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一、昭和二十年八月十五日水曜日

 軽い爆発音。

 目が覚めた。

《断固御親政アルノミ!》

 目を覚ました有川の目に飛び込んできたのは、大日本帝粋会が雇った飛行船の垂れ幕だった。

 首筋を垂れる汗が襟に染み込む。有川を乗せた市営ロープウェイ「ペリカン号」は青山街塔区の第十六階層に向かって宙空を進んでいた。ペリカン号は左右についたエンジンの排気口からボンボンと火花を吐き散らしていた。 そのエンジンにくっついたプロペラがブンブン鳴っている。煤けた窓ガラスから覗く眼下には汽艇が進む高架水道と街塔区同士を立体的に結ぶ連絡自動車道路、そして道路や水路の下に広がる市街地には赤茶に錆びたトタン屋根と赤や青の瓦の海があった。有川は目をあげた。いくつもの街塔区が煤煙で霞んだ向こうに見える。夢のことが頭をよぎって、体のなかに膨らみ損ねた海綿を抱えたような気持ち悪さを抱える。有川は変なやつだと思われるのも仕方なしと思って、ベレー帽をかぶったゆで卵のような顔の女車掌にたずねた。

「すいません」

「ハイ」

「今日は何年何月何日の何曜日でしょう?」

「昭和二十年八月十五日の水曜日ですけど?」

「ハア、そうですよね。ありがとうございました」

 案の定、ゆで卵から奇異の視線を注がれたが、有川は気にしなかった。妙な夢を見た。きれいさっぱり焼けさらわれた昭和二十年八月十五日水曜日の帝都。

 存外、そっちの帝都が本物なのかもしれないね。

 篠宮に話せば、悪意のない、でもからかうような微笑みとともにそんな答えが返ってくるだろう。胡蝶の夢だ。本当の自分は焼け野原の帝都に生きているのであって、こうしてロープウェイに揺られながら篠宮との待ち合わせ場所に向かう自分は夢のなかの存在なのかもしれない。

 ただ、夢にしてはよく出来た夢だ。床に落ちている焼き鳥の串はボーイスカウトの目印のように三本きれいに横並びしている。窓の外では松屋デパートの飛行船が優待券付きのチラシをばら撒いている――青いチラシは飛ぶことをあきらめた蝶のようにヒラリヒラリと貧乏人の頭上へ落ちていった。右へ二つ空いた席には親子が座っていて、母親は婦人雑誌の連載小説にぞっこんで、一方娘はサイコロを模した栄養強化キャラメルの黄色い包み紙をきれいに取り去ろうとしていた。

 銀座、浅草、神田、上野、市ヶ谷、御茶ノ水。帝都に聳え立つ幾本もの街塔区たち。それは産業と住宅要求が複雑に絡まりあい膨張した結果生まれた煙突都市だった。世界各地の主要都市はだいぶ前に横へ広がることをあきらめ、縦に伸びようとしていた。パリ、ロンドン、ローマ、ニューヨーク、上海、ゲルマニアと名を変えたかつてのベルリン、モスクワ、ブエノスアイレス。絵葉書屋に行けば、上へ上へと伸びていく世界の都市がいくらでも見られる。帝都の各街塔区も住居と工場が複雑に組み合っていた。内側に深刻な貧民や赤色分子を抱え込んだ現代社会の歪んだバベルの塔たちはそれぞれ道路、高架運河、懸垂電車で結びつき、血液が体のある場所で酸素を手にいれ、別の場所で下ろすようにして人間を交換していく。

 ペリカン号はアーチをくぐって、青山街塔区の内側に入り込み、提灯型のアセチレン灯が輝く穴倉のような駅に停止した。

 降りる客と乗る客。血液が酸素と二酸化炭素の交換をする。

 有川はプラットホームに降り、まず煙草の売店を探す。ない。真っ黒な顔に真っ白な歯を剥いて笑う人食い族が目をチカチカ光らせる〈アフリカ・チョコレート〉の自動販売機のみ。

 駅から十六階トンネル通りに出たときには時計は午後三時を指していた。篠宮との待ち合わせは午後四時に第十七階層のダンスホールで会うことになっている。そして篠宮は一時間くらい平気な顔して遅刻するだろうから、ダンスホールには五時にいけばいい。

 はやく着きすぎた。

 有川はチョコレート色のソフト帽をしっかりかぶりなおすと、煙草と時間つぶしになりそうなものを求めて、歩道をゆく人々の川に流れ込んだ。人、人、人だった。休暇中の兵隊。大陸風の中華服を着こなした妙齢の女性。雑嚢を抱えた中学生たち。路上で店を開く帽子の早洗い屋はパナマ帽のリボンに残った汗の白い塩を薬品で器用に洗い落とす(夏の風物詩だ)。白といえば、白い制服と白いコルク帽の交通整理の巡査がピッ、ピッとホイッスルを鳴らしながら、白い手袋に包まれた左手を押し返すように伸ばして貸し扇風機屋のトラックを止め、乳母車を押す婦人に道を渡るよう促していた。このようにトンネルで封じ込められた通りは人で溢れている。

 自動車でも溢れている――バス停にとまっては客を食ったり吐いたりする市内バス、ジロリギロリと音がなりそうなほど目つきの悪い憲兵を乗せたくろがね四起、氷が溶ける前にお得意さん全部をまわりたくて焦っている製氷工場のトラック、最新型文句なしの青いダットサン二〇型ロードスター、すばしこく動き回る三輪自動車の円タク、そしてお仕着せの運転手がハンドルを握り、華族の当主を乗せて走る三十三年型のパッカード――アメリカで内戦が起きる直前に輸入された最高級車。これら自動車どもが二十台も走れば、いまだに木炭自動車を使う馬鹿が一台はやってきて、あたりを煤だらけにする。下手をすると一酸化炭素中毒になるかもしれない。だから、通りの天井ではファンが何十個も回っていて、煤を吸い上げ、代わりに生温かい空気を叩きつけてくる。町はやかましくて、ひどく蒸し暑かった。

 カキ氷屋台がラジウム温泉浴場の前で商売している。「レモン一杯」有川が五銭玉一枚と一銭玉を三枚置くと、カキ氷屋の親父がカキ氷機のクランクを回し、氷の塊がくるくる回りだして、切り子硝子の器にあっという間に白い雪山が出来上がる。親父はその雪山にレモン味のシロップをたっぷり降りかけた。一口スプーンですくって口に含むとそれは甘くて冷たくて……

《ザザー……今年四月、ドイツ万民に惜しまれつつ退陣したアドルフ・ヒトラー前総統が……ピー、ガガガ……ゲルマニア……ゲッベルス宣伝大臣がいま段上に……ガガガ、ザー……》

 近衛内閣時代に逓信省が帝都のあちこちにばら撒いた『国民ラジオ』がカキ氷屋台からニュースを垂れ流す。安物のニスで光沢を出したこの音の鳴る箱にはラッパ管と二つのツマミ、一つのスイッチがついている。音質は最低。ニュースの内容は今年の四月ごろ、世界都市ゲルマニアの完成をもってナチスドイツの総統を辞したヒトラーがゲルマニア文化芸術院の名誉総裁になったとかどうとか。これまでの人生を祖国ドイツの復活と生存圏獲得のために捧げてきたが、これからは芸術振興のためにこの余生を捧げたいとかなんとか。就任式には総統のルドルフ・ヘスらナチスの大物がずらりと並んだとかどうとか。そんなニュースがザラザラガリガリした音になって聞こえてくる。

