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傷跡とリンク

第五章 傷跡とリンク


金曜日の夜、新橋の雑居ビルにある個室居酒屋は、一週間の労働から解放されたサラリーマンたちの喧騒で満ちていた。  表参道のイタリアンとは対極にある、安っぽいアルコールの匂いと煙草の煙が染み付いた空間。しかし、今の紗季にはこの薄汚れた空気の方が息がしやすかった。

「ごめんね、急に呼び出しちゃって」  向かいに座った長谷川由美が、カシスオレンジのストローを回しながら言った。  高校時代、教室の隅で文庫本を読んでいた地味な少女の面影は薄い。今の彼女は、少し疲れた顔をした、どこにでもいる事務職の女性に見える。 「ううん、私も会いたかったから」  紗季はビールジョッキを傾けた。  先日の電話以来、由美からの接触を待っていた自分がいた。美月の作った「完璧な脚本」に窒息しそうになるたび、由美の『あの子の代わりに見てやる』という言葉が、毒のある解毒剤のように思えていたからだ。

「で、どう? スピーチの原稿は進んでる?」  由美が上目遣いで尋ねる。 「……全然。美月から『書いてほしいエピソード集』みたいなのを渡されてね。それがもう、嘘八百の美談ばかりで」 「あはは、美月ちゃんらしいね。歴史修正主義者だもんね、あの子」  由美は乾いた笑い声を上げた。その目には笑意はない。  唐揚げをつつきながら、由美は声を落とした。

「ねえ、紗季ちゃん。霧島アサミのこと、調べた?」  心臓が跳ねる。紗季は箸を止めて、由美の顔を見つめ返した。 「……ネットで検索したけど、三年前の火事のニュースしか出てこなかった。実家が火事になったって」 「そう。全焼だったらしいよ。アサミちゃん自身も火傷を負って、しばらく入院してたって」  由美はスマホを取り出し、画面を紗季に向けた。  表示されていたのは、パスワードがかかった会員制のブログサービスだった。 「これ、知ってる?」 「何これ?」 「『シンデレラの憂鬱』っていう、裏アカみたいなブログ。アサミちゃんが書いてたの。今はもう更新されてないけど、高校卒業してから火事になるまで、ずっと続いてた」

由美が慣れた手つきでパスワードを入力する。  画面に現れたのは、黒い背景に白い文字が並ぶ、陰鬱なページだった。  紗季は画面をスクロールした。  そこには、具体的な個人名は伏せられているものの、明らかに高校時代の「あの日」への呪詛が綴られていた。

『20XX年11月10日。あの日、私は声を奪われた。私のドレスを切り裂いた女王は、今日もテレビの中で笑っている』 『彼女は私の不幸を糧にして輝く。私が影になればなるほど、彼女の光は強くなる』 『許さない。絶対に、幸せになんてさせない』

読んでいくうちに、指先が冷たくなっていく。  文章の端々から、煮えたぎるような憎悪と、救われない孤独が滲み出ていた。 「……これ、本当にアサミちゃんが?」 「文体を見れば分かるよ。あの子、文芸部だったじゃない。言葉選びが独特なの」  由美はカシスオレンジを飲み干し、氷をガリりと噛み砕いた。 「火事があった日、ブログの更新は止まった。でもね、最近動きがあったの」 「動き?」 「先週、ログイン履歴があったのよ。三年ぶりに」

背筋に冷たいものが走った。  先週。それは美月の結婚式の招待状が届いた時期と重なる。 「アサミちゃんは生きてる。そして、美月ちゃんの結婚を知ったんだよ。……ねえ、紗季ちゃん。美月ちゃん、最近何か変わった様子ない?」

紗季の脳裏に、ドレスサロンでの光景が蘇る。  非通知の着信。  黒いワンボックスカーを見た時の怯えよう。 「……心当たり、あるんだ」  紗季の沈黙を肯定と受け取った由美が、身を乗り出した。 「やっぱりね。美月ちゃんも気づいてるんだ。自分が恨まれてるってこと」

紗季は口を開こうとして、躊躇った。  由美は「反美月派」だ。ここで情報を渡せば、彼女はそれを武器にするだろう。  だが、紗季自身もまた、美月の支配から逃れたいと願っている。 「……ドレスの試着に行った時、黒い車を見て怯えてた。それに、非通知の電話も」 「ビンゴだね」  由美は満足げに頷いた。 「アサミちゃんは東京にいるよ。私の予想だと、かなり近くに潜んでる」

