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王太子の元婚約者と新婚約者、手を組んで王太子をぶっ飛ばす

掲載日:2026/10/14

「アルテナ・ヴェルクライン! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」


王宮の夜会。楽団の演奏が止まり、三百人の視線が一斉にこちらを向いた。


壇上で胸を張っているのは、ピエール王太子殿下。十年前から私の婚約者で、つい今しがた元婚約者になった方だ。


「そして我が新たな婚約者は――アンジェ・ミルズ男爵令嬢だ!」


殿下が勢いよく指さした先には、栗色の髪の小柄な令嬢がいた。手には食べかけの焼き菓子を持っている。


「へ? わらひ?」


彼女は焼き菓子を飲み込んでから、はっきりと言った。


「嫌です!」


広間が凍りついた。


「は、ははは! 照れているのだな、アンジェ。愛らしいことだ――」


「だから嫌です。てか初耳です!」


「ではアルテナ、潔く――」


「承知いたしました」


私は完璧な角度で一礼した。十年間の王太子妃教育の成果である。


◇


夜会の喧騒を逃れてバルコニーに出ると、先客がいた。さっきの男爵令嬢だ。


「……あなた、殿下がお好きなの?」


「全然」


「奇遇ね。私もよ」


夜風が吹いた。私たちはしばらく黙って月を見上げた。


「あの、ヴェルクライン様。殿下、お返ししましょうか?」


「いいえ。あんな頭の悪い人いりません」


「私もあんなナルシスト、興味ありません」


私は思わず笑ってしまった。人前で声を出して笑ったのは、何年ぶりだろう。


「アンジェさん。あの男、どうにかしません?」


「します!」


即答だった。それから彼女は、なぜか頬を赤くしてもじもじした。


「あの……お姉様って、お呼びしてもいいですか?」


「どうして?」


「ずっと、憧れていたんです……」


耳まで赤い。公爵令嬢という肩書きに憧れてくれているのだろう。


妙な子だ。けれど、悪い気はしなかった。


◇


証拠集めは、半分までは簡単だった。


何しろこの十年、殿下の書類の八割は私が書いてきたのだ。予算の流れなら、殿下本人より詳しい。


「王都の橋の修繕費が、不自然に減っているわ。同じ時期に殿下の狩猟用別荘が改築されている。こちらは孤児院への寄付金が減った直後に、殿下が新しい馬車を購入しているの」


「お姉様、帳簿を見ただけで分かるんですか?」


「数字は嘘をつかないもの。嘘をつくのは数字を書く人間よ」


「かっこいい……」


「でも、ここまでなの」


私は帳簿を閉じた。


「不審な支出には、何年も前から気づいていたわ。けれど殿下の決裁原本は、私には一度も見せてもらえなかった。誰が、誰の指示で動かしたのか。それが示せなければ、ただの言いがかりで終わる」


