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二、昭和二十年八月十六日木曜日

 有川探偵事務所は市ヶ谷街塔区の第八階層にあった。市ヶ谷の最上階が二十三階であることから考えると、有川探偵事務所は下の階から数えたほうがはやい場所にあるということになる。飛行船タクシーの発着場になっている街塔区周縁部の道路から街塔区の奥へと通じる道へ曲がる。そして、そのトンネルみたいな通り――八階ワルツ丸商店街はどの街塔区内部にも見られるとおり、薄暗い。

 明かりは全て夕暮れの後からつけられる。ランタンやガス、アセチレン灯、電気など人の手による光のせいで、街の全てが黄色みがかって見える。こうした色合いの光の中でトンカツや鶏のから揚げを見せられると、とてもうまそうに見えるものだ。

 だが、それは夜の話である。昼間であれば吹き抜けの穴も多少はあるので多少薄暗い程度、電気によるライトなしでも不便なく暮らせる。そんな八階ワルツ丸商店街には煙管屋、売卜者、代書人、黒焼き屋、英会話速成法教授塾、マムシ酒専門店、インチキ漢方医など一筋縄ではいかない人々が暮らし、店を開いている。

 彼らの店を無視して、そのまま前進すると高架水道をまたぐ橋を渡ることになる。橋の下を時おり水上バスが通り過ぎていく。その橋を渡った先、もう一つの橋の袂にある、その三階建ての建物の二階に有川探偵事務所があった。一階には八来軒があった。

 八来軒というのはこの三階建ての持ち主、つまり大家である。また八来軒は薄く切ったナルト一枚、元気のない支那竹二本、それに豚肉の端を削ったようなものを入れてチャーシューと言い張る支那ソバ屋でもあった。その商魂のたくましさを見る度に有川は、叔父の順ノ助がきちんと法に則った形で事務所、車庫を含む不動産を正式に有川正樹に譲渡してくれたことを心から感謝するのだった。事務所が賃貸ではなく、買い取りでよかった。

 さもなくば三階にある館林エネルギー研究所の所長館林博士のような目に遭う。 毎月月末の家賃の日が近づくごとに八来軒のばあさんに払え払えと責め立てられるのだ。階段の踊り場から八来軒の老婆と館林博士、二人の年寄りの家賃をめぐる醜くも甲高い声がよく聞こえてくる。館林博士は物理だか化学だかの博士号を取っているらしく(本人の話ではドイツの大学で取ったとか)、新時代のエネルギーを獲得する方法を見つけると称して、日々怪しげな、そして金になりそうもない実験に明け暮れていた。今月でもう家賃滞納が三ヶ月目に突入しているから八来軒のばあさんももはや月末に限らず、館林博士を見つけ次第、魚雷のように突進し必死になって食らいつくというのっぴきならない状態になっていた。一円でもいいから払え! 今持ってる分だけでいいから払え!

「南米のアマゾン河にはピラニアという魚がいる」篠宮は掃除する手を休めて言った。口にマスクをし、頭もスカーフ状にした頭巾を被り、エプロンもした状態の篠宮は塵叩きを放り出して、百科事典を開いていた。「体長は三十センチほど。貪欲な魚で鋭い牙と頑丈な顎を持ち、豚とか牛とかが河を渡ろうとすると、ほんの数分で骨になるまで食い尽くすんだって」

「それが?」時おり閉まりが悪くなるファイル・キャビネット相手に悪戦苦闘している有川が言った。彼はマスクも頭巾もなしエプロンもなし、服も好きなだけ汚れても後ではたけば何とかなると思っていた。「畜生、馬鹿キャビネット! 閉まりもしないし開きもしない。中途半端な位置で動かない」

「ピラニアのあだ名を八来軒のおばあさんに奉じようと思うんだけど、どう思う? ピラニアって言葉、聞いた感じはそう悪くない。君ってピラニアみたいだねって微笑みながら言えば、ギリシャ神話の女神とか夜空に瞬く星の名前だと思って勘違いする気がするんだ」

「百科辞典はしまえ、篠宮。本棚の整理は後だ。まず事件の記録を整理するんだ――このっ、くらえ!」有川は調子の悪いキャビネットの扉を蹴っ飛ばした。すると、キャビネットの全扉がガラガラッと一度に開いた。ははん、ざまあみろ、人間さまをなめんなよと笑ったところで時計を見た。午後二時四十分。今日はファイル・キャビネットの整理までだと考えた。