 有川は肩をすくめた。聞くところによるとこのヒトラーという男、煙草嫌いで有名らしく、総統を辞める直前にイタチの最後っ屁とばかりに禁煙法をねじ込んで、煙草をこよなく愛するドイツ中の煙草呑みを滅亡の縁に追いやったそうだ。ギャングを儲けさせるだけだったアメリカの禁酒法といい、世の中には頭のネジがゆるんだやつが多すぎる、というのが有川の国際情勢に対する忌憚のない感想だった。もっとも頭のゆるさに関しては近衛公も負けてはいない。近衛文麿は大衆への人気取りのつもりでラジオをそれこそドヤの路地裏にまでばら撒いた。ヒゲだけでなく演説も真似て、日本のヒトラーにならんとしたのだ。新体制確立、新体制確立と繰り返すばかりの残念演説。その演説が帝都の隅々まで染み渡るようにと大量生産したのがこの『国民ラジオ』。

 が、当の国民たちはこれを『貧民ラジオ』と呼んでいる。音の質が貧民向け。単調なニュースの読み上げでこのザマなのだから、こいつでハリー・ジェームズやベニー・グッドマンなど聞こうものなら、ぐしゃぐしゃにひき潰されたスイングの残骸を聞くハメになる。舶来のジャズが聞きたければ、舶来のラジオを買わなければならない。

 カキ氷屋の親父はラジオ相手に毒つきながらツマミを回し始めた。

「エノケンだ、この野郎。エノケンを流しやがれ」

 汗が浮かぶ親父の禿頭に炭素フィラメントの黄色い光が反射して有川の目を射る。頭のてっぺんはボーリングの玉のようにつやつやしていた。親父がツマミをいじると雑音と切り刻まれた単語が貧乏ラジオのラッパ管から交互に飛び出してくる。

 やっとどこかの局に合わせられたところで、安物の調整ツマミがすっぽぬけた。流れてきた曲は――

《暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は荒れ狂う》

「あっ、いかん、いかん」カキ氷屋の親父は慌てて別の局をかけようとする。

《怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖を打ち砕け》

 ツマミがうまくはまらない。その間もアカの歌は容赦なく垂れ流される。壊れたのかスイッチを切っても歌は止まらない。

《自由の火柱 輝かしく 頭上高く燃えたちぬ》

 親父は舌打ちするとラジオを両手で持ち上げ、ラッパ管から流れるワルシャワ労働歌ごと地面に叩きつけた。歌は消えてグイーンと腹に響く音が流れる。親父は念のためにと木箱で出来ている装置本体も踏み潰してトドメを刺すと、手ぬぐいで禿頭の冷や汗をぬぐった(その動作がますますボーリングの玉を想起させた)。有川に気づくと、カキ氷屋の親父はいたずらを見つけられた小僧のように言い訳がましい顔で、

「この時世、憲兵や特高にこんなものを聞かれた日にゃ痛くもない腹をさぐられますからねえ。ま、所詮タダでもらったオンボロラジオだし」

 と、不自然な苦笑いでごまかした。

「俺は特高じゃないよ」有川は安心させようとして言った。相手が信じるかどうかはさておき……

 カキ氷屋の親父は、へへへ、と笑っている。

 アカの声。鮫ヶ淵街塔区の光も届かぬ奥深い貧民窟に共産主義者たちが専用の放送局を持っていて、今のように公共の電波を乗っ取って、アジったり、インターナショナルを流している。警察と憲兵隊は何度もアカの放送局を探すために、鮫ヶ淵のドヤ街や街塔区の船着き場に手入れを行っているが、鮫ヶ淵の最深部まで足を踏み込む度胸はないようで、鮫ヶ淵への手入れはいつも末端の党員が捕まるだけで対した成果は上がっていない。

「それにしても派手に壊したねえ」有川は無残な骸を晒して死に絶え横たわる貧民ラジオに目をやりながら言った。「ラジオに恨みでもあるのかい?」

「念には念をでさ。あたしの女房の兄貴が上野のてっぺんの公園で、船のおもちゃを売ってましてね。ほら、ポンポン船や樟脳で動くやつです。先月、その兄貴ってのがこのラジオがもとで特高にしょっぴかれたんで」

「へえ」

「どうもおもちゃを売り始めた最初のうちはラジオの野郎もお行儀よく軍艦マーチを流していたんですが、いよいよガキどもが大勢集まってきたと腕まくりをしたところ、急に雑音にぶつかったと思ったら、なんとアカどもの演説が流れ出したじゃありませんか。それをたまたま通りかかった特高どもに聞かれたのが運の尽きで、あとはもうご存知の通り、天下御免の特高さまだ、大人しくお縄につきやがれってなもんで。商売道具もそのままに引っぱられて、正式に逮捕されたわけでもないのに女房の兄貴は十日間もブタ箱ですよ。主義者じゃないって分かってもらえたんで最後は放してもらえましたけど、それでもぶちこまれてたあいだ稼げなかった十日分の損は誰がケツをもってくれるってんですか? こちとら月ごとのショバ代と電気代をきちんと払って商売してる真っ当な商売人でさ。それを根無しのルンペンみたいに扱いやがってからに。鞍馬天狗に出てくる新撰組だってここまでえげつないことはしませんぜ。カキ氷屋やおもちゃ船の売り子にとって、小学生たちが夏休みの今が一番の掻き入れどきなのに、それを十日間ですよ。十日間。特高の旦那方がそこんとこ理解して迷惑かけた分、ちゃんと払ってくださるんなら、話は別ですがねえ」

「やつらが払うもんか」有川は笑いながら言った。「スマンの一言だって言いやしないさ。ところで、ラジオはどうするんだい?」

「さあ? 目につかないよう片づけたら、そのままにしときますよ。来月くらいになったら逓信省の役人がやってきて勝手に置いていきます。何しろ支那だの蘭印だのに配ってもまだ余るほどの在庫があるって話ですからねえ」

 有川は氷をすくって口に含んだ。噂を思い出す。恐ろしい話だが、政府や省庁に紛れ込んだ国粋主義者や大アジア主義者、つまりやたらお山の大将になりたがる連中が、このしょうもないガラクタを「興亜ラジオ」と名を変えて、英領インドや仏領インドシナ、蘭印の民衆にばらまくつもりでいるらしい。そして欧米列強諸国の殖民併呑に晒されたアジア民族の独立解放の嚆矢とせんとしている、……らしい。おそらくラジオを配ることでさすが日本人は太っ腹、アジア一の民族だとヤンヤヤンヤ誉めてもらいたいのだろう。だが、インド人や安南人たちの口から出るのは賛辞ではなく、日本の機械生産能力の低さへの嘲笑か、こんなケチなものを送ったぐらいで賛辞を欲しがる日本人に対する蔑笑がいいところだろう。こんなラジオ自慢げに見せびらかして配るのは日本の恥だ。せずともよいのに、わざわざ恥をかくような真似をする。それも極めて尊大に。自分は偉いと思い込んでいるので始末に困る。それが国粋主義者であり大アジア主義者なのだ。有川は前々から彼らはオツムの足りない連中だと思っていたが、馬鹿もここまで極めれば誉めてやりたくなるものだ。

 もちろん実際に誉めたりはしない。殴られるのがオチだ。

 だが、篠宮は誉めるだろう、と有川は確信する。篠宮には関係ないのだ。目の前に馬鹿がいて、その馬鹿が自分の馬鹿さ加減を知らないまま、自信をもってその馬鹿を御開陳あそばすとき、君はとても馬鹿だね、とからかいとも慈しみともとれる微笑みを見せながら言ってやることに少しの躊躇いも見せないのが篠宮という男なのだ。相手がドスや鉛管、九連発ピストルで武装して二、三十人の徒党を組んでいても関係ない。

