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隣にいた執行人

第八章 隣にいた執行人


午後一時。  オフィスの屋上は、昼食を終えた社員たちの憩いの場となっていた。  人工芝の緑が目に痛い。ベンチでは営業部の男性たちが缶コーヒー片手に談笑し、フェンス際では総務の女性たちがスマホを見せ合って笑っている。  どこにでもある、平和な昼休みの光景。  だが、紗季にとっては処刑台への階段を上った先に広がる景色に過ぎなかった。

送られてきたURLには、位置情報が埋め込まれていた。座標が示していたのは、紛れもなくこのビルの屋上だ。  犯人は、紗季の職場を知っている。それどころか、今この瞬間の行動すら把握している。  紗季は強張る足を叱咤し、周囲を見回した。  黒いフードの人物や、怪しいマスク姿の男を探す。  しかし、視界に入るのは見知った顔ばかりだ。

その時。 「あ、遠野さん! こっちこっち!」  明るい声が、緊張した空気を切り裂いた。  ベンチの一つから、手を振っている女性がいる。  栗色のゆるふわパーマ。パステルカラーのカーディガン。  後輩の、小野寺麻衣おのでら まいだった。  彼女の膝の上には、コンビニのサンドイッチと、パックの野菜ジュースが置かれている。

紗季は困惑した。  なぜ麻衣が? 偶然ここにいただけか?  無視して他の人物を探そうとしたが、麻衣は笑顔のまま立ち上がり、紗季の方へ小走りで近づいてきた。 「遠野さん、お昼まだですよね? 一緒に食べましょうよ」 「ごめん、麻衣ちゃん。私、ちょっと待ち合わせが……」 「知ってますよ」  麻衣の声のトーンが、ふっと落ちた。  笑顔はそのままだった。目だけが、笑っていなかった。 「待ち合わせ、私ですから」

世界が反転したような眩暈めまいを感じた。  紗季は呆然と、目の前の後輩を見つめた。  入社三年目。要領が良くて、少し天然で、愛されキャラの麻衣。  先日、「三枝美月のインスタがすごい」と無邪気に話しかけてきた彼女。   「……え?」 「ここじゃ目立つので、あっちに行きましょうか。貯水タンクの裏、日陰で涼しいですよ」  麻衣は紗季の腕を掴んだ。  その力は、驚くほど強かった。振りほどこうとすれば騒ぎになる。紗季は抵抗できず、人形のように引かれていった。

貯水タンクの裏側は死角になっていて、誰もいなかった。  コンクリートの壁に背中を預けると、麻衣はサンドイッチの袋を開けながら、淡々と言った。 「遠野さん、昨日の動画、見ました?」  心臓が早鐘を打つ。 「……あなたが、送ったの?」 「はい。アカウント作るの面倒でしたけど」  麻衣は卵サンドを一口かじった。その仕草は、いつものランチタイムと何ら変わらない。  日常と非日常の境界線が曖昧になり、紗季は吐き気を催した。

「どうして……」 「どうして? うーん、そうですね」  麻衣は首を傾げた。 「お姉ちゃんの代わり、ですかね」 「お姉ちゃん?」 「霧島アサミ。私の姉です。両親が離婚して、私は母の方についたので、名字は違いますけど」

霧島アサミ。  点と線が繋がった。  そうか、そういうことだったのか。   「麻衣ちゃん、私……」 「言い訳はいいですよ。全部知ってますから」  麻衣は紗季の言葉を遮った。その声には、今まで隠していた冷徹な響きがあった。 「姉はね、あの日から壊れちゃったんです。大好きな歌も歌えなくなって、学校も行けなくなって。……三年前の火事のこと、知ってますか?」 「……ニュースで、見た」 「自殺未遂ですよ、あれ」  紗季は息を呑んだ。 「本人は否定してますけどね。でも、部屋の中で油まいて火をつけたんです。顔と腕に、ひどい火傷が残りました。もう、人前に出ることも嫌がって、引きこもってます」  麻衣はスマホを取り出し、画像フォルダを開いて紗季に見せた。  そこには、包帯を巻いた女性が、ベッドの上で虚ろな目をして座っている写真があった。  かつて文化祭で透き通るような歌声を披露した少女の面影は、火傷の痕と絶望によって塗りつぶされていた。

