンにいる」

「その男はハルビンで何を?」

「反ボルシェヴィキ活動だ。具体的にはハルビンやその他満州の各地に在住しているロシア人から義勇兵を募り、ソ連に侵攻しようとしている」

「そのセミョーノフという男は本気でそんなことを考えているのですか?」

「本気だ。ソ連は共産主義というシロアリに蝕まれたボロ家のようなもので、ドアを蹴破れば後はなし崩しだと言っている。実は二十年前のロシア内戦期、私はセミョーノフの下にいたことがある。粗暴で、よく無茶を言う男だった。結局、袂を分かって、私は自分の騎兵師団を率いてモンゴルに行った。セミョーノフのほうはその後も赤軍相手に戦ったが、結局負けたというのは先ほど説明した通りだ。私とセミョーノフの別れ方は決して円満なものではなかったが、同じ国を追われたもの同士、一応連絡は密に取ることにしている。神宮寺氏はどこかでそれを聞きつけたのだろうな。私に武器売買の仲介を頼んできた。セミョーノフは疑い深いが、それも当然だろう。武器屋に会いに行ったつもりが、待ち伏せしていたNKVDのエージェントに捕まってソ連に強制送還された日には目もあてられない。運がよければルビヤンカの地下室で頭にズドンと一発もらうだけで済むが、最悪の場合はスターリンがいいと言うまでツンドラ地方の収容所で木を伐り続けなければならない。そんなわけで、セミョーノフも彼なりに調べて神宮寺氏の身分の保証がされるまでは慎重に動いた。そして、神宮寺氏はどうやら試験に合格したらしい――おっと、料理がやってきた」

 男爵にはほうれん草を使った緑のスープにサワークリームをたらしたものと黒パン二枚、そして、水差しとグラスが一つ。

 有川にはピロシキ二つと香ばしい五種のきのこのスープ、そしてウォッカがグラスに一杯。

 篠宮も同じピロシキが二つにウォッカが一杯、スープは男爵と同じものを注文したが、篠宮のスープには半分に切ったゆで卵が入っていた。

「どうしてあなたのスープには卵がないんです?」篠宮が訊ねた。

「宗教上の理由から生き物を食べることと飲酒をやめているのだよ」

「宗教上の理由?」

「そう。戒律だよ」

 有川はグラスの液体の匂いを嗅いだ。

「これはウォッカですか?」

「この店に限ったことではないが、ロシアの料理屋では飲み物について特に何も言わないでいると、ウォッカが出されることになっている」

 男爵はスープにたれたサワークリームを少し混ぜて、ほうれん草に馴染ませた。

「さて、話に戻ろうか。神宮寺が武器を売ろうとして、セミョーノフの審査に合格したというところだった。こうして取引は行われることになって、神宮寺は先月の中ごろには軽機関銃三十丁と半自動小銃千丁を集めてきた。もちろん弾薬も十万発以上つけて。神宮寺氏はよく笑っていたな、東京とハルビンをしょっちゅう行ったり来たりしている、と。だが、海外進出の第一歩として選ぶのにハルビンほどふさわしくない都市は存在しない。セミョーノフの話ではハルビンの暗黒街では馬賊や中国共産党、蒋介石の手下や関東軍のスパイ、アヘンの密売組織が入り乱れて、ワケが分からなくなっているらしい。そして切り分けられるパイはひどく小さい。そんなところにずかずか入り込んで行くのだから、神宮寺氏はよほど勇敢なのか、それともただ馬鹿なのか、あるいは関東軍の後ろ盾があるのか――私は最後の説じゃないかと思っている。彼が売った銃の質と量を考えると軍にそれなりにコネのある人間じゃないと揃えるのが難しいだろう。武器は日本政府がチェコスロヴァキアとスイスの銃砲会社との間にライセンス契約を結んで生産し、輸出用に仕上げたものだった。セミョーノフは武器の品質に満足したようだった。珍しいことにセミョーノフの側から神宮寺はまだ来ないのかと何度も催促が来た。これは今までになかったことだ。あの男が一人の人間をあそこまで信頼することはそうそうないし、あの男をあれほど熱心に動かすものはただ一つ、ソ連の打倒だ」

