第001話【まだ始まっていない物語】
白い天井は、ずっと変わらない。
消毒液の匂い。
規則正しく鳴る電子音。
カーテン越しに差し込む、冬の弱い光。
僕は、ずっとこの部屋の中にいた。
ベッドの上から見える景色は、いつも同じだった。
天井の染み。
壁に貼られた注意書き。
点滴スタンドの影が、時間と共にわずかに伸びていく。
走ったことも、転んだこともない。
友達と肩を組んで笑った記憶もない。
外の世界は、窓の向こうにある遠い物語だった。
季節が変わっていくのは、窓越しの空の色で知った。
春は白っぽく、夏は眩しく、秋は鈍く、冬は冷たい色になる。
でも、小説だけは違った。
スマホの画面を指でなぞるたび、僕はどこへでも行けた。
剣と魔法の世界。
森の奥深くに住む獣人。
迷宮都市、王都、辺境の村。
ページをめくるたび、病室は消えた。
足は自由に動き、息は深く吸え、声も出せた。
想像することだけは、誰にも奪われない。
幼い頃から読み続けた物語は、僕の全てだった。
戦闘の構図。
魔法の理屈。
世界の法則。
詠唱の長さと発動条件。
魔力循環の仮説。
剣技の間合いと重心移動。
頭の中では、何千回も冒険を繰り返してきた。
勝って、負けて、工夫して、成長して。
それが僕の、生きる理由だった。
16歳の冬。
医師たちの顔を見て、僕は悟った。
言葉にしなくても分かる。
この体は、もう限界だ。
呼吸は浅く、胸がうまく膨らまない。
指先は冷たく、感覚が薄れていく。
それでも、怖くはなかった。
スマホの画面に映る異世界の景色を、最後まで見られる。
それだけで、十分だった。
「もし……生まれ変われるなら……」
声にならない声で、僕は願った。
魔法が使える世界に行きたい。
自分の足で歩ける世界に。
誰かを守れる世界に。
読む側じゃなく、物語の中に立てる世界に。
最後に浮かんだのは、後悔じゃない。
希望というより、ただ楽しみな気持ちだった。
心電図の音が、静かに伸びる。
白い天井が、ゆっくりと闇に溶けていく━━
━━白い空間に、僕はぽつんと浮かんでいた。
いや、浮かんでいるという感覚すら曖昧だ。
重さがない。
上下もない。
それは、自身の体が無いことを意味していた。
思念体とでも言うのだろうか。
意識だけが、この場所に留まっている。
天井も、壁も、床もない。
ただ淡く光が漂い、境界が存在しない。
時間の感覚もなく、音もない。
それなのに、不安はなかった。
体は軽い。
病室で感じていた痛みも、呼吸の苦しさも、すっかり消えていた。
『ここは……?』
声にならない問いが、意識の中を駆け抜ける。
返事はない。
代わりに、ゆっくりと光が動いた。
光が集まり、輪郭を持ち、人の形になる。
人に似ているが、人ではない。
透明で、淡く光を帯びた存在。
同時に、理解が訪れた。
理屈ではない。
直感だ。
この存在は、案内人。
死後の世界へ、魂を導く者。
案内人は、穏やかで不思議な存在だった。
「カナタさんは、先ほどこの世を去りました」
静かな声で、そう告げられる。
死を知らされる。
生前の記憶が一気に溢れた。
ベッドの冷たい感触。
点滴の管の重さ。
動かない体。
病弱で、16年間ほとんど自由にできなかった人生。
案内人は続ける。
「生前、カナタさんは善良に生きました。罪を犯すこともなく、他人を傷つけることもありませんでした」
淡々とした言葉が、胸に染みる。
(……そりゃ、そうだ)
生前の僕は、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。
誰かを助けるほどの力もなく、誰かを傷つけるほど外に出ることもなかった。
いいことをした記憶も、胸を張れる功績もない。
けれど、悪いことをした覚えも、思い当たらない。
そういう意味では━━
僕は、自信を持って「何もしていない」と言える人生だった。
誰かを救ったわけでもない。
誰かを踏みにじったわけでもない。
ただ、与えられた時間を、静かに消費していただけだ。
白い空間に、わずかな間が落ちる。
まるで、その沈黙を受け取ったかのように、案内人が口を開いた。
「カナタさんは、地獄に行く必要はありません」
淡々とした声だった。
「魂に、矯正や罰を与える歪みは見当たりません」
