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三、昭和二十年八月十七日金曜日

 水道橋街塔区のアパートを出て、中央本線に乗って市ヶ谷で降りて、第八階層の事務所があるビルへ。八階ワルツ丸商店街の店はどの店もまだ店を開けておらず、八来軒もまだ閉まっていた。時計を見ると午前八時五十七分。昨夜別れるとき、篠宮には明日午前八時に来いといっておいた。これでたぶん午前九時に篠宮がやってくるだろう。

 事務所に入ると、受付部屋(叔父のころは受付をやる事務員がいたが、今は引退してしまった)を通り抜け、所長室と黒く記されたガラスドアを開けた(所長室とあるが篠宮の机もここにある)。チョコレート色のソフト帽と上着を帽子掛けにひっかけて、ピストルとホルスターをむき出しにした状態で卓上扇風機をつけた。壁の温度計によれば気温は二十七度だったが、ひどく暑かった。有川は隣の部屋につながるドアを見た。まだ整理が終わっていない。そこには資料室という名の大混沌が存在していた。そんなものに一人で刃向かうのは馬鹿げている。書類の整理は篠宮が来てからやればいい。有川はそう思い、まわる扇風機の羽にアーと声をぶつけた。

 そのうちダットサンが走ってくる音が聞こえてきた。篠宮の青いクーペが車庫の前で止まった。普通ならここで篠宮は車庫を開けて、ダットサンを後進させて入庫するのだが、篠宮はダットサンをそのままにしてガレージの横の扉を開け、階段を上ってきた。

 篠宮は受付部屋を通り抜け、所長室に突っ込んできた。

「大変なことになった。警察記事の欄を読んでくれ」

 そういって東京日日新聞を有川の目の前に突き出した。

「警察記事?」有川は手にとると、ろくに読みもせずに記事の末尾に目をやった。そこには幼馴染の政治記者《田島》の名があった。

「田島ぁ?」有川は素っ頓狂な声を上げた。「あいつ、サツ回りに戻ったのかよ!」

「大変なのはそこじゃない。文章を読んでくれってば」

「文章?」

《鮫ヶ淵で発見の他殺体、身元判明》

《今月十五日午後七時ごろ、鮫ヶ淵街塔区第七階層菅野町二丁目で起きた放火事件で見つかった他殺体の身元が、十六日、東京府監察医務院の司法解剖の結果、判明した。被害者は貿易会社経営の実業家神宮寺弘氏(五十二歳)、死因は刃渡り十五センチほどの刃物によって背中から心臓に達する傷を負わされたことが原因と判明している。これに対して、警視庁捜査一課は捜査本部を四谷街塔区第十五層浜島署に設置し、陣頭指揮する宮部警部以下捜査員は万全の体制で捜査に臨むこととなった》

 くそっ。

 こっちが馬鹿面下げて事務所に戻り、その次の日も馬鹿面下げてダンスホールで待っていたあいだに神宮寺弘はもうこの世の人ではなくなっていた。鮫ヶ淵で火事があったなんてことも知らなかったし、社長が二日連続で所在がつかめないと会社側からの話があったのに、こっちはただ馬鹿面を晒していた。

「一課か」有川は新聞を強く握った。「まだ、挽回はできる」

「照山さんに頼むの?」

「このまま何もしないんじゃマヌケが過ぎる。どうせ今は仕事もない。別の仕事が入るまではこの件に関係していようと思う。お前はどうする? これは俺の考えで強制はしない」

「もちろん汚名返上だよ」

「よし、行こう。捜査本部は四谷だ」


 四谷街塔区第十五層浜島署は外周道路沿いに大きく面を取った建物でその道路縁は船体を青く塗った警察用巡航飛行船が三機停まっていた。ダットサン・クーペが警察署の来客用駐車場に入ると、有川と篠宮は署の入口から受付で一課の照山刑事と話したいと言った。

「どちらさまで」受付を担当した署員はうさんくさそうに訊ねた。

「有川と篠宮が来たと伝えてくれれば通じるはずだ」

 署員は内線電話をかけ、すぐに答えが返ってきた。

「三階の捜査本部まで行ってください。入口で照山刑事が待ってます」

 浜島署は大騒ぎだった。靴底がすり減るまで歩き回り聞き込みに徹する私服刑事たちは既に壁に貼り出した鮫ヶ淵の地図(決して正確ではない)や四谷、赤坂に到るまでピンを打ち、受け持ちを決めていた。内務の制服警官も和文タイプライターとタイプ用のロール紙を大量に用意し、大捜査に付き纏う膨大な書類仕事を消化するために万全を尽くしていた。

 一課の捜査本部のある三階の大部屋前には『鮫ヶ淵第七階層実業家放火殺人事件特別捜査本部』と楷書で書かれた半紙が貼り付けられていた。そして、その横で照山刑事が立って、二人を待っていた。

「よお」有川がポケットから手を出して挨拶した。

「おう」照山も同じように挨拶した。照山は柔道五段、剣道六段でがっしりとした体つきの男だが、妙に愛嬌のある顔をしている男で、有川のかなり古い知り合いだった。

「こんにちは、照山さん」篠宮が挨拶した。

「よお、篠宮。久しぶりだな。二人そろって来るってことは今度の事件、因縁ありか?」

 有川は十三日に篠宮が被害者と顔を合わせたこと、身辺警護の依頼を受けるべく十五日に待ち合わせ場所に行ったが遅刻して被害者と会えなかったことを説明した。

 照山は手帳にそれらを書き込みながら、ちょっと眉をあげて、

「で、お前、今度のヤマに興味があるのか?」

「今のところヒマでね」有川は答えた。「それに聞いた話じゃ被害者は十五日の午後遅くに死んだっていうじゃないか。本当なら俺たちは被害者と会って、被害者の身辺警護にあたるはずだったんだが、俺も篠宮も遅刻してな。それで被害者はボディガードなしで殺害現場に向かっていったことになる。それじゃ寝覚めが悪いから、仕事がないあいだはこっちも何かしら調べてみるつもりでいるんだよ」

 分かった、とうなずいた後、自分の知っていることを話した。

「ホトケさんの身元が確認できたのは昨日もだいぶ遅くなってからだ。その少し前に失踪届が被害者の姪と被害者の交際相手から出されている。十五日に何の連絡もなく帰ってこず、会社にもいないので何か事故に巻き込まれたんじゃないかと心配になって失踪届を出したそうだ」