 男爵は言葉を切ると、黒パンを千切って、緑のスープにつけた。そして、口髭をスープで汚さないよう気をつけながら、口に運んだ。

 有川もピロシキをかじった。包丁で細かく刻まれたアンコウの肝とひき肉がとろけるようだった。一つを平らげると、もう一つに手を伸ばした。

 有川は考えを整理してみた。まず、神宮寺については想像以上の収穫を得た。武器、対ソ侵攻、コサックの統領。頭の中でぐるぐるまわる。男爵の言うとおりなら、神宮寺弘は一歩間違えれば奈落へ真っ逆さまのかなり危険な綱渡りをしていたことになる。赤色ギャング団によるテロの線が再び濃くなってきた。神宮寺とセミョーノフにまつわる話は帝都に潜む共産党細胞が知ったら、間違いなくテロの的にかけられる類の話だ。それに有川から見れば、取引相手のセミョーノフもどれだけ信用できるか危ういように思えた。

 もちろん目の前でほうれん草のスープを器用にすすっている男爵も。

「神宮寺氏については分かりました」篠宮が言った。「でも、セミョーノフはソ連を攻撃するのに軽機関銃と半自動小銃だけの軍隊で足りると本気で思っているんですか?」

「普通は思わない。だが、セミョーノフは普通じゃないし、またそう考えるだけの根拠もあるようだ」

「根拠?」

「金塊だよ。大戦直後のあの時代、赤軍白軍の両方に属した多くの人々はセミョーノフが内戦のドサクサに紛れて、ロマノフ朝の金塊をネコババしたと信じている。だが、量については諸説ある。金塊にして三十キログラム程度だと言うものもいれば、三十トンを台湾銀行に預けていると主張するものもいる。もし、セミョーノフの保有している金塊が三十トンなら、神宮寺氏の武器売買はほんの始まりに過ぎない。売却される兵器は戦車や爆撃機へと格上げされるだろう。ちなみに我らが神宮寺氏はセミョーノフの所有する金塊は五百トンだと信じているようだった。これは私の個人的見解だが、神宮寺氏は確かに必要なときには大胆な行動を取れる人物だが、この手の裏のある世界を生き抜くには少し軽率が過ぎる気がした。その証拠がこの五百トンだ。欧州大戦中、ペテルブルクの中央銀行には帝政ロシアの金準備として九百トンの金塊があった。ドイツ軍が連勝し前線がじりじりとペテルブルクに近づくと、大蔵省は予防措置として、九百トンの金塊全てをはるか東のカザンの銀行に移した。その後、二月革命、十月革命を得て権力を握ったレーニンは金塊を再びペテルブルクに戻すよう急いで命じた。なぜなら各地で蜂起した白軍がカザンに向かって進軍していたからだ。結局、レーニンの命令は遂行しきれなかった。四百トン運び出したところでカザンが白軍の手に落ちたのだ。五百トンの金塊とともに。そして、神宮寺氏が言うにはその金塊は全てセミョーノフの手に渡ったと言うのだ。そんなことを信じるくらいなら火を吹くドラゴンや妖精、人魚の存在を信じたほうがまだ正常だ。通説では五百トンの金塊はチェコ軍団やコルチャーク提督のオムスク政権、それにセミョーノフや東清鉄道司令官だったホルワットなどの白軍将領に少しずつむしられながら東方へと移動し、最後はレーニンが帝政時代の債務を履行しないと宣言したために日本の大蔵省が補償として金塊の残り全てを朝鮮銀行に収めたとされている。私もその説を信じるね。いくらセミョーノフでも五百トンの金塊を独占するなど不可能だ」

「あなたは金塊を接収しなかったのですか?」

 そう質問されると思っていたのだろう。男爵は微笑んで答えた。「拝むことすらできなかったよ。金塊がセミョーノフの支配地域を通り過ぎたのは私がセミョーノフと袂を分かち、モンゴルへ入った後のことだった。だが、まあ、金塊に関する真相がどのようなものであろうと、セミョーノフの計画は必ず失敗する。なぜなら圧政に苦しむソ連支配下のロシア人がセミョーノフに寝返ることなどありえないからだ。ロシア人は支配者の圧政を黙って耐え忍ぶことを一種の美徳だと考える節がある。セミョーノフが満ソ国境で人民委員を絞首刑にして解放を謳ったところでロシア人はびくともしないだろう。セミョーノフは所詮コサックだ。ロシア人を理解していない」

