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氷上のモーニングルーティン

第七章 氷上のモーニングルーティン


「……仕事熱心ね、こんな時間まで」  美月の声が、静寂を切り裂いた。  紗季は心臓が口から飛び出しそうなのを堪え、努めて緩慢な動作でエンターキーを叩いた。画面には、ダミーで開いておいた広報プランのExcelシートが並んでいる。  USBメモリは、パソコンの右側面、美月からは死角になる位置に刺さったままだ。青いアクセスランプの点滅だけが、紗季の足元で時限爆弾のカウントダウンのように光っている。

「来週のプレゼン資料、どうしても気になっちゃって。……美月こそ、眠れないの?」  紗季は振り返り、眉を下げて見せた。  美月はドア枠に寄りかかったまま、紗季の顔をじっと見つめている。逆光で表情は読めないが、その視線は紗季の瞳孔の開き具合や、頬の紅潮を探っているようだ。 「薬が効いてきたみたいで、喉が渇いて目が覚めたの。……ねえ、紗季」  美月が一歩、部屋に入ってくる。  素足がフローリングを踏む音が、やけに大きく響く。 「本当に、仕事?」  紗季の背筋に冷たい汗が伝う。  彼女は勘がいい。獣のような直感で、紗季が隠し事をしているのを嗅ぎつけている。  もしここで、パソコンの画面を覗き込まれたら。もし、エクスプローラーの後ろに隠れた動画プレイヤーを見つけられたら。  十一年前の共犯関係は崩壊し、もっと恐ろしい何か――憎悪の対象としてのロックオン――が始まる。

紗季はマウスを握る手に力を込め、あえて大きなため息をついた。 「実はね、仕事っていうか……美月のスピーチの原稿、直してたの。やっぱり、美月のリクエスト通りに書こうと思って」 「え?」  美月の足が止まる。 「昼間のこと考えてたんだ。私が意地を張って書きたいこと書くより、美月が一番輝く言葉を選ぶのが親友の役目だなって。だから、エピソードを整理してたの」  嘘だ。  けれど、これは美月が最も聞きたがっている言葉だ。  美月の承認欲求を満たす餌を撒く。それが唯一の回避策だった。

空気の緊張が、ふっと緩んだ。  美月は嬉しそうに目を細め、少女のように小首を傾げた。 「なあんだ、そうだったの。……ありがとう、紗季。やっぱり紗季は優しいね」  彼女はそれ以上近づいてこなかった。 「無理しないでね。明日も仕事なんでしょう? おやすみ」  ドアが閉まる。  足音が遠ざかり、主寝室のドアが閉まる音がした。

紗季は脱力して、椅子に沈み込んだ。  全身の震えが止まらない。  USBメモリを引き抜き、手のひらで強く握りしめる。  角が皮膚に食い込む痛みで、現実感を繋ぎ止める。  危なかった。  だが、これで貸しを作ってしまった。「美月の望むスピーチを書く」と宣言してしまった以上、後戻りはできない。  逃げ場は、刻一刻と狭まっている。

翌朝、紗季は香ばしいバターの香りで目を覚ました。  カーテンの隙間から、白々しい朝の光が差し込んでいる。昨夜の恐怖が嘘のような、爽やかな朝だ。  リビングへ行くと、そこはすでに撮影スタジオと化していた。

「あ、紗季! おはよう。よく眠れた?」  アイランドキッチンに立つ美月は、完璧にメイクを済ませ、麻のエプロンをつけていた。昨夜の憔悴しきった姿はどこにもない。  三脚に立てたスマホが、彼女の手元を狙っている。 「おはよう……。すごいね、朝から」 「今日はフレンチトーストにしたの。一晩漬け込んでおいたから、ふわふわよ」  美月はカメラに向かって微笑みかけながら、手際よくフライパンを振る。  昨夜、「ストーカーが怖い」と震えていた女性と同一人物とは思えない。彼女にとって、恐怖さえも一晩寝ればリセットされる舞台装置の一つなのか。それとも、この「完璧な日常」を演じることこそが、彼女なりの防衛本能なのか。

テーブルには、色鮮やかなフルーツ、淹れたてのコーヒー、そして焼きたてのフレンチトーストが並べられた。 「はい、座って座って。あ、食べる前にちょっと待ってね。ストーリー用の動画撮るから」  紗季は言われるがままに席に着き、美月の指示通りにフォークを持って微笑んだ。 「いいねー、その『朝の光と親友』って感じ。最高」  美月は数枚写真を撮ると、満足げにスマホを置いた。

