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記憶の鋏とベルベット

第三章 記憶の鋏とベルベット


月曜日の夜、紗季は残業を早めに切り上げ、駅前のカフェチェーンに入った。  狭いカウンター席の隅を確保し、バッグからあの革装丁の手帳を取り出す。  店内にはジャズが流れ、隣の席では就活生らしき女子大生がエントリーシートと格闘している。紗季もまた、別の種類の「選考書類」と向き合わなければならなかった。

美月から渡された『スピーチ用素材ノート』。  改めて開くと、その内容はあまりにも精巧に構成されていた。時系列、感動のツボ、オチの付け方。まるで優秀な放送作家が書いた台本のようだ。  紗季は三ページ目に付箋を貼った。そこには、高校二年の文化祭に関する記述がある。

『高二の文化祭。クラス演劇の衣装が何者かに切り刻まれる事件が発生。  パニックになるクラスメイトたちを私が励まし、手持ちの服や布を集めて、一晩で新しい衣装をリメイクした。  ピンチをチャンスに変えた、結束の思い出』

読み進めるうちに、吐き気が込み上げてきた。  冷めたカフェラテを一口すする。喉を通る液体の温度だけが、ここが現実世界であることを教えてくれる。

「……よくもまあ、こんなに綺麗に書き換えられるものね」

紗季の脳裏に、十一年前の湿った空気が蘇る。  文化祭の前日。放課後の被服室。  夕闇が迫り、校庭からは運動部の掛け声が遠く聞こえていた。

当時の美月は、誰もが認めるスクールカーストの頂点だった。  クラス演劇の演目は『シンデレラ』。主役はもちろん美月――のはずだった。  しかし、担任とクラスの投票で選ばれたのは、地味だが歌の上手い「霧島アサミ」だった。美月には、意地悪な継母役が割り当てられた。 『アサミちゃんの方が歌唱力があるし、美月ちゃんは演技派だから継母役がぴったりだよ』  そんな無神経な称賛を、美月は完璧な笑顔で受け入れていた。  だが、紗季は知っていた。美月のプライドが、煮えたぎるマグマのように内側で渦巻いていることを。

あの日、紗季は忘れ物を取りに被服室に戻った。  そこで見た光景は、今でもスローモーションのように思い出せる。  夕陽に赤く染まった教室の中、美月が立っていた。  手には、裁ちばさみ。  作業台の上には、アサミが着るはずだったシンデレラのドレスが無惨な姿で散乱していた。レースは引き裂かれ、ビーズは床に散らばり、まるで美しい死体のようだった。

「……美月?」  紗季の声に、美月はゆっくりと振り返った。  その顔には、狂気も焦りもなかった。ただ、困ったような、あどけない笑みが浮かんでいた。 「あ、紗季。見て、これ。ひどいよね」  美月は、自分の手にある鋏を見つめ、それから紗季の目を見た。 「誰かがやったみたい。私、ここに来たらこうなってたの」 「でも、その鋏……」 「落ちてたから拾ったの。ねえ、紗季」  美月が一歩、近づいてくる。 「紗季もそう思うよね? 私が来た時には、もうこうなってた。犯人は分からない。……そうよね?」

試されていた。  正義を取るか、美月を取るか。  当時の紗季にとって、美月に見捨てられることは、教室での居場所を失うことを意味していた。  紗季は、乾いた音を立てて唾を飲み込み、そして頷いた。 「……うん。ひどいね、誰がこんなこと」

その翌日、事件は美月の独壇場となった。  泣き崩れるアサミの肩を抱き、「大丈夫、私がなんとかする」と宣言した美月は、手持ちの私服やスカーフを使い、即興でモダンなドレスを作り上げたのだ。  切り刻まれたドレスのことは「卑劣な犯行」として処理されたが、犯人探しは美月の「今は犯人を探すより、劇を成功させることが最高の復讐よ」という鶴の一声で打ち切られた。  結果、劇は大成功。  美月は「トラブルを救った女神」として称賛され、主役のアサミよりも目立つ存在となった。衣装係だったアサミは、自分の管理不足を責められ、小さくなっていた。