「でも、あなたの性もドイツ系ですよね」篠宮が探るように言った。「フォン・ウンゲルン=シュテルンベルク男爵?」

「そのとおり」

 答える男爵の表情はヴィーナス像の出来栄えに満足いった彫刻家のそれだった。

「私にはドイツ騎士団の血と匈奴の血が交じり合っている。私に流れている血は狩り、耕し、漁るものの血ではない。全てを焼き尽くし奪い尽くす侵略者の血だ」男爵はくっくと笑った。「最高の血だ」

 有川と篠宮は悟った。この男とこの男が見据える千里の彼方の間には無数の骸が転がり、焼かれた家がくすぶっている。これは本物の虐殺者だ。この男爵が東京の露人街で思い出話をしているだけで済んでいることを神に感謝しなければいけない。この男は手元にタンカー一杯分のガソリンがあれば、ありとあらゆるものを焼き尽くすためにそれを使うだろう。どうかこいつがこのまま場末の料理屋で老いさらばえて死にますようにと祈りたい気分だった。

 男爵は軽く手を叩いた。

「さて、私が神宮寺氏とセミョーノフとのあいだで知っていることは大体このくらいだ。その後、神宮寺氏はセミョーノフから絶大な信頼を得ることに成功したらしく、最後のほうは私抜きで取引をしていた。私の関与していない取引については何も知らない。こちらも調べようとは思わないし、セミョーノフもわざわざこちらに教えようとはしない。我々は女学生式の交換日記をつけているわけではないんだ」

 料理があらかた片づきつつあるころ、男爵が訊ねた。

「これは全くの個人的興味から訊くのだが、神宮寺氏の遺体は火をつけられていたそうだね?」

「ええ」

「ふむ」と、考え込むように言った。そして、男爵は少なくなったほうれん草のスープをゆっくりかき混ぜながら話し出した。「二十年以上前のことだが、当時、私は中央アジアで白軍の騎兵師団を率いていた。私はモンゴルで、目にした人間、家畜、住居、牧草地の全てに火を放っていた。なぜ、そんなことをしたのかと問われれば、ただ浄化のために必要だったと答えるだろう。モンゴルに浄土を作るのに火は不可欠だったのだ。だが、大勢の人間を焼き殺したことで部下たちは私が狂っているのだと密かにささやいた。そういえば、私の部下に日本人が二人いたな。正規の軍人ではない。ほら、壮士とか大陸浪人と呼ばれた義勇兵めいた連中だよ。彼らは私が赤ん坊を抱いた若い女を焼くことに反対した。たぶん女子どもを焼くことが彼らの武士道に反したのだろう。おかげで私は彼らも銃殺し、火にくべなければいけなかった。彼らは実に勇敢な戦士だったのだが、仕方ない。浄土に必要なのは人間の理解ではなく、全てを灰燼に帰す巨大な火だ。人間が浄化されるにはどうしても火が必要なのだ」

 一つしかない男爵の視線は蝋で満たされたテーブルに置かれたコップの中央で踊る小さな火に注がれていた。

「ロシアのある古い村では分離派教徒が村ごと焼身自殺することによって、炎による再洗礼を受けた。イエズス会の修道士の中には自分の体の一部を焼くものがいる。そうすることによって十字架のイエスの苦しみを少しでも追体験しようとしているのだ。また、アメリカの南部では火は正義の象徴だ。たとえばアメリカの南部で――そうだな、ミシシッピ――いや、やっぱりジョージア州にしよう。そのジョージア州の田舎町でまだ十歳のとてもかわいらしい白人の女の子が強姦された上に首を絞められて殺されたとしよう。そして、犯人としてまだ十八にもならない黒人の少年が逮捕されたとする。すると憎悪と憤怒の衝撃が人間の神経のごとく町を走りつくし夜になるころには、怒り狂った民衆が松明と猟銃を手に裁判所を取り囲む。そして民衆は判事や保安官の制止も聞かず、まだ判決が出ていない少年を牢屋から引きずり出し、殴り、蹴り、切り刻み、目玉をえぐり、銃床でぶちのめし、局部を切り落とし、木に吊るし、そして最後は必ず火をつける。そう、必ずだ。炭になるまでしっかり焼く。火には法を凌駕する何かが確かに存在するのだよ。君たちの国でもそうではないかね? 室町幕府の六代将軍足利義教の非道な扱いに抗議した比叡山の僧侶たちは自ら寺に火を放ち、その中で焼け死んだではないか」