「おら、篠宮。急げ。午後六時には青山のモンテビデオにいなきゃいけない。というよりは一時間前行動で行くつもりだから、午後五時には着くつもりで仕事しろ」

 有川が記録を収めた紙ばさみをテーブルの上にあけた。

「うわ、記録がごちゃごちゃ。毎年、一度はこうなるんだから、いいかげん事務員を雇うべきだと思うんだけど。雇えるくらい稼げてはいるんでしょ?」

「一応、募集の貼り紙はしている。でも、こんな場末の探偵事務所に好き好んで雇われるやつがいるもんか。そら、急げ。紙ばさみを古い順にならべてファイル・キャビネットに戻すんだ。今日中に仕上げてやる」

 これら紙ばさみ一つ一つが事件の記録だった。

 ざっと目を通すと紙ばさみに二つのタイプがあることが分かる。

 一つ目は比較的古く味のある黄ばみ方をしていて、「七瀬邸事件」とか「死のオルゴール事件」とか「豪華飛行客船スカーレット号連続殺人事件」といった興味そそられる名前が記されている。これらの紙ばさみは有川順ノ助時代の事件だった。

 もう一つのは比較的新しい紙ばさみで「シの四一/〇一/二六」「ウの四二/〇八/一一」「ペの四三/一二/二〇」といった無味乾燥な番号がついている。これらが有川正樹の取り扱った事件、もとい仕事だった。数字は依頼日時を年月日で示していて、頭のカタカナはシは失踪人探し、ウは浮気調査、ペは逃げたペットの捜索である。

「さっきのピラニアの話だけど」有川が紙ばさみを抜き取ったり、入れなおしたりしながら言った。「やっぱり人間も食べるのか?」

「もちろん。腹をすかしているピラニアにとって人間はまさにごちそう以外の何物でもないさ」

「ピラニアは南米にいるって言ったが、南米ってことはブラジルもそうなのか?」

「何言ってんのさ、有川。アマゾン河の主流はブラジルにあるんだよ」

「じゃあ、ピラニアもウジャウジャいるわけだ」

「そりゃあもう。ブラジルはピラニアの総本山さ」

「じゃあ、ブラ拓ってのは鬼みたいな会社だったんだな」

「ブラ拓?」

「ブラジル拓殖組合だよ。ブラジルに行けば、自分の土地が持てるって言われて、東北の小作人たちはそれこそこぞってブラジルに移住したが、まさか川に人食い魚がいるなんて夢にも思わなかっただろうな」

「変な話だね」篠宮は紙ばさみを重ねながら言った。「東北から日本人が出て行く一方で、満州にはユダヤ人が大勢移住してきてる。どちらの移住計画も日本の政府が率先してるってことは日本は人口を減らしたいの? 増やしたいの?」

「さあな。俺にもさっぱり分からん」

 十年ほど前からヒトラーはユダヤ人問題を最終解決するといい、ドイツからのユダヤ人追放を謳っていた。その結果、何百万人というユダヤ人が故郷を追われて、仏領マダガスカルやパレスチナ、上海、満州へと流れてきた。満州にはかなりの数のユダヤ人が流れ込んできた。名もなき市民もいれば、高名なバイオリン奏者もいたし、優秀な物理学者や化学学者も大勢いた。中でも日本政府が期待したのは国際的な金融市場に強い影響力を持つユダヤ人資本家たちだった。

 あるヨーロッパ人はこの移住事業を積極的に支援した日本人実業家にこう言った――君たちがやっているのはフグを食べているようなものだ。美味だが毒がある、せいぜい気をつけろという意味だろう。これにより満州へのユダヤ人移住事業は河豚計画と通称されるようになった。移住事業は継続的に行われた。ヒトラーはせっせと国内のユダヤ人を外に掃き出し続け、満州のユダヤ人社会は着々と膨張を続けた。

「しかし、ヒトラーってのは」有川があきれ果てたように言った。「ユダヤ人は追い出すわ、国を丸ごと禁煙にしちまうわ、本当にろくなことしないやつだな」

「でも、ドイツじゃそれなりに人気があるみたいだよ」

「そうかい」心ここにあらずといった調子で有川は力なく答えた。どう見積もっても、午後五時までにこの紙ばさみの山を整理しきれないことは明らかだった。

 午後四時半には、二人とも整理をあきらめて大量の紙ばさみをテーブル上に残したまま、帽子をかぶった。事務所に鍵をかけ、車庫に通じる階段を下りた。篠宮が運転席に座ると、有川がダットサン・クーペにクランクを差し込み、ぐいっとまわした。エンジンをかかり、パルパルパルと小気味良い音を鳴らした。

