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ガラスの城の囚人

第六章 ガラスの城の囚人


深夜のタクシーは、首都高を滑るように走っていた。  流れる街灯のオレンジ色が、紗季の顔を規則的に照らしては消える。バッグの中には、あの不気味な写真とUSBメモリが入っている。その重みが、膝の上で熱を帯びているように感じられた。

美月の住む港区のタワーマンションは、見上げるだけで首が痛くなるほどの威容を誇っていた。  エントランスの車寄せにタクシーが止まる。紗季は降り際、周囲を用心深く見回した。  静寂。  黒いワンボックスカーの姿はない。  逃げたのか、それとも美月の幻覚だったのか。  コンシェルジュデスクには深夜スタッフが常駐しており、紗季が名前を告げるとすぐにオートロックが解除された。エレベーターは気圧の変化を感じさせる速さで三十五階へと上昇する。

「……紗季、ありがとう」  玄関ドアが開くと、そこには普段の覇気を失った美月が立っていた。  スッピンに高級ブランドのルームウェア。髪は乱れ、目元は赤く腫れている。 「車、いなかったよ。もう大丈夫」  紗季がそう言うと、美月は安堵の息を吐き、すがりつくように紗季を部屋の中へと招き入れた。

リビングルームに入った瞬間、紗季は息を呑んだ。  そこは、雑誌のグラビアから切り抜かれたような「成功者の城」だった。  床から天井まである巨大な窓からは、東京の夜景が一望できる。東京タワーが模型のように小さく見えた。イタリア製のカッシーナのソファ、大理石のアイランドキッチン、壁に飾られた現代アート。  生活感というものが徹底的に排除されている。ここは人が住む場所というより、三枝美月という商品を展示するためのショールームのようだった。

「ごめんね、こんな時間に。啓介くん、今日は出張でいなくて……一人でいるのが怖くて」  美月はソファに身を沈め、膝を抱えた。 「警察には連絡したの?」  紗季はあえてもう一度聞いた。 「してない。……できないのよ」 「どうして? ストーカー被害なんでしょ?」 「警察が動いたら、マスコミにバレるわ。そしたら、『人気料理研究家にストーカー被害』なんて面白おかしく書かれる。啓介の実家は厳格な家柄なの。結婚前にスキャンダルは絶対に避けたいの」  もっともらしい理由だ。だが、それだけではないはずだ。  美月は警察に「調べられたくない」のだ。被害者として事情聴取されれば、過去の交友関係やトラブルについても掘り下げられる可能性がある。

「それに……」  美月は言い淀み、視線を窓の外へ向けた。 「最近、視線を感じるの。外でも、ネットの中でも。誰かが私の粗探しをして、引きずり下ろそうとしてる気配がする」 「……心当たりは?」  紗季は平静を装って尋ねた。心臓が嫌な音を立てている。  美月はこちらを見ない。 「……有名税みたいなものよ。妬んでる人なんて山ほどいるから」  名前を出さない。  美月もまた、十一年前の亡霊について沈黙を守ろうとしている。  共犯者である紗季の前でさえ、彼女は「被害者」の仮面を外そうとしない。いや、もしかしたら紗季のことさえ完全には信用していないのかもしれない。

「とりあえず、落ち着いて。温かいものでも飲む?」  紗季は立ち上がり、勝手知ったる他人の家のようにキッチンへ向かった。  美月は何も言わず、ただ頷いた。

キッチンでお湯を沸かしながら、紗季はバッグの中のUSBメモリを意識した。  中身を見たい。  今、この状況で見るのは危険すぎる。しかし、この部屋にあるパソコンを使えば、履歴が残るかもしれないが……。  ふと、ダイニングテーブルの上に、美月のノートパソコンが開いたまま置かれているのが目に入った。スリープ状態だ。  紗季はハーブティーの準備をするふりをして、横目で美月を確認した。彼女はソファでぼんやりと夜景を見つめている。

紗季は素早くパソコンに近づき、タッチパッドに触れた。  画面が明るくなる。  パスワードロックはかかっていなかった。不用心だ、それとも直前まで使っていたのか。  表示されていたのは、ブラウザの検索画面ではなかった。  メールボックスだ。  そして、開封されていた最新のメールの件名を見て、紗季の手が止まった。

『Re: 調査報告書(対象者:K.A)』

K.A。  Kirishima Asami。  霧島アサミ。  美月は、探偵を使ってアサミを探させていたのだ。  本文を盗み見ようとした瞬間、背後で衣擦れの音がした。

「紗季?」  美月の声。  紗季は弾かれたように振り返った。  美月がソファから首を回して、こちらを見ている。その目は、獲物を狙う爬虫類のように据わっていた。 「……何してるの?」 「あ、ごめん。コースターどこかなと思って」  紗季は努めて明るく答え、引き出しを開ける真似をした。  美月の視線が、紗季の手元とパソコンの間を往復する。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。 「……一番上の引き出しよ」 「あ、あった。ありがとう」