十年間、私はこの帳簿の前で、何度も同じところで行き詰まってきたのだ。


アンジェが大きな木箱を抱えてきた。


「これ、殿下からの手紙です。お姉様の婚約者だからってご挨拶しただけなのに、翌日から毎日たくさん届くんです」


「……そう」


「燃やそうと思ったんですけど、お姉様なら『書類は絶対に捨てるな』って言いそうな気がして」


「……よく分かっているじゃない」


一通目を開く。


『愛しいアンジェ。君の瞳は夜空の星のようだ。ところで今月も国庫から少々拝借して、君のための白馬を買った。私ほどの男になれば、帳簿など思うがままなのだ』


私は手紙を見つめた。


「……アンジェさん」


「……なんでしょう、お姉様」


「やっぱりこの人……バカよね」


「はい。自分で証拠を送ってくるくらいにはバカですね」


「自分の有能さをアピールしたかったのでしょうけど、これじゃ、ただの自滅ね」


私は二通目を開いた。


『追伸。財務官のハロルドは私の言いなりだ。あいつの弱みは握っている』


「……証拠能力が高すぎるわ」


「ですよね!」


私は手紙と帳簿を並べた。


日付が合う。金額が合う。国庫からの不審な支出を、殿下自身が自分の言葉で認めている。


これなら、殿下が何も知らなかったとは言えない。


「……これで、全部つながったわ」


「お姉様、すごいです!」


「すごいのは、この手紙を捨てなかったあなたよ」


アンジェは目を丸くして、それから、ふにゃりと笑った。


◇


その日を境に、彼女は私の知らないことをたくさん教えてくれた。


市場の串焼きは立ったまま食べるのが一番おいしいこと。値切るときは笑顔で三回粘ること。雨上がりの石畳は、走ると楽しいこと。


「お姉様、口の端にタレついてます」


アンジェが手を伸ばして、指先でそっと拭った。


「……ありがとう」


どくん、と胸が跳ねた。


なぜだろう。十年間、殿下の隣にいても、こんなふうになったことは一度もないのに。


きっと串焼きの塩が効きすぎたのだ。私はそう結論して、四本目を注文した。


◇


そんなある日、王宮に妙な噂が流れた。


アルテナ・ヴェルクラインが、嫉妬に狂ってアンジェ・ミルズをいじめている。ドレスを引き裂いた。ワインを浴びせた。とうとう階段から突き落とした――。


しかも殿下は、国王陛下に審問を願い出たらしい。私を国外追放にするために。


「私を、いじめた? お姉様が?」


アンジェは怒りで震えていた。


「定番ね」


「お姉様、なんでそんなに落ち着いてるんですか!」


「だって好都合だもの。殿下が自分から、陛下の前に出てきてくださるのよ」


私はお茶を一口飲んだ。


「証人は誰かしら」


「殿下の取り巻きの令嬢が三人。『確かに見た』って言ってるそうです」


「階段から突き落とされたのは、いつ?」


「先週の水曜の午後だって」


「先週の水曜の午後」


私たちは顔を見合わせた。


「「市場で串焼き」」


「ぷぷぷっ!」


「そんなに笑っちゃだめよ、アンジェさん」


「だって、よりによってその日を選ぶなんて。殿下はやっぱりバカですね」


「……否定はしないわ」


「屋台のおじさん、絶対に覚えてますよ。お姉様、三本目でタレを袖に落としてたので」


「そこは忘れてほしいわね」


「一生忘れません」


なぜか、アンジェは少しだけ真面目な顔をしていた。


◇


審問の日。謁見の間には国王陛下と宰相閣下、それに主だった貴族たちが並んでいた。


「父上! この女は嫉妬のあまり、か弱いアンジェを階段から――」


殿下の演説は長かった。取り巻きの令嬢三人が、涙ながらに「見ました」と証言する。


陛下がアンジェに目を向けた。


「ミルズ嬢。相違ないか」


「嘘ばっかですね!」


アンジェは一歩前に出た。


「いじめられてません。むしろ私がお姉様に一方的に付きまとってます。それから階段の日、私はお姉様と市場で串焼きを食べてました。屋台のおじさんが証人です。外に待たせてあります」


