王太子の元婚約者と新婚約者、手を組んで王太子をぶっ飛ばす
「アルテナ・ヴェルクライン! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王宮の夜会。楽団の演奏が止まり、三百人の視線が一斉にこちらを向いた。
壇上で胸を張っているのは、ピエール王太子殿下。十年前から私の婚約者で、つい今しがた元婚約者になった方だ。
「そして我が新たな婚約者は――アンジェ・ミルズ男爵令嬢だ!」
殿下が勢いよく指さした先には、栗色の髪の小柄な令嬢がいた。手には食べかけの焼き菓子を持っている。
「へ? わらひ?」
彼女は焼き菓子を飲み込んでから、はっきりと言った。
「嫌です!」
広間が凍りついた。
「は、ははは! 照れているのだな、アンジェ。愛らしいことだ――」
「だから嫌です。てか初耳です!」
「ではアルテナ、潔く――」
「承知いたしました」
私は完璧な角度で一礼した。十年間の王太子妃教育の成果である。
◇
夜会の喧騒を逃れてバルコニーに出ると、先客がいた。さっきの男爵令嬢だ。
「……あなた、殿下がお好きなの?」
「全然」
「奇遇ね。私もよ」
夜風が吹いた。私たちはしばらく黙って月を見上げた。
「あの、ヴェルクライン様。殿下、お返ししましょうか?」
「いいえ。あんな頭の悪い人いりません」
「私もあんなナルシスト、興味ありません」
私は思わず笑ってしまった。人前で声を出して笑ったのは、何年ぶりだろう。
「アンジェさん。あの男、どうにかしません?」
「します!」
即答だった。それから彼女は、なぜか頬を赤くしてもじもじした。
「あの……お姉様って、お呼びしてもいいですか?」
「どうして?」
「ずっと、憧れていたんです……」
耳まで赤い。公爵令嬢という肩書きに憧れてくれているのだろう。
妙な子だ。けれど、悪い気はしなかった。
◇
証拠集めは、半分までは簡単だった。
何しろこの十年、殿下の書類の八割は私が書いてきたのだ。予算の流れなら、殿下本人より詳しい。
「王都の橋の修繕費が、不自然に減っているわ。同じ時期に殿下の狩猟用別荘が改築されている。こちらは孤児院への寄付金が減った直後に、殿下が新しい馬車を購入しているの」
「お姉様、帳簿を見ただけで分かるんですか?」
「数字は嘘をつかないもの。嘘をつくのは数字を書く人間よ」
「かっこいい……」
「でも、ここまでなの」
私は帳簿を閉じた。
「不審な支出には、何年も前から気づいていたわ。けれど殿下の決裁原本は、私には一度も見せてもらえなかった。誰が、誰の指示で動かしたのか。それが示せなければ、ただの言いがかりで終わる」
十年間、私はこの帳簿の前で、何度も同じところで行き詰まってきたのだ。
アンジェが大きな木箱を抱えてきた。
「これ、殿下からの手紙です。お姉様の婚約者だからってご挨拶しただけなのに、翌日から毎日たくさん届くんです」
「……そう」
「燃やそうと思ったんですけど、お姉様なら『書類は絶対に捨てるな』って言いそうな気がして」
「……よく分かっているじゃない」
一通目を開く。
『愛しいアンジェ。君の瞳は夜空の星のようだ。ところで今月も国庫から少々拝借して、君のための白馬を買った。私ほどの男になれば、帳簿など思うがままなのだ』
私は手紙を見つめた。
「……アンジェさん」
「……なんでしょう、お姉様」
「やっぱりこの人……バカよね」
「はい。自分で証拠を送ってくるくらいにはバカですね」
「自分の有能さをアピールしたかったのでしょうけど、これじゃ、ただの自滅ね」
私は二通目を開いた。
『追伸。財務官のハロルドは私の言いなりだ。あいつの弱みは握っている』
「……証拠能力が高すぎるわ」
「ですよね!」
私は手紙と帳簿を並べた。
日付が合う。金額が合う。国庫からの不審な支出を、殿下自身が自分の言葉で認めている。
これなら、殿下が何も知らなかったとは言えない。
「……これで、全部つながったわ」
「お姉様、すごいです!」
「すごいのは、この手紙を捨てなかったあなたよ」
アンジェは目を丸くして、それから、ふにゃりと笑った。
◇
その日を境に、彼女は私の知らないことをたくさん教えてくれた。
市場の串焼きは立ったまま食べるのが一番おいしいこと。値切るときは笑顔で三回粘ること。雨上がりの石畳は、走ると楽しいこと。
「お姉様、口の端にタレついてます」
アンジェが手を伸ばして、指先でそっと拭った。
「……ありがとう」
どくん、と胸が跳ねた。