「そのときにはもう神宮寺は殺されていた」

「そういうことになる」照山は言った。「これから府の監察医務院に行くつもりだ。ホトケさんはそこにいる。監察医は佐川博士だ。一緒に行こう」

「俺たちもついていって大丈夫か?」

「宮部警部のことなら大丈夫だ。心配ない」照山は言った。「ちょっと残ってる仕事を片付けたら、すぐに行くから先に飛行船乗り場で待っていてくれ」

 そう言って、捜査本部の大部屋へ戻ろうとしたとき、

「あ、そうだ」

 と、照山は動きを止めて、振り返って訊ねた。

 「田島のこと、聞いたか?」

「新聞で読んだ」有川が答えた。「政治部にいりゃ出世できたのにな。政界にコネができるし、そうなりゃ、いずれは自分が議員さまだ」

「立身出世を棒にふってでもサツ回りでいたいらしい」照山は肩をすくめた。「もう政治家の提灯持ちをやるのも、ありもしないアメリカの戦いをでっち上げるのにもウンザリなんだとさ」

「でも、それなりに役得があったはずだ。サツ回りと言ったら、歩き回るだけで益のない新米に押しつける一番きつい仕事じゃないか」

 有川はため息をついた。田島がサツ回りに戻りたがったのは《事件》の二文字に魅了されているせいだった。そのことについて有川は自分にも責任があるような気がした。

「みんな少年探偵団のせいだ」有川はぼやいた。

「いい思い出だ。名探偵有川順ノ助と少年探偵団。団員バッジもまだ持ってるぜ」照山はそう言って、財布から有川の『A』の字のピンバッジを取り出した。

 有川はやめてくれといった様子で両手を振った。「言っとくがな、叔父さんはその一つ十厘もしないチンケなバッジで俺たちを体のいい使いっ走りにしてたんだぜ」

「それでも楽しかった。それは間違いない」

 照山はそう言い切って、大部屋に消えた。仕方ない。そう思って、有川と篠宮は階段を降りて、入口の扉を開けて、道路を渡った。警察用巡航飛行船二号の乗り場に小柄な男がせわしなく煙草をスパスパやっているのが見えた。

「よお、田島」有川は手を振った。

「こんにちは、田島さん」篠宮が帽子をとって、ぺこりと頭を下げた。

「篠宮も一緒か?」田島は吸っていた煙草を落とし、足で踏み消した。「いい感じに人数が揃ってきたな」

「お前も一緒に行くつもりか?」

「サツ回りはサツにひっついてなんぼの世界だぜ」

 篠宮は有川より背が低かったが、田島はその篠宮より頭一つ低かった。だが、彼は小さい人間にはたくさんのエネルギーがつまっているという持説を掲げていた。かのナポレオンを見よ。彼はチビだったが、ヨーロッパ全土を敵にまわしてあそこまでやってのけた。そんなことを言いながら、いつもすばしこく動いている男だった。有川との付き合いはやはり古く、彼のポケットにも『A』の文字のピンバッジがあった。

 有川は説得するように言った。

「なあ、田島。今からでも遅くないから政治部に戻してもらえよ。そのほうが絶対にいいって」

「そうだな」田島はさも納得したように言った。「政治部の記者になって、やつらの望む記事をでっち上げて、尻尾をふって立憲政友会あたりから出馬して当選。そうしたら政治家として吸える甘い汁を体が破裂するまで吸い上げる。連夜お座敷で芸者を呼んでドンチャン派手に騒いで、飛行船の私航会社に新しい航路獲得の口利きをして袖の下をたっぷりもらい、手柄らしいことは何にもしてないのに金鵄勲章なんて胸に飾って見せびらかして、青山の最上階あたりに堂上華族もびっくりのお屋敷を造り、浅草のレビューガールを妾にして赤坂の二十三階か四階あたりに高級アパートを一部屋買ってやったりして――」ウム、とうなって田島は言った。「素敵な未来だ」

「だろう?」

「だが、赤坂だか青山だかの最上階のお屋敷でその日の朝刊を読む。そして、警察記事を読む。殺人、強盗、誘拐、放火。何でもいい。そいつが年老いた俺をぶちのめす。事件に、サツ回りにこそ俺の本当の生き方があったのだと絶望する。もう取り返しはつかない。結局、俺の血を沸かせるのは事件だけなのだと悟るのさ」

 田島は事件中毒者だった。その目に宿る光は嫁もいらん、家もいらん、地位や富もいらん。ただ一つの事件があればいいという狂信者の光だった。

 事件なんてものはろくなもんじゃないぜ、と有川は説得しようとするが、田島は全く聞き入れず、逆に、

「そうは言うがな、有川。お前だって今、この瞬間、事件に係わり合いになってるじゃないか。俺とお前は同じ立場なのさ」

「俺は職業として私立探偵をやってるんだ。もう脱け出そうとしても脱け出せない。でも、お前は記者なんだから政治部なり経済部なりにいける。お前はその選択肢を蹴ってるんだぜ」

「政治も経済もクソ食らえさ。そんなものはな、舐めろと言われりゃ、政治家の靴の裏まで舐めようとする売文屋どもがやればいい。俺はここで本物の仕事をする」

 有川が反論しようと口を開けたとき、照山がやってきてみなに言った。

「よおし、お嬢さん方。おしゃべりはそのへんにして出発しようや。遺体は文京街塔区の東京府監察医務院にある。それと篠宮は十三日に被害者と実際に顔を合わせてるんだよな? どのみち後で調書を取るが、まあ簡単な話を船の中で聞かせてくれ。段取りがつけやすくなるからな」


 真っ青な警察用巡航飛行船はゆっくり浮かび上がり、そして左右のプロペラがまわり出して、北に針路を取って、前進を開始した。

 エンジン音のうるさい中で照山は篠宮から十三日にあったことを大声で説明し、照山もエンジン音にかき消されないよう大声で質問した。

 有川は窓から外を見ていた。うっすらと不健康な靄の中で、煤けた帝都は北からの風がこの靄を東京湾あたりに押し流してくれるのを待っていた。宮城以外の全ての街塔区が工業都市であるため、帝都の心臓はいつだって不健康なガスによる靄に覆われていた。空は曇りがちで、さらに帝都を覆う靄が手伝って熱がなかなか空に逃げず、帝都はいつまで経っても不快で蒸し暑かった。