ノートの記述を見る。  『結束の思い出』。  違う。あれは、アサミの心を殺し、美月が支配を確立した日だ。  そして私は、その最初の共犯者になった。

紗季はボールペンを握りしめ、ノートの余白に強く『嘘』と書き殴ろうとした。  だが、ペン先が紙に触れる寸前で止まる。  このノートは、いずれ美月に返却するものだ。そんなことを書けば、宣戦布告になる。

「……はあ」  深いため息をついて、紗季はスマホを取り出した。  検索窓に『霧島アサミ』と打ち込む。  高校卒業後、彼女がどうしているのか知らなかった。風の噂では、大学進学を機に東京を離れたと聞いていた。  検索結果はゼロではない。同姓同名が何人かヒットする。  その中に、気になる記事があった。  地方紙の小さなニュース。三年前の日付。  『自宅火災で女性が軽傷』。  記事の中の住所は、アサミの実家がある県だった。名前も年齢も一致する。

もし、彼女が今も不幸な境遇にいるとしたら。  そして、美月が華やかな結婚式で、あの事件を「美談」として語らせようとしていることを知ったら。  昨日、電話をかけてきた長谷川由美の言葉が蘇る。 『あの子の代わりに、美月ちゃんが幸せになるところ、ちゃんと見てやろうと思う』  由美は、どこまで知っているのだろう。  アサミと連絡を取り合っているのだろうか。

紗季はノートパソコンを開き、スピーチの原稿ファイル『祝辞.docx』を立ち上げた。  カーソルが点滅する。  美月の脚本通りに書くなら、こうだ。 『高校の文化祭、トラブルに見舞われた私たちを救ってくれたのは、美月のリーダーシップと優しさでした』  キーボードを叩く指が重い。  文字にするだけで、指先から腐敗していくような感覚に襲われる。    ふと、魔が差した。  紗季は改行し、全く別の文章を打ち込んだ。

『高校の文化祭、あの日、被服室で何が起きたのか。私はその全てを目撃していました。美月、あなたは覚えていますか? 夕焼けの色と、銀色の鋏の冷たさを』

画面に並ぶ告発の言葉。  心臓が早鐘を打つ。  もちろん、これを本番で読むわけにはいかない。これはただの憂さ晴らしだ。削除キーを押せば、すぐに消えるデジタルな独り言。  しかし、その文章を見た瞬間、紗季の中で何かがカチリと音を立てて嵌まった気がした。

私が書くべきは、祝辞ではないのかもしれない。  これは、告発文だ。  いや、もっと正確に言えば、私自身の罪の告白書だ。

その時、スマホが震えた。  美月からだ。  メッセージの通知。 『紗季、スピーチの進捗どう? 変なこと書いてないよね?笑 今度、ドレスの試着に付き合ってほしいな♡』

画面の向こうで、美月が笑っているのが見えるようだ。  彼女は疑っていない。紗季が裏切るはずがないと高を括っている。なぜなら、紗季もまた「共犯者」であり、真実を話せば自分も傷つくことを知っているからだ。

紗季は、画面上の告発文をじっと見つめた後、ゆっくりと保存ボタンを押した。  ファイル名を変更する。  『祝辞』から、『祝辞_Draft_Zero』へ。  削除はしなかった。  この文章は、私のお守りだ。  美月の支配に抗うための、たった一つの武器。

「付き合うよ、ドレス選び」  紗季は独り言のように呟き、美月に『もちろん! 楽しみにしてる』と返信を送った。    ウェディングドレス。純白のドレス。  十一年前、美月が切り刻んだシンデレラの衣装も、白だっただろうか。いや、あれは淡いブルーのベルベットだった。  鋏を入れた時の、ジョキ、という鈍い音。布が裂ける感触。  美月はあの時、確かに興奮していた。  彼女の本性は、創造する料理研究家ではない。破壊することに喜びを見出す、無邪気な捕食者なのだ。

紗季はパソコンを閉じ、残りのカフェラテを一気に飲み干した。  苦味の中に、微かな決意が混じる。  美月が私を脚本の一部にするなら、私も美月を利用させてもらう。  この結婚式が終わる時、立っているのはどちらか。    店を出ると、冷たい雨が降り始めていた。  アスファルトを濡らす雨の匂いが、あの日の被服室の鉄錆びた匂いと重なり、紗季は身震いをしてコートの襟を立てた。


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