なぜだろう。十年間、殿下の隣にいても、こんなふうになったことは一度もないのに。
きっと串焼きの塩が効きすぎたのだ。私はそう結論して、四本目を注文した。
◇
そんなある日、王宮に妙な噂が流れた。
アルテナ・ヴェルクラインが、嫉妬に狂ってアンジェ・ミルズをいじめている。ドレスを引き裂いた。ワインを浴びせた。とうとう階段から突き落とした――。
しかも殿下は、国王陛下に審問を願い出たらしい。私を国外追放にするために。
「私を、いじめた? お姉様が?」
アンジェは怒りで震えていた。
「定番ね」
「お姉様、なんでそんなに落ち着いてるんですか!」
「だって好都合だもの。殿下が自分から、陛下の前に出てきてくださるのよ」
私はお茶を一口飲んだ。
「証人は誰かしら」
「殿下の取り巻きの令嬢が三人。『確かに見た』って言ってるそうです」
「階段から突き落とされたのは、いつ?」
「先週の水曜の午後だって」
「先週の水曜の午後」
私たちは顔を見合わせた。
「「市場で串焼き」」
「ぷぷぷっ!」
「そんなに笑っちゃだめよ、アンジェさん」
「だって、よりによってその日を選ぶなんて。殿下はやっぱりバカですね」
「……否定はしないわ」
「屋台のおじさん、絶対に覚えてますよ。お姉様、三本目でタレを袖に落としてたので」
「そこは忘れてほしいわね」
「一生忘れません」
なぜか、アンジェは少しだけ真面目な顔をしていた。
◇
審問の日。謁見の間には国王陛下と宰相閣下、それに主だった貴族たちが並んでいた。
「父上! この女は嫉妬のあまり、か弱いアンジェを階段から――」
殿下の演説は長かった。取り巻きの令嬢三人が、涙ながらに「見ました」と証言する。
陛下がアンジェに目を向けた。
「ミルズ嬢。相違ないか」
「嘘ばっかですね!」
アンジェは一歩前に出た。
「いじめられてません。むしろ私がお姉様に一方的に付きまとってます。それから階段の日、私はお姉様と市場で串焼きを食べてました。屋台のおじさんが証人です。外に待たせてあります」
取り巻きの令嬢たちの顔色が変わった。
「ア、アンジェ! 脅されているのだな!」
「脅されてないです。殿下から届いた手紙のほうが、よっぽど脅迫状みたいでした」
私は前に進み出た。
「陛下。本日は私からも、ご覧いただきたいものがございます」
帳簿の写しを差し出す。橋の修繕費、孤児院への寄付金、軍の糧食費。不審な支出が、日付と金額つきで並んでいる。
「捏造だ! この女は私を陥れようと――」
「でしたら」
アンジェが木箱をどんと置いた。
「殿下ご本人の筆跡で、ご確認ください」
宰相閣下が一通を手に取り、無表情のまま読み上げた。
「『愛しいアンジェ。君の瞳は夜空の星のようだ。ところで今月も国庫から少々拝借して――』」
どよめきが起きた。
「『追伸。財務官のハロルドは私の言いなりだ』」
列席していた財務官ハロルドが、静かに膝から崩れ落ちた。
「『追々伸。この手紙は読んだら燃やすように。私の偉大さが、国庫を通じて証明されてしまうからね』」
陛下が片手で目元を覆った。
「……宰相。あと何通ある」
「木箱にあと二百十四通ございます、陛下」
「……やはり、育て方を間違えたか。もうよい」
陛下の声は、地の底から響くようだった。
◇
「ピエール。今この時をもって、そなたを廃嫡とする。者共、こやつをデスパレード島に送れ」
謁見の間が静まり返った。
「そんな馬鹿な! 私は王太子だぞ!」
「いいえ」
私は静かに告げた。
「たった今、元王太子になりました」
衛兵たちが動き出す。
そのとき、ピエールの目が私を捉えた。
「お前だ……全部お前のせいだ、アルテナ!」
止める間もなかった。元王太子が段を駆け下り、私の左手首を掴んでねじり上げる。もう片方の手が振りかぶられた。
「お姉様!」
アンジェが飛び出そうとする。
「下がっていて、アンジェ」
私は言った。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「これは、私の十年分だから」
十年。
誕生日も舞踏会の予定も、殿下の思い付きひとつで潰された十年。
殿下の失言の後始末に頭を下げ続けた十年。
「女は黙って笑っていろ」と言われ、黙って笑ってきた十年。
だが、王太子妃教育で、ひとつだけ心から好きになれた授業があった。
護身術だ。
掴まれた左手首に逆らわず、半歩、斜めに身をさばく。
振り上げられた拳が空を切り、勢い余ったピエールの身体が前のめりになった。