 政府発行宝くじの広告飛行船とすれ違うと、市ヶ谷街塔区のてっぺんに小津安二郎監督、池部良と赤松千鶴が出演する最新作「貝殻の唄」の巨大看板がすえつけられているのが見えた。かと思うと、大きな府外向けの旅客飛行船が浮かび上がってきた。その船の客たちは温泉療養や海水浴療法を医師に勧められ、帝都近郊の汚染の激しくない地域へと去っていくのだ。その半分は療養先で死ぬだろう。目を少し落とすと市ヶ谷と四谷を結ぶ高架道路で事故が起きていた。ダットサン・フェートンとトラックの衝突事故で連絡道路が渋滞を起こしていた。

 詩人は謳う。空は無限だ、と。

 だが、実際には空は無限ではない。それどころか、制限と限界の組み合わせがパズルのピースのように組み合わさって空を形成しているのだ。

 例えば街塔区間の交通として鉄道や自動車道路、ロープウェイ、飛行船タクシー、高架水道が張り巡らされているため、府内の飛行船会社が使える航路は限られている。当然、飛行船各社は自分の会社に多くの航路を、できれば利益の大きい航路を割り当ててもらいたい。だが、航路の割当先や新会社設立の許可を握っているのは政治家や官僚であった。すると、熾烈な賄賂戦争が勃発する。府議会議員五人に全部で二十一万円の工作費を渡したとか、飛行省の政務次官に十一万円を渡したといった疑獄事件が絶え間なく明らかになっていくと、やれ政治家にもシカン時代がやってきたとワイワイガヤガヤ囃し出す。篠宮の言ったことは案外間違っていないかもしれない。政治家や高級官僚が贈収賄の容疑で収監されると庶民は大喜びするが、それは正義がなされたことへの賛歌というよりは落ちぶれるものを笑う愉悦といったほうが近かった。シカン時代は庶民も蝕んでいる。

 それなら自分はどうだ? 十五日の遅刻は? 確かに自分一人がいったところで神宮寺の顔を知らないのだから、どうしようもない。だが、そこに油断がなかったと言えるだろうか?

 有川は自分もまたシカン時代の渦中にあると自覚した。それを挽回できるだろうか?

 文京街塔区が見えてきた。目立つのは第十四から第十七階層までに至る東京大学だった。東京大学のある階層だけはその円周に貴重な街路樹を植えていた。だが、第十七階層の一部には街路樹が植えられていない区画がある。

 そこが東京府監察医務院だった。

 飛行船発着場に降りると、長身でぼさぼさした白髪頭と口髭が似合う初老の男――佐川監察医が煙草を片手に白衣を着て、有川たちを待っていた。

「おやおや」有川と田島の姿に気づくと、佐川監察医がにやにやして言った。「少年探偵団の復活か」

「そんなとこですよ」照山が答えた。

「本来なら部外者の立ち入りは禁止だが――」佐川監察医は有川たちを見て、白い無精ひげが散った顎を撫でながら言った。「私も最近になって、ルールは破るためにあると思い知らされたところだ。いっしょに来たまえ」

「何かあったんですか?」

「別に」佐川監察医は肩をすくめ、煙草を踏み消した。「医務院の分からず屋どもが幹部会議を牛耳って、こっちの意見をろくに聴きもせずに、院内禁煙を決めただけさ」

 佐川監察医を先頭に照山、有川、田島が並び、そして篠宮が殿を務める形で五人は監察医務院の解剖室へと進んだ。消毒薬の臭いが立ち込め、医者も職員もみな伏し目がちに動く。医務院は静かで音といえば、通信室のテレタイプが変死体発見を報ずるときに発するカタカタという音くらいのものだった。

「昭和十八年の法改正からこのかた――」佐川監察医は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、廊下を歩いていた。「監察医務院は検案と行政解剖に加えて、これまで大学の医学部にまわされていた司法解剖までこなすようになった。ところが、仕事は増えたのに人員はまったく増えていない。そして、給料も増えていない」佐川監察医は左手で白髪頭をくしゃくしゃにしてから頭を振った。「この措置はおそらく上の連中が現場の検視から司法解剖までを一つの組織に一本化しようと考えた末のことなのだろうが、その結果、監察医務院は破綻寸前だ。人員を増やすか、仕事を減らすかせねばならん。例えば、行政解剖を大学に割り振るとか」

 佐川監察医は右手をポケットから出した。その手にはぺしゃんこになったゴールデンバットの箱。最後の一本を口にくわえると、監察医は《院内禁煙》と印刷された張り紙でマッチをすった。

「そもそも法医学に特化した公的機関をつくろうという考え方が馬鹿げているのだよ。法医学は学生に人気がないんだ」マッチの燃えかすをバットの空き箱にねじ込んでポケットに入れながら、監察医は是非もなしと言った具合に頭を振った。「他の医学を修めた学生たちが社会に出て大病院や独立した医院で荒稼ぎするのに対して、法医学を学んだ学生に待っているのはスズメの涙ほどの俸給のみだ。法医学の博士号を取った秀才の行き先は監察医しかない。そして、私たち監察医はしがない公務員に過ぎない。通常の医学と法医学は、苦労は同じなのに報酬は段違い。労多くして功少なし。この有り様で、医学部に入学した若者たちは法医学を学びたいと思うだろうか」

 佐川監察医は蒸気船のようにぷかぷか煙をふかしながら、通りがかりの同僚や事務員に「よう」とか「おう」などと挨拶している。見たところ、佐川監察医の行動を注意しようとする医者や事務員はいないようだった。佐川監察医の愛煙ぶりは有名で、もしチェリーやスターを同じ調子で呑んでいたら、間違いなく一ヶ月で身代をつぶすとまで言われていた。

「おまけに致命的なのは」佐川監察医は続けた。「法医学は感謝されるための医学ではないということだ。外科医なり内科医なりなら病気を治していただいてありがとうございましたといって患者とその家族は頭を下げてハラハラと涙を流すだろうが、それに引き換え監察医はどうだ? 死後数ヶ月経ってぶよぶよに脹らんだ腐乱死体だの機関車と正面からぶつかってぐちゃぐちゃになった轢死体だのを切開して隅々まで調べまわしても誰も礼を言わん。感謝の言葉を目当てとするなら、監察医は間違いなくやりがいのない仕事だ」