 ありゃ、筋金入りの自由主義者だな。有川はそう思いながら、レモン水となりかけた最後の一すくいをすすって、喉を伝わり落ちるひんやりした心地を味わった。

「このあたりに一時間くらいつぶせて、煙草も売っているところはないかな?」

 切り子硝子の入れ物を返しながらたずねると、親父は通りを百メートル歩いた先を曲がったところにある映画館を教えた。



 映画館の名は餅川キネマと言った。入口の隣にカマボコ断面型の受け付け窓があるこじんまりとした映画館だった。足元からときどき騒々しい音と震動が来るところから考えると、どうも真下の階層には懸垂電車が通っているようだった。そのため看板を照らす電球が時おり電車に電気を吸い取られて、頼りなく明滅していた。

 上映プランによれば、先週は赤松千鶴主演の恋愛映画がやっていて、今週かかるのは二時間もののような長いのではなく、ニュース映画とアメリカのアニメが主のようだ。別に見たいとも思わなかったが、道を往く狂犬病持ちの野良犬を避けたり、コークス混じりの泥を踏んだりしながら、木炭自動車が走ってくる道を一時間もぶらぶらするのもぞっとするので、チケット代を払って、さっさと中に入ることにした。それに何よりも煙草が欲しかった。

「チェリー二つ」映画館に入ってすぐ有川は売り場の少女に言った。

「すいません」少女はぺこりと謝った。「煙草は今売れないんです」

「えっ、どうして?」

 カウンター上の丸っこい見本瓶の中にはスターやチェリー、エアーシップといった煙草の箱が立っていた。

「子ども向けのプログラムを流す日は煙草の販売を禁じるよう条例が出たんです」売り場の少女は、法律でそう決まってるのですから仕方ないって分かってくれますよね、と窺うような目をして有川に言った。

「そうなのかい?」

「そうなんです」

「ひどい条例だなあ」

 そう言って、有川はしばらく考えて、

「フーム。じゃあ、ラムネ一本」

「はい、十銭になります」

 赤いビロードをかぶせた両開きの扉の向こうへ足を踏み入れる。中は薄暗い。最後列左端の専用席から監査役の憲兵がじろりと有川をねめつけた。有川はその視線に気がつかないふりをして、席を選んだ。既に席は半分以上埋まっていた。たいていが子ども連れで有川のように大人一人で見に来る人はいないようだった。

 前から五番目くらいの席の左端に陣取った。まわりを見ると、父親と名のつくもの全てが皆仲良くカンカン帽を団扇代わりにして顔を仰いでいた。一方、母親と名のつく人はきちんと桃色か浅葱色の団扇で顔を仰いでいた。有川は帽子を脱いだ。ソフト帽のリボンに汗の染みた跡が残っていた。くそっ。有川は心の中で毒ついた。こうならないようこまめに帽子を脱いで内側の汗をぬぐってきたのに。これでは帽子の洗い屋に渡さないといけない。そもそも何で俺はパナマ帽やカンカン帽じゃなく、フェルト地のソフト帽なんてかぶってきたんだ?

 有川のくさくさした気持ちを吹き飛ばすようにして、ブザーが鳴り、幕が空き、スクリーンがあらわれ、部屋の照明が絞られた。

 暗闇の中で観客たちが息を呑む。そして、映写室が光を放ち、音が、輪郭が、意味を持ち始める。トランペットの音。目はスクリーンへ――

《帝国ニュース》

 まずはお決まりのニュース映画だった。

《製作 社団法人 帝国ニュース配給会社》

 音の割れたテーマ曲が流れて、

《第二五五号》

《脱帽 聖上陛下陸士航空学校行幸》

 最後列の憲兵を意識したのかパタパタ動いていた団扇やカンカン帽がピタリと止まる。有川は脱いだ帽子を隣の座席に放った。若干早口気味のアナウンサーが読むニュースが聞こえてきた。

《大元帥陛下には八月六日、神奈川県高座郡座間の陸軍航空士官学校に行幸。護国平和の使命ひとおしく重く無敵陸軍航空隊の精鋭として、相武台の同校を御卒業あそばされる西俊宮永彦王殿下をはじめ奉り、第五十九期生と卒業式に親しく臨御あらせられ、御挺乗、御凛然たる御英姿にて粛々と御閲兵あそばされました》

 抜刀隊行進曲が流れ、次々と通り過ぎていく戦闘機や攻撃機に御用飛行船のデッキから天皇が敬礼を送り続ける。最後に空中戦艦《朱雀》がその甲板に敬礼する卒業生を満載して通り過ぎていく。

《かくて陛下には、観兵式場を発御。相武台の陸軍航空隊士官学校に行幸あそばされ、優等卒業生の講演を御聴取あらせられた御後、午後一時三〇分、《朱雀》艦上に設けられた卒業証書授与式場に臨御あらせられ、広田校長より西俊宮永彦王殿下をはじめ奉り、卒業生と総代に対し、卒業証書を授与。次いで松永侍従武官より優等生に対して恩賜品を伝達し、一同はただ皇恩のありがたさに感泣。一死奉公の誠を固く固く誓いました》

 棒でも飲み込んだように真っ直ぐ立った卒業生たちが礼をしながら、恩師の銀時計を受け取っている。

 お上に関するニュースが終わると、またパタパタと仰ぐ音が聞こえてきた。有川もラムネの栓をポンっとあけた。泡が流れ落ちるに任せて、指の先で甘い泡の粒がはじけていくのを感じながら、兵隊時代のことを思い出した。南京陥落で蒋介石との講和もなって支那事変が決着したため、甲種合格の有川は満州の装甲列車部隊に放り込まれた。そして、そこでいまだ帝国政府に帰順しない馬賊を殲滅するというのが装甲列車部隊に与えられた任務だった。

 そこでラムネを一口。

 さらに思い出す。ひび割れた粘土から枯れ草が点々と生えている平野。泥壁の家。泥色の空を横切る渡り鳥の群れ。装甲列車が敵一人見当たらない荒野をゆく。機関銃と十二センチ砲を突き出して。有川の仕事は機関銃手に三十発入りの保弾板を手渡す作業だったが、ただ一発の鉄砲を撃つこともなく、兵役が終わりそうだった。ところがある日、後一時間で夜が明けるというところで、馬賊たちが線路にダイナマイトを仕掛けて……

 ラムネをもう一口。

 そして――

《決戦! サクラメント》

 流れる音楽が《抜刀隊》から《星条旗》に変わる。

《一進一退の攻防を続けるアメリカ内戦も十二年目に突入しましたが、両軍ともに矛を収めるつもりはありません。八月一日、アメリカ人民連合軍は西部で唯一合衆国に残留したカリフォルニア州を征服せんとして、ルイジアナ州より精鋭師団を抽出し、サクラメント攻撃部隊に加えさせてサクラメントの北と東から計二十万が攻撃しました》

 地図。黒い矢印が北と東からサクラメントと表示された白い丸をにぶつかろうとしている。

《西部に孤立し、陸と空からの怒涛の攻勢により嗚呼カリフォルニアの運命も決したかと思われるも、合衆国カリフォルニア方面軍司令官ジョージ・パットン陸軍中将は不安に萎縮する麾下の八万の士卒に対して、「撤退も篭城もしない。全軍出撃。ザリガニ食いどもを元の沼地に追い返せ」と勇ましく訓令し部下たちの不安を吹き飛ばして徹底抗戦を命じたかと思うと、次の瞬間には天よ避けよと対空砲の猛烈な弾幕を張って、敵空中砲艦を後退させ、空の安全を確保するや敵兵を迎い撃つべく麾下主力の鋼鉄軍団をサクラメント東部に進出したアリゾナ州兵に突撃させました》

 映像――燃える果樹園、焼け落ちるオレンジ。(映画会社が入れたらしいダダダ、ダダダという機関銃の効果音)二人一組になって機関銃と弾薬を運ぶ兵士たち。攻撃機から見た地上攻撃の映像――五発に一発は混じっている曳光弾が砲兵隊の陣地に吸い込まれていく。

