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微笑みの調律

第十三章 微笑みの調律


結婚式まで、あと一ヶ月。  季節は梅雨明けを迎え、東京の街は容赦ない陽射しとアスファルトの照り返しに灼かれていた。  紗季の日常は、完璧な二重生活となっていた。  昼は広報部の頼れる先輩社員。夜と休日は、三枝美月と高橋啓介の「献身的な協力者」。

週末、紗季は啓介のマンション――美月とは別の、彼が仕事用に使っているセカンドハウス――を訪れていた。  コンクリート打ちっ放しのデザイナーズマンション。生活感の欠片もなく、高価なオーディオ機器と巨大なモニターだけが鎮座するその部屋は、まるで彼の冷徹な脳内を具現化したようだった。

「どう? このトランジション」  啓介がマウスを操作し、モニター上の動画を再生する。  画面には、美月の幼少期の写真から高校時代の写真へと切り替わるエフェクトが表示された。 「すごくいいです。プロみたい」  紗季は、練習した通りの「感嘆の微笑み(レベル3)」を浮かべた。 「だろう? こだわったんだ。美月が輝く瞬間を、一番ドラマチックに見せたいからね」

啓介は満足げにワイングラスを揺らした。  この一ヶ月、紗季は彼の「動画編集アシスタント」という名目で、頻繁に呼び出されていた。  表向きは、彼が作るサプライズ動画の素材選びや構成のアドバイス。だが実際は、彼が自分のセンスと支配力を誇示するための観客役だ。

「そういえば、遠野さんにお願いしてた『あの写真』、まだ見つからない?」  不意に、啓介が視線を投げかけてきた。  高校二年の文化祭の写真だ。 「……実家も探したんですけど、どうしても見つからなくて。引越しの時に紛失してしまったみたいです」  紗季は申し訳なさそうに眉を下げた。  もちろん嘘だ。アルバムは手元にある。だが、そこから写真を渡せば、彼がそれをどう改竄し、どう利用するか分からない。情報は最小限に留めなければならない。

「そっか。残念だなあ」  啓介は軽く肩をすくめたが、目は笑っていなかった。 「まあいいや。別のルートで何枚か手に入れたから」 「えっ?」  心臓が跳ねる。 「当時のクラスメイトに片っ端から連絡してね。結構集まったよ。……ほら、これとか」  彼がフォルダを開く。  そこに表示されたのは、文化祭の準備風景のスナップだった。  教室の隅で、黙々と衣装を縫っている霧島アサミの姿が写っている。  そして、その背後で、美月が何やら指示を出している構図。

「この子、なんて言ったっけ。霧島さんだっけ?」  啓介がアサミの顔をカーソルで指す。 「なんか、暗いよね。美月の引き立て役としては最高だけど」  彼は無邪気に笑った。 「この写真をね、動画の導入に使おうと思うんだ。『地味なクラスメイトとの対比』で、美月の華やかさを強調する。……どう思う? 遠野さん」

試されている。  ここで「それは趣味が悪い」と言えば、私は敵とみなされる。  紗季は、膝の上で拳を握りしめ、爪が肉に食い込む痛みで表情筋をコントロールした。

「……いいと思います。ストーリー性があって」 「だよね! 分かってるなあ、遠野さんは」  啓介は嬉しそうに紗季の肩を叩いた。  吐き気がした。彼の体温がシャツ越しに伝わるだけで、皮膚が粟立つ。  アサミの人生を壊した男が、今度は彼女の過去の写真さえも、自分の「作品」の素材として消費しようとしている。  この男には、他人の痛みという概念が存在しないのだ。

「じゃあ、この方向で進めるよ。……あ、そうだ。これ、お礼」  啓介はサイドテーブルから、小さな紙袋を取り出した。高級ブランドのロゴが入っている。 「開けてみて」  促されて中を見ると、シルクのスカーフが入っていた。 「君に似合うと思って。いつも地味……いや、シックな服が多いから、こういう差し色があると映えるよ」  言葉の端々に滲む、無自覚な見下し。  紗季は、最大限の笑顔を作った。 「ありがとうございます。嬉しいです」  スカーフの滑らかな手触りが、まるで首を絞めるロープのように感じられた。

その日の夕方、紗季は美月と合流し、エステの付き添いをした。  施術を終えた美月は、ゆで卵のようにツルツルの肌で個室から出てきた。 「はあ、生き返った。……でも、なんか疲れちゃった」  ラウンジでハーブティーを飲みながら、美月が珍しく弱音を吐いた。 「準備、大変だもんね」 「ううん、それだけじゃないの」  美月はカップの縁を指でなぞった。 「啓介くん、最近すごいの。式の演出、全部自分で決めちゃうし、私のドレスの小物まで『こっちの方がいい』って指定してくるの。まるで、私を着せ替え人形みたいに思ってるんじゃないかって」

紗季は、ハーブティーを飲む手を止めた。  女王様が、支配される側の苦痛を感じ始めている。 「……啓介さん、こだわり強いからね」 「そうなの。完璧主義すぎて、息が詰まる時がある。……ねえ、紗季」  美月が上目遣いで紗季を見た。 「私、幸せになれるよね? これが正解だよね?」

一瞬、紗季の中に迷いが生じた。  目の前の女性は、かつて友人を陥れた加害者だ。しかし今は、より強大な怪物に飲み込まれようとしている被害者にも見える。  もしここで、「逃げた方がいい」と言ったら?  いや、だめだ。  ここで情けをかければ、アサミや麻衣の復讐はどうなる。私の受けた屈辱は。  それに、美月はまだ自分の罪を認めていない。彼女が今感じているのは、被害者への懺悔ではなく、単なる自分の居心地の悪さだ。

紗季は、啓介にもらったスカーフをバッグの中に押し込みながら、優しく微笑んだ。 「大丈夫だよ、美月。二人はお似合いだもの。きっと最高の結婚式になるよ」  背中を押す。  地獄への入り口に向かって。

「……そうよね。ありがとう、紗季。やっぱり紗季と話すと安心する」  美月は安堵の表情を浮かべた。  その笑顔を見て、紗季の心は冷え切っていた。  私はもう、戻れない。  二人の怪物を同じ檻に閉じ込め、共食いさせる。その結末を見届けるまでは。

翌日、会社にて。  給湯室で、小野寺麻衣と鉢合わせた。  周囲に人がいないことを確認し、麻衣が小声で囁く。 「先輩、例のブツ、仕込み完了しました」  彼女の目は、獲物を狙う狩人のように鋭く光っている。 「ブツ?」 「動画データです。会場の音響・映像システムの管理パスワード、業者の担当者をたらし込んでゲットしました。当日、先輩の合図で割り込ませるための『裏口』も確保済みです」