 佐川監察医は煙草を肉厚な観葉植物の葉に押しつけて、植木鉢の中に吸殻を捨てた。植物の葉には同じような痕がいくつも残り、植木鉢の土の上にはへし折れた吸殻が十五、六個転がっていた。

「それでも博士は監察医になったんですね」有川が言った。

 佐川監察医は振り返って、にやりと笑った。「医師としての道を決めるここぞというとき、ニコチンが脳みそにまでまわって頭がおかしくなっていたのさ。さあ、ここだ」

 丸いガラス窓がついたステンレス製の扉を開けると、そこは解剖室だった。佐川監察医がスイッチを弾いて、電気がついた。壁は腰までの高さに薄緑色のタイルを張り、そこから上は白い漆喰で出来ていて、部屋全体を照らす電球の他に、傘つきの電球が二つずつ検視台を強く照らすために天井から垂れていた。

 ステンレス製の担架のように細長い台が一つ、そこまで長くない台が二つあった。一つ目は切開済みの黒焦げ死体が、二つ目には摘出した臓器が、三つ目は黒焦げの遺留品が並べてあった。

「さて、こちらがホトケさんだ」佐川監察医は一度両手で拝んでから説明を続けた。「もう諸君の知っている情報とかぶるかもしれないが、一応最初から説明しておこう。まず、私は現場で見た遺体の状況から、被害者が焼死したのではないと判断した。ホトケさんの見つかった物置は確かにごちゃごちゃしていたが、生きたまま火をつけられた男が暴れまわったにしてはきれいだった。また、被害者は仰向けの状態で見つかったが、ひっくり返したら、背中に刺し傷があったんで、ここに持ち込んで解剖に処した。摘出した臓器の数々が死後炎上説を裏付けてくれたよ。ホトケさん相当呑むほうだったらしく(そう言いながら佐川監察医は煙草を吸う真似をした)、このとおり肺は真っ黒だった。だが、煤は検出されなかったよ。焼かれたのは間違いなく死んだ後だな。肝臓や血液を調べたが、睡眠薬や毒物の類は検出されなかった。胃の中の内容物は非常に少なく、消化の具合から推測すると朝にパンのようなものを一切れ食べただけだろう。後はコーヒーがかなりとビール少しにピーナッツくらい。よっぽど食欲がなかったんだろうな。さて、死亡推定時刻は午後六時から七時のあいだ、死因は背後から心臓への一突きでほぼ即死だ。刃渡り十五センチほどのナイフのようなものが凶器と見てよい」

 佐川監察医がため息をついた。

「さっきも言ったとおり私は現場を見た。ホトケの倒れていた物置部屋のすぐそばには水面までぶちぬかれた吹き抜けがあって、堀から流れ込んだ水が大きな池を作っているのを簡単に見下ろすことができた。鮫ヶ淵はそうなんだ。どん底に水がある。おそらく凶器はそこで捨てられただろう。潜水士を使って苦労して底をさらったところで凶器から指紋は出んだろうな。労多くして功少なし」

 有川は遺体の顔を指差して訊ねた。

「この顔や胸に黒くへばりついたベトベトは?」

「焼けたゴムだ。おそらくレインコート」

「あの日、雨が降る気配はなかった」照山が言った。「犯人はこれを着て、返り血対策をしたんだろう。一応、現場で見つかった犯人の遺留品だ。しかし、返り血対策までしたとは計画性が高い。ガソリンも前もって用意していた可能性が高いな」

「よっぽどうまく隠したんでしょうね」篠宮が言った。「ガソリンなんて換金しやすいもの、ほっぽっといたら、あそこじゃすぐ盗まれるでしょ?」

「ガソリンをどう用意したのか分からんが」佐川監察医は口髭の端をつまみながら言った。「最大の謎はなぜ死体を焼いたかだ」

「というと?」

「こういっちゃ何だがホトケさんは半焼けの状態で発見された」

「半焼け?」

「カツオのタタキみたいにな。ほれ、ホトケの内側は焦げずにきれいなもんだろう? 放火から発見までが割りとすぐだったし、火も住人の手ですぐに消し止められた。実に効率的な消火作業だったそうだ。鮫ヶ淵は最低の連中が住む町だが、最低には最低なりの連帯意識がある」

「身元の確認のために必要な指紋はホトケから取れたんですか?」

「難しかったが、不可能ではなかった。一本だけ左手の小指だけがさほど火傷していなかった。これなら後は簡単だ。昭和十五年以降に運転免許証を取得するもの、もしくは更新するものは指紋を採取することを義務づけられている。件の神宮寺氏は昭和十八年五月二十日に運転免許証を更新し、指紋を登録している。一致したよ。それに歯医者の治療跡でも割り出せたし、神宮寺弘と印刷された名刺五十枚ほどが入った名刺入れがこれまた奥まで焼けずに判読可能な名刺を多数残した状態で発見された。一応、この後すぐに親族や知人に遺体を見せて確認を取ってもらう予定だが、まあ顔の火傷はひどいし、溶けたゴムがこびりついていて、判別は無理だろう。でも、このホトケが神宮寺弘であることは間違いない。もし、ホトケの身元をごまかすために火をつけたとするなら、犯人には落第点をくれてやらねばいかん。では、この場合、犯人はどうすればよかったか?」

「はい、先生」篠宮が手を挙げた。「指を大型ペンチで全部切り落として犬に食べさせるなりして処分させます。それから死体の口にありったけの銃弾を詰め込んでから唇を縫い合わせて、それからガソリンをかけて火をつけます」

「それで指紋と歯の治療跡を追えなくなるからな。ふむ、文句なし。及第点を与えよう」

「被害者の所持品で鮫ヶ淵の住人に盗まれたものとかはなかったんですか?」有川が訊ねた。

「それが当日、鮫ヶ淵では救世軍婦人会が貧民向けの炊き出しをやっていてね。それに同行していた護衛役の警察官たちが現場保存に努めたおかげで、所持品はまるまる残っていると言っていいと思う。犯人が持ち去ったものがないかぎりの話だがね……おっと、いかん。私としたことが重要なことを忘れていた」

