気圧で頭が痛いだけなのに、なぜか崇められています
朝の空は、まるで夜の影がそのまま地上に降りてきたかのように沈んでいた。
雲は重く垂れこめ、空と地面の境界が曖昧になるほど低い。
その雲の隙間から漏れる光は、まるで疲れ切った老人の吐息のように弱々しく、村の屋根や畑を淡く照らすだけで、世界全体が薄い灰色の膜に包まれているようだった。
湿った風が吹き抜ける。
畑の麦がざわりと揺れ、遠くの森の葉が擦れ合う音が、まるで「今日は重い日だよ」と告げているように聞こえた。
風の匂いは、土と草と、昨夜の雨の名残を混ぜ合わせたような、どこか懐かしく、どこか胸を締めつける香りだった。
ユナは家の前で荷物を抱え、そっとこめかみを押さえた。
指先に触れた皮膚は、いつもより熱を帯びている。
その熱が脈打つたび、頭の奥に鈍い痛みが広がり、視界の端がじんわりと揺れる。
痛みは、ただの痛みではない。
世界の輪郭が少しだけ歪んで見えるほどの重さだ。
「……今日、気圧がすごく低い……」
呟いた声は、湿った空気に吸い込まれていく。
声に出した瞬間、痛みが輪郭を持って迫ってくる。
胸の奥が少しだけざわつき、呼吸が浅くなる。
戸口から母が顔を出した。
その目は、ユナの体質を誰よりも知っている人の目だった。
心配と、娘を送り出す寂しさと、どうしようもない優しさが混ざっている。
「ユナ、本当に大丈夫なの?王都まで遠いのよ」
「うん……大丈夫。気圧が落ち着けば、たぶん……」
笑ってみせると、母は眉を寄せたまま、それでも娘を信じようと頷いた。
ユナは胸の奥が少しだけ痛くなる。
心配かけてばかりだな……
けれど、王都での就職試験は今日しかない。
逃げたくない。
弱い自分を変えたい。
そんな小さな決意が、頭痛の隙間から顔を出していた。
ユナは深呼吸をひとつして、馬車乗り場へと歩き出した。
湿った風が頬を撫で、痛みをさらに深く沈める。
けれど、その痛みすら「今日を乗り越えるための試練」だと思えば、ほんの少しだけ前向きになれる気がした。
王都行きの馬車は、村のものより大きく、乗客も多かった。
けれど揺れは激しく、木の車輪が石畳を叩くたび、ユナの頭に鈍い衝撃が走る。
「……うぅ……」
馬車の中は、湿った空気と人々の体温が混ざり合い、息を吸うだけで胸が重くなる。
ユナは窓の外に視線を向けた。
空はさらに暗くなっていた。
雲の色は灰色から鉛色へ。
まるで空が地面に落ちてきそうなほど低い。
遠くの森の影が濃くなり、風が木々を揺らす音が、馬車の中まで響いてくる。
乗客たちがざわつく。
「嵐でも来るのかね」
「なんだか空気が重いな……魔力の流れが変だ」
魔力の流れ。
この世界では、天候と魔力は密接に関係している。
けれどユナには魔力がほとんどない。
だから、彼女が感じているのは純粋に「気圧」だけだ。
気圧が……下がってる……
ユナは額に手を当て、深く息を吐いた。
痛みは波のように寄せては返し、視界の端がじんわりと滲む。
呼吸をするたび、胸の奥が重くなる。
王都に着くまで……もってくれたらいいけど……
馬車が大きく揺れた瞬間、ユナは思わず目を閉じた。
その一瞬で、痛みがさらに深く沈んでいく。
まるで頭の中に重りが入っているような感覚。
……でも、頑張らなきゃ。
ユナは小さく拳を握った。
王都の巨大な門が見えたとき、ユナはほっと息をついた。
けれど、その安堵はすぐに別の痛みに塗りつぶされる。
「っ……!」
門をくぐった瞬間、頭痛が一気に跳ね上がった。
視界が揺れ、足元がふらつく。
ユナは耐えきれず、石畳の上にしゃがみ込んだ。
その直後だった。
――ビリッ
空気が裂けるような音が響き、王都全体を覆う結界が大きく揺らいだ。
空が暗転し、魔力の風が吹き荒れる。
人々が悲鳴を上げ、兵士たちが慌てて空を見上げる。
「結界が……揺れている!?」
「魔力嵐の前兆か!?」
「誰か、魔術師を呼べ!」
ユナはただ頭を抱えてうずくまる。
世界が揺れているのか、自分の頭が揺れているのか、もうわからない。
痛い……気圧……最悪……
そこへ、青いローブをまとった宮廷魔術師が駆け寄ってきた。
ユナの青ざめた顔を見て、目を見開く。
「君……!まさか、異変を察知したのか!?」
「えっ……?ち、違……頭が……」
「ショックで、言葉も出ないのか……!」
完全に誤解されていた。
魔術師はユナを抱え上げるようにして立たせると、「急げ!王宮へ!」と叫んだ。
「えっ、あの、私……気圧で……」
「大丈夫だ、すぐに保護する!巫女の再来かもしれん!」
巫女……?
