拍手なきカーテンコール
第十六章 拍手なきカーテンコール
映像がプツンと途切れ、スクリーンが白一色の光を放った。 その白さは、会場に満ちていた華やかな空気を漂白し、そこにいる全員の顔を青白く照らし出した。
数秒間の、完全な真空状態。 誰も言葉を発しない。呼吸音さえ聞こえない。 あまりにも残酷な真実を突きつけられ、人間の脳が処理落ちを起こしているような静寂だった。
「……嘘だ」
その静寂を破ったのは、低く、震える男の声だった。 高砂席の高橋啓介だ。 彼は顔を真っ赤にし、首の血管を浮き上がらせて叫んだ。 「嘘だ! これはフェイク映像だ! 今の技術ならこんなものいくらでも作れる! 誰かの悪質な悪戯だ!」
彼はマイクを掴み、必死に訴えかけた。 しかし、その声はスピーカーを通しても空虚に響くだけだった。 ゲストたちは馬鹿ではない。 映像の中の若い啓介が見せた、あの無邪気で残忍な表情。そしてドレスのレースをポケットにねじ込む手つき。 それは、今の彼がふとした瞬間に見せる冷笑的な表情と、あまりにも完璧にリンクしていた。 何より、隣で崩れ落ちている花嫁の姿が、映像が真実であることを雄弁に物語っていた。 美月は否定しなかった。ただ顔を覆い、ガタガタと震えているだけだ。
「……遠野!」 啓介の怒りの矛先が、壇上の紗季に向いた。 彼はテーブルを回り込み、荒い足取りで近づいてくる。 「お前だろ! お前が仕組んだのか! 恩を仇で返しやがって、ただで済むと思ってるのか!」
紗季は動かなかった。 迫り来る啓介の形相を見ても、不思議と恐怖はなかった。 ただ、哀れだと思った。 剥がされた仮面の下にあるのが、こんなにも幼稚な暴力性だったとは。
紗季は静かにマイクを口元に寄せた。 「……高橋さん。あなたのタキシードのポケットチーフ」 紗季の冷徹な声が会場に響く。 啓介が足を止めた。 「……あ?」 「とても綺麗ですね。まるで、十一年前のあの日、あなたが戦利品として持ち帰った『シンデレラのドレスのレース』みたい」
啓介がハッとして自分の胸元を見た。 そこには、純白のシルクのチーフが挿してある。もちろん、あの日のレースではない。 だが、会場中の視線がその胸元に集中した。 ゲストたちは想像してしまう。あの白い布切れが、引き裂かれた少女の夢の残骸に見えてしまう。
「ふざけるな……!」 啓介が後ずさる。 紗季は視線を会場全体に戻した。
「皆様。お騒がせして申し訳ありません。……先ほどの映像は、フェイクではありません。十一年前、実際に起きたことです。そして、そこに映っていたもう一人の人物。ヘアピンを拾い、事実を隠蔽した女子生徒」 紗季は一度言葉を切り、深く息を吸った。 「それは、私です」
会場が再びざわめく。 軽蔑、困惑、嫌悪。負の感情が波のように押し寄せてくる。 紗季はその全てを、真正面から受け止めた。
「私は共犯者でした。友人を失うのが怖くて、保身のために被害者を見捨て、加害者に加担しました。……その罪は、一生消えません」 声が震えそうになるのを、腹に力を入れて抑え込む。 「ですが、だからこそ。私は今日、この場所で、全ての嘘を終わらせる義務がありました」
紗季は高砂席の美月を見た。 彼女は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で紗季を睨みつけていた。 その目にあるのは、反省ではない。 『どうして』という、裏切りへの激しい憎悪だ。
「美月」 紗季は優しく呼びかけた。 マイクを通さない、肉声で。 「もう、演じなくていいんだよ。完璧なヒロインも、悲劇の女王も。……あなたはただの、弱くて残酷な人間。そして私も、ただの卑怯な人間」 「……あんたなんかに」 美月の唇が動いた。掠れた声が漏れる。 「あんたなんかに、私の何が分かるのよ! 私の人生を返して! 一生かけて償いなさいよ!」