 佐川監察医はその場を離れると、いそいそとガラス張りの木製薬品棚のほうに歩いていった。十個以上の鍵をぶら下げた鍵束から一つ小さな鍵を選んで、薬品棚の扉を開けた。監察医は薬品の瓶が並んだ棚の一番端に寄せられたカーキ色の紙包みを手に取った。紙包みはちょうど贈答用の羊羹くらいの大きさだった。佐川監察医は包み紙をビリビリ破ると中からゴールデンバットの箱と同じくらいの大きさのものを二つ――というよりはゴールデンバットそのものを二つ取り出して、白衣のポケットの左右に一つずつ入れた。

「さて、話を続けよう」両ポケットに手を突っ込んだまま、佐川監察医は戻ってきた。「このように半焼けの状態で発見された被害者だが、犯人は彼を焼くのに実に念を入れているのが分かる。犯人はまず仰向けにした遺体に満遍なくガソリンをかけ、その上にレインコートをかぶせてまたおそらくガソリンをかけた。そして、一体なんのつもりか分からないが、被害者の所持品である財布、腕時計、手帳、名刺入れ、ライター、煙草、それに二十六年式拳銃一丁をまとめて、被害者の胸部と腹部の上に置き、おそらく念入りにガソリンをかけている。火をつけたのはそれからだ」

「被害者は銃を所持していたのか?」田島はしきりにメモしていた手を止めて、目線を手帳から照山に移した。

「今朝、内務省の関係当局に問い合わせて確認したが――」照山が言った。「ホトケさんの拳銃携帯許可証は先月末に申請されてまだ審議中、交付はされていない。つまり不法所持ということになる。ちなみに弾は入ってなかった。おそらく犯人は銃を燃やすことによって弾薬が暴発し、大きな音を立てるのを危惧したんだろう。たぶん弾も池の底だな」

「労多くして功少なし、か」有川が言った。

「そういうことだ」いつの間にか煙草をくわえていた佐川監察医が相槌を打った。

「弾だけ池に捨てて、銃は焼く。犯人のしたいことがさっぱり読めない。さて残りの所持品についてだが、財布からは上半分が焼けた五円札が十二枚、一円札が三枚」照山が報告書を読み上げた。「それに小銭少々。これだけあれば、本場英国製の生地をふんだんに使った三つ揃いの背広を一着仕立てられるぞ」

「つまり物盗りの線はない、と」

「驚きだね」篠宮が言った。「鮫ヶ淵で物盗り以外の殺人事件が起こるなんて」

「いや、そうでもないぞ、篠宮」田島が言った。「痴情のもつれもかなりある。ヒモが街娼を刺したり、その逆もしかり」

「ちょっと話を戻すぞ」照山が言った。「さっき犯人の行動がさっぱり読めんといったが、あれはちょっと大げさだった。実はまったく読めないわけではないんだ。被害者の所持品に注目してくれ」

焼け焦げた財布、焼け焦げた二十六年式拳銃、焼け焦げた名刺入れ、焼け焦げた煙草の箱がステンレス製のテーブルの上に番号付きで並んでいた。

「鍵がないな」有川が言った。

「ご名答」照山が言った。「そうなんだ。鍵がないんだよ。家の鍵も車の鍵もまとめてなくなっている。名刺入れだの不法所持の拳銃だのはご丁寧に遺体の上に置いていったくせに鍵だけはしっかりなくなっている。すると、犯人の動機は神宮寺氏から鍵を奪うことであった可能性が高くなる。そう、例えば――」

「例えば金庫の鍵とか?」篠宮が言った。

「その可能性が一番高い。一課は令状を取り次第、神宮寺氏の家と会社の金庫を捜索する予定だ。それに各銀行の貸金庫で神宮寺弘名義で借りているものがないか調べる。ただ警察がこのホトケの身元を確認したのは十六日だ。十五日に被害者を殺した犯人はすでに銀行へ向かい、偽造書類を使って神宮寺その人か、あるいは公定代理人になりすまし、貸金庫の鍵を使って、必要なものを取り出している可能性が高い。だが、それでもやらないよりはマシだ。神宮寺の貸金庫をいじったやつがいたのなら、行員たちも顔や姿を見ているはず。一課はこの金庫の線に賭けている」

「もし神宮寺氏がヤミ金庫を使っていた場合は?」篠宮が言った。「可能性として考えられるでしょ?」

「そのときは――」照山は両の手のひらを上に向けてオケラの真似をした。「お手上げだ。とてもじゃないが捜査し切れない。捜査員を千名動員しても無理だ。どの街塔区の奥にもヤミ金庫屋が数十店はあるといわれている。全部を調べるのは無理だ」

「でも、貸金庫の線はいいと思うぞ。調べりゃ、そのうちいくつか絞れる要素が出てくるさ」田島は手帳にメモをしながら言い、手帳から目を上げずに訊ねた。「ところで目撃者はいないのかい?」

 照山は首を左右に振った。

「なしだ。この場合、同じ階で炊き出しをしていたのが致命的だったな。住民全員が給食所に集まっているから、犯人は誰にも見られず、あの階を移動できた。上の階も下の階も自由に行けただろうな。単純に考えればホトケさんがやられたとき、あの階層にいたやつ全員が容疑者ってことになるが、もう少し絞らんといけない。ただ、鮫ヶ淵だからな。まず警察に協力なんてしないだろう」

「生前の被害者を鮫ヶ淵で見たものは?」

「それもいない」

「あの階層で炊き出しをするとあらかじめ知っていた人物は?」有川が訊ねた。

「わかるよ、有川」照山が疲れたように目頭を押さえ、ふうっと息を吹いた。「俺も同じこと考えた。つまり、ホシは事前に炊き出しのあることを知っていた。住人は豚汁に夢中で不審者なんて見ちゃいない。それは犯人にとって好都合だ。人目を気にせず自由に動ける。だから、ホシはその日を神宮寺殺しの日に決めた。そう考えたいところだが、さらにちょっと考えればそれは無理だとすぐ分かる。炊き出しをするんなら当然該当する区域の住人に宣伝するはずだからな。あの日あの場所で炊き出しが行われることを知っていた人間は大勢いる。数えていないが、とにかく大勢なのは間違いない。炊き出しは十日前から鮫ヶ淵街塔区中に知らされていた。他の街塔区の貧民まで食べに来たくらいだ! もっと人数を絞れる要素がないとこの線じゃ追えんよ」

