女王の脚本(シナリオ)
第二章 女王の脚本
週末の表参道は、着飾った人々の欲望と自意識が渦巻く巨大なランウェイのようだ。 紗季はショーウィンドウに映る自分の姿を横目で確認した。淡いブルーのワンピースに、あえてカジュアルなジャケットを羽織る。張り切りすぎていない、けれど祝意は示している、というギリギリのラインを狙ったつもりだった。 待ち合わせ場所は、骨董通り沿いにある隠れ家的なイタリアンレストラン。予約が半年待ちとも言われるその店は、最近の美月のインスタグラムに頻繁に登場する「行きつけ」だ。
店のエントランスをくぐると、控えめな照明と静謐な空気が、外の喧騒を遮断した。 「お待ちしておりました、遠野様。三枝様のお連れ様ですね」 名前を告げる前に、スマートな身のこなしのギャルソンが微笑みかける。美月の名前を出しただけで、自分が少し特別な存在になったような錯覚を覚える。これも彼女の魔力の一つだ。
案内された個室の扉が開くと、そこだけスポットライトが当たっているかのような光景が広がっていた。 「紗季! 来てくれてありがとう!」 三枝美月が、椅子から立ち上がり、両手を広げて駆け寄ってくる。 純白のブラウスに、揺れるパールのピアス。肌は陶器のように滑らかで、三十路手前の女性特有のくすみなど微塵も感じさせない。彼女は紗季を抱きしめると、頬を寄せる「エア・キス」の真似事をした。 鼻孔をくすぐる、あの招待状と同じ高貴な香り。 「久しぶり、美月。本当に……綺麗になったね」 「やだ、久しぶりに会ったのに他人行儀じゃない? 座って座って」
美月が促した席の隣には、一人の男性が座っていた。 彼もまた、立ち上がって柔和な笑みを浮かべている。 「初めまして。あなたが遠野さんですね。美月からいつも話は聞いています」 新郎となる、高橋啓介。 大手広告代理店のプランナーという肩書き通りの、知的で洗練された男性だった。整えられた髪、仕立ての良いスーツ、そして何より、美月を見る眼差しの優しさ。どこからどう見ても、非の打ち所がない「理想の夫」だ。 「初めまして、遠野です。この度は本当におめでとうございます」 「ありがとうございます。美月にとって高校時代からの親友である遠野さんに会えて、光栄です」 親友。またその言葉だ。 啓介の屈託のない笑顔を見ると、彼が本当にそう信じていることが分かる。美月は彼に、どんな「私たちの物語」を語って聞かせたのだろうか。
コース料理が運ばれてくる間、会話の中心は常に美月だった。 新しい料理本の出版が決まったこと。テレビ番組のレギュラーが増えたこと。そして、二人の馴れ初め。 「啓介ったらね、最初のデートで私が作ったお弁当を食べて泣いたのよ。『こんなに優しい味は初めてだ』って」 「おいおい、バラすなよ。でも本当なんだ。美月の料理には、心があるんだよ」 二人は見つめ合い、幸せそうに笑う。 紗季は曖昧な笑みを貼り付けたまま、冷製スープを口に運んだ。味がしなかった。 美月の料理に、心? 高校時代、家庭科の調理実習で、美月が自分より上手く焼けた友人のクッキーを「間違えて」床に落とした瞬間を、紗季は記憶している。あの時の、氷のように冷徹な目。 今の彼女は、その冷たさを完璧な笑顔の裏に隠している。あるいは、本当に「優しい料理研究家」という役に入り込みすぎて、自分でも虚実の区別がつかなくなっているのかもしれない。
「それでね、紗季」 メインの肉料理が終わる頃、美月が声を潜めた。 「スピーチのことなんだけど」 紗季の手が止まる。 「うん、考えてる。まだまとまってないけど」 「実はね、少しお願いがあるの」 美月はブランドバッグから、一冊の小さなノートを取り出した。革装丁の高級そうな手帳だ。 「式の全体の構成とか、演出の兼ね合いもあるから……私が話してほしいエピソードを、いくつかピックアップしておいたの。これをベースに構成してくれたら、紗季も書きやすいかなって」
紗季は言葉を失った。 友人代表のスピーチの内容を、新婦自らが指定する? 戸惑いながら手帳を受け取る。ページを開くと、美しいペン字で、箇条書きのリストが並んでいた。
『高校二年生の文化祭。私がクラスの出し物をリーダーとしてまとめた時のこと(※トラブルを解決したエピソードを中心に)』 『部活の最後の大会。怪我をした後輩を励まし続けた話』 『紗季が失恋して落ち込んでいた時、私が一晩中そばにいてスープを作った話』
紗季の視線が、文字の上を滑る。 どれも、事実だ。事実ではある。 だが、それは巧みにトリミングされた事実だった。 文化祭でトラブルを起こしたのは美月自身だったし、それを解決するために走り回ったのは紗季だ。 部活の後輩が怪我をしたのは、美月が無理な練習を強要したからだ。 そして、失恋した時にスープを作ってくれた? そんな記憶はない。あの夜、美月は泣いている紗季に向かって「自分が惨めに見えるから泣くのをやめて」と言い放ったはずだ。
「……これ、全部入れるの?」 「全部じゃなくていいわ。でも、一番重要なのは最後のページ」 美月が長い指で、ページをめくる。 そこには、赤線で強調された一文があった。