取り巻きの令嬢たちの顔色が変わった。


「ア、アンジェ! 脅されているのだな!」


「脅されてないです。殿下から届いた手紙のほうが、よっぽど脅迫状みたいでした」


私は前に進み出た。


「陛下。本日は私からも、ご覧いただきたいものがございます」


帳簿の写しを差し出す。橋の修繕費、孤児院への寄付金、軍の糧食費。不審な支出が、日付と金額つきで並んでいる。


「捏造だ! この女は私を陥れようと――」


「でしたら」


アンジェが木箱をどんと置いた。


「殿下ご本人の筆跡で、ご確認ください」


宰相閣下が一通を手に取り、無表情のまま読み上げた。


「『愛しいアンジェ。君の瞳は夜空の星のようだ。ところで今月も国庫から少々拝借して――』」


どよめきが起きた。


「『追伸。財務官のハロルドは私の言いなりだ』」


列席していた財務官ハロルドが、静かに膝から崩れ落ちた。


「『追々伸。この手紙は読んだら燃やすように。私の偉大さが、国庫を通じて証明されてしまうからね』」


陛下が片手で目元を覆った。


「……宰相。あと何通ある」


「木箱にあと二百十四通ございます、陛下」


「……やはり、育て方を間違えたか。もうよい」


陛下の声は、地の底から響くようだった。


◇


「ピエール。今この時をもって、そなたを廃嫡とする。者共、こやつをデスパレード島に送れ」


謁見の間が静まり返った。


「そんな馬鹿な! 私は王太子だぞ!」


「いいえ」


私は静かに告げた。


「たった今、元王太子になりました」


衛兵たちが動き出す。


そのとき、ピエールの目が私を捉えた。


「お前だ……全部お前のせいだ、アルテナ!」


止める間もなかった。元王太子が段を駆け下り、私の左手首を掴んでねじり上げる。もう片方の手が振りかぶられた。


「お姉様!」


アンジェが飛び出そうとする。


「下がっていて、アンジェ」


私は言った。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。


「これは、私の十年分だから」


十年。


誕生日も舞踏会の予定も、殿下の思い付きひとつで潰された十年。


殿下の失言の後始末に頭を下げ続けた十年。


「女は黙って笑っていろ」と言われ、黙って笑ってきた十年。


だが、王太子妃教育で、ひとつだけ心から好きになれた授業があった。


護身術だ。


掴まれた左手首に逆らわず、半歩、斜めに身をさばく。


振り上げられた拳が空を切り、勢い余ったピエールの身体が前のめりになった。


右足で床を踏みしめ、腰を回し、肩を入れる。


「十年間のお礼ですわ」


右ストレート。


元王太子殿下は、美しい放物線を描いて謁見の間を横断した。真紅の絨毯の上を三回転がって、ようやく止まる。


静寂。


陛下はゆっくりと天井を見上げた。


「……宰相。今、何か見えたか」


「はい、陛下。ピエール氏が先にご令嬢に掴みかかり、手を振り上げました。ご令嬢は身を守られた。正当防衛です。この場の全員が証人です」


宰相閣下は一拍おいて付け加えた。


「それ以外は、何も見えませんでした」


「奇遇だな、余もだ」


陛下は目を逸らしたまま、深く頷いた。


駆け寄ってきたのは、アンジェだった。


彼女は何も言わずに、私の右手を両手で包んだ。


「痛くないですか」


拳がじんじんと熱かった。指の付け根が少し赤くなっている。


十年間、私が痛いかどうかを訊いた人はいなかった。殿下も、教師たちも、きっと私自身も。


「……少しだけ」


「冷やしましょう。あとで、ちゃんと」


包まれた手が温かい。怒りを込めて握った拳が、ゆっくりとほどけていく。


胸の奥で何かが静かに鳴った。


「――それはそうと」


アンジェが顔を上げた。目がきらきらしていた。


「お姉様の右ストレート! 本物! 本物です!」


「……アンジェ?」


◇


「……あなた、私の何を知っているの?」


審問の後、王宮の庭で。アンジェは目を輝かせて詰め寄ってきた。


「三年前の王都拳闘大会! 覆面の貴婦人! あの伝説の逆転勝利!」


「…………」


「私、あの日からずっとファンなんです!」


「……どうして私だと」


「表彰式で覆面の貴婦人がしたお辞儀、すごくきれいだったんです。そしたら以前、王宮の夜会で、まったく同じ角度のお辞儀をしている方がいて」


「……お願い。忘れて」


忘れてほしかった。


護身術の師匠である老騎士に「お嬢様の拳は実戦で磨くべきです」とそそのかされ、覆面をつけて一度だけ出場したのだ。決勝で二度倒れ、三度目に立ち上がって勝った。誰にも言っていない。言えるはずがない。


「殿下にご挨拶したのも、本当はお姉様とお話しするきっかけが欲しかったからなんです」


「……殿下のことは?」


「ついでです」


「ついでにもなっていないわね」


「はい!」


満面の笑みだった。


「ところで、これからどうなさるんです?」


「そうね。十年ぶりに自由になったことだし……」


「旅行とか?」


「いいわね」


「どちらへ?」


私は微笑んだ。


「まずは、拳闘大会を見に行きましょう」


「出場する気満々じゃないですか!」


「見に行くだけよ」


「じゃあなんで覆面を新調する話を仕立て屋にしてたんですか!」


「……どうして知っているの」


「お姉様がお忍びで通っている町の仕立て屋、うちの男爵家の御用達なんです。昨日、採寸に行ったら、奥で覆面の打ち合わせをしているお姉様の声が聞こえて。あとファンですから!」


アンジェは胸を張った。


「セコンドは私がやります!」


セコンド。試合のあいだ、ずっと選手のそばにいる人。


そう思った途端、私は気づいてしまった。


旅行の行き先を考えるとき、私は当たり前のように、隣にこの子がいる前提で考えていた。


「アンジェ。あなた、いつまで私のそばにいるつもり?」


「一生です!」


「……それは、友人として?」


アンジェの勢いが、ぴたりと止まった。


しばらく足元を見て、それから、まっすぐ私を見た。


「できれば、それ以上がいいです」


頬が真っ赤だった。夜会のバルコニーで見た赤さとは、少し違う色に見えた。


「最初は、あの拳に憧れたんです。でも今は、串焼きを食べて笑っているお姉様のほうが、もっと好きです」


串焼きの日に跳ねた胸。包まれた拳の温かさ。


ああ、そうか。塩のせいではなかったのだ。


十年間、王太子妃としての正解ばかり探してきた私には、この気持ちの名前がすぐには分からなかった。けれど、答えはずっと単純だった。


私は、この子と離れたくない。


「では、まずは恋人から始めましょうか」


「えっ」


「嫌?」


「嫌なわけないじゃないですかあああ!」


アンジェが勢いよく抱きついてきた。


「ぐふっ、アンジェ! いまの一撃、重すぎるわ!」


「だって、だって……両想いになるなんて思わないじゃないですか!」


王太子殿下は、婚約者を乗り換えようとした。


その結果、元婚約者と新婚約者は恋人同士になった。殿下だけが、誰にも選ばれなかった。


自業自得というものだ。


どうやら私の自由な人生は、思っていたよりずっと騒がしくて、ずっと甘くなりそうだ。

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