《わずかなれども最精鋭の攻撃機を集中使用しアリゾナ軍砲兵隊と装甲車部隊を完全に無力化させるや――》

 機関銃を撃ってくる農家が数軒ある野原を多砲塔重戦車が進み(ゴロゴロゴロ……)、自動小銃を手にした海兵隊員は匍匐前進するか戦車の後ろに隠れるかしながらついていく。一度に五つの砲塔が火を吹き、草原に散った小さな家屋が隠れていた機関銃兵もろとも火柱になった(ドカーン)。くすぶる黒い木片が回転しながら落ちていく。

《陸の戦車軍団は火力の支援を失った敵を徹底的に叩き、アリゾナ軍は三時間ともたず、砲を遺棄して三十キロ後方へ撤退。兵は神速を尊ぶ諺の通り、パットン率いる戦車軍団は一気に反転し――》

 モンタナ帽をかぶったパットンが徴発したハイウェイ沿いの簡易食堂で部下の師団長たちと地図を指しながら、次の目標を決めている。そして、戦車と歩兵を乗せたトラックがハイウェイを疾走していく。

《八時間後にはサクラメント北部で堡塁突破に手間取っている人民連合軍主力の背後を脅かせば、人民連合軍は慌てて陣を捨てて総崩れとなって対サクラメント攻略陣地から撤退しました。この勝利はサクラメントはもちろんのことロサンゼルスやサンフランシスコ、そしてワシントンにおいても歓喜の声で讃えられました。カリフォルニア州政府は公式発表として、敵の遺棄死体は二万、鹵獲した砲は三百門を数え、破壊した敵装甲兵器は六十両、撃墜した敵砲艦は二隻を数え、それに対し、カリフォルニア軍の損害は微々たるものであり、州民は継戦に強い意欲を示している、と全世界に発信したのであります》

 戦争、戦争、戦争。ひどいもんだ。そう思って、胸ポケットに手をやって煙草がないことを思い出す。ちぇっ、つまらんもんだ。有川はふてくされた。

 銀行と農民、共和党と人民党、トーマス・デューイとヒューイ・ロング、ワシントンとバトンルージュ、そしてアメリカ合衆国とアメリカ人民連合国。アメリカ内戦はルーズヴェルト大統領がフロリダで人民党員の凶弾に倒れてから、かれこれ十二年間続いている。

 そして、ニュース映画は飽きもせずに必ずこの戦争に関する映像を流す。人気があるのだ。先月は人民連合軍の通商破壊用空中軽巡空艦「ネイサン・フォレスト」と「ジョン・ハント・モーガン」がミッドウェーで撃墜され、海の藻屑となったというニュースを大々的に流していた。

 有川の幼馴染で新聞社の政治部に勤めている田島という男がいるのだが、その田島曰く、庶民にとって自分たちに火の粉がかかる心配のない戦争は最高の娯楽なのだそうな。戦線に大した動きがなく、現地に派遣した記者からも特に報告がなかったのでアメリカ戦争の記事を載せなかったことがあったのだが、すると社に苦情の手紙が何十通と舞い込んでくるという。国際社会が注目するアメリカ内戦について御社が紙面を割かないのは何故か? 仕方なく、それからは政治部の田島がアメリカ内戦については何かしらの記事を必ず書かされることになり、両軍の死者合わせて五名の小さな小競り合いをターナーハウス・ジャンクションの戦いと尤もらしい名前をつけて、大きく紙面を割いたりしてみるのだが、すると購読者たちは大いに満足なのだそうだ。ターナーハウス・ジャンクションなどという地名は、日本人はおろか当のアメリカ人だって知っちゃいないのにだ。

 そんな話をどこかのビヤホールでしたのだが、そのとき篠宮は火の粉のかからぬ戦争もそうだけど、僕はあらゆる時代、あらゆる国の民衆が好む最高の娯楽を知っているよ、と言いだした。何だそれは、と訊けば、当ててみてくれ、と子どものようにいたずらっぽく笑うので有川と田島はひとつ真面目に考えた。花札や麻雀、ちんちろりんは人気のある娯楽だが、西洋では通じまい。逆にブラックジャックやポーカーだって日本や支那で通じきるとは限らない。酒かな、とも考えたが、回教徒は酒を飲まない。美食はどうかと思っても、生まれつき胃腸の弱いものにはこれは当てはまらない。女性はというと、娯楽として括るには少し重過ぎるし、これも生まれつき苦手とするやつがわずかだが存在する。

 ダメだ、分からん、と田島がうなると、

 篠宮は、降参かい? と嬉しそうに重ねてたずねてくる。

 悔しいが降参だ、と有川が言うと、

 すると、篠宮は人を惑わすようなあの悪魔っぽい微笑を浮かべて、こう言った――あらゆる時代、あらゆる国の庶民が熱狂する娯楽、それはね――偉い人間が落ちぶれていくのを見ることなんだ。偉ければ偉いほどよし。非業の最期を遂げればなおよし。

 数秒ほど絶句したが、そのうち田島が、道理でカストリ雑誌がよく売れるわけだ、あいつらはそんな記事ばかり書きやがるからなあと出版で食っている人間らしいことを言って笑い出した。一方、篠宮は暢気に笑いながら塩茹での枝豆の鞘を剥いている。そんな篠宮を見ていると、有川は背中に冷たいものを感じつつ思う。実は篠宮は何百年と生きている悪魔の一種なのではないか、と。そして、世界のあらゆる時代、あらゆる国で権力者の寵愛をいいことに専横のかぎりを尽くした寵臣が突如その寵を失って凋落しその首が胴から離れ、民衆から歓声が沸く瞬間を常に目撃し続けてきたのではないかと思うのだ。

 馬鹿げた空想なのは分かっているが、そう考えたくなるほど篠宮は悪魔じみた相貌をしていた――白磁のようにキメの細かい白い肌、睫の長い涼しげな眼差し、よく微笑が浮かぶ口元、少し長くてわずかに癖のある夜色の髪。初めて篠宮と会う人は少女のように華奢な篠宮のことを最近華族の社交界で流行っている男装の麗人と勘違いする。本人はそれについて、いろいろ不平を言っていたが、有川は仕方のないことだと言ってやった。実際にそう見えるのだ。

《空前絶後! カリフォルニア特需》

 ニュースが国内に移って、音楽がラデツキー行進曲に変わり、溶けた鉄が熱く火花を散らしながら炉から流れ出ていくシーンを映し出した。そして、アナウンサーの上ずった声。

《皇紀始まって以来の類を見ない好景気に日本経済は活性化し、鉄鋼、石炭、造船、綿製品製造業はいずれも前年度と比較して三十パーセントの成長率を維持しております。またセメント、砂糖、化学肥料に代表される三白景気も好調で、高階商店を始めとして――》

 全ての産業の成長を示す右肩上がりの棒グラフ。

 北東部諸州を治めるワシントンDCの合衆国大統領はパナマ運河を通じて、陸の孤島と化したカリフォルニアに支援物資を送り続けた。しかし、人民連合軍の北上攻勢が本格化すると、その余裕もなくなり、敵の包囲下にあるカリフォルニア州は二つに一つの選択をしなければならなかった。人民連合の軍門に下るか、黄色い猿と取引するか。カリフォルニア州を事実上支配しているカリフォルニア軍総司令官ジョージ・パットンは後者を選んだ。「どちらか一つ選べと言われれば、ジャップと取引だ。ザリガニ野郎どもをフライにできるのなら、悪魔とだって取引する!」