 男爵はコップに踊る火がこの世で最後の火なのだといった様子でその火の上に大切そうに手をかざした。

「確か八月十五日のことだった。私は素晴らしい夢を見た。浄土の夢だ。この国の全てが焼き払われ、焼け野原に残された人間は泣くか笑うかしていた。自分が見たものが信じられなかった。どこまでも続く黒焦げの地平線だよ! 火によって文明が浄化されたのだ。私が二十年前、モンゴルで行おうとしたことが君たちの国で実現したのだ。もしかしたら、アメリカや中国、母なるロシアでも同じようなことが起きているかもしれない。私は歓喜に震えて、大声で叫びたかったが、声を出そうとした瞬間に夢から醒めた」

 男爵はコップの火をふっ、と吹き消した。

「そして、私は今、ここにいる。辛いことだ。飛躍的な進化を遂げた人間の文明が最終的には巨大な煙突へ行き着くと知ったら、過去の偉人たちは人類の進歩のために己が人生の全てをつぎ込んだだろうか? 皇帝を殺し教会を焼いたボルシェヴィキと天皇を敬愛し神道を祀る日本人が同じ煙突型の都市を造っている。ロシアと日本だけではない。民主主義を奉じるアメリカ、植民地帝国主義を奉じるイギリス、共和思想を奉じるフランス、ナチズムを奉ずるドイツ、ファシズムを奉じるイタリア、長きに亘る自らの歴史を奉ずる中華民国。これら全ての異なる国と異なる思想を奉じる人間が全て、煙突の化け物に煤のようにこびりついて暮らしている。古来より人間を突き動かしてきたあらゆる思想と情熱が最終的に人間を巨大煙突の付属品へと追い込む以上、我々はどうしたらいいのだろう?」

 男爵は内ポケットから聖ゲオルギーが竜を退治する姿を描いた小さなイコンを取り出し、自分の左の手のひらに置いた。

「すると、私は夢を見る」

 男爵は右手でマッチをすり、それを左手の上のイコンに落とした。イコンに火がついた。男爵は燃えるイコンを両の手で支えた。そして、ガラスの目に手の中で燃えるイコンの火を映して、淡々と語った。

「たった一つの、芥子粒ほどの物質に火を灯すだけで全世界の煙突文明とそれに依りかかって生きている全ての人間が爆発的に浄化され、炎の洗礼を受けて浄土となる。私はそんな夢を見る」

 イコンが男爵の手の上で焼き尽くされた。

「この夢を理解できるかね?」

 有川はこの問いに、はっきり首を左右に振った。

「理解できません」

「僕も理解できない」篠宮もはっきり言った。「理解したくもないです」

「そうだろうな」男爵は微笑み、うなずいた。「あのとき銃殺した二人の日本人もそう言ったのだ。だが、浄土に必要なのは人間の理解ではない。大いなる火だ」

 男爵はイコンの燃えかすを胸ポケットから取り出したハンカチできれいにぬぐうと手を差し出した。

「はやく犯人が捕まり真相が明らかになることを祈っているよ」

 順に二人と握手した。男爵の手はひどく冷たいままだった。

 ポルフィリーエフが厨房から戻ってくると、二人に「成果はあったかい?」と訊ねた。

「ええ、ありましたよ。ありがとう。ポルフィリーエフ」

「また何かあったら遠慮せず言ってくれ。じゃあ、行こう。失礼しますよ、男爵」

 ポルフィリーエフが入口へ向かうと、有川たちは男爵に会釈した。

「私の経験に則するなら」男爵は最後、ポルフィリーエフに連れられて店を出る有川と篠宮の背中に、微笑んで言った。「人間を焼くことには必ず意味があるのだよ。それが生きていようが死んでいようがね」


 午後五時半に事務所に戻り、このことをどこまで警察に言えるか考えた。男爵の正体を教えることはできない。ポルフィリーエフの顔をつぶすことになる。ただ、警察が独力で武器売買まで解明できるかは未知数だった。武器売買でわざわざ白系露人社会を経由するところを考えると、神宮寺の売った武器は間違いなく密売だった。と、なると、日本中の工廠の製造番号を追わなければいけない。それも陸軍省が協力しての話だ。お前ンところ、武器が漏れてるから調べさせろ、などといえば、陸軍は絶対に扉を閉ざし、憲兵を使って内々に事を済ませることになるだろう。そうなれば、警察に情報は落ちてこないし、もちろん有川にも落ちてこない。