「炊き出しの利用者はとにかく、救世軍婦人会のほうはとりあえず会うことができる」有川は言った。「俺はこの線を少し追ってみたい」

「あまり得るものは少ないと思うがね」照山は言った。

「しょうがない」有川はメモを取りながら言った。「貸金庫という一番の線はおたくら本職が握っているんだ。しがない私立探偵は二番目の線を追うしかないじゃないか」

「まあ、宮部警部も一番の線をこちらで抑えているとわかっているから、探偵とか新聞記者といった部外者にもある程度は寛大になれるはずだ」

「他にあるかね?」佐川監察医が訊ねた。

 篠宮が言った。「神宮寺氏はその物置部屋で殺されたんですか? どこか余所から移動された可能性はないんですか?」

「ああ、それについては――」照山は苦そうな顔をして、佐川監察医と目を合わせてから、うなづいて言った。「難しい。完全に否定はできない。さっきも言ったとおり、現場じゃ炊き出しの真っ最中。そして、鮫ヶ淵には人一人隠して殺せる秘密の部屋があちこちにある。死因は心臓への一突きとなっているが、このナイフを刺したままにして、ゴム引き布で二重か三重にしてホトケさんを包めば、途中で誰にも見られず、血痕も残さずに殺害現場から発見現場へと運ぶことも不可能ではない。まあ、この場合は犯人が複数であることが前提条件だがな」

「それにたとえ、血痕が発見されたとしても――」佐川監察医が会話を引き取り、首を振った。「それが犯人によって移動中の被害者から漏れたものだとどうして断定できる? 鮫ヶ淵じゃ流血沙汰は日常茶飯事だ」

 監察医が照山に視線をふったので、照山は手帳を取り出して読み上げた。

「調べてみたが、事件の前日、あの階層で酔っ払い二人が割れた瓶でお互いを突き刺し、救貧病院で治療を受けていることが分かった。さらに三日前にはまたあの階層で追い剥ぎがあって、住民が鉄管で頭を殴られて、十銭玉一枚の入った巾着袋を奪われている。これも出血ものの怪我だった。そして、極めつけがこれ。一週間前にやはりあの階層で、田島の言うところの痴情のもつれがあってな、二人の淫売が出刃包丁で自分たちのヒモを刺した。このヒモ野郎は二度ほど軽く突っかれただけなのにこの世の終わりがやってきたみたいに大騒ぎしながら、淫売二人の振り回すヤッパをかいくぐって、あちこち逃げまわった。さぞ盛大に血痕を残してくれたことだろう。そして、注意すべきなのは、これらの事件は氷山の一角であって、実際にはさらなる暴力事件があの階層で発生しただろうということだ」

「つまり、血痕が見つかったからといって、殺害現場が別の場所だとは確定できないってことか」

「あらゆる可能性を考えて動かなければいけないが、可能性は無限大だ。その点を考えると、貸金庫の線はまさに蜘蛛の糸に見える。もし犯人がまだ貸金庫に手をつけていなければ、張り込んでしょっぴくことも可能だ。持ち物のなかで他に質問はあるか?」

「手帳はどうだ?」

「手帳は持ち物の中でも燃焼が一番ひどくて、ほとんど読めない。いくつかの商談に関する覚え書きが数ヶ所、それと『赤坂十五階 男爵』という記述が一ヶ月半前から三箇所。それ以上のことは分からん。

 有川は考えた。赤坂街塔区の第十五階層といえば、白系露人の街だ。男爵があだ名だけか、それともかつての帝政ロシアで本物の男爵だったのかは分からない。

 有川には白系露人の町に詳しい知り合いがいた。救世軍婦人会や鮫ヶ淵をあたってから、そっちを調べてみるのもいいかもしれないな。

 ポルフィリーエフ! そう書きなぐって、有川はパチンと手帳を閉じた。


 篠宮の調書が取り終わり、二人が浜島署の入口を出たとき、時間は午後五時五分前だった。

「さて、どうしたもんか」暮れそうな空を見ながら、有川は背を伸ばして体の凝りをほぐそうとした。

「事務所に戻る?」

「当座できることはそんなところだな」

 市ヶ谷街塔区の第八階層まで戻り、八階ワルツ丸商店街の角を左へ曲がろうとしたとき、歩道にいる老人が手を振ってきた。篠宮はブレーキを踏んで、車を止めた。ひょこひょこ寄ってきたのは館林博士だった。

「やあやあ、お二方」館林博士はステッキを持った手で山高帽をちょこっと上げて挨拶した。「ご機嫌いかがかな?」

「どうしたんですか?」助手席の有川が訊ねた。

「なに、暮れていく空を眺めながら、意見の相違がもたらす非建設的な騒擾を未然に回避するにはどうすればいいか思考を巡らせていたところでね」博士は八来軒をステッキで指した。老婆が小さな腰掛けに座り、いずれ帰ってくるであろう館林博士を捕まえんとして陣取っていた。「その騒擾を回避する手段はダットサン・クーペの後部座席にあるという結論に今至ったところなのだ」

 まあ、困ったときはお互いさま、よろしく頼むよ、ということなのだろう。一応、車の持ち主にお伺いを立てたところ、篠宮は快く協力を約束してくれたので、館林博士はクーペの後部座席に身を伏せて、八来軒の老婆の哨戒線を突破して、車庫に到着することができた。

「いやあ、ありがとう。ありがとう」車庫の扉が閉まると、博士は後部座席からもぞもぞ這い出しながら礼を言った。「仮にもエネルギー研究所の所長を名乗る人間があんな老婆相手にエネルギーを無駄に費消していたのでは示しがつかないのでね。本当に助かったよ」

「でも、今度家賃を入れなかったら追い出すって言ってましたよ」

「なに、そんなこと、ただのおどしだよ。この商店街の、外周道路からわずか二軒離れただけの場所にある風通しのいいアパートでさえ空き部屋のままになっているんだ。より奥に引っこんだ、こんな場末の、おまけにケチな支那ソバを出すケチな老婆がいる物件に借り手がつくわけがない。それに私だって、三ヶ月に一回くらいはきちんと家賃を納めている。あの老婆にできるのは噛みつくくらいのことだけだ」