 そしてカリフォルニア特需がやってきた。欧州大戦特需以来の大きな戦争特需。作ったものは何でも売れた。マッチ、メリヤス、砂糖、鋼材、梱包爆薬、貨物船、そして三〇・〇六弾を発射できる全ての火器。出来上がったそばからカリフォルニア州が買い取った。あの『国民ラジオ』ですら『加州ラジオ』と名を変えられて輸出された。カリフォルニアはオレンジとジャズとハリウッド映画を輸出して稼いだ外貨を全て戦争につぎ込んでいた。通商破壊艦も潰えて、横浜とサンフランシスコを結ぶ線のあいだには、障害はなくなった。カリフォルニアに向けて、日本中の造船所と製鉄所が狂ったように生産を続けることを妨害するものは何一つなかった。内戦が終結する見込みはなく、特需はまだまだ続くだろう。経済学者たちはそんな楽観的な観測を出している。二十年前、大戦特需の反動で手痛い不況を食らったことなど、コロリと忘れて。

《戦慄! 赤色ギャング団》

 ジャジャーン。曲名は分からなかったが、なにやら不穏な雰囲気の曲が流れ始める。

《またもや共産主義者より成る赤色ギャング団が帝都を戦慄せしめました。昨日午後二時、拳銃と散弾銃で武装したギャング団は帝国銀行椎名町支店を襲撃、一万二千円の現金を強奪した後、凶行に及び、出納係の鈴木三津次郎氏と居合わせた利用客の斉藤キヌさんを銃撃、二人は間もなく死亡しました。赤色ギャング団が行内に残した犯行声明文によれば、これからもプロレタリアートによる腐敗堕落したブルジョワジーへの攻撃は続くであろうとさらなる犯行を予告しています。赤色ギャング団は今年だけでも、一月の実業家横山千津夫氏の誘拐事件や三月の高階商店本社ビルへの機関銃による銃撃事件、さらに六月には二件の銀行強盗事件を起こしておりますが、特別高等警察の安藤警部は赤色ギャング団への捜査は順調に進んでおり、街塔区奥地への封じ込め作戦が功を奏せば、ギャング団は一斉に検挙されるであろうと自信を持って宣言しました》

 赤色ギャング団の壊滅? 特高のボケ。婆さんとガキどもが手作業で仕切っている闇タバコの作業場だって、ろくに挙げられないくせに何言ってやがる。有川は心の中で毒ついた。

 ニュースが一通り終わると、本番が始まる。

 ルーニー・テューンズのテーマが流れ、ワーナー・ブラザーズのWBと印された盾形のロゴの上でバックス・バニーが寝そべってニンジンをかじっている。総天然色。筋書きはバックス・バニーとダフィ・ダックが手を組んで、デブで赤ら顔で醜悪な酔っ払いとしてカリカチュアにされた人民連合国大統領ヒューイ・ロングを徹底的にやっつける。ロングがバックス・バニーを吹き飛ばすために仕掛けたアクメ社製時限爆弾はどういうわけだかロングの元に舞い戻ってからドカンと爆発する。その後、ヒューイ・ロングは崖に落ちたり、汽車にひかれたり、ザリガニに鼻を挟まれたりして、最後はマーシャル陸軍参謀総長の爆撃機による集中爆撃を食らい、焦土と化したバトンルージュでロングは〈アフリカ・チョコレート〉の自販機みたいに真っ黒になって降参の白旗を上げる。そこで〈星条旗よ永遠なれ〉がかかっておしまい。

 次は猫のシルベスターとカナリアのトゥイーティが手を組んで、デブで赤ら顔で醜悪な酔っ払いとしてカリカチュアにされた人民連合国大統領ヒューイ・ロングを徹底的にやっつける。ロングがトゥイーティを焼き鳥にするために仕掛けたアクメ社製カミナリ雲発生装置はどういうわけだかロングの頭をしつこく追いかけて、ロングの頭にカミナリを落とす。その後、ヒューイ・ロングは崖に落ちたり、汽車にひかれたり、ザリガニに鼻を挟まれたりして、最後はアイゼンハワー陸軍総司令官の戦車による集中攻撃を食らい、焦土と化したバトンルージュでロングは〈アフリカ・チョコレート〉の自販機みたいに真っ黒になって降参の白旗を上げる。そこで〈星条旗よ永遠なれ〉がかかっておしまい。

 三本目はロードランナーとワイリー・コヨーテが手を組んで、デブで赤ら顔で醜悪な酔っ払いとしてカリカチュアにされた人民連合国大統領ヒューイ・ロングを徹底的にやっつける。ロングがロードランナーをぺしゃんこにするために仕掛けたアクメ社製投石器はどういうわけだか、物理の法則を一ダースほど無視してから、ロングの頭に大きな岩を落としてくる。その後、ヒューイ・ロングは崖に落ちたり、汽車にひかれたり、ザリガニに鼻を挟まれたりして、最後はニミッツ提督の空中艦隊による集中攻撃を食らい、焦土と化したバトンルージュでロングは〈アフリカ・チョコレート〉の自販機みたいに真っ黒になって降参の白旗を上げる。そこで〈星条旗よ永遠なれ〉がかかっておしまい。

 有川は二番目の話の途中からいびきをかいていたが、三番目の話の終りで突然、目が覚めた。というのも、最前列の席に座っていた観客の一人が、女房子どもが止めるのも聞かず、段に上がって「労働者諸君!」をやり始めたのだ。

 男の言っていることを端折って説明するなら、このアニメーションは唾棄すべきアメリカ拝金主義の権化である共和党政府のプロパガンダであり、ロング率いる人民党は農民や労働者の立場に立って戦っている。心あるプロレタリア階級は当然このことに気づいているはずであり……

 そこから先は言えなかった。客席から空になったラムネの瓶が飛んできたからだ。憲兵が警告の笛を吹く手間もない。男たちは、引っこめ馬鹿野郎、俺たちは金を払って映画を見に来たんだぞ、アジるんならどっか余所でやれといった具合に、罵声とラムネ瓶を浴びせ続けた。

 もっとも誰もこんなアニメを本気で見ていたいとは思っていない。それに銀行を優遇するアメリカ共和党にシンパシーを感じているわけでもない。そうではなく、彼らはただラムネの瓶を人に向かって力いっぱい投げたいだけなのだ。子どもたちは大人の事情には一切構わず、割れたラムネ瓶からビー玉を回収してはポケットに入れる作業を黙々とこなしている。

 後ろから投げられた瓶の飛距離が足りずに、有川の二つ隣に座っていた男の頭に当たった。いてえ、いてえ、畜生め、とうめく男を尻目に有川は潮時だと思い、ラムネ瓶が頭上をかすめる劇場から命からがら逃げ出した。



 餅川キネマを出て、腕時計に視線を落とす。四時四十分。だが、有川はもうダンスホールに行くことにした。考えてみればダンスホールには必ず煙草の売り子がいる。まさかダンスホールで禁煙はないだろう。

 有川は通りを横切って、上の階層につながる階段を上った。

 青山街塔区の十七階といえば、ジャズとダンスホールで有名であり、ボルサリーノの帽子を必要以上に傾けてかぶったりするようなめかし込んだ人々で賑わっている。目抜き通りの店の構えはもちろんアメリカ・ジャズクラブ式で瓦や障子のような日本を連想させるものは一切なし。「ディキシーランド」「シカゴ・ホール」「リトル・カンザス」といったアルファベットのネオンが青、赤、黄、紫に点灯し、クラブの入口の扉が開く度に「イン・ザ・ムード」や「ビューグル・コール・ラグ」の切れっぱしがワッと鼓膜を震わせる。