「姉の人生を奪ったのは、三枝美月です。そして、それを見て見ぬふりをして、証拠隠滅までしたあなたも同罪だ」  麻衣が一歩、近づく。 「あの動画、誰が撮ったと思います?」 「……アサミさんが?」 「正解。姉はね、予感してたんです。美月に何かされるって。だから、あの日、こっそり自分のスマホを録画状態にして、棚の隙間に隠しておいた。……まさか、自分のドレスが切られる瞬間だけでなく、親友だと思っていた遠野さんが裏切る瞬間まで映るとは思ってなかったでしょうけど」

紗季は壁に手をついた。膝が震えて立っていられなかった。  親友だと思っていた。  アサミは、私を信じていたのか。  だからこそ、私の裏切りは、美月の暴力以上に彼女の心を抉ったのかもしれない。

「私はね、遠野さんがこの会社に入ってくると知って、必死で勉強して同じ会社に入ったんです。復讐するために」  麻衣が微笑んだ。その笑顔は、紗季がこれまで見てきた「可愛い後輩」のものだったが、今はそれが悪魔の仮面に見えた。 「毎日、遠野さんの顔を見るたびに吐き気がしました。よくもまあ、平気な顔して仕事ができるなって。姉が地獄にいる間に、自分はちゃっかりキャリア積んで、スタバのコーヒー飲みながら残業して」

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」  謝罪の言葉は、あまりにも軽く、空虚に響いた。 「謝って済むなら、警察はいらないんですよ。……でも、チャンスをあげます」  麻衣はサンドイッチの最後の欠片を飲み込み、指についたパン屑を払った。 「結婚式。スピーチ、やるんですよね?」 「……うん」 「そこで、真実を話してください」  麻衣の目が、紗季を射抜く。 「あの動画の内容を、参列者全員の前で暴露するんです。三枝美月が何をしたか。そして、自分がどう加担したか。全てを告白して、美月の化けの皮を剥いでください」

「そんなこと……できるわけない」 「できますよ。原稿を読むだけです」 「でも、そんなことをしたら、私も……」 「破滅する、でしょうね」  麻衣はあっさりと認めた。 「社会的信用はゼロになる。会社にもいられなくなるでしょう。美月側から訴えられるかもしれない」 「だったら……!」 「でも、やらなければ」  麻衣はスマホを掲げた。 「この動画を、ネットにばら撒きます。会社の掲示板、取引先、SNS、全てに。ついでに、遠野さんが経費精算でタクシー代を誤魔化してる証拠や、部長の悪口を言ってる録音データもセットでね」    紗季は言葉を失った。  タクシー代の件は、急ぎの仕事で自腹を切った分を後で調整した些細なことだ。部長の悪口なんて、酒の席での愚痴に過ぎない。  だが、そんな些細な埃も、この動画とセットになれば、紗季という人間を社会的に抹殺するのに十分な燃料になる。

「期限は結婚式当日。それまでは、今まで通り『仲の良い先輩後輩』でいましょうね」  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。  麻衣はにっこりと笑い、空になったゴミをまとめた。 「あ、そうだ。午後からの会議、資料のコピーお願いしてもいいですか? 私、ちょっとネイル直したくて」    麻衣はスキップしそうな足取りで、日向へと出て行った。  残された紗季は、コンクリートの壁に寄りかかったまま動けなかった。  頭上には抜けるような青空が広がっている。  しかし、今の紗季には、それが巨大な檻の天井にしか見えなかった。

会社に戻れば、隣の席には麻衣がいる。  「遠野さーん、これ分かんないですぅ」と甘えた声を出してくるだろう。  その裏で、彼女は常にナイフを突きつけているのだ。    逃げ場は完全に塞がれた。  美月からは「完璧な友情の賛美」を強要され、  麻衣からは「自爆テロによる告発」を強要されている。  どちらを選んでも、待っているのは地獄だ。

紗季は震える手でスマホを取り出し、『祝辞_Draft_Zero』を開いた。  そこにある告発の文章。  あれはただの気晴らしだったはずだ。  しかし今、それは現実の台本になろうとしている。

屋上の風が吹き抜け、紗季の髪を乱した。  乱れた髪を直す気力もなく、彼女はフラフラと出口へ向かった。  かつての共犯者は、今や二人の女王――表の女王・美月と、裏の女王・麻衣――の盤上で踊らされる、哀れな駒に成り下がっていた。


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