「まるでピラニアですね」篠宮が言った。

「そのとおり」博士が笑いながら言った。「実にいいセンスだ。篠宮くん。まさにピラニアだよ。しかし、東京というのは人情に欠けた街だねえ。大家が特にひどい、私が学生だった時分、ベルリン大学に籍を置いていたころ、下宿屋の女将は家賃を半年でも一年でも待ってくれたものだ。ああ、若き日々、愛しのベルリン」

 ゲッ。有川と篠宮はお互いを見やって苦笑いのようなものを口の端に寄せた――また始まった。館林博士の言うことを信じるならば、博士は一九〇〇年二十歳のときから、ドイツへ官費留学して、物理だか化学だかの博士号を修めたというのだ。そして、やたらとベルリンを誉めちぎる。有川と篠宮は眉につばして、年寄りの無害なほら話だと思いながら、好意的な相づちを適当に打ち、博士のベルリン談義を聞き流した。

「ティアガルデンやアレクサンダー広場はまだ残っているのだろうか? ポツダム広場のカフェ・ヨスティは? ウンター・デン・リンデンのカフェ・バウワーは? ブランデンブルク門をどうするつもりだ? ヒトラーめ、あいつが、あの芸術家気取りの極道者が私のベルリンをすっかりご破算にしてゲルマニアという醜悪な上塗りを施した。ベルリンは永遠に失われてしまったのだ。最悪だよ」

 館林博士はベルリンについて一通り嘆きつくすと、じゃあ、さようなら、この恩はいつか返すから私が必要なときはいつでも声をかけてくれ、と言いながら、階段を上っていった。

 事務所に戻り、所長室でそれぞれの椅子に腰掛けた。

 疲れた。

 だが、資料室のドアは開きっぱなしで、そこが依然として紙で創られた混沌に支配されているのが見える。

 整理しなければいけないのは間違いない。

 だが、どうにもやる気が出なかった。もし館林博士が調べれば、警察の調書とエネルギーのあいだには何らかの相関関係が見つかるかもしれない。警察の調書には人間のエネルギーを吸い取る性質があるのだ。同じ質問を繰り返し訊かれたり、細かいところまで突っついたり、それで調書が取り終わるとようやく自由の身なのだが、調書を取る以前に有していたあのエネルギーが雲散霧消し、現在の二人のように倦怠感を覚え、何らかの行動を発起することができなくなるのだ。

 その結果、人間は楽なほうに流れていこうとする。何構うものか。どうせ俺たちはシカン時代の人間だ。まず、篠宮がゆっくり立ち上がると、資料室のドアを閉めてこの小さな世界から見たくないものを追い出した。続いて、有川が書類棚の下の引き戸を開けて、一升一円九十銭の並等酒が半分ほど残っている一升瓶を取り出した。篠宮は湯のみを二つ用意した。有川は去年、種田弁護士からもらったお中元の有明海苔を取り出した。それからいくら探しても見つからないので、二人はやむなく資料室の封印を解き、部屋に立ち入ると、散らばったままの書類を目にしないよう注意しつつ、引き出しからアルコールランプを取り出し、資料室を再度封印した。

 二人は酒を湯のみに注ぐと、アルコールランプをつけて、その火で去年の海苔をあぶった。すると、これが大変香ばしくなるので、安酒が大いに進んだ。日が暮れて、商店街は黄色い電気の光によって照らされると食欲が出てきたが、あぶった海苔がそれを満たしてくれる。もう少し何かないかなと篠宮はお茶の葉がある棚を探すと、畳いわしが出てきた。こりゃ最高だな、と二人はアルコールランプで畳いわしを軽くあぶってはその香を楽しみ、かみついた。

 呼び出しブザーが鳴ったのはそんなときだった。篠宮はほろ酔いで立ち上がって、誰が来たのか賭けをしようと言い出した。

「館林博士に畳いわし一枚」

「じゃあ、俺は八来軒のばあさんに有明海苔二枚だ」

「よし、いくよ。それっ――」

 篠宮は勢いよくドアを開けた。


 その少女は響子・アントーノヴナ・ポクロフスカヤと名乗った。歳は十八。父はロシア人、母は日本人だった。ここに来たのは、照山刑事の勧めだと言った。今日の午後、彼女は監察医務院で自分の保護者である母方の叔父の遺体を見せられた。

「それが叔父であるとは到底信じられなかったのですが、司法解剖の結果がその焼けた遺体が私の叔父であるということは間違いないと言われました。遺体確認は叔父が結婚を前提に交際している高階のおばさまと行きました。高階のおばさまは涙を流しましたが、私は泣けませんでした。私は薄情なのでしょうか?」

「いえ」篠宮が言った。「変わりすぎた現実に追いつけず、実感がまだ湧かないだけです。ご自分をそんなふうに追い込むべきではありません」

「そうですか」

 響子・ポクロフスカヤは、そう言って数秒目線を伏せてから、

「照山という刑事さんがあなたのことを教えてくれました」有川にそう言った。「あの名探偵有川順ノ助の甥だって――」

「俺は叔父とは違います」有川は首を左右に振った。

「照山さんもそうおっしゃいました。有川正樹は有川順ノ助ではない。でも、探偵として決して無能じゃないし、困っている人を見過ごしたりしない信用のできる探偵さんだと教えてくれました」

 照山め、こんな少女相手にむごいことをする。心の中でそう思いながら、有川は目の前の日本人離れした容姿の少女の相手をしなければいけなかった。

「正直に言いましょう」有川はふうっとため息をついて言った。「俺たち私立探偵はそんな立派な生き物じゃありません。浮気調査とか基本的に他人の不幸を食い物にした仕事が多いんです。俺たちに限って言うならば、ずばりマヌケです。つい今さっきまでだって俺とこの篠宮はアルコールランプであぶった海苔をツマミに安酒をあおっていました。あなたが来たので大急ぎで一切合財を俺のテーブルの下に隠したんですよ。馬鹿な探偵でしょう? そして、何より重大なのは俺たちは――」

「遅刻したことについても照山さんから伺いました」響子は静かな声で言った。「行き違いになったってことも知っています。でも、私はあなたたちに仕事をお頼みしたいのです。叔父が生前に信頼した人物ならきっと叔父の無念を晴らしてくれる。私はそう信じています。有川さんと篠宮さんが叔父の捜査に関わるのは別の仕事が入るまでだとおっしゃったそうですね? でしたら、私が正式に依頼します。叔父を殺した犯人をどうか捕まえてください」