有川が道を渡ろうとすると突然、車が加速しながら角を曲がってきた。有川を危うく轢きそうになったのはカナリア色が美しい四人乗りの一九二九年型キャデラック・フェートンだった。車には酔っ払った八人の男女が幌を明けた状態で無理やり乗り込んでいて、ぐちゃぐちゃに絡まった男女のかたまりからストッキングを穿いた脚や舶来物のウイスキー瓶をつかんだ腕が伸びていた。彼らはキャーキャーゲラゲラ騒いだり笑ったりしながら、その後も蛇行運転を続け、サンドイッチ・マンを轢きかけてからバタン式交通信号を無視して別の通りに曲がって見えなくなった。おそらく華族の跡取りと戦争成金の娘たちだろう。赤坂街塔区一階のドヤ街で火事が起きて、日雇いとその家族が百人焼け死んでもニュースは社会欄に小さく端っこに載るだけだ。だが、あの酔っ払い連中が街塔区周縁のガードレールを突き破って十七階下の貧乏人の家の上に落っこちて骨肉四散の憂き目に遭えば、府内の各新聞は一週間くらいそのことで特集を組める。そして、大勢悲しむのだろう。もちろん有川も悲しむ。だが、それは酔っ払ったド阿呆八名のためではない。このド阿呆八名が空から降ってきたために家、あるいは命までをも失った貧乏人のために悲しむ。そして何よりもスクラップと化したあの、カナリア色の美しい一九二九年型キャデラック・フェートンのために悲しむのだ。

 あの手の馬鹿野郎たちは世間からはシカン世代と呼ばれている。

 一昔前、蒋介石が日本海軍の上海陸戦隊を攻撃して、支那事変が発生した際、日本は戦争の拡大化も辞さない態度でいた。そのころもシカン世代と呼ばれた。ただし、シカンは士官と書く。戦時中とあって、物事が軍隊流に何でもキビキビ動いたのだ。

 それに対し、現在のシカン世代は弛緩世代と呼ばれている。蒋介石との戦争が南京陥落であっという間に決着がつき、蒋介石側の提示した条件を日本側も承認して終戦。半年と戦わなかった戦争だった。すると、簡単に拾った勝利と士官世代の反動で緩みがやってくる。特に大きな緩みは太平洋の向こうからやってきた。カリフォルニア特需が多くの成金を生み、現在の日本はすっかり首まで成金文化に浸っている。

 弛み、緩みは人品の上下を問わない。警視庁の調べによると、詐欺や横領といった金に絡んだ犯罪の発生件数が毎年記録を更新し続けている。犯人は、上は没落華族から下は雲助まで。みんな金、金、金なのだ。

 日本は弛みっぱなしの緩みっぱなしだった。

「この国はおかしくなっちまってるのかもなあ」

 有川はそんなことをぼんやりと声に出し、両開きになったモンテビデオ・ダンスホールのドアを通った。客は踊り場に通じる廊下を進む前に、ロビーにある大理石製の上品なカウンターと対面する。カウンターの後ろはクローク・ルームだから、冬ならば毛皮のコートなり厚手のオーバーなりをここで預ける。ただ、有川の場合は違っていた。

「武器の類は携帯しておられますか?」と、受付係の品のいい若者が言い、にこりと笑った。

「ああ」

「では、カウンターでお預けください。なお預けられた銃については、もし、お客様のお酒が過ぎて人事不省となり、拳銃の携行について不安が生じたと当店で判断した場合、銃の返却をお断りすることもあります。その場合、後日、改めてのご返却となります。このことを事前にご承知いただけますか?」

「わかった」

 有川はサベージ・ピストルと弾倉を一つ預けた。銃と弾は内側にビロードを張ったオーク材の平べったい箱に入れられ、鍵がかけられた。有川は鍵を受け取った。丸く薄いアルミのキーホルダーは《十五番》と赤い字で刻印されていた。

「では、ごゆっくりお楽しみください」

 有川は踊り場に通じる廊下を歩いた。吊り下げていた銃がなくなった分、肩がずいぶん軽くなった。

 昔、こうした娯楽施設は武器の持ち込みに非常に寛大、というか無関心だったらしい。うるさくなったのは支那から軍閥の親分崩れたちが日本に流れ込んできてからだった。蒋介石に敗れた軍閥の親玉たちは大陸でこさえた莫大な財産とともに日本に逃げ込んで派手に金をばらまいて豪勢に暮らしていた。有川の知るところ、座敷やダンスホールで銃を見せびらかすという悪習を持ち込んだのはこいつらだ。これにより有川と違って仕事で銃を使う可能性が全くない日本人まで軍閥崩れの真似をして銃を携行したがるようになったのだ。これに店側も神経を尖らせたところで一事件起こった。三年か四年か前に、とある街塔区のとある座敷で山東省軍閥の元親分と安南の亡命皇族とのあいだで、おそらく女がらみのことで諍いが起こった。すわ決闘かとなると、フランスへの長期留学経験があった亡命皇族は西洋風の古式ゆかしい拳闘の構えを見せた。一方、軍閥の元親分はためらうことなくブローニング・ピストルを抜き、八発全弾を亡命皇族の顔に撃ち込んだ。

 ホールの扉を開く。大連帰りの南里文雄とホット・ペッパーズが「アット・ザ・ジャズ・バンド・ボール」をやっていた。音楽と歓声とダンスシューズが嵌め木板の床を打つ音。有川は中央で踊る男女の中に篠宮がいないか軽く見てみたが、案の定来ていなかった。有川は棕櫚の鉢がそばにある壁際の席に座ると、早速陳列箱を手に歩いてまわる煙草の売り子を呼び止め、チェリー二つを買い求めた。一本つけてバージニア種の甘さをたっぷり五分くらい楽しんでから灰皿に押しつけると、今度は喉が渇いてきた。

 有川は目の前を横切ろうとしたボーイを呼びとめ、

「ウイスキー・ソーダ。ただ、ソーダとウイスキーは別々にして持ってきてくれ」

 と、注文した。こうすれば店側はウイスキーの量をケチることが出来なくなるし、割る炭酸水の量も自分好みに変えられる。それに有川は強い炭酸水を飲んだときの感触が好きだった。

 ウイスキーと炭酸水が別々のグラスに入った状態でやってきたとき、曲が「サムデイ・スィートハート」に変わった。すると踊りはずっとスローなものになった。

 腕時計を見ると時間は四時五十五分だった。

 篠宮の来る気配がない。

 有川はため息をつきつつ、炭酸水を口にした。

 喉ではじける炭酸の泡が彼を満州の荒野へ連れていく。

「日本兵ニ告グ! 命ハ助ケル! 武器捨テテ投降セヨ!」

 満州なまりの日本語が聞こえてきた。激しく打ったのか肩が痛い。額が少し切れて血が垂れているようだが、気が遠くなることはない。何が起きたのか。物が全て真横に見える。そこで装甲列車が横倒しになったことに気づく。

「日本兵ニ告グ! 命ハ助ケル! 武器捨テテ投降セヨ!」

 真横に倒れたとあっては抵抗のしようがない。有川の相方だった機関銃手は横倒しの際に落下してきた九二式重機関銃に頭を割られて死んでいた。

「日本兵ニ告グ! 命ハ助ケル! 武器捨テテ投降セヨ!」

 考える力が麻痺していた。肩が――とくに右肩が痛かった。どうやら外では多くの日本兵が士卒を問わず降伏しているようだ。自分も投降しようと思い立ち上がろうとしたとき、裾が何かに引っかかった。正確には引っぱられていた。引っぱっているのは戦場に不釣合いなほど細く白い指だった。指の持ち主は昨日、余所から転属されてきた新人の機関銃手だった。

「出ちゃダメだ」新人は声をひそめて有川に言った。「奴らは殺るよ」

 その言葉を裏づけるように、数秒後にはピストルと小銃の乱射音が鳴り響いた。音が止むと、今度は馬賊の甲高い歓声とともに、ときどきピストルが数発発射されていた。死に損なった日本兵に笑いながらトドメの一発を撃ち込んでいるのだ。

 ここにいたら殺られる。脱出のために何か考えるべきだったが、頭の中は真っ白で何をすべきか、全く思いつかなかった。馬賊たちは列車の中も当然探索する。見つかったら、支那式のだんびらで首を斬り飛ばされるに違いない。恐慌をきたしかけた有川に対し、新人が、