私が……?
ユナの抗議は、馬車の扉が閉まる音にかき消された。
王都の人々はざわめきながら見送る。
「巫女様……?」
「異変を察知したのか……?」
「伝承の再来か……?」
「王都を救う存在かもしれない……!」
ユナは揺れる馬車の中で、ただ呆然とつぶやく。
「どうして……こうなったの……?」
頭痛は相変わらずひどいまま。
けれど、彼女の知らないところで、「気圧に弱いだけの少女」はすでに王都の運命を揺るがし始めていた。
馬車が動き出すと、王都の石畳を叩く車輪の振動が、ユナの頭痛をさらに深く沈めていった。
揺れのたびに視界がわずかに滲み、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
どうして……こんなことに……
馬車の窓から見える王都の街並みは、本来なら胸が高鳴るほど美しいはずだった。
高い塔、整った街路、魔力灯が並ぶ大通り。
けれど今のユナには、そのすべてが、「光の塊」としてしか認識できない。
痛みが強すぎて、世界がぼやけて見える。
馬車の中には、ユナを保護した宮廷魔術師が同乗していた。
彼はユナの顔色を見て、深刻そうに眉を寄せる。
「……やはり、魔力の乱れを受けているのだな。この反応は、普通の人間には出ない」
違う……気圧……
言いたいのに、声が出ない。
喉が乾き、舌が重く、言葉が形にならない。
魔術師はユナの沈黙を、「重大な未来を見たショック」と解釈したらしい。
「無理に話さなくていい。巫女候補が初めて異変を察知したときは、皆こうなると記録にある」
記録……?
そんなの知らない……
ユナはただ、痛みに耐えるしかなかった。
馬車が王宮へ近づくにつれ、空気がさらに重くなっていくのを、ユナは感じた。
王都の中心部は、魔力の流れが濃い。
魔力を持たないユナにとっては、それは「気圧の変化に似た圧迫感」として襲いかかる。
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
頭の奥で、鈍い痛みが脈打つ。
……苦しい……
魔術師はユナの様子を見て、さらに誤解を深める。
「やはり……王都の魔力圧に反応している……これほど敏感な者は、巫女以外にいない」
違うって……気圧……
ユナは心の中で必死に否定するが、声に出す余裕はなかった。
馬車が止まると、王宮の白い石壁が目に飛び込んできた。
その美しさは、痛みで霞んだ視界の中でもわかるほどだった。
けれどユナの第一印象はただひとつ。
……広い……そして……眩しい……
痛みで涙が滲む。
馬車の扉が開くと、王宮の侍従や騎士たちが一斉にユナを見た。
その視線は、驚きと期待と、わずかな畏れが混ざっていた。
「この少女が……?」
「異変を察知したという……」
「伝承の巫女の再来か……?」
ユナはただ、頭痛でふらつきながら、立っているだけなのに。
魔術師が声を張り上げる。
「巫女候補をお連れした!結界の揺らぎを、いち早く察知した少女だ!」
察知してない……気圧……
ユナの心の叫びは、誰にも届かない。
侍従たちは慌てて駆け寄り、ユナを支えるようにして王宮の中へ案内する。
「お身体が弱っておられる……!」
「すぐに休ませて差し上げろ!」
「巫女様の負担を軽減しなければ!」
巫女じゃない……
ユナはただ、されるがままに歩くしかなかった。
王宮の廊下は、磨かれた白い石が光を反射し、まるで昼間のように明るかった。
けれどその光は、ユナの痛む頭には刺激が強すぎた。
眩しい……
視界が滲み、足元がふらつく。
侍従が慌てて支える。
「巫女様、こちらへ……!」
巫女じゃない……
心の中で何度も否定するが、声に出す余裕はなかった。
王宮の空気は、外よりもさらに重かった。
魔力の流れが濃く、ユナにはそれが「気圧の壁」のように感じられた。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
頭痛が、さらに深く沈んでいく。
……苦しい……でも……言えない……
ユナは優しい性格ゆえ、「違います」と強く言うことができない。
その沈黙が、さらに誤解を深めていく。
侍従に案内され、ユナは王宮の一室へと通された。
そこには、淡い金髪と深い青の瞳を持つ青年が立っていた。
王子レオン。
彼はユナを見るなり、驚きと、どこか痛ましげな表情を浮かべた。
「君が……異変を察知した少女か」
ユナは、痛みで言葉が出ない。
ただ、かすかに首を振ろうとした。
違う……気圧……
けれど、その弱々しい動きは、レオンには「重大な未来を見たショック」にしか見えなかった。
「……辛かっただろう。無理に話さなくていい。君は、国を救ったのだから」
救ってない……
ユナの心の叫びは、またしても誰にも届かなかった。
レオンはユナの前に立ち、その深い青の瞳で、覗き込むように見つめてきた。
「……君は、相当な負担を受けたのだろう」
ユナは、ただ痛みで言葉が出ないだけだった。
けれどレオンは、その沈黙を「重大な未来視の代償」だと受け取ったらしい。
「無理に話さなくていい。異変を察知した者は、皆こうなると記録にある」
記録……?
