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静寂のドレスリハーサル

第十四章 静寂のドレスリハーサル


結婚式前日。  都内屈指のラグジュアリーホテル、「グランド・オリエンタル東京」。  その最上階にあるチャペル「天空の庭」は、その名の通り、雲の上に浮かんでいるかのような幻想的な空間だった。  ガラス張りの祭壇の向こうには、夏の青空と東京の摩天楼が広がっている。

「新郎新婦、入場です」  プランナーの声に合わせて、重厚な扉が開く。  ヴァージンロードを歩くのは、私服姿の美月と啓介だ。本番さながらの真剣な表情で、一歩一歩、祭壇へと進んでいく。  紗季は、親族席の最前列でその様子を見守っていた。  明日の本番、紗季は友人代表としてだけでなく、美月の介添え役に近いポジションも任されている。「一番近くで見ていてほしい」という美月の強い希望だった。

「……そこで、新郎様がベールを上げます。腰を落として、ゆっくりと」  スタッフの指示に従い、啓介が美月の顔の前で手を動かす。  その所作は洗練されており、まるで映画のワンシーンのようだ。  美月が恥ずかしそうに伏し目がちになる。  美しい。悔しいけれど、絵になる二人だ。  もし私が真実を知らなければ、この光景を見て感動の涙を流していたかもしれない。

「はい、カット! ……あ、違った。オッケーです」  啓介が冗談めかして言い、スタッフたちを笑わせた。  彼はリハーサルでさえも、自分が監督であり主役であるという空気を隠さない。 「音響さん、さっきのBGM、もう少しボリューム上げて。クライマックスなんだから」 「照明、ここはもっと新婦に当てて。彼女が一番綺麗に見える角度で」  啓介の指示が飛ぶたびに、プロのスタッフたちが慌ただしく動く。美月はその横で、ただ微笑んで立っているだけの美しい人形だった。

「遠野さん、スピーチの立ち位置、確認しましょうか」  司会者に促され、紗季はマイクスタンドの前に立った。  目の前には、明日は百五十人のゲストで埋め尽くされる円卓が並んでいる。  マイクを握る。掌にじわりと汗が滲む。 「本番では、ここで手紙を朗読していただきます。照明はスポットライトになりますので、手元が少し暗くなりますが大丈夫ですか?」 「はい、大丈夫です」  紗季は、バッグから一通の封筒を取り出した。  中に入っているのは、美月が監修し、啓介がチェックした「完璧な祝辞」の原稿だ。  『高校時代、美月は私たちの太陽でした』で始まり、『二人の未来に幸あれ』で終わる、無難で美しい嘘の羅列。

明日、私はこの原稿を読み上げるふりをして、全く別の言葉を語り始める。  その時、この会場はどんな空気に包まれるのだろう。  想像すると、武者震いのようなものが背筋を駆け抜けた。

「……遠野さん?」  司会者に呼ばれ、ハッとする。 「あ、すみません。……位置、ここで大丈夫です」  紗季は笑顔を作った。  壇上から見下ろすと、啓介が腕組みをしてこちらを見ている。  品定めするような目。  『ちゃんとやれよ、共犯者』という無言の圧力が伝わってくる。  紗季は彼に向かって、小さく頷いてみせた。  安心して。あなたの期待以上の演出を用意しているから。

リハーサルが終わり、三人はホテルのラウンジで最終打ち合わせを行った。 「いやあ、楽しみだね。明日は最高の式になるよ」  啓介はミネラルウォーターを飲みながら、満足げに言った。 「美月、体調は? 顔色いいじゃん」 「うん、昨日はよく眠れたから。……紗季のおかげよ」  美月が紗季の手を握る。 「紗季がずっとそばにいてくれたから、不安なんてなくなったわ。明日は私の人生で一番幸せな日になる」  その瞳に曇りはなかった。  彼女は本当に信じているのだ。過去は清算され、自分は祝福されるべきヒロインだと。  十一年前、友人の夢を切り刻んだ鋏を持っていたその手で、今は幸せを掴もうとしている。

「そうそう、遠野さん」  啓介が身を乗り出した。 「例のサプライズ動画のことだけど」  心臓が跳ねる。 「データの最終チェック、さっき済ませたよ。完璧だった。遠野さんが提供してくれた写真(※実際は啓介が他から集めたものだが、話の辻褄を合わせている)、いいアクセントになってたよ」 「……そうですか。よかったです」 「システム担当にも念押ししておいたから。僕の合図で再生スタート、ってね」  啓介はウインクした。    彼は知らない。  そのシステム担当者の端末に、すでに麻衣の手によってバックドアが仕掛けられていることを。  啓介が再生の合図を出した瞬間、流れるのは彼の作った「感動ムービー」ではなく、彼らが葬り去ったはずの「地獄の記録」だということを。

「それじゃ、今日は早めに解散しよう。明日に備えて」  啓介が立ち上がった。 「遠野さん、今日はこのホテルに泊まるんだよね? 部屋、アップグレードしておいたから。ゆっくり休んで」 「え、そんな……ありがとうございます」  どこまでも余裕のある男だ。恩を売ることも忘れない。

エレベーターホールで別れる際、美月が紗季を抱きしめた。 「紗季、明日、よろしくね。……大好きよ」  耳元で囁かれた言葉。  甘い香水の匂い。  紗季は一瞬、抱きしめ返そうとして、手を止めた。  代わりに、美月の背中を軽くポンポンと叩いた。 「うん。任せて」

それが、彼女への最後の慈悲だった。

用意された部屋は、二十階のデラックスツインだった。一人で泊まるには広すぎる。  窓の外には、東京タワーが輝いている。  紗季はシャワーを浴び、バスローブを羽織って窓辺のソファに座った。  テーブルの上には、スピーチの原稿と、スマホが置かれている。

スマホが振動した。  麻衣からのメッセージだ。

『準備完了。バックドア、正常に稼働中。いつでもイケます』 『明日の披露宴、私は二次会の準備という名目で、会場の音響室の近くに待機します。先輩がマイクの前で「ある言葉」を言ったら、それが合図です』

合図。  事前に打ち合わせていたキーワード。  紗季は画面に『了解。頼んだよ』と打ち込み、送信した。

部屋の照明を落とす。  暗闇の中で、東京の夜景だけが煌めいている。  十一年前。  あの放課後の被服室も、夕陽で赤く染まっていた。  あの日、私は選択を間違えた。  恐怖と保身から、悪に加担することを選んだ。  そのツケを払うのに、十一年かかった。

怖くないと言えば嘘になる。  明日、私は多くのものを失うだろう。  職場の信用、人間関係、あるいは平穏な日常そのものを。  啓介からの報復もあるかもしれない。    でも。  アサミの火傷の痕を見た時。  啓介の軽薄な笑顔を見た時。  私の中で何かが決壊したのだ。    自分を守るために生きるのは、もうやめる。  たとえ刺し違えても、この歪んだ脚本を書き換える。

紗季は原稿用紙を手に取った。  そこには、美月を称える言葉が並んでいる。  彼女は万年筆を取り出し、その裏面に、たった一行だけ書き込んだ。

『私の親友は、ドレスを切り裂く魔女でした』

それは、明日のスピーチの冒頭の一文ではない。  自分自身への、宣戦布告だった。

午前零時。  日付が変わった。  運命の日、七月七日。  織姫と彦星が出会う日。  そして、二人の怪物が断罪される日。

紗季は目を閉じた。  眠れるはずもなかったが、静寂の中で呼吸を整えた。  嵐の前の静けさは、もう終わりだ。  明日、幕が上がる。


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