由美はスマホを操作し、QRコードを表示させた。 「これ、私の連絡先。もし何かあったら、すぐに教えて。私、今回はアサミちゃんの味方をするつもりだから」 「……どうして? 由美ちゃんは、直接被害を受けたわけじゃないでしょ?」  紗季の問いに、由美はふっと表情を曇らせた。 「直接じゃないよ。でもね、見て見ぬふりをした自分への罰みたいなものかな。……紗季ちゃんだって、同じ気持ちなんじゃない?」

図星だった。  見て見ぬふりどころか、紗季は加担したのだ。  由美とは罪の重さが違う。  だが、その違いこそが、紗季を孤独にしていた。

「……そろそろ行こうか」  紗季は逃げるように伝票を掴んだ。  店を出ると、夜風が生暖かく頬を撫でた。  駅の改札で由美と別れる際、彼女は紗季の手を握った。 「こっち側においでよ、紗季ちゃん。美月ちゃんの言いなりになって祝辞を読むなんて、もうやめなよ」  その手は熱く、そしてどこか湿っていた。  十一年前、美月が「味方だよね」と言って握ってきた手と、同じ感触がした。

最寄駅に着いたのは二十三時を回っていた。  住宅街の街灯は少なく、自分の足音がやけに大きく響く。  由美の話が頭から離れない。  『シンデレラの憂鬱』。  三年ぶりのログイン。  アサミはどこにいるのか。そして、何をしようとしているのか。

アパートのエントランスを抜け、エレベーターを待っている時だった。  ふと、視線を感じた。  反射的に振り返る。  オートロックのガラス扉の向こう、暗闇の中に、誰かが立っていた気がした。  目を凝らすが、誰もいない。道路をタクシーが走り去るだけだ。  気のせいか。  紗季は早足でエレベーターに乗り込んだ。

部屋に入り、鍵を二重にかける。チェーンロックもかけた。  心臓の鼓動がまだ早い。  シャワーを浴びて落ち着こうと思い、バスルームへ向かう途中、インターホンが鳴った。  ピンポーン。  時計を見る。二十三時半。  こんな時間に誰だ。宅配便の予定はない。  モニターを覗き込む。  誰も映っていない。  カメラの死角に立っているのか、それとも悪戯か。

紗季は息を殺して、ドアノブに手をかけた。開けるわけにはいかない。 「……誰ですか?」  ドア越しに声をかける。  返事はない。  数秒の沈黙の後、カタン、と何かがポストに投函される音がした。  そして、足音が遠ざかっていく。

紗季は恐る恐るドアを開け、郵便受けを確認した。  入っていたのは、茶封筒だった。  宛名はない。  部屋に戻り、ハサミで封を切る。  中から出てきたのは、一枚の写真と、USBメモリだった。

写真は、高校時代のものだ。  文化祭の打ち上げで撮った集合写真。  中央で花束を持って笑う美月。その隣で、引きつった笑顔を浮かべている紗季。  そして、写真の美月の顔の部分にだけ、赤いマーカーで×印がつけられていた。  さらに、紗季の顔の周りには、青い丸がついている。

裏を見ると、文字が書かれていた。 『あなたは、どっち?』

USBメモリをパソコンに差し込む勇気はなかった。  紗季は震える手で写真をテーブルに置いた。  あなたは、どっち。  ターゲットなのか、それとも協力者なのか。  あるいは、断罪される側なのか、告発する側なのか。

青い丸。  それは標的のマークではなく、まるで「保留」を意味しているように見えた。  犯人は、紗季に選択を迫っている。  美月を守って共に沈むか、美月を裏切って生き延びるか。

スマホが鳴った。  画面には『三枝美月』の文字。  タイミングが良すぎる。もしかして、美月の自作自演?  いや、あの怯え方は演技には見えなかった。  紗季は深呼吸をして、通話ボタンを押した。

「……もしもし」 『紗季! 助けて、今すぐ来て!』  悲鳴のような声だった。 『家の前に、いるの。あの車が、ずっと停まってるの!』 「え? 警察には?」 『呼べない! 警察沙汰になったら、週刊誌に嗅ぎつけられる。結婚がダメになるかもしれない。お願い、紗季しか頼める人がいないの』    紗季はテーブルの上の写真を見つめた。  赤い×と、青い丸。  今、美月の元へ行けば、私は「美月側」を選ぶことになる。  でも、行かなければ?

「……分かった。今から行く」  紗季は短く答えた。  友情からではない。  確かめたいからだ。  その黒い車に乗っているのが誰なのか。そして、美月が隠している「真の恐怖」の正体は何なのか。

紗季はUSBメモリと写真をバッグに放り込み、再び夜の街へと飛び出した。  二十九歳の分岐点。  選んだ道は、修羅場へと続いていた。


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