右足で床を踏みしめ、腰を回し、肩を入れる。
「十年間のお礼ですわ」
右ストレート。
元王太子殿下は、美しい放物線を描いて謁見の間を横断した。真紅の絨毯の上を三回転がって、ようやく止まる。
静寂。
陛下はゆっくりと天井を見上げた。
「……宰相。今、何か見えたか」
「はい、陛下。ピエール氏が先にご令嬢に掴みかかり、手を振り上げました。ご令嬢は身を守られた。正当防衛です。この場の全員が証人です」
宰相閣下は一拍おいて付け加えた。
「それ以外は、何も見えませんでした」
「奇遇だな、余もだ」
陛下は目を逸らしたまま、深く頷いた。
駆け寄ってきたのは、アンジェだった。
彼女は何も言わずに、私の右手を両手で包んだ。
「痛くないですか」
拳がじんじんと熱かった。指の付け根が少し赤くなっている。
十年間、私が痛いかどうかを訊いた人はいなかった。殿下も、教師たちも、きっと私自身も。
「……少しだけ」
「冷やしましょう。あとで、ちゃんと」
包まれた手が温かい。怒りを込めて握った拳が、ゆっくりとほどけていく。
胸の奥で何かが静かに鳴った。
「――それはそうと」
アンジェが顔を上げた。目がきらきらしていた。
「お姉様の右ストレート! 本物! 本物です!」
「……アンジェ?」
◇
「……あなた、私の何を知っているの?」
審問の後、王宮の庭で。アンジェは目を輝かせて詰め寄ってきた。
「三年前の王都拳闘大会! 覆面の貴婦人! あの伝説の逆転勝利!」
「…………」
「私、あの日からずっとファンなんです!」
「……どうして私だと」
「表彰式で覆面の貴婦人がしたお辞儀、すごくきれいだったんです。そしたら以前、王宮の夜会で、まったく同じ角度のお辞儀をしている方がいて」
「……お願い。忘れて」
忘れてほしかった。
護身術の師匠である老騎士に「お嬢様の拳は実戦で磨くべきです」とそそのかされ、覆面をつけて一度だけ出場したのだ。決勝で二度倒れ、三度目に立ち上がって勝った。誰にも言っていない。言えるはずがない。
「殿下にご挨拶したのも、本当はお姉様とお話しするきっかけが欲しかったからなんです」
「……殿下のことは?」
「ついでです」
「ついでにもなっていないわね」
「はい!」
満面の笑みだった。
「ところで、これからどうなさるんです?」
「そうね。十年ぶりに自由になったことだし……」
「旅行とか?」
「いいわね」
「どちらへ?」
私は微笑んだ。
「まずは、拳闘大会を見に行きましょう」
「出場する気満々じゃないですか!」
「見に行くだけよ」
「じゃあなんで覆面を新調する話を仕立て屋にしてたんですか!」
「……どうして知っているの」
「お姉様がお忍びで通っている町の仕立て屋、うちの男爵家の御用達なんです。昨日、採寸に行ったら、奥で覆面の打ち合わせをしているお姉様の声が聞こえて。あとファンですから!」
アンジェは胸を張った。
「セコンドは私がやります!」
セコンド。試合のあいだ、ずっと選手のそばにいる人。
そう思った途端、私は気づいてしまった。
旅行の行き先を考えるとき、私は当たり前のように、隣にこの子がいる前提で考えていた。
「アンジェ。あなた、いつまで私のそばにいるつもり?」
「一生です!」
「……それは、友人として?」
アンジェの勢いが、ぴたりと止まった。
しばらく足元を見て、それから、まっすぐ私を見た。
「できれば、それ以上がいいです」
頬が真っ赤だった。夜会のバルコニーで見た赤さとは、少し違う色に見えた。
「最初は、あの拳に憧れたんです。でも今は、串焼きを食べて笑っているお姉様のほうが、もっと好きです」
串焼きの日に跳ねた胸。包まれた拳の温かさ。
ああ、そうか。塩のせいではなかったのだ。
十年間、王太子妃としての正解ばかり探してきた私には、この気持ちの名前がすぐには分からなかった。けれど、答えはずっと単純だった。
私は、この子と離れたくない。
「では、まずは恋人から始めましょうか」
「えっ」
「嫌?」
「嫌なわけないじゃないですかあああ!」
アンジェが勢いよく抱きついてきた。
「ぐふっ、アンジェ! いまの一撃、重すぎるわ!」
「だって、だって……両想いになるなんて思わないじゃないですか!」
王太子殿下は、婚約者を乗り換えようとした。
その結果、元婚約者と新婚約者は恋人同士になった。殿下だけが、誰にも選ばれなかった。
自業自得というものだ。
どうやら私の自由な人生は、思っていたよりずっと騒がしくて、ずっと甘くなりそうだ。