「一発でかかった」有川は車庫の鍵を開けながら上機嫌に言った。「幸先がいい。こういう日は何かいいことがあるって相場は決まってるんだ」

 有川が車庫の扉を開けると、八来軒の老婆が店の前に腰掛け、煙管に刻み煙草を詰めているところに出くわした。

「おんや、探偵さん方」老婆は顔を上げた。「どこにお出かけで?」

「青山ですよ」前言撤回、やなもんにあたっちまったと思いつつ有川は丁寧に答えた。

「はあ、青山ですか」老婆は煙草の葉で黒ずんだ指先で目尻を掻きながら訊ねた。「青山に何をしにいくんですかい?」

 詮索好きなババアめ、お前には関係ねえだろと思いつつも、有川はそれを心の奥に押し込み微笑んでいった。「踊りに行くんですよ」

「踊り? 阿波踊りですかいな?」

「いえ、東京音頭です」有川はそう答えるなり、ダットサンの助手席に素早く乗り込み、行け行けと篠宮をせっついた。四谷街塔区方面へパルパルパルと走り去る青いクーペの尻に向かって、老婆は言った。

「今度、館林さんに会ったら、これ以上、家賃を払わないなら出て行ってもらいますって伝えてくださいな」

 二人の車は二層上の四谷街塔区とつながっている連絡道路に入った。飛行船が頭上を通り過ぎ、二人の乗った車は暮れかかった夕暮れの中でほんの一瞬、影の中を走り、また光の中へ飛び込んだ。建物が無計画につながりあい、天へと昇ろうとしたように見える四谷に着くと、係員に二十銭払って自動車用エレベーターに入り、また一段上の階層へ移動した。そのまま、八来軒の老婆のすさまじさについてと夕焼けがきれいなことを話しながら、住宅と工場の密集した赤坂街塔区に入り、外周部を半分ほどまわって、作り損ねたホットケーキを何枚も重ねたような青山街塔区へと到着した。

 妙な話だが、有川は自動車が好きで好きでたまらないのに、運転が出来なかった。有川は特に外国製の自動車に目がなく、あのマイバッハは何年型の何々だとか、あのイスパノ・スイザは何年型の何々だとか一々暗記していて言い当てることが出来た。ところが、運転免許の取得試験となると三度失敗していて、どうしても免許を取ることは出来なかった。それ以来、有川は自動車とは運転を楽しむものではなくて、クランクをまわすことと見ることで愛でるものだという諦念を生み出し、それを自分に言い聞かせていた。

 逆に篠宮は自動車にさっぱり興味がなかった。ただ足として便利だから持っているに過ぎない。彼の車は青いダットサン十六型クーペで、新型クーペに買い換えようとしていた近所の住人から、中古で買ったものだ。そして、篠宮は試験一発で運転免許を取得している。

 その中古のクーペで第十七階層まで昇り、駐車場に車を止め、モンテビデオ・ダンスホールの入口に立ったとき、腕時計は五時五分過ぎを指していた。

「今度こそ大丈夫だ」有川は銃を預けながら、安心したように言った。

「余裕を持って行動したからね」篠宮はニッケルメッキにパールグリップの短銃身コルトと弾をバラで六発、オーク材の箱の中に入れた。

 その夜のモンテビデオ・ダンスホールはバンド無し、蓄音機でかけたワルツが中心で、チケット制と自由選択制の半々だった。男性客がチケットを買って、女性ダンサーに渡して踊るのだが、この日は自由選択制も並行していたので、女性ダンサーのほうから男性客を誘うこともできた。

 踊り場ではダンスガールは向かって左側の壁の椅子に座り、男性客は向かって右側の壁の席についていた。今夜の客筋では、スイング・ジャズのような激しい踊りについていけない年寄りの姿が目立った。中には仙人のような白髭を生やし紋付袴を着ている老人もいて、このじいさん何考えているんだろうと有川は思わずうなってしまった。チャールストンなんぞ踊れば五体がバラバラになること必定のこれら老人たちを相手するのは百戦錬磨のダンスガールたち。みな二十代から三十代の初め、中には十八歳の少女もいた。ダンスガールたちは老化で若干震える手で赤いチケットを渡してくる老人の手を優しく取り、手取り足取り教えるようにゆっくり踊っていた。