その言葉を聞き、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
生前の人生を思い返すと、当たり前のことかもしれない。
けれど、少しだけ安心した。
僕の魂は、罰を受けるようなものではないのだと。
そして、一拍置いて案内人は続ける。
「ですので、天国に行くことが可能です。穏やかに休み、次の転生を待つ━━それも、正しい選択でしょう」
その言葉は、否定ではなかった。
けれど同時に、ただ天国で静かに時を過ごすだけで消えてしまうのは、どこか寂しく感じた。
生きた実感のないまま終わるのは、もう十分だった。
もう一度、ただ存在するだけの時間を繰り返すのは嫌だった。
白い空間に、わずかな沈黙が落ちる。
「ですが……」
案内人の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「今回は、カナタさん自身に選択の余地を与えます」
一拍置いて、続けられる。
「先程も言いましたが、地獄に行く必要はありません。天国に行くこともできますが……」
それは、当然の確認だった。
案内人の空気が、わずかに引き締まる。
「……今回は、それ以外の道を選ぶことも可能です」
その言い方が、妙に引っかかった。
天国か、地獄か。
普通なら、それで終わりのはずだ。
『……それ以外』
案内人は、ゆっくりと頷いた。
それだけではない━━僕は直感で気づいた。
『……他にも、行き先があるんですね?』
案内人は少し目を細め、肯定した。
「ええ。安息でも、試練でもない場所です。魂が、次の在り方を自分で選ぶための領域━━狭間と呼びます」
案内人は、穏やかに答える。
「狭間は、天国と地獄の“間”に存在する世界です。そこでは、学び、鍛え、試すことができます。生前に叶えられなかった願いに、自らの力で挑む場所」
その言葉を聞いた瞬間、はっきりと分かった。
━━僕は、そこに行きたい。
僕の心臓が、━━いや、魂が跳ねた。
『魔法や、スキルはありますか?』
「魂には潜在的な力があります。思考と意志で、魔法のような現象を起こすことも可能です。カナタさんのように、想像力を鍛えてきた魂は、有利でしょう」
息を呑む。
何百冊も読んだ物語。
頭の中で組み立てた、無数の仮説。
それが、現実になる。
『でも……当然リスクありますよね?』
「あります。魂が破壊されれば、消滅━━魂死です。消えた魂は、循環にも戻らない。それが、本当の終わりです」
それは、二度と物語が続かないという事になる。
それでも、迷いはなかった。
『……僕、狭間に行きます』
言葉にした瞬間、不思議と迷いはなかった。
生前、選べなかったものを━━今度こそ、自分で選びたい。
そして、思い出したように、口を開こうとした。
少しだけ、間を置く。
『その前に……ギフトとか、スキルとか、貰えたりしませんか?』
生前に読んだ物語の定番。
聞くだけなら、損はない。
案内人は、すぐには答えなかった。
ただ、静かにこちらを見つめ、やがて一つうなずく。
「……そうですね。物語のようなチートの力は、ここでは与えられません」
胸の奥に、わずかな落胆が広がる。
(そうか……やっぱり、そう上手くはいかないか)
案内人は、まるで僕の思考を読んでいるかのように、静かに続けた。
「ですが、狭間での生活を円滑に進めるための“支援”を用意することは可能です」
案内人が、ゆっくりと手をかざした。
淡い光が集まり、僕の傍らに、もう一つの気配が生まれる。
まるで、風のない空間にゆらめく小さな灯火のように。
「カナタさんには、同行者と一緒に行ってもらいます。狭間での基礎知識、生活の補助、魂の安定化━━そうした役割を担う存在です。名前は、"ソラ"」
その名を告げられた瞬間、光がやわらかく揺らいだ。
なぜか、その名だけは、初めて聞いた気がしなかった。
「狭間での生活において、分からないことがあれば彼女を頼りなさい。学びも、判断も、戦いも、最終的に選ぶのはカナタさんです」
それは、過剰な加護ではない。
けれど、独りきりでもない。
『……ありがとうございます』
案内人は、何も答えず、再び手をかざす。
淡い光が、僕を包み込んだ。
世界が、ゆっくりと溶けていく。
不安も、恐怖もない。
胸を満たしていたのは━━まだ始まってもいない物語への、期待だけだった。