美月がウェディングケーキのナイフを掴もうとする素振りを見せた瞬間、新婦側の父親が慌てて彼女を羽交い締めにした。 「やめなさい! 美月!」 「離して! 殺してやる! あいつが私の幸せを壊したのよ!」 喚き散らす花嫁。 その姿は、もはや誰も憧れない。 ただの醜悪な狂乱劇の主役だった。
紗季は、もう一度だけ会場を見渡した。 百五十人の証人たち。 彼らは今日、豪華な食事の代わりに、人間の本性の最も醜い部分を目撃した。 この記憶は、彼らの脳裏に焼き付き、SNSを通じて世界中へ拡散されるだろう。 三枝美月と高橋啓介の社会的生命は、今日ここで終わる。 そして、告発者である遠野紗季の平穏な日常もまた、ここで終わる。
「……本日の祝辞は、以上です」
紗季はマイクを切り、深く一礼した。 拍手はなかった。 あるはずがなかった。 ただ、重苦しい沈黙と、怯えた視線だけが紗季を包んでいた。
紗季は顔を上げ、階段を降りた。 深紅の絨毯。ヴァージンロード。 入場する時は祝福の道だったその場所を、今は逆方向へ、たった一人で歩いていく。 モーセが海を割るように、ゲストたちが慌てて道を空ける。 誰も紗季と目を合わせようとしない。 ドレスの裾を踏まないように、顔を上げて歩く。 その足取りは、不思議なほど軽かった。
出口の近くで、立ち尽くしている啓介の横を通った。 彼は呆然と立ち尽くし、何かブツブツと呟いていた。 「……親父になんて言えば。会社の株価が。契約が……」 美月のことなど、微塵も考えていない。 彼は最後まで、自分のことしか愛していなかったのだ。 紗季は彼を一瞥もしなかった。もう、彼に対する恐怖も興味も消え失せていた。
重厚な扉の前に立つ。 ホテルスタッフが、青ざめた顔で扉を開けた。 その向こうから、冷房の効いたホワイエの風が吹き込んでくる。
紗季は一歩、外へと踏み出した。 背後で扉が閉まる。 中の喧騒と狂気が、分厚い木の扉によって遮断された。
静寂。 ホワイエの絨毯の模様が、やけに鮮明に見える。 終わった。 全てが終わった。
力が抜け、その場に膝をつきそうになった時、誰かが紗季の腕を支えた。 顔を上げる。 スタッフパスを首から下げた、小野寺麻衣だった。 彼女は泣いていた。 でも、その口元は笑っていた。
「……お疲れ様です、先輩」 麻衣の声は震えていた。 「最高の演出でした。……ざまあみろ、ですね」 「うん……そうだね」 紗季は麻衣の肩に額を預けた。 涙は出なかった。ただ、身体中の血が入れ替わったような、強烈な虚脱感があった。
「行きましょう、先輩。ここにいたら、マスコミとか野次馬とか、面倒なのが来ますよ」 麻衣が紗季の手を引く。 「どこへ?」 「とりあえず、ここじゃないどこかへ。……あ、私、有給取っちゃいましたから。しばらく付き合いますよ」
二人は手を取り合い、非常階段へと向かった。 エレベーターは使わない。 煌びやかな表舞台から、薄暗いコンクリートの裏動線へ。 ヒールの音が、コツコツと響く。 紗季は、バッグの中に入っている携帯電話の電源を切った。 これから、非難の嵐が吹き荒れるだろう。 会社はクビになるかもしれない。ネットでは特定され、炎上するだろう。 でも、不思議と怖くなかった。 二十九歳。 私は今日、全てを失った。 そして初めて、誰の言いなりでもない、私自身の人生を手に入れた。
非常階段の扉を開けると、真夏の熱気がドッと押し寄せてきた。 空は突き抜けるように青く、眩しかった。 紗季は目を細め、その光の中へと歩き出した。