「機関銃は撃てる?」

 と、落ち着いた様子で訊いてきた。

 恐慌状態の一歩手前で踏みとどまった有川は新人の問いに、どうだろう?と思って、自分の右肩に触れた。指先がぶつかっただけで火掻き棒を突っ込まれたような痛みが走った。

「無理だ」有川はうめいた。

「分かった」新人は言った。「じゃあ、援護して」

「肩がやられてるんだ。小銃だって使えない」

「照明弾を発射するのに使う信号銃がある。それくらいなら左手で撃てるよね?」

「そのくらいなら……」

「それで十分。僕が合図したら空に向けて撃ってくれ」

 有川と新人は横転した列車の左側面に上った。新人は九九式軽機関銃を一丁、それに弾倉を七つ持って、列車上で伏射の姿勢を取った。有川は紐を通した信号銃を首からぶら下げ、ポケットやベルトのあいだなどに十数発の照明弾を詰め込み、新人の隣に身を屈めた。

 新人が言った。「今だ!」

 有川は左手で照明弾を空に向かって打ち上げた。

 パラシュート付きの燐が空でギラギラと燃えて全てを照らし出した。多くの馬賊が光にその姿を晒したが、中でも胴の太い馬にまたがって革の外套を身につけた頭目らしき大男が特に目立った。すぐに機関銃の三連射。頭目は鞍から弾き飛ばされ、臓物を撒き散らしながら地に落ちたが、頭目の体が地面にぶつかるころには、そのすぐ横にいた馬賊が胸に三連発食らっていた。

 馬賊の半分以上が死んだ日本兵の持ち物を漁るために下馬していた。それが余計混乱をきたした。

 頭目の妾と見える女馬賊が手綱を口にくわえると、左右の手にそれぞれモーゼル拳銃を構え、勇ましく盲撃ちにしながら、装甲列車に突っ込んできた。新人はまた正確な三連射をやった。女馬賊の顔が額、鼻、口の順に吹き飛ばされ、くわえていた手綱が下顎の残骸から落ちると、一拍後に骸もその後を追って鞍から落ちた。

 有川がもう一発照明弾を放つと、頭目を失った馬賊が恐慌をきたしているところに、ミシンのように正確な三連射が三つ続き、三人の馬賊が斃された。新人は機関銃を自分の手足のように扱ってこちらの位置に気づいた馬賊を目敏く見つけては先制の三連射を撃ち込んだ。こうして、新人は襲いかかってくる馬賊の胸に、逃げ出そうとする馬賊の背に三つの焦げた穴を次々と開けていった。

 燐が燃え尽きれば、有川はまた新しい照明弾を撃ち、新人は冷静に三連射を撃ち込んで、馬上の匪賊たちを確実に殺していく。新人は二発でもなく四発でもなく、必ず三発で馬に当てることなく賊のみを淡々とした動作で仕留めていった。

 最後の燐が燃え尽きて、パラシュートがはるか遠くの丘の向こうに落ちるころには東から陽が昇り辺りが明るくなっていた。そして、思い思いの形で地に伏した戦果と損失が明らかになった。日本側は隊長を含む戦死三十七、馬賊側は頭目を含む戦死四十三。生き残ったのは二人だけだった。信号銃を握る有川の手は震えていて、銃を放すのに右手で左手の指をこじ開けなければいけなかった。

 有川は新人を見た。新人はちょうど太陽を背に立ち上がっていた。逆光で表情が見えなかったが、しばらくすると、

「あーあ」気の抜けた声がした。彼は足元の骸を見る代わりに空を仰いだ。「たい焼きが食べたいなあ」

 まるでそう唱えれば、こんがり焼けて尻尾まで餡が入ったたい焼きが降ってくるような様子だった。

 それが四十三人の馬賊を流れ作業のように撃ち殺し、紙一重の差で生き残った人間の第一声だった。有川はしばらくポカンとしていたが、だんだん可笑しさがこみ上げてきて、我慢しきれず声をあげて笑った。

「どうして笑うんだい?」新人は訊いた。

「分からん。そっちこそ、どうして満州の荒野のど真ん中でたい焼きを欲しがるんだ? 今川焼きじゃ駄目なのか?」

「うん、駄目だね」新人はきっぱりと言った。「たい焼きじゃなくちゃいけない。そういう君だって何か欲しいはずだ。考えてみたまえ」

 変なやつだと思いつつ、有川も考えた。そして一分くらい経って、頭の中でポン!と鳴って、

「ラムネ」

 と、言った。

「ただの炭酸水でもいい。喉に冷たさと刺激が欲しい」

 その答えを聞いた新人は嬉しそうに、ね? 言ったとおりだった、と微笑んだ。

 数十分後、青とも灰ともつかない色の空に日本軍の偵察飛行船が飛んでいるのが見えた。助かったのだ。

「おい、新人! 味方の飛行船だ。あれに拾ってもらえるぞ! これだけ戦ったんだ。きっと俺たちは内地送りだ。たい焼きだって好きなだけ食えるぞ」

 うん、と新人はうなずいたが、心ここにあらずといった様子だった。彼の視線の先には寒さで引き攣り奇妙な形にひん曲がって斃れている味方の骸があった。彼は誰に向けるわけでもなく、一唄口ずさんだ。


 昨日生まれた蛸の子が

 弾に当たって名誉の戦死

 蛸の遺骨はいつ帰る

 骨がないから帰れない

 蛸の母ちゃん悲しかろ


 新人は顔だけ有川のほうへ振り返った。

「僕らは大した悪運の持ち主らしいや」

「そうみたいだな」有川はゆっくりと高度を下げている偵察飛行船を見上げた。

「どうだろう?」新人は、今度は体ごと振り返った。「内地に帰ったら、生き残ったもの同士で一緒に商売でもしないかい?」

「商売?」

「うん」新人はうなずいた。「この運を戦争だけで使い切るのは惜しいと思ってね」

 新人はやや幼いが、非常に整った顔を綻ばせて笑った。有川もそれに釣られて顔を綻ばせた。

「商売か」叔父が遺してくれた探偵事務所一式のことを思い出しながら言った。「私立探偵なんてどうだ?」

「私立探偵か」新人は顎をつまんで少し考えると、うん、とうなずき楽しそうに言った。「そいつは素敵だ」

 新人は右肩がやられている有川を気遣って左手を差し出した。有川がそれを握り返すと、新人は言った。

「僕は篠宮紀一郎。よろしく頼むよ」

 炭酸水を一口飲もう。そう思って、有川は瞼を開けた。

 目の前に篠宮が立っていた。



 相変わらず涼しげな顔をしている。涼しげなのは顔だけではない。着ているものも涼しげだった。白いリネンの三つ揃え、紺地に白の水玉模様の蝶ネクタイ、ウイングカラー付きのペンシルストライプのシャツ。手にしているカンカン帽には黒地に二本の白い線が入ったリボンが巻かれていた。

「いつ来たんだ?」有川はちょうどいい分量に減った炭酸水をウイスキーのグラスに注ぎ込みながら訊ねた。

「五時十分ってところかな」篠宮はそばの席についた。

有川はウイスキー・ソーダを一口、二口飲んでから言った。

「ひどく嫌な夢を見た」

「夢?」

「一つはお前と知り合った日の夢だ。いや、あれは夢じゃないな。そこまで深く寝てたわけじゃない。目を閉じて考えてただけだ」

「もう一つの夢は?」

「焼け野原さ。それも何だか薄気味悪い」

「へえ。それについて、ちょっと聞かせてくれないかい?」

 有川は説明した。ラジオ、涙、粗末な服を着た男たち、童顔の軍人、そして自刃。夏の光が刀身を滑り落ちていく。

「すごいねえ」篠宮が言った。「いや、本当にすごい偶然だね。僕も似たような夢を見たんだ」

「焼け野原のか?」

「うん。でも、君が見た夢とは少し違う。なんていうか力のある夢だった」

「力?」

「うん」

 そう答えてから、篠宮はカンカン帽をテーブルに置き、帽子のてっぺんをトンと指で叩いた。そして、カンカン帽を持ち上げると、未開封のスターが一箱置いてある。もう一度、帽子をかぶせて指でトンとやる。帽子を持ち上げると、スターの箱が消えて、カフェ・パウリスタのマッチ一箱とスターが一本。