「救世軍婦人会と鮫ヶ淵はほとんど空振りだったのに、ここで一発三塁打だ」有川は言った。

篠宮は体を反対にして背もたれに寄りかかった。「赤色ギャング説が強くなったね」

「まだ、何の証拠もない。だいたいセミョーノフと武器取引していたという話をアカの連中が知っていたかどうかってことも分かっていない」

「高階婦人と赤色ギャング。今ならどっちが怪しい?」

「正直分からない。昨日までは高階婦人説に結構自信があったが、男爵の話を聞いたら、その自信もひどく揺らいだ。どちらもアリバイなんてないも同然。だが、片方にはかなり分かりやすい動機があって、もう片方には動機がまったくない」

 チェリーの包装をむしって、一本口にくわえたところで電話が鳴った。

「はい、こちら有川探偵事務所です」

「有川か? おれだ、照山だ」

「ちょっと待ってくれ。お前、今どこにいるんだ。騒がしくて話が聞こえん」

「市ヶ谷の――」

「なんだって?」

「市ヶ谷の! 十階の! テキ屋横町で飲んでるんだ!」

「飲んでるって、お前……仕事は?」

「そのことで話がある。会って話そう」

「電話じゃだめなのか?」

「いろいろ話すことがあるんだ。じゃ、テキ屋横町の『かつやん』って夜店の串カツ居酒屋にいるから。今すぐ来いよ」

 有川がフックを置くと、篠宮がどうしたの、と訊いてきた。

「照山が二階上のテキ屋横町に来いって言うんだ。話したいことがあるって。どうも酒が入ってるみたいだった」

「貸金庫のことで何かあったのかもね。こっちも情報交換のつもりで行ってみようか」

「そうだな」

 有川は上着を羽織って、帽子を手にしたまま、外に出た。

「車は?」

「近場だからいらんだろ」

 事務所を出て、十階まで続いている作業員用の階段を使って、十階の大通りに出た。五十メートル先、薬局を曲がった角の先がテキ屋横町だった。銀座の発明市場や浅草のテキ屋街ほどではないが、市ヶ谷の夜店もそれなりに賑やかで、仕事の終わった工員やサラリーマンが肩を並べて、酒をあおっていた。

『かつやん』の提灯が見えた。だが、近づいて座席を見てみると、『かつやん』に照山の姿はなかった。

「どこに行くって伝言を残していなかったか?」

 かつやんの親父は首を振った。

 篠宮が言った。「これって探偵小説じゃまずい展開だよね。話したいことがあるけど、電話じゃ話せない。それで会おうとしても見つからない。これは真相に近づいた登場人物が探偵に重要なことを教えようとして殺されてしまうパターンだよ」

「縁起でもないこと言うなよ。とにかく探すぞ」

 アセチレンの火に照らされた黄色いテキ屋横町はラヂオ焼きや一銭洋食を焼く店もあれば、売れ残ったサントリーの白札を舶来物だと偽って出す店もあるし、詰め将棋やスマートボールなどの遊び場もあった。父親につれられた女の子が一銭玉を渡すと、夜店の主人が更紗の織物の上で壷を傾ける、するとビードロのおはじきがきらきら光りながらザーッと流れ出す。少女は好きな色のおはじきを両手で一度に持てるだけ持っていっていいことになっていた。金魚売りは安い和金だのを桶に入れて、高価ならんちゅうは一尾ずつ雛段上の金魚鉢に入れられていたが、そうした売り方はなんだか吉原の遊郭を連想させた。

 テキ屋横町はいつだってそうだ。大通りを歩いていた人がいつのまにかテキ屋横町に吸い込まれていく。ここはいつも人で賑わい、どんな狭い道にもカルメ焼きやぶっ切り飴の夜店があって、そうした夜店へ照山を探して一軒一軒あたるのを思うとうんざりするのだった。だが、あの大きな図体は目立つからうまくいけば、すぐに見つかる。有川はそう思った。事実、十分もしないうちに照山は見つかった。

