焦げついたカーテン
第九章 焦げついたカーテン
午後のオフィスは、緩やかな眠気に包まれていた。 コピー機が紙を吐き出すリズム、キーボードを叩く音、電話の向こうの愛想笑い。 その平穏なBGMの中で、紗季のデスク周りだけが、真空パックされたような息苦しさに支配されていた。
「遠野さん、この部分のフォント、どうします?」 隣から、小野寺麻衣がモニターを覗き込んでくる。 ふわふわとした巻き髪から、甘いピーチの香りが漂う。それは、さっき屋上で紗季に死刑宣告をした時と同じ香りだ。 「あ……うん。明朝体でいいよ、そこは」 「了解ですぅ。あ、コーヒー淹れましょうか? 遠野さん、顔色悪いですし」 「ううん、大丈夫。ありがとう」 紗季は視線を合わせずに答えた。 麻衣は「そうですか?」と少し残念そうに首を傾げ、自分のデスクに戻った。その指先が軽やかにキーボードを叩く。彼女が打っているのは業務メールなのか、それとも紗季を破滅させるための告発文なのか。 疑心暗鬼が、黒いインクのように視界を染めていく。
あと二ヶ月。 それまでに決断しなければならない。 美月のための賛美歌を歌うか、自爆テロのスイッチを押すか。 どちらを選んでも、遠野紗季という人間のキャリアと人生は終わる。
定時の一時間前、紗季は「体調不良」を理由に早退を申し出た。 部長は心配したが、麻衣だけは、 「お大事にしてくださいね。無理は禁物ですよ」 と、意味ありげな視線を投げてきた。その目は『逃げても無駄ですよ』と語っていた。
会社を出てすぐに、紗季は長谷川由美に電話をかけた。 コールは長く続いたが、切れる直前に繋がった。 「……もしもし、紗季ちゃん?」 「由美ちゃん、今どこ? 会いたい。……アサミさんのこと、分かったの」 電話の向こうで、息を呑む気配がした。
一時間後。 紗季は由美の運転する軽自動車の助手席にいた。 車は都心を離れ、埼玉方面へと走っている。車窓を流れる景色が、徐々に無機質なロードサイドの店舗と古い住宅街へと変わっていく。 「……まさか、麻衣ちゃんがアサミちゃんの妹だったなんてね」 ハンドルを握る由美が、沈痛な面持ちで呟いた。 「私たちが知らなかっただけだよ。両親が離婚してたなんて。……麻衣ちゃん、本気だよ。私と美月を道連れにする気だわ」 「そうなるまで、放っておいた私たちの責任でもある」 由美の言葉は鋭利な刃物のように紗季に突き刺さった。
車は、古びた団地の前で停まった。 築四十年は経っていそうな、外壁の塗装が剥がれ落ちた五階建ての建物が並んでいる。 「ここ?」 「うん。火事の後、実家を出て一人で暮らしてるの。私も、直接会うのは久しぶり」 由美は後部座席からスーパーの袋を取り出した。中にはゼリー飲料やレトルト食品が入っているようだ。
階段を上り、三階の角部屋へ。 錆びついた鉄の扉。インターホンは壊れていて、配線がむき出しになっていた。 由美が扉をノックする。 「アサミちゃん? 長谷川です。……遠野紗季ちゃんも、一緒だよ」
長い沈黙があった。 拒絶されたかと思った時、内側からチェーンを外す音がして、重い扉が数センチだけ開いた。 隙間から、淀んだ空気が漏れ出してくる。湿布の匂いと、線香のような匂い、そして古紙の匂いが混ざり合った、時間の止まった部屋の匂い。
「……入って」 掠れた、低い声だった。高校時代の、あの透き通るようなソプラノボイスの面影は微塵もない。
玄関に入ると、靴を脱ぐ場所もないほど物が散乱していた。 奥の部屋に通される。 遮光カーテンが閉め切られ、昼間だというのに部屋は薄暗かった。 万年床のような布団の上に、彼女は座っていた。
霧島アサミ。 紗季は息を呑むのを必死で堪えた。 彼女は、長袖のシャツと長いスカートを着て、肌の露出を極限まで避けていた。 だが、首元から顔の左半分にかけて、ケロイド状の引きつれた痕が這っていた。火傷の痕だ。 かつて黒髪のロングヘアだった髪は、短く不揃いに切られている。
「……久しぶりね、遠野さん」 アサミが顔を上げた。 右目は昔のままだ。美しく、理知的な瞳。だが左目は、皮膚の引きつれによって少し形が変わっていた。 「アサミさん、私……」 言葉が出なかった。謝罪なんて、この現実の前では無意味だった。 「座って。汚いけど」 アサミは表情を変えずに言った。
紗季と由美は、布団の端に正座した。 アサミは、枕元のペットボトルに手を伸ばし、水を一口飲んだ。 「妹から聞いたわ。あなたを脅しているって」 「……うん。動画も見たよ」 「そう。あれ、私が撮ったの。皮肉よね。あの時、すぐに先生に言えばよかったのに。恐怖と、惨めさと……あと少しの好奇心で、黙って撮り続けてしまった」 アサミは自嘲気味に笑った。その笑顔も、傷跡のせいで痛々しく歪む。