「便利な帽子だな」

 そう言いながら、有川も自分のを一本出してマッチをすった。

 有川は煙草をくゆらせながら、篠宮の話を聞いていた。

「僕の場合も焼け野原だった。それに着ているものもみすぼらしくてね。それでいて、音がしないんだ。ここまでは君と同じ。問題はここから。僕が見た夢の中のみすぼらしい人々は焼け焦げた大地からまだ使えそうなものをほじくり出し始めたんだ。木の切れっぱしとか、鉛のパイプとか。で、そうしたものを元手に怪しげな商売があちらこちらで出来上がっていくんだよ。海草粉末でつくった偽物のうどんとか、履いているうちにデンプンのような粉をふく長靴とか、天秤に細工がしてある南京豆の量り売りとか、体につけるとヒリヒリ痛む粗悪な石鹸とか、鉄かぶとでこしらえたヤカンとか。とにかくいろんな商売が始まっていく。そして、人が集まってくる。すごい喧騒なのは間違いないけれど、僕にはそれが聞こえない。見ると東西南北の全てが店で埋まっている。あれは青空を屋根にしたデパートだった。そう思って、空を仰いだところで目が覚めた」

「なるほど。確かに似ているけど、違う夢だな」

「あの力強さは巨大な大砲とか天変地異とかとは違う。踏み潰された雑草がしぶとく生き延びようとするような、そんな意識に満ち溢れていた。おかしいねえ。同じ焼け野原なのに君のほうでは軍人が割腹自殺して、僕のほうでは市場が出来上がってくる」

「確かに不思議だな」

 有川はその日四本目のチェリーを灰皿に押し付けた。

「で、篠宮。事務所に残したメモ、用事ってのはなんだ?」

「最近知り合った依頼人を紹介しようと思ってね」

「依頼人? 名前は?」

「神宮寺弘。品川街塔区で貿易会社を経営している」

「俺たちに具体的にどうしてもらいたいか言ってたか?」

「具体的には言わなかった」と、篠宮。「でもさ、有川。僕が思うに探偵には二つのタイプがある。一つはイギリス型。これは推理小説によって世間にあまねく知られた、いわゆるシャーロック・ホームズを代表とするタイプの探偵で難事件怪事件を華麗な名推理でスマートに解決する。もう一つはアメリカ型。これはピンカートン探偵社を典型とする。つまり、スト破りや用心棒といった棍棒ピストル大歓迎の暴力沙汰タイプ。そして、神宮寺氏はどうも後者のタイプの探偵を欲しがっているようだった」

「なんで分かる?」

「僕と君が拳銃の携帯許可証を持っているか訊ねてきたんだよ。推理力よりも腕っ節に期待したわけだ」

「分からないんだが、そもそもお前とその神宮寺氏はどうして知り合ったんだ?」

「まったくの偶然だよ。おととい赤坂のフロリダ・クラブのバーにいったとき、武器をカウンターに預けるように言われてね。銃を預けたら、僕のすぐ後ろに並んでいた神宮寺氏が僕に興味を持って、いろいろ訊ね始めてきたんだ。それで神宮寺氏は僕らに身辺の警護を頼みたい旨を僕に伝えたってわけ」

「ちょっと待て」有川が制止するように手を上げた。「神宮寺氏は会ってすぐのお前と意気投合して自分の命を俺たちに預けることにしたのか?」

「うん」

「そんなことあってたまるか。言えよ。本当は何があった?」

 篠宮は有川の責めるような視線を逸らし逸らししながら言った。「いや、まあ、君が……ほら、あの有川順ノ助の甥だってことを、まあ、その……うん、それとなく教えたんだ。ほんとにそれとなくだよ。そうしたらさ、先方が盛り上がっちゃって、ね……」

 また、順ノ助叔父さんか。

 有川の顔に拗ねたような陰が差したのを見た篠宮が、まあまあ、となだめるように言った。

「これも役得。企業が持つあらゆる資源を有効活用して仕事を取ってくるのも営業戦略の一つだよ」

 有川はこの日何度目になるか分からないため息をついた。

 有川順ノ助。

 有川正樹の叔父にして、日本中にその名を知られた名探偵。

《六星館事件》や《駐日フランス大使息女誘拐事件》を見事解決し、殺人鬼《詠み人知らず》を捕らえるなど数多くの難事件を解決に導いたその活躍ぶりはラジオや新聞であまねく知られるところとなり、有川順ノ助をモデルにした探偵小説も出たくらいだ。そして、その叔父の名が出る度に、甥で現在事務所を継いでいる有川正樹は、いや自分は違うんです、普通に身元調査とか地味な仕事を細々とやっているんです、と説明しなければならない。そう説明したときの相手のがっかりした顔。俺のせいじゃねえや、と有川は思うし、事実その通りでもあるのだし、相手ががっかりするのにもうんざりしている。

 うんざり。

「ん、待て」

 いま有川は大変なことに気づきつつあった。

 篠宮との付き合いが長い有川は篠宮の遅刻を見越して四十五分遅れでやってきた。でも、神宮寺氏は篠宮の遅刻魔ぶりを知らない。

「篠宮。お前、神宮寺氏にも四時に来るように言ったのか?」

「そうだよ」

「それを昨日の時点で言っておけよ! これじゃ二人揃って遅刻じゃないか!」

「そういうことになるね」

「まったく!」

「僕としては君が時間通り来ることを期待していたんだけどね」

「他人事みたいに言うな。ただ『午後四時にモンテビデオで会おう』と書いただけのメモじゃ俺たち以外の第三者が来るのかどうか分からないだろうが」

「実は神宮寺氏が待っててくれる可能性にも期待した。なに一時間なんて宇宙の創造から今に到るまでの悠久の時の中ではほんの一瞬じゃないか」

 ウイスキー・ソーダを飲み干すと、有川は篠宮に一緒に来るよう顎でしゃくって入口のカウンターに問い合わせた。

「神宮寺弘から篠宮紀一郎宛てに何か伝言が残っていないか?」

「少々お待ちください」

 若いカウンターの男は革製の分厚い帳簿のようなものをカウンターに置いて、最後のページをめくった。

「はい、確かに神宮寺様から伝言を預かっております。明日、午後六時にここで会おう、と」

 店を出ると、篠宮は人差し指で頬をぽりぽり掻いた。

「まずい。怒らせたかな?」

「間違いなく怒らせたな。でも、まだ会ってくれるだけいい」

「明日は平謝りから始めないとね。土下座の練習でもしておく?」

「お前一人でやれ。俺は時間通りに来たとしてもお互いの顔を知らないんだから、そもそも意味がない」

「そんなこと言わずに一緒に土下座の練習しようよ。ねえ」

「しない。しないったらしない」

 マッチをすって、とりあえず一服すると、心が落ち着いてきた。

「一応、電話で先に一度謝っておくか。名刺、貰ってるんだろ?」

 篠宮から神宮寺の名刺をもらうと、有川はダンスホールのカウンターに戻って、電話を貸してもらい、そこの番号にかけた。しばらくして有川は店の外に出た。

「何て言ってた?」篠宮が訊いた。

「社長はまだ社に戻ってきていないってさ」


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