綾子の苦悩
吉川に和との結婚を待って欲しいと言われてから、綾子は曲作りに没頭していた。
Speranza以外で書く最初の曲は自分のために書いて欲しかったと言っていた和のために曲作りをしていた。
別れを決めてから、和とのいろんな思い出が頭に浮かんできた。
由岐に内緒で和たちの秘密の隠れ場に連れてってもらった事。
雷が怖くて眠れない夜に、一緒に寝てくれた事。
宿題をやりたくないと駄々をこねる自分に勉強を教えてくれた事。
夏祭りに行って迷子になりかけた時に汗だくで探してくれて優しく手を握ってくれた事。
和が弾いてるのが羨ましくてピアノを始めたけど、全然上達しなくて、すぐにやめたくなった自分に上手く弾けなくていい、演奏してる人が楽しいと思うことの方が大事と教えてくれた事。
両親が忙しくて家にいない事をいつも寂しく思っていたけど、誰にも気付かれないように明るく振る舞っていた事。
膝枕で安心した顔で眠る和の天使のような寝顔。
いつも、優しく暖かな眼差しで自分の事を見つめてくれてた和の瞳。
少ない時間の中でも、体力を維持するために誰にも内緒でいつもジョギングや筋トレをして鍛えてた。
曲を作ってる時はイライラしてる時もあったけど、作り終えた時は最高の笑顔で一番初めに聴かせてくれた。
プライベートの和はふにゃふにゃして頼りないって思われて自分が和を支えてるなんて思われてたけど、本当は自分の方が和に支えられて和に助けられて生きてきた。
和の笑顔に優しさにどれだけ助けられて生きてきたか分からない。
綾子は、幼い頃からの和との思い出の全てを込めて曲を作った。
「スゴい暖かい気持ちになる優しい曲」
と相川に言われた時は、自分の表現したかったものが形に出来た喜びでいっぱいだった。
…この曲を和に渡すことがなくても作った事に悔いはない。
和に別れを告げてからの生活は底の見えない深い闇にどんどん吸い込まれていくようだった。
楽しかった頃を思い出すと別れた現実を実感した。
最後に会った時の和の泣きそうな笑顔が頭から離れない。
無理やり元気に振る舞ってみても、前に進みたくても進めない。
お腹の子のためにも、いつまでも泣いているわけにはいかないのはわかっていたし、食事も睡眠も取らなきゃいけないのも分かってた。
でも、食べ物が喉を通らない…
無理やり食べてみても、身体と心が嘔吐してしまう…。
ホテルの部屋で眠ろうとベッドに入ると、世界中でたった一人になってしまったかのような孤独感に襲われる…。
曲作りに没頭すると和の事を考える時間が少し減った。
誰にも言えない心の中を曲の中で吐き出した。
自分がミュージシャンで良かったと綾子はこの時ほど思った事はなかった。
曲作りに救われてる。
きっとこの曲が完成したら、世間に出回る頃には自分は前を向いて歩き出せてる。
綾子はそう自分に言い聞かせて曲作りをした。
言葉に出さなくても綾子の事を心配して、スタジオに毎日残ってくれてた誠に完成した曲を聴かせたとき、
「今まで聴いてきた曲の中で一番心に響く曲だ」
と誠が泣きながら誉めてくれた。
嬉しかった。
悔いはない。
前を向ける。
綾子はそう思ったけど、次の瞬間には和のことで頭の中はいっぱいになった。
和は泣いてないだろうか?
仕事はキチンとしてるだろうか?
ご飯は食べてる?
眠れてる?
孤独を埋める何を見つけた?
もしかしたら、他の女性に温もりを求めているの?
自分だけが立ち止まってるだけで和は前を向いて歩き出してる?
なっちゃん、もう私のこと忘れた?