ハーブティーを淹れて戻ると、美月はいつもの可憐な表情に戻っていた。  しかし、空気は明らかに変わっていた。  美月は知られたくないことを見られたかもしれないと疑い、紗季は美月が裏で手を回していることを知ってしまった。  ガラスのテーブルを挟んで向かい合う二人の間には、湯気と共に欺瞞が立ち込めていた。

「ねえ、紗季」  カップを両手で包み込みながら、美月が言った。 「私たちが高校生だった頃、楽しかったわよね」 「……うん、そうだね」 「あの頃の私たち、怖いものなしだった。紗季がいつも私の隣にいてくれて、私がやりたいことを全部肯定してくれた。……紗季は、これからもずっと私の味方よね?」  確認ではない。呪いだ。  紗季は、バッグの中の写真――自分に付けられた『青い丸』――を思い出した。  犯人は「どっちだ?」と問うている。  美月もまた、「味方だよね?」と問うている。  板挟みの苦痛。

「もちろん。スピーチも、ちゃんと美月の納得いくものにするから」  紗季が答えると、美月は満足そうに微笑んだ。 「よかった。紗季だけは裏切らないって信じてる」    その夜、紗季は客用のベッドルームに泊まることになった。  美月は精神安定剤を飲んで眠りについた。  深夜二時。  静まり返ったマンションの一室で、紗季は自分のノートパソコンを広げた。仕事のメールを確認するという名目で持ち歩いていたものだ。  震える手で、バッグからUSBメモリを取り出す。  黒い、何の変哲もないスティック。  サイドテーブルのランプだけをつけ、USBをポートに差し込む。

認識音が小さく鳴った。  フォルダが開く。  中に入っていたファイルは一つだけ。  動画ファイルだった。  ファイル名は『20XX_11_10.mp4』。  十一年前。文化祭の前日。

紗季は息を殺して、再生ボタンをクリックした。  画面は暗く、画質は粗い。手ブレが激しい。誰かが隠し撮りをした映像のようだ。  場所は、薄暗い教室。被服室だ。  画面の端に、シンデレラのドレスが映っている。まだ無事な状態のドレスだ。  そこに、人物が入ってくる。  長い黒髪の少女。  三枝美月だ。  彼女は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、ドレスに近づいた。  その手には、銀色の裁ちばさみが握られている。    ためらいはなかった。  ザクッ、という音が、パソコンのスピーカーから生々しく響いた。紗季は慌てて音量を下げる。  美月は無表情で、機械的にドレスに刃を入れていく。  レースを引き裂き、袖を切り落とし、スカート部分をズタズタにする。  一通り切り刻んだ後、彼女はふっと笑った。  それは、今日この部屋で見せた怯えた顔とは対極にある、純粋な悪意の笑顔だった。

そして。  映像はそこで終わらなかった。  美月が去った数分後、再びドアが開く。  入ってきたのは、別の少女。  遠野紗季。十一年前の私だ。  私は惨状を見て立ち尽くし、それから……。  しゃがみ込んで、床に落ちていた美月のヘアピンを拾い上げ、ポケットに入れた。  証拠隠滅だ。  私は、美月がやったと直感し、無意識に彼女を庇う行動をとっていたのだ。

映像がプツンと切れた。  紗季は画面の前で凍りついた。  記憶になかった。ヘアピンを拾ったことなんて、完全に忘れていた。  この映像を撮っていたのは誰だ?  アングルからして、教室の掃除用具入れか、棚の隙間にカメラが仕掛けられていたとしか思えない。  アサミが? いや、アサミが自分のドレスが切られるのを黙って撮るはずがない。    誰か別の人間が、見ていたのだ。  そしてその人物は、十一年間この証拠を温め続け、今、このタイミングで突きつけてきた。  『あなたは、どっち?』という問いの意味が、ようやく理解できた。  この映像が公開されれば、美月は社会的に抹殺される。  だが、紗季も無傷では済まない。犯行現場で証拠を隠滅する姿が映っているのだから。「共犯者」としての決定的証拠だ。

背筋に悪寒が走る。  これは脅迫ではない。  道連れだ。

その時、ドアノブがゆっくりと回る音がした。  ガチャリ。  紗季は反射的にノートパソコンを閉じた。  暗闇の中、ドアの隙間から美月が顔を覗かせていた。  逆光で表情は見えない。

「……紗季、まだ起きてるの?」  寝起きとは思えない、低く冷たい声だった。  紗季は喉の渇きを覚えながら、必死で声を絞り出した。 「うん、ちょっと仕事のメールが気になって」 「……そう」  美月は動かない。じっとこちらを見ている。  紗季のパソコンに繋がれたUSBメモリの青いアクセスランプが、闇の中で点滅していた。

逃げ場のない高層マンションの一室。  ここは城ではない。  断崖絶壁の上に建つ、牢獄だった。


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