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純白の鳥籠

第四章 純白の鳥籠


南青山にあるウェディングドレスのサロンは、外界から隔絶された神殿のようだった。  予約制の扉が開くと、そこには白一色の世界が広がっている。磨き抜かれた大理石の床、天井から降り注ぐシャンデリアの光、そしてラックに並べられた無数のドレスたち。それらはまるで、選ばれる時を静かに待つ白鳥の群れのようだった。

「わあ、すごい……! 夢みたい」  紗季の口から、感嘆の声が漏れる。それはお世辞ではなく、圧倒的な「美」への降伏宣言だった。 「でしょう? ここはインポート専門だから、一点ものが多いの。私、どうしてもヴェラ・ウォンの新作が着たくて」  三枝美月は、我が家のようにサロンの空気を支配していた。  今日の彼女は、オフホワイトのシルクブラウスにタイトスカート。計算された「プレ花嫁」の装いだ。  対して紗季は、仕事帰りのくたびれたネイビーのパンツスーツ。鏡に映る二人の並びは、主役と裏方、あるいは姫と召使いそのものだった。

「三枝様、お待ちしておりました」  洗練された身のこなしの担当スタッフが二人、恭しく頭を下げる。 「今日はご友人様もご一緒なんですね」 「ええ、私の高校時代からの親友なんです。彼女の意見がないと、私、何も決められなくて」  美月は紗季の腕に手を回し、愛おしそうに微笑んだ。  その指先が、紗季の二の腕の肉をわずかに、しかし確実に食い込むように掴んでいることに、スタッフは気づかない。

試着が始まった。  カーテンが開くたび、異なるデザインのドレスを纏った美月が現れる。  マーメイドライン、Aライン、プリンセスライン。どんなデザインも、彼女のためにあつらえられたかのように完璧だった。 「どうかな、紗季?」  お立ち台の上で、美月がくるりと回る。 「すごく綺麗。デコルテのラインが美月にぴったりだよ」 「そう? でも、ちょっと背中の開きが大胆すぎるかなあ。啓介、保守的だから」  美月は鏡の前でポーズを取りながら、恍惚とした表情を浮かべる。  紗季の役目は、ただ頷き、称賛し、時折「こっちの方が写真映えするかも」と、カメラマン的な視点で助言することだ。それは高校時代、彼女が新しい服を買うたびに繰り返された儀式と同じだった。

「じゃあ、次はカラードレスね」  四着目の白ドレスを脱ぎ捨て、美月は試着室の奥へ消えた。  ふと、ソファに置かれた美月のスマートフォンが震えた。  マナーモードの振動音が、静寂なサロンに不釣り合いに響く。  紗季は何気なく視線をやった。  ロック画面に通知が表示されている。   『非通知設定』 『メッセージがあります』

非通知?  LINEやメールではなく、SMSだろうか。  仕事関係なら名前が出るはずだし、友人ならアイコンが表示される。  胸騒ぎがした。  カーテンの奥からは、スタッフと談笑する美月の声が聞こえる。 「やっぱり赤は派手すぎるかしら。……ええ、そうですね、くすみピンクの方が今のトレンドですよね」

ブブブ、と再び振動する。  今度は、少し長かった。着信だ。  『非通知設定』。  紗季は息を潜めた。美月が出るはずがない。試着中なのだから。  しかし、コールはしつこく続く。 「……失礼、ちょっと電話が」  カーテンの隙間から、ガウンを羽織った美月が顔を出した。その表情は、先ほどまでの「幸せな花嫁」のものではなかった。目が笑っていない。 「紗季、ごめん。スマホ取ってくれる?」 「あ、うん」  紗季がスマホを手渡すと、美月は画面を一瞥し、眉間に微かな皺を寄せた。 「……また営業電話か。しつこいなあ」  そう言って、彼女は通話を拒否し、画面を伏せてソファに放り投げた。 「ごめんなさいね、続けて」  美月は再びカーテンの奥へ消えた。    営業電話?  非通知の営業電話なんて、今の時代にあるだろうか。  それに、あの一瞬の表情。あれは「迷惑」というより、「警戒」の色だった。  美月は何かを恐れている。  あるいは、誰かから逃げている?

試着が終わったのは、二時間後だった。  結局、最初に着たマーメイドラインのドレスと、お色直し用のアンティークブルーのドレスに決まった。 「あー、疲れた! でも、紗季のおかげで決まったわ。ありがとう」  サロンを出て、並木道を歩きながら美月が伸びをする。 「ううん、目の保養になったよ。本当に綺麗だった」 「よかった。……ねえ、紗季」  美月が足を止め、ショーウィンドウを指差した。  そこには、上品だが地味な、ベージュのゲストドレスが飾られていた。 「紗季、当日のドレス決めた? まだなら、これなんかどう? 紗季の肌の色にすごく合うと思うの」    紗季はそのドレスを見た。  悪くはない。だが、二十九歳の女性が着るには少し老けて見えるデザインだ。そして何より、主役を引き立てるための「背景」として完璧な色味だった。 「……考えておくね。ありがとう」 「絶対似合うって! 私が予約しておいてあげようか?」 「いいよ、自分で選ぶから」  少し強い口調になってしまった。美月が怪訝そうな顔をする。 「あら、そう。……紗季も、もっと自分に自信を持てばいいのに。素材は悪くないんだから」

上から目線の慈悲。  それが美月の愛情表現だ。相手を自分より下の位置に固定することでしか、安心できないのだ。  紗季は拳を握りしめ、笑顔を作った。 「そうだね。美月みたいに輝けるように頑張るよ」

その時だった。  通りの向こうから、一台の黒いワンボックスカーが近づいてきた。  スモークガラスで中は見えない。  美月が、ふっと息を呑んだ気配がした。  彼女の視線が、その車に釘付けになっている。  車は二人の横をゆっくりと通り過ぎていった。ただそれだけのことだ。  だが、美月の顔色は明らかに蒼白になっていた。 「美月? どうしたの?」 「……え? あ、ううん。なんでもない」  美月は慌てて笑顔を取り繕ったが、その指先がハンドバッグのストラップを強く握りしめているのを、紗季は見逃さなかった。 「ちょっと貧血気味かも。今日はもう帰るね。タクシー拾うから」 「大丈夫? 送ろうか?」 「いいの! ……あ、ごめん。一人で大丈夫だから」  美月は拒絶するように手を振り、逃げるように通りかかったタクシーを止めて乗り込んだ。

走り去るタクシーのテールランプを見送りながら、紗季は立ち尽くしていた。  今の反応は異常だった。  ただの車だ。  でも、美月は何かに怯えていた。    ふと、昼間の由美との電話を思い出す。 『過去を全部清算して、あの子のことを無かったことにした自分』  過去。  十一年前の事件。  切り刻まれたドレス。  あの時、美月が言った言葉。『犯人は分からない』。

もし、美月が恐れているのが、過去からの報復だとしたら?    紗季はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。  そこには、先日書き殴った『祝辞_Draft_Zero』の続きがある。  彼女はそこに、一行付け加えた。

『女王は、純白のドレスを着ていても、影に怯えている』

風が強くなってきた。  紗季はジャケットの前を合わせ、駅へと歩き出した。  美月の完璧な城壁に、ひび割れが見えた気がした。  そしてそのひび割れは、紗季にとって、つけ込むべき隙間なのか、それとも覗いてはいけない深淵への入り口なのか。  まだ、分からなかった。

ただ一つ確かなのは、この結婚式は、美月が描いた通りのシナリオでは進まないということだ。  紗季の中で、暗い予感が確信へと変わり始めていた。


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