「歳は食っても男はいつまでも男なんだなあ」

 有川が他人事のようにしみじみと言っていると、篠宮が「踊らないの?」と訊ねてきた。

「チケット買ってまでして踊ろうって気分じゃない。できれば、ジャズバンドのあるところがよかったが、まあ、しょうがない」

 有川はチェリーをつけ、篠宮もあの便利なカンカン帽からスターとマッチを取り出した。一本吸うあいだにホールを挟んだ対面の女性陣たちが篠宮を控え目に指差し、ひそひそと話し始めた。女性の言うところ篠宮の美貌、そして有川の言うところ篠宮の悪魔じみた相貌がじわじわと対面に並ぶ女性陣に染み込んできたのだ。そのうち切り込み隊長がやってきた。二十代後半、ドレッシーな水色のスリム&ロングシルエットで着飾ったダンスガールの一人がホールを横切って、篠宮と、そしてオマケの有川に会釈した。

「こんなこと女の側からお聞きするのはとてもはしたないとは存じ上げますが――」ここでダンスガールは小首を傾げた。「お決まりのお相手はもういまして?」

「いえ、僕もいま来たばかりです」篠宮は立ち上がると、白い手袋に包まれた女性の手を取って、「どうか僕とご一緒に一曲踊ってはいただけませんか?」

 蓄音機はロサスの「波濤を越えて」を流し出した。ゆっくり滑るように、まるで波間に浮かぶカモメのように回りながら、篠宮が何かささやき、ダンスガールのほうはおかしそうに笑っている。

 ああいう気の利いたのは俺には出来んな、と有川は素直に認めると、ボーイを呼び止めて、いつものウイスキー・ソーダを頼んだ。途中で煙草が切れたので煙草の売り子の姿を探したが、ボーイからチケット制の日は売り子はいないといわれて、有川はチェリー二つをカウンターまで買いに戻らなければならなかった。

 有川がホールに戻ると、篠宮が席に戻っていて、リボンシトロンを飲んでいた。有川が席に戻ったと同時にまた着物姿のダンスガールがやってきて、篠宮をさらっていった。

 そうやって篠宮は老人たちの「おれもあと十年若けりゃあ」という羨望の眼差しを浴びつつ、五人の女性を相手にくるくるワルツを踊り続けた。戻ってくるころにはくたくたになったらしく、「いや、参った」とつぶやいた。「疲れちゃったよ」

 有川は腕時計に目を落とした。午後五時五十七分。

「後三分で依頼人が来るから、出入り口を見張っとけ」

「うん。でも、本当に疲れたよ。まったく休ませてくれないんだもんね」

「しょうがない。お前は顔が抜群にいいからな」

「むっ、それは違うよ。女性に好かれるには相当な努力が必要なんだ。たとえば、さっき踊ってくれたあの子」篠宮は向かい側の壁でカルピスのソーダ割りを飲んでいる青い花柄のツーピースの女性を指した。「彼女とは初対面じゃなくて、ダンスホールで顔を合わせたら一曲踊るくらいの仲だ。でも、僕は前に会ったときの彼女の服装をきちんと覚えている。会ったのは三ヶ月前、着ていたのはスリム&ロングシルエットのプリントドレスで色は流行りを意識して洗朱、香水はシトラス系だった。髪型がセミロングからショートに変わったから、そのことを誉めてあげた。とても喜んでくれたよ。女の子にとって髪を切るのは結構勇気がいるからね、ちゃんとそこをフォローしなくちゃ……有川、僕の言っていること、理解できてる?」

「分からん。女の着る服なんてみんなアッパッパに見える」

「とにかく僕が言いたいのは、もっと女性の身につけるものに関心を持ったほうがいいってこと」

「着てるものを全部覚えろってか?」

「そこまでいかなくてもいいけど、まあ、そういうことになるかなあ、結局。あ、あと一番やっちゃいけないのは、以前女の子が着ていた服や香水について全部ぺらぺら相手の女の子にしゃべっちゃうこと」

「なんで? ちゃんと全部覚えてもらえてよかったってことになるんじゃないのか?」

「逆効果だよ。つけてた香水の名前まで暗記していると知れたら、さすがに偏執狂だと思われるからね。誉めるときは全体を誉めるんじゃなくて、アクセントになっているところを過去と現在で比較して誉めること。もちろん前よりずっといいって誉めるんだよ」