「遠野さん。あなた、あの時ヘアピンを拾ったでしょう?」 「……うん」 「どうして?」 アサミの問いは静かだったが、どんな尋問よりも重かった。 「どうして、止めるんじゃなくて、隠す方を選んだの?」
紗季は膝の上で拳を握りしめた。 十一年前の自分の心理を、正確に言語化するのは難しかった。 「……怖かったの。美月に嫌われるのが。クラスでの居場所を失うのが。……それと、信じたくなかった。美月がそんなことをする人間だって」 「嘘ね」 アサミが即座に否定した。 「あなたは知ってたはずよ。三枝美月という人間が、自分の邪魔になるものを排除するためなら何でもするって。あなたはそれに魅了されていた。彼女の強さと残酷さに、自分を同化させて安心していたんでしょう?」
反論できなかった。 図星だった。 紗季は美月の影に隠れることで、自分の弱さを守っていたのだ。
「麻衣はね、私が止めても聞かないの」 アサミは天井を見上げた。煤けたようなシミがある。 「あの子、私が火をつけた時、一番に私を見つけたの。燃える私を見て、あの子の中で何かが壊れちゃった。……あの子は、私の復讐代行者じゃない。あの子自身の怒りを燃やすための燃料として、私を使ってるだけ」
「アサミさんは……どうしたいの?」 紗季が恐る恐る尋ねると、アサミは視線を紗季に戻した。 その瞳に、冷たい炎が宿っていた。
「私はね、見たいの」 「……え?」 「三枝美月が、全てを失う瞬間を。彼女が積み上げてきた嘘の城が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちて、泥まみれになって泣き叫ぶ顔を。それだけが、今の私が生きている理由」
アサミは身を乗り出した。 「だから遠野さん。麻衣の言う通りにして」 「えっ……」 「式で告発して。そして、あなたも一緒に地獄に落ちて」
慈悲はなかった。 かつてのクラスメイトへの情など、焼け跡には残っていなかった。 「あなたが無傷で済むなんて思わないで。あなたは共犯者なんだから。……十一年前、あなたがもしヘアピンを拾わず、先生を呼んでいたら、私の人生はこうはならなかったかもしれない」
紗季は床に手をついた。 圧倒的な「被害者」の質量に押し潰されそうだった。 隣で由美が、静かに泣いていた。
「……でもね」 アサミが再び口を開いた。 「もし、あなたが美月以上の『絶望』を彼女に与えられるなら。……麻衣を止める方法が、一つだけあるかもしれない」 紗季は顔を上げた。 「……何?」 「麻衣が持っている動画。あれの『オリジナルデータ』は、ここにある」 アサミは枕の下から、古びたSDカードを取り出した。 「麻衣が持っているのはコピーよ。そして、あの子は知らないことがある。この動画には続きがあるの」 「続き?」 「あなたが教室を出て行った後、もう一度、誰かが入ってきたの」
紗季は目を見開いた。 動画の最後、紗季が出て行った後、誰かがドレスを抱きしめていた影。あれがアサミだと思っていた。 違うのか?
「その人物が何をしたか。それが映っている。……もし、あなたがこのデータを手に入れて、上手く使えば、戦況は変わるかもしれない。ただし」 アサミはSDカードを握りしめた。 「これを渡すのは、あなたが覚悟を決めた時だけ」
「覚悟……?」 「美月を殺す覚悟よ。社会的に、精神的に、完膚なきまでに。……中途半端な告発じゃ、あの女は復活するわ。息の根を止める毒を用意できるなら、これをあげる」
部屋の空気が張り詰める。 紗季はアサミの傷跡を見つめた。 そして、自分の心の中にある傷跡にも触れた。 自分を守るために、誰かの言いなりになるのはもう終わりだ。
「……分かった」 紗季の声は震えていたが、目は逸らさなかった。 「私がやる。美月の脚本も、麻衣ちゃんの脚本も、全部破り捨ててやる」
アサミは数秒、紗季を値踏みするように見つめ、それから枯れ木のような手でSDカードを差し出した。 「見せてみて。あなたの『祝辞』を」
SDカードを受け取った瞬間、紗季の手のひらに、焼けつくような熱が伝わった気がした。 それは、過去からの怨念であり、未来を切り開くための唯一の鍵だった。
団地を出ると、空は茜色に染まっていた。 カラスが鳴いている。 紗季はポケットの中のSDカードを握りしめた。 まだ、中身は見ていない。 だが、そこには、美月と、私と、そしてもう一人の「誰か」の運命を変える真実が映っているはずだ。
「紗季ちゃん、大丈夫?」 由美が心配そうに声をかける。 紗季は大きく息を吸い込み、夕焼けを見上げた。 「うん。……これからが、本当の戦いだよ」
二十九歳。 何者にもなれていないと思っていた自分。 だが今、私は復讐劇の主役になろうとしている。 もう、白紙の原稿用紙に怯えることはない。 書くべき物語は、決まったのだから。