 ちゃんと元気に生きていた。照山は射的屋にいた。二人を見つけると、こっちに来るようにと乱暴な素振りで手を振った。不機嫌なのが三十メートル先からでも見て分かった。

「俺のおごりだ」照山はやはり酔っ払っているらしく、不機嫌そうにフンと鼻を鳴らして言った。「おばちゃん。二人に一皿ずつやってくれ」

 すると五つのコルク玉が転がる琺瑯びきの小皿とおもちゃの鉄砲が有川と篠宮のためにそれぞれカウンターに用意された。

 射的屋の奥の雛壇には各種銘柄の煙草やキャラメル、チョコレートの箱、キューピー人形が並んでいる。照山の手元の皿にはコルク玉が二つと敷島が一箱あった。次はあのエアーシップを撃墜してやるといって、照山はコルク玉を銃口に押し込んだ。

「よーし、あのエアーシップを撃墜してやるぜ」

「なあ、照山」有川も弾を込めながら訊いた。「話したいことがあるんじゃなかったのか?」

 照山は装填済みの鉄砲を台に置くと、有川たちのほうを向いて、

「クソッタレな情報と物凄くクソッタレな情報がある」と、前置きした。「どっちから聞きたい?」

 有川は答えた。

「ええと……じゃあ、クソッタレな情報から」

「犯人が残した唯一の遺留品、レインコート。あの線は切れた。あれは廃物利用のゴム引き布から作られた安物でそこいらじゅうの横町で売られている。もちろん工場と小売店を追える製造番号なんて打ってないし、府内だけでもあれを売っているやつらが二千人はいる。しかも売り子は常に移動しているときている。あのレインコートは上野や渋谷でも買えるし、もちろん鮫ヶ淵でも買える。ここでも買えるんじゃないかな? あれで犯人を絞り込むのは不可能だ。クソッタレな話だろう?」

「なるほど。クソッタレだ」有川は答えた。

 照山の発射したコルク玉は手元が狂ってエアーシップの上を通り過ぎいった。

「で、物凄くクソッタレな情報は?」

「事件をかっさらわれた。陸軍に」

「陸軍?」

「そうだ。突然、人の職場に土足でやってきて警部以下俺たち全員の前で陸軍が特別に創設した特務調査機関が捜査を引き継ぐ、とかほざきやがった。何様のつもりか知らねえが、本当にとんでもねえクソッタレどもだよ。特高のやつらも何にも聞かされてなかったらしくて、横紙破りもはなはだしいと怒り狂ってやがった。いつもなら横紙破りして人の捜査にちょっかいかけてくるのは特高のほうなのによ。笑っちまうだろ。さらに笑えるのが、上のほう、内務省と陸軍省の高級官僚どもも管轄のことで激しくやりあっているってことだよ。官僚どもときたら、みんなそうだ。手前の縄張りに踏み込んだやつを見かけると発情期の猿みたいにわめきながら襲いかかるんだからな」

 照山は最後の一発を込めるとろくに狙いもせずに片手撃ちにした。無心の一発が功を奏したのか弾は命中し、エアーシップは雛壇から落っこちた。

 その後、全員分の射的が終わってみると、照山は敷島とエアーシップを一箱ずつ、篠宮は全段命中でスター二箱、ほまれ一箱、それに森永キャラメル一箱とキューピー人形が一つと好成績を出した。それに対し、有川が得たものはミルク味のちっぽけなキャンディ一つ。これは全弾をものの見事に外した有川を気の毒に思った店番の老婆が有川の手に無理やり押しつけたものだった。

 一段落つくとまた照山はまくし立てた。

「最悪なのは陸助の馬鹿ども、貸金庫の線を自分で潰しやがったんだ。裁判所命令を俺たちに取り付けさせて、中身を全部没収した。これで貸金庫に罠がはれなくなった。捜査本部は解散して、銀行につけた六人の刑事も響子・ポクロフスカヤにつけた護衛も必要なしってことで解散になった。もちろんトンプソン機関銃も取り上げられた」

「じゃあ、お前はこれからどうなるんだ?」

「知らねえよ。たぶん陸助のお茶汲みでもさせられるんじゃねえのか? はあ~あ、そんなわけで俺はこれ以上、この事件に協力できそうにない。そうだ! もと居た店に戻ろうぜ。田島が来てるかもしれない」

「田島も呼んだのか?」

「まあな」照山は言った。

「少年探偵団をここまで揃えるなら、寺井も呼ぼうぜ」

「あいつの家に電話したんだが、出ないんだよ」

「料金未払いで線切られてんじゃないのか?」

「ありうるなあ。だって、寺井だもん」

 ゲラゲラ笑っていると、篠宮が有川を肘でつついた。寺井という知らない名前が出てきたからだ。

「ねえ、少年探偵団って全部で何人いるの?」

「さあな。実のところ全部で何人いたのか、叔父さんもよく分かってなかったんじゃないかな。とりあえず、俺がいつも一緒につるんでいたのはここにいる照山とそれに田島、後は寺井に赤松で、そこに俺を入れて五人だった」