そんなの知らない……
ユナは心の中で必死に否定するが、声に出す余裕はなかった。
レオンはゆっくりと近づき、ユナの肩にそっと手を置いた。
その手は温かく、優しかった。
けれどユナには、その優しさすら「重さ」としてのしかかる。
「君は……王都を救ったんだ」
救ってない……気圧……
ユナの心の叫びは、またしても誰にも届かない。
レオンの言葉に返事をしようとした瞬間、ユナの頭痛がさらに跳ね上がった。
「っ……」
視界が白く滲み、耳の奥でキーンという高い音が鳴り始める。
耳鳴り……気圧が……また下がってる……
ユナはこめかみを押さえ、その場に崩れ落ちそうになる。
レオンが慌てて支える。
「また……異変を感じ取ったのか!?」
違う……気圧……
しかし、王宮の外ではちょうどその時──
遠くの古代遺跡が、淡く光り始めていた。
魔術師が駆け込んでくる。
「王子!遺跡が反応を……!巫女候補の『予兆』と完全に一致しております!」
レオンはユナを抱きかかえるようにして言った。
「……やはり君は、本物だ」
本物じゃない……
ユナは心の中で泣きそうだった。
ユナは王宮の一室に運ばれ、ふかふかの寝台に横たえられた。
侍女たちが慌ただしく動き回る。
「巫女様、お水を……!」
「巫女様、枕の高さはこれで……?」
「巫女様、光が眩しくないようにカーテンを……!」
巫女じゃない……
ユナは弱々しく首を振ろうとしたが、その動きすら「謙虚さ」と誤解される。
「巫女様は……本当に慎ましいお方……」
「なんて尊い……」
違う……
ユナはただ、痛みに耐えているだけなのに。
部屋が静かになった頃、レオンがひとりでユナの枕元に座った。
窓の外では、王都の魔力灯が淡く揺れている。
その光がレオンの横顔を照らし、彼の瞳に静かな決意を宿していた。
「ユナ。君が何者であろうと……君がどんな痛みを抱えていようと……私は君を守る」
ユナは、痛みの中でかすかに目を開けた。
……どうして……?
私は……ただの……気圧に弱いだけなのに……
レオンはユナの手をそっと包み込む。
「君は……この国に必要な人だ」
ユナの胸が、痛みとは別の理由で締めつけられた。
……違うのに……
でも……こんなふうに言われたら……
断れない……
ユナは、弱々しく頷いてしまった。
その頷きは、レオンにとっては「巫女としての覚悟」に見えた。
「ありがとう、ユナ。君の力が……この国を救う」
救えない……気圧……
ユナの心の叫びは、やはり誰にも届かなかった。
夜が深まり、王宮は静寂に包まれた。
ユナは寝台の上で、まだ続く頭痛と耳鳴りに耐えながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
……どうして……こんなことに……
私は……ただの……気圧に弱いだけなのに……
けれど、王宮の外では──
古代遺跡の光が、さらに強くなっていた。
王都の人々は、「巫女の予兆」だと信じて疑わない。
ユナは知らない。
彼女の体調不良が、王都の運命を大きく揺るがしていることを。
ただひとつだけ確かなのは──
「気圧に弱いだけの少女」の運命が、この夜、静かに動き始めたということだった。