 真剣な少女の眼差しを浴びながら、有川は不思議なことに昨日、篠宮から言われたことを実践していた。つまり、来ているものを観察したのだ。青っぽい半袖の花柄のシルクのブラウスで胸元にトルコ石のブローチ、紺のスカート、ストッキング、黒いかかとの低い靴。

 有川は服装に関する観察がただの現実逃避に過ぎないとしてこれを捨てて、少女の扱いを真剣に考えた。この少女にもっと有能な探偵や大規模な興信所を紹介してそこに投げることもできた。そもそも探偵を雇わないほうがいいと忠告することもできた。おそらく警察が握っている貸金庫の線で今回の犯人は挙がる。そうなれば、金をドブに捨てるようなものだ。

 だが、その一方、彼女を見ていると、自分で捜査をしたいと思う。篠宮が悪魔の相貌なら、響子は天使の相貌だった。響子を見ているとこれは依頼じゃない、贖罪の機会なのだ、と考える自分がいた。

 響子は当座のお金として五百円を用意してきた、といって、実際に札束を置いた。

「足りなくなったらまた言ってください。持ってきます」

 また持ってくるのは無理だろう。たぶんこの五百円が彼女の出せる最高額だ。

「わかりました」と、有川は言った。「お受けします。結果のご報告はいつ上げれば?」

「しばらくは葬儀で忙しいので、第一回目の報告は二十日の日曜日に。少し遅くなりますが、夕方ごろにこちらから事務所に参ります。よろしいですか?」

「わかりました。きちんとした報告書を上げるのはもう少し後になりますが、二十日までにはこちらで調査した結果、判明したことの詳細を上げます」

「よろしくお願いします」

 響子は席を立った。篠宮がドアを開けて出口まで案内した。

 もう海苔をあぶる気分が失せた。有川は窓辺に立つと、響子が橋を渡って黄色い光に溢れた商店街へと消えていくのを見守った。

「ハキハキしたお嬢さんだったね」篠宮が言った。「芯がある強い女性だ」

「そうだな」有川が言った。「シカン時代には珍しい」

 響子が帰って十五分ほど経って、またブザーが鳴った。

「賭ける?」と、篠宮。

「いや、もういい」

 篠宮がドアを開けた。

 四十代後半の着物姿の女性が立っていた。美人で凛としていて、見ていると規律と服従を思い出させる、音楽教師みたいな女性だ。

「勘違いでしたら、ごめんなさい」音楽教師のような女性が訊ねた。「こちらに響子・ポクロフスカヤという名前の女性が来たと思うのですが?」

「どちらさまで?」有川は立ち上がって訊ねた。

「高階雅美と申します」高階婦人は礼をして言った。「神宮寺の知人です」

 奥へ案内すると、高階婦人は言った。

「先ほど知人と申しましたが、私、あの方とは結婚を前提にお付き合いしていました」

「はあ」有川はちょっと探るように言った。「どのような御用でしょう?」響子の依頼で調べたことを自分にも教えろという要求だったら、はっきり断らなければいけない。

「探偵の方々は依頼と依頼人について黙秘しなければいけないことは存じ上げております。私のお願いはそうではなくて、調査料のことです」

「調査料のこと?」

「響子さんがいくら払ったかは存じませんが、そのお金には手をつけないでいて欲しいのです。事件が解決した折には十円くらい引いた状態で残りは不要だったということにして依頼料を返してあげてほしいのです。もちろん、実際に捜査することで発生する料金や経費は私が全て払います。超過分のお金が必要になったら、響子さんではなくてこの番地かこの番号に電話してください。すぐに必要なだけお支払いします」

 高階婦人のメモには青山街塔区第二十三階層の青山一丁目の番地と四桁の電話番号が書いてあった。青山のてっぺん、最高級住宅街だ。

それで有川はピンときた。高階婦人は高階商店と関係がある。だから、依頼料を代わりに支払うなんて芸当ができるのだ。

「依頼料は肩代わりするけれど、報告は入れなくてもいい。そういうことですね」

「はい」

「わかりませんね」有川はテーブルの上の鉛筆を転がしながら言った。「あなたと響子嬢との間に血縁関係はない。そうですよね?」

「血縁関係はありませんし、あの人と響子さんは親子ではなく、叔父と姪の関係でした――でも、私たちは幸せでした」高階婦人はあくまで静かにしかし力を込めて言った。「本物の家族のようでした。私は子どもを産めない体です。先の結婚でそれが判明しました。あの方はそれでも構わない、私とあの人、それに響子さんの三人で誰よりも幸せに暮らそうとおっしゃったのです。それを――」

 高階婦人は言葉を止めた。手にしたバッグを爪が食い込むほど握りしめていた。表情こそ崩さなかったが、右目から涙が一筋流れ落ちた。篠宮がハンカチを貸すと、ごめんなさい、と言って涙を拭った。

「わかりました」有川は言った。「事件が解決したら響子嬢には預かったお金から十円と五、六十銭抜いた状態でお返しします。特別扱いされて情をかけられたと不快に思われないよう配慮しましょう」

「そうしてあげてください。それと響子さんは今、青山の私の家に一緒に住んでいます。響子さんの家は警察がしばらくは家宅捜索を行うそうですし、大きな家に響子さんが一人住むのは寂しいだろうと思って。ですから、青山のほうに一緒に住むことにしたんです。超過金の請求の際は響子さんに見つからないようお願いします」

「わかりました」

 有川は立ち去ろうとする高階婦人を呼びとめた。

「すいません。これは念のため訊くのですが……神宮寺氏が殺害された十五日の午後六時から七時までのあいだ、あなたはどこにいましたか?」

「鮫ヶ淵の第七階層にいました」

「炊き出しですか?」

「はい」

「すいませんね。嫌な質問をして。これも仕事のうちなので」

「いえ、いいんです。私もはやく犯人が捕まることを祈っています」

 また篠宮の案内で出口へ向かう高階婦人が足を止めると、誰に向けて言うわけでもなくつぶやいた。

「あんなことができる人は――とても、とても残忍な人です」


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