 かつやんの四人がけの席につき、海老やホタテの貝柱、豚ロースを大皿で頼み、中等酒を五合頼んだ。酒が先にきて、わいわいやっていたところに田島が早歩きでやってきた。

「待たせたな」

「いや」有川が言った。「いま、陸助の悪口で盛り上がってきたところだ」

「そういや田島も一応、陸助どもに取材してきたんだよな」

「いやあ、あれには参ったぜ」田島は頭をかいた。「剣もほろろでよ」

「さすがのお前でもあれは無理か?」

「まあ、そんなに多くのことが分かったわけではない」田島は照山に言った。「どうもお前の職場を乗っ取った陸助たちは事態の報告を必ず広島に上げているようだぞ」

「どうやってそんなこと調べたんだ?」照山が訊ねた。

「書類を見たのさ」

「見せてくれたのか?」

「いや、見せてはくれなかった」

 有川たちが不思議そうな顔をしていると、田島が言った。

「盗み見したんだよ。書類は俺から十五メートル離れた机の上に放置されていた。だから、絶対誰にも見られないと思っていたんだろうな。他にもいくつかの書類や封筒を見たが、どの書類にも報告先として《陸軍広島特別工兵管区》と明記されていた……ん、どうかしたか?」

「いや。お前、昔からそんなに目が良かったか?」

「いや、昔は両目とも二・〇だったよ。それ以上測る方法がないから、とりあえず二・〇ってことになった。でも、新聞社に入社して、身体測定をやったとき、視力検査係が面白がってね。見えなくなるギリギリまで測ったが結局測りきれなかった」

「じゃあさ、じゃあさ」篠宮が新しいおもちゃをもらった柴犬みたいにわくわくしながら訊いた。「集中したらあそこの飛行船に何が書いてあるのか分かるの?」

 篠宮が指差したその飛行船はテキ屋横町の建物と建物のあいだに挟まれたはるか遠くの夜空を飛んでいた。どうやら宣伝用の飛行船らしく船体をライトアップしているのだが、有川たちにはそれが米粒ほどの大きさにしか見えなかった。

「ライオン歯磨」田島は言い淀まずにすらすら続けた。「船の胴体にそう書いてある。ゴンドラの後部デッキで手すりによりかかって煙草をふかしている船員が二人いる。一人は四十代でごま塩頭、もう一人は二十代で作業帽をかぶってる。あ、煙草の箱が見えた。アハハ、笑っちまうな。二人ともエアーシップを吸ってやがる」

 ぽかんとしている三人に対して、田島は手を左右に振って、場を仕切りなおした。

「まあ、俺の目の話はいいんだ。問題は陸助どもだ」

 有川がこれはまだ内密にしていてほしいと前置きした上で神宮寺がハルビンのロシア人(名前は言わなかった)と武器取引をしていたことを教えた。

「いいぞ!」照山は吼えた。「貸金庫並みの線だ。有川はまだ響子嬢に雇われたままなんだろう?」

「ああ」

「じゃあ、それで行こう」

「そうだ」照山が言った。「きっと武器売買絡みで陸助どもがでしゃばってきたんだ。だが、これはいいぞ。陸軍が捜査するって言っても実際の聞き取りは結局俺たち刑事にふるしかない。情報は端切れになっても集まってくる。そして、全ての端切れが集まってきたそのときこそ、このヤマが誰のものか、きっちり教えてやろうぜ」

「戦いはこれからだ」田島はフフンと笑った。「サツ回りを敵にまわすってのがどういうもんか、陸助どもに教えてやる。捜査機関が陸軍だろうが海軍だろうが大蔵省だろうがサツ回りには知ったこっちゃない。サツ回りはスッポンのごとく事件に食らいつく。陸助のやつらが残業を終えてくたくたになって帰ろうとするまさにそのとき、陸助のやつらが休日を家で過ごしてのんびり碁でも打とうかとしているまさにそのとき、サツ回りの影、常にありだ」

 有川たちは一斉にコップの焼酎をあおった。


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