誰もいないスタジオの隅で、綾子は子どものように声をあげて泣いた。
会いたい。
声が聞きたい。
離れたところからでもいいから、和の顔を見たい。
和が恋しい。
恋しくて恋しくて恋しくて…頭がおかしくなりそうだ。
次の日、出来上がった曲を相川に聴かせると
「とても感動的で心が震える曲だ」
と誉めてくれたあと、
「どうせなら、前に作った曲も清雅に聴かせて見たら?清雅がどちらを選ぶか分からないけど、あの曲もこのまま眠らせるのは勿体ない」
と言った。
綾子が返事に困ってると
「来週の清雅と事務所での打ち合わせまで考えてみてくれよ」
と相川は言った。
集合時間が近付くと、渉、隼人とスタジオに集まってきた。
相川が綾子の曲が完成した事を伝えると、二人とも聴いてみたいと言った。
出来上がった曲をスタジオに流していると、誠が少し遅れてやってきた。
「おはよう」
いつものようにぶっきらぼうに声をかけてくる誠にどう接していいのか綾子は戸惑っていた。
いつも一緒に笑って泣いて励ましてあってきた誠が自分の事をずっと愛してると言ってくれた。
他の男の子どもを産もうとしている綾子に家族になろうと言ってくれた。
誠が、冗談でも哀れでもなく心から想ってくれてると知った今、綾子はどう接していいのか迷った。
「綾子、そんなに意識されると仕事しずらいんだけど…昨日の事は無かった事にしてもいいからさ。今まで通りやってこうよ」
と笑う誠の優しさに綾子は救われたような気持ちになった。
夕方、スタジオでメンバーと話をしていると、
「綾子、ちょっと話があるんだけど」
と事務所から帰ってきた篠田が綾子を呼んだ。
二人はスタジオを出て近くのカフェに入った。
「実はちょっと先の話なんだけど、仕事の依頼がきてるんだ」
と篠田が言うと
「何の仕事ですか?」
と綾子は聞いた。
「これなんだけど…」
と篠田がテーブルに置いた資料には
『理想の恋愛』
と見出しがついていた。
「これ…」
と綾子が言うと
「実はさ。この雑誌のアンケートで綾子と和が理想のカップルで1位になったらしいんだよ。それで、理想の恋愛ってテーマで特集組みたいから二人に取材と撮影の依頼がきてるんだ」
と篠田は言った。
「二人で…」
と言う綾子に
「プライベートを仕事に利用したくないって言うなら断ってもいいんだけど」
と篠田は言ったが
「でも、ほら」
と篠田は資料を開いて
「アンケートでも、二人のような恋愛がしたい、お互いに認めあい高め合う関係に憧れる、二人の作る曲に愛の深さを感じる…とかさ。ファンは二人にスゴい憧れを持ってるんだよ。それに、今まで週刊誌に取られた以外、二人が一緒の写真って無いだろ?どうしても撮りたいって先方も言ってるんだ。多分最初で最後の二人の取材になると思うし…どうだろう?」
と篠田は言った。
「…なっちゃんは知ってるんですか?」
綾子は震える手で資料を見ながら篠田に聞いた。
「和とも今日話をしたみたいだけど、綾子が良いなら受けるって言ってるらしいよ」
と篠田は言った。
「そうですか…」
綾子は震える声で言った。
和はもう、自分の事なんて気にしてない。
とっくに忘れて、仕事と割りきれてる。
自分だけがいつまでも和を想い前に進めてない。
綾子の目から涙が溢れた。
「…綾子?」
心配そうに顔を除き混む篠田に
「ごめんなさい。仕事は断って下さい」
と綾子は小さな声で言った。
「別にいいんだ。絶対に受けなきゃいけないって仕事でもないし。プライベートと仕事は切り離したいよな」
と篠田は言った。
「…違うんです」
と綾子が呟くと
「え?」
と篠田は聞き返した。
「違うんです。私たち、別れたんです。私が別れたいって言って…別れたんです」
と綾子は大粒の涙を流した。
篠田に呼び出された相川は、篠田が運転する車に乗った。
後部座席でうつ向いてる綾子の隣に座り、相川は何があったのか篠田に聞いたが
「相川さん、最近和に会いました?」
と逆に篠田に聞かれた。
「あぁ、5日ほど前に会って一緒に飯食ったけど」
と相川が言うと
「和はどんな様子でした?」
と篠田は聞いた。
「え?普通だよ。いや、普通よりも元気かな?最近、仕事にも遅れないみたいだし精力的にやってるみたいな話を聞いたよ。…何で?」
と相川が言うと、信号待ちをしてる篠田が
「実は、綾子と和が別れたらしいんです」
と言った。
「え?嘘だろ?」
と相川は隣に座ってる綾子を見た。
「…」
綾子が何も言わずうつむいてると
「いやいや、何で?どうして?これから結婚するんだろ?和もプロポーズするって言ってたし、綾子だって結婚に向けて仕事減らして…」
と相川は言ってから
「仕事が原因か?4年で辞めるって言ったのに契約更新したからそれで…ケンカになったのか?」
と相川は綾子に聞いた。
「違います。なっちゃんは仕事のことも応援してくれてました」
と綾子が言うと
「じゃ、何で?」
と相川は言った。
「私が悪いんです。なっちゃんと同じぐらい大切な人が出来て…。どっちか1つ選ぶって考えたらなっちゃんと別れる方がいいって思って…」
と綾子は涙を流した。
相川は長いため息をついてから
「俺さ、さっき聴かせてもらった曲…感動で泣きそうになったと思ったけど違うって今思ったよ。あれは綾子の心だろ?和を想う気持ちと和を失った悲しみ…。後悔してるなら今から戻ったっていいんだぞ。和ならきっと許してくれるよ」
と言ったが、綾子は首を横にふった。
「何でそんなに意地を張るんだ?」
と相川が聞くと
「だって、なっちゃんは私と違ってもう前を向いて歩いてるんです。…私がいなくても仕事も頑張れるし元気に暮らしている。もう、私がなっちゃんの側にいる理由が無いんです。なっちゃんの心の中に私の居場所は無いのに戻ら事なんて出来ません」
と綾子は泣いた。