「うへえ」有川はわざと大げさに口をへの字に曲げた。「そんな七面倒なことやるくらいなら素直にチケット買ったほうがまだマシだ」

 そんな話をしているそばでまた二十歳を越えて数時間も経っていないような、紫を基調にした銘仙の着物に赤い薔薇の模様をあしらった帯の女性が伏し目がちに頬を赤くしながら、篠宮に「あの、どなたか決まったお相手はいらして?」と訊いてきた。篠宮は有川をチラリと見たが、有川は大仰に手を振って言った。

「いいよ、篠宮。好きなだけ踊ってこい。俺はここで壁の花ならぬ壁のシミになってるから」

 篠宮がまた踊りに立つと、有川はもう一杯ウイスキー・ソーダを飲んでも過ぎることはないだろうと、思いボーイを呼んだ。すると、

「お客さん、クバ・リブレを飲んだことはありますか?」

 と、訊ねてきた。

「ない。どんな酒だ」

「ライムジュースを垂らしたラムをコーラで割るんです」

「コーラ?」

「アメリカ人が発明したサイダーの親戚みたいなもんです」

「面白そうだな。じゃあ、それ。グラスは――」

「別々ですね。かしこまりました」

 篠宮がワルツに忙しいあいだに有川が出入り口を見張った。

 篠宮から教えてもらった神宮寺の特徴は年齢五十二歳、身長が一七五センチくらいで体重が七十キロくらい。多少上背がある中肉中背といったところ。髭はクラーク・ゲーブル風に整えた口髭以外は全部きれいに剃り落としていて、黒い髪をポマードでオールバックにしている。以前、会ったときは会社の社長らしくいい仕立てのダブルのスーツを着こなしていたそうだ。

時間はもう午後六時一分だ。だが、それらしき男がやってくる気配はなかった。入ってくるのは大正、下手をすると明治のころに仕立てたと思われる洋服を着た老人ばかりだった。

 クバ・リブレがやってくる。真っ黒な炭酸水には面食らったが、少し口に含んでみると嫌いな味ではない。いくらかコーラで楽しんでから、いつものようにラムに注ぎ込んだ。

 篠宮が戻ってくると、有川は午後六時前後に入ってきた老人たちを次々と指差した。

「全部違うよ」篠宮は首を振った。「もっと若い」

「そうなると、あれかもな。昨日すっぽかされたから、今日すっぽかしかえす気かもしれない」

 こうして待つことになった。有川は酒はやめて、炭酸水だけ頼み、篠宮は休みなく踊り続けていた。女性に奉仕することに一種の義務感を感じている男だから、どんなにくたくたでも誘われたら断れなかった。そんな篠宮の姿に有川は、一度履いたら最後、死ぬまで踊り続けなければならない靴の童話を思い出した。

「あんときは確か足を切り落としたんだっけ?」

 チケットなしで踊り続ける篠宮のような存在は店側から見るとどうなんだろう? 有川は以前から不思議に思っていた。やはり忌々しいのだろうか?

実は店からすると篠宮はおいしい存在だった。ダンスガールは店に専属で雇われることもあるが、ほとんどはあちらこちらを渡り歩いている。彼女たちは割のいい俸給がもらえたり、あるいは自由選択制で息抜きにいい男と踊れたりするホールに集まった。このときも篠宮のことがホールの外で評判になったらしく、とにかく物見高いダンスガールの華やかなのがどんどん増えていった。すると、華やかな女性たちが集まり賑やかになれば、当然チケットで踊る客の来店数もぐんと伸びる。このように、この手の商売はワッと盛り上がってなんぼの世界だから篠宮のような美男子はタダで踊る邪魔者ではなく、タダで動く集客装置なのだ。誰が考えたか知らないが非常によくできた仕掛けだった。

「駄目だ、足が震えてる」篠宮がそう言って戻ってきたのは午後八時二十三分のことだった。

「いくらなんでも遅すぎる」有川はカウンターで買った一箱目の最後のチェリーを灰皿に押しつけた。

 二人はカウンターに行き、有川が電話を借りて神宮寺貿易会社にかけた。

 しばらくして、有川は受話器をフックにかけて戻ってきた。

「何て言ってた?」篠宮は訊ねた。

「社長は本日出社されていません、だとさ」


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