「いただきます」  ナイフを入れる。確かにフレンチトーストは絶品だった。口の中でとろけるような甘さと、バターの塩気。  けれど、紗季の喉には砂のように引っかかった。  昨夜見た動画の残像が消えない。  この料理を作った美しい手が、十一年前、あんなにも無慈悲にドレスを切り刻んでいたのだ。そして、その同じ手で、今は紗季にコーヒーを注いでいる。

「紗季、顔色が悪いわよ? やっぱり寝不足?」  美月が心配そうに覗き込んでくる。 「うん、ちょっとね……。あ、そういえば、昨日の黒い車。その後どう?」  紗季が尋ねると、美月はカップを置く手を一瞬止めた。 「ああ、あれね。朝、管理会社に確認してもらったの。どうやら上の階の住人が呼んだハイヤーだったみたい。私の勘違いだったわ」  さらりと言った。  嘘だ。  ハイヤーがあんな威圧的な停め方をするはずがないし、昨夜の美月の怯え方は尋常ではなかった。  彼女は、紗季に対しても情報を遮断し始めたのだ。  『ストーカー被害』という弱みを見せるのは、昨夜のような緊急時だけでいい。日常に戻れば、彼女は再び「無敵の女王」でなければならないのだ。

「そっか、よかった。心配したよ」 「ごめんね、巻き込んじゃって。でも、紗季が来てくれて本当に助かった。啓介くんには内緒にしておいてね。彼、心配性だから」  美月は人差し指を唇に当ててウインクした。  秘密の共有。  それは親密さの証ではなく、口封じの契約だ。

「さ、食べて食べて。遅刻しちゃうよ」  美月は自分の分のフレンチトーストを、優雅に口に運んだ。  紗季は咀嚼する。  甘い。甘すぎて、吐き気がする。  このフレンチトーストは、沈黙への報酬だ。  私は今、共犯者としての報酬を胃袋に詰め込まれている。

美月のマンションを出て、最寄りの駅まで歩く道すがら、紗季はスマホを取り出した。  美月のインスタグラムには、すでに先ほどの朝食の様子がアップされている。  『親友とお泊まり会。朝ごはんは特製フレンチトーストでパワーチャージ♡ #丁寧な暮らし #親友 #モーニング』  コメント欄には、「素敵な関係!」「美味しそう!」「美月さんのお友達も美人ですね」といった称賛の言葉が並ぶ。  誰も知らない。  この写真の撮影直前まで、この部屋にどんな重苦しい空気が漂っていたか。  そして、写っている「親友」のバッグの中に、美月の破滅を招く証拠が入っていることを。

電車に揺られながら、紗季は改めて考えた。  あの動画を撮影したのは誰か。  アングルは、教室の後方、掃除用具入れのあたりだ。  あそこに隠れられる人間。あるいは、カメラを設置できる人間。  もしアサミ本人が撮ったのなら、なぜ十一年も黙っていたのか。なぜ今なのか。    『あなたは、どっち?』

昨夜の問いがリフレインする。  動画には、紗季がヘアピンを拾う姿が映っていた。  あれは、紗季が「美月側」であることを証明する映像だ。  犯人はこれを使って、紗季を脅そうとしているのではない。  むしろ、「お前も同罪だ」と突きつけることで、紗季を逃げられないようにし、その上で「美月を告発する側」に引きずり込もうとしているのではないか。    紗季は、ある人物の顔を思い浮かべた。  長谷川由美。  彼女は言った。『私は今回はアサミちゃんの味方をするつもり』。  そして、『近くに潜んでる』とも。  由美はどこまで知っているのか。もしかして、この動画の存在も?

会社の最寄り駅に着いた時、紗季のスマホに一件の通知が入った。  知らないアカウントからのダイレクトメッセージ。  アイコンは、割れたガラスの画像。  本文には、短いURLと、一言だけ添えられていた。

『13:00 屋上』

URLを開くと、そこはクラウドストレージのページだった。  ファイルが一つ。  それは、昨夜の動画の「続き」だった。  紗季が教室を出て行った後、誰もいない教室に、掃除用具入れからゆっくりと出てくる人物の影。  顔は見えない。だが、その人物は、切り裂かれたドレスを拾い上げ、愛おしそうに抱きしめていた。    背筋が凍った。  撮影者が、そこにいたのだ。  そして今、その人物が、紗季を呼び出している。  屋上。  会社の屋上だろうか? それとも……?

紗季は足を止めた。  通勤ラッシュの人波が、川のように脇を流れていく。  自分だけが、底なしの深淵の縁に立たされている。  逃げることはできない。  紗季は踵を返し、人波に逆らって歩き出した。


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