『一番辛かった時期、私を支えてくれたのは美月だった、という結論で締めること』
紗季は顔を上げた。美月は、啓介にワインを注ぎながら、横目で紗季をじっと見据えている。その瞳の奥には、懇願ではなく、命令の色があった。 これは「お願い」ではない。 美月が作り上げた「理想の三枝美月像」を、親友という立場から証明しろという業務命令だ。 隣で啓介が穏やかに口を挟む。 「美月はね、遠野さんのことを本当に大事に思ってるんだよ。『紗季がいなかったら、今の私はいない』って、いつも言ってる」 その言葉は、皮肉なほど真実だった。 私が沈黙を守り、私が尻拭いをし、私が引き立て役を演じ続けたからこそ、今の「三枝美月」が存在する。
「……分かった。参考にするね」 紗季は手帳をバッグにしまった。断れる空気ではなかったし、ここで異を唱えれば、この完璧なランチタイムが修羅場と化すことは目に見えていた。 「ありがとう! やっぱり紗季は最高のパートナーだわ」 美月は満足げに微笑み、デザートのティラミスにスプーンを入れた。
ランチがお開きになり、店の前で二人と別れた。 啓介のエスコートでタクシーに乗り込む美月は、最後まで完璧なプリンセスだった。走り去るタクシーの後部座席から、彼女が手を振るのが見えた。
一人残された紗季は、どっと押し寄せる疲労感にその場にしゃがみ込みそうになった。 五月の風が、汗ばんだ首筋を冷やす。 バッグの中に入れた手帳が、まるで放射性物質のように熱を放っている気がした。 あの手帳に書かれたエピソードは、美月による歴史修正だ。過去を上書きし、自分にとって都合の良い物語として固定化しようとしている。 そして、その「証人」として紗季を選んだ。 なぜなら、紗季は「あの事件」の共犯者だから。真実を知っているからこそ、紗季が嘘をつけば、その嘘は誰にも覆せない真実になる。美月はそれを計算しているのだ。
「……ふざけないでよ」 小さく呟いた言葉は、雑踏にかき消された。
駅へ向かって歩き出した時、不意にスマホが鳴った。 美月からかと思い、身構えて画面を見る。 表示されていたのは、知らない番号だった。 普段なら無視するが、虫の知らせか、紗季は通話ボタンを押した。
「……はい、遠野です」 『あ、もしもし? 遠野紗季ちゃん?』 聞き覚えのある、少し鼻にかかった声。 記憶の糸を手繰り寄せるのに、数秒かかった。 高校の同級生。でも、美月のグループにはいなかった、地味で大人しかった女子。
「えっと、もしかして、長谷川さん?」 『そうそう! 覚えててくれたんだ、嬉しい。番号、実家の連絡網から調べちゃった、ごめんね』 「ううん、大丈夫だけど。どうしたの? 急に」 長谷川由美。クラスの片隅でいつも本を読んでいた彼女とは、卒業以来一度も連絡を取っていない。 電話の向こうで、由美は少し躊躇うように沈黙し、それから意を決したように言った。
『あのね、美月ちゃんの結婚式の招待状、私にも届いたの』 「えっ?」 意外だった。美月は、自分にメリットのある人間か、華やかな人間しか招待しないはずだ。地味だった由美を呼ぶ理由が見当たらない。 『それでね、SNSで見たんだけど、紗季ちゃんが友人代表のスピーチやるんでしょう?』 「……うん、その予定だけど」 『そっか……。ねえ、紗季ちゃん』 由美の声が、急に低くなった。
『あのこと、言うつもり?』 「あのこと?」 『ほら、十一年前に……あの子がいなくなった時のこと』
心臓が早鐘を打つ。 あの子。 名前を出さなくても分かった。 私たちの青春の影に、ずっと張り付いている亡霊のような存在。
「……言うわけないじゃない。結婚式だよ」 『そうだよね。……でもね、私、思うの。美月ちゃんが私を招待したのって、何か意味があるんじゃないかって』 「意味?」 『見せつけるためじゃないかな。自分が完全に「勝利」したことを。過去を全部清算して、あの子のことを無かったことにした自分を、私たちに見届けてほしいんじゃないかって』
紗季は足を止めた。 ショーウィンドウに映る自分と目が合う。 由美の言葉は、紗季が薄々感じていた不安を、的確に言語化していた。 あの結婚式は、美月による「戴冠式」であり、同時に「過去の埋葬式」なのだ。
『私、行くつもりだよ、結婚式。あの子の代わりに、美月ちゃんが幸せになるところ、ちゃんと見てやろうと思う』 由美の声には、静かな怒りと、奇妙な使命感が滲んでいた。 『じゃあね、紗季ちゃん。当日、楽しみにしてる』
電話が切れた。 紗季はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。 美月の意図。 由美の怒り。 そして、手帳に書かれた「脚本」。
過去は死んでいなかった。 結婚式という檜舞台に向けて、十一年前の因縁が、どす黒い根を伸ばして集結しつつある。 紗季はバッグの中の手帳を強く握りしめた。 指先が白くなるほど強く。 美月は私に、最高の嘘をつけと言った。 けれど、もし。 その脚本を、私が書き換えてしまったら?
雑踏の中で、紗季の唇が歪な形に吊り上がった。 それは、自分でも見たことのない、冷ややかな笑みだった。




