白紙の明日
最終章 白紙の明日
あれから、半年が過ぎた。 季節は巡り、東京は再び乾いた冬の空気に包まれている。
あの結婚式での騒動は、私の予想を遥かに超える規模で「炎上」した。 参列者の誰かが撮影していた動画がSNSに流出し、それは瞬く間に拡散された。テレビのワイドショーは連日、「人気料理研究家の裏の顔」「エリート新郎の過去のいじめ」をセンセーショナルに報じた。 三枝美月と高橋啓介は、一夜にして時代の寵児から、社会的な制裁の対象へと転落した。
美月は全てのレギュラー番組を降板し、出版予定だった本も白紙撤回された。SNSのアカウントは削除され、今は実家に戻り、世間との関わりを断っているという。 啓介は、会社を懲戒解雇こそ免れたものの、事実上の左遷として海外の関連会社へ出向させられたらしい。もちろん、二人の婚約は破棄された。愛ではなく、共犯関係で結ばれていた二人の絆は、脆くも崩れ去ったのだ。
そして、私、遠野紗季。 私は会社を辞めた。 「勇気ある告発」と称賛する声もあれば、「友人を売った裏切り者」「結婚式を台無しにした最低の女」という誹謗中傷も山のように届いた。 会社に居づらくなったこともあるが、何より、あの場所で「何者でもない自分」を演じ続けることに、もう耐えられなかったからだ。
二月の風が冷たい海岸沿いのカフェ。 私はテラス席で、ホットレモネードを飲んでいた。 都心のアパートを引き払い、少し離れた海沿いの街に引っ越した。家賃は安く、不便だが、空が広くて呼吸がしやすい。 今は、地元の小さな出版社でアルバイトをしながら、細々と暮らしている。
「お待たせ」 声をかけられ、顔を上げる。 厚手のコートを着た小野寺麻衣が立っていた。 彼女は会社に残った。あの騒動の後も、持ち前の愛嬌と図太さで「私も知らなかったんですぅ、先輩に騙されました」と被害者の顔をして乗り切ったらしい。さすがだ。 「久しぶり、麻衣ちゃん。元気?」 「元気ですよ。相変わらずお局様たちのご機嫌取りで胃が痛いですけど」 麻衣は笑って、向かいの席に座った。 彼女はバッグから一通の封筒を取り出した。 「これ、姉からです」
霧島アサミからの手紙。 私はカップを置き、両手で受け取った。 あの日以来、アサミとは会っていない。彼女は今、静養のために田舎の親戚の家に身を寄せていると聞いていた。
封を開ける。 便箋一枚の、短い手紙だった。
『遠野紗季様 海の色はいかがですか。 私は今、毎朝、庭の鳥の声で目を覚ましています。 火傷の痕は消えません。十一年前の記憶も、完全には消えないでしょう。 でも、最近ようやく、また歌を歌いたいと思えるようになりました。 小さな声ですが、少しずつ、自分のために歌っています。
ありがとう。 そして、さようなら。 私たちはもう、会わない方がいい。 お互い、過去の傷を舐め合うのではなく、それぞれの新しい傷を作りながら生きていきましょう。
霧島アサミ』
読み終えて、私は深く息を吐いた。 『さようなら』という言葉が、こんなにも清々しく、温かいものだとは知らなかった。 これは絶縁状ではない。私たちが「共犯者」という鎖から解き放たれ、他人同士に戻るための、解放の許可証だ。
「姉ちゃん、最近笑うようになったんです」 麻衣がレモネードを見つめながら言った。 「昔みたいに、屈託なく。……先輩のおかげです」 「ううん。私は自分のためにやっただけだよ」 私は首を振った。 私はヒーローではない。ただ、自分の罪悪感という重荷を下ろしたかっただけのエゴイストだ。それでも、その結果として誰かが救われたのなら、それは悪くない結末だと思えた。
「で、先輩はどうするんですか? これから」 麻衣が興味津々な目で聞いてくる。 「三十路目前でフリーター生活、不安じゃないですか?」 「不安だよ、すごくね」 私は苦笑した。 キャリアも、貯金も、社会的信用も失った。二十九歳の冬に、手元にあるのはボロのアパートの鍵と、わずかな現金だけ。 客観的に見れば、転落人生かもしれない。
でも。 私はバッグから、新しい手帳を取り出した。 一年前まで使っていた、会社支給の黒い手帳ではない。 自分の好きな色の、真っ白な表紙の手帳だ。
「でもね、今はすごく書きたい気分なの」 「何をですか? またスピーチ?」 「まさか。……自分の物語を、かな」
私はペンを取り出し、手帳の最初のページを開いた。 まだ、何も書かれていない真っ白なページ。 以前なら、この白さに恐怖を感じていた。埋めなければならない、正解を書かなければならないという強迫観念に駆られていた。 でも今は、この余白が無限の可能性に見える。
誰の期待にも応えなくていい。 誰の引き立て役にもならなくていい。 美月のような華やかな成功はないかもしれない。啓介のような権力とは無縁かもしれない。 それでも、ここに書く言葉は、すべて私が選び、私が責任を持つ言葉だ。
「……とりあえず、『三十歳の誕生日に、高い肉を食べる』って書くわ」 私が冗談めかして言うと、麻衣は声を上げて笑った。 「いいですね、それ。私も付き合いますよ、元・共犯者として」
冬の太陽が、海面をキラキラと照らしている。 かつて美月という太陽の影で震えていた私は、もういない。 私は私自身の足で立ち、自分の目で見上げた空の青さを知っている。
祝辞はまだ白紙のままだ。 誰かへの祝辞ではなく、私自身の人生への祝辞。 それを書き上げるのには、一生かかるかもしれない。 でも、ペンはここにある。
「じゃあ、行こうか」 私は伝票を掴み、立ち上がった。 風がページをめくる。 次の章が、今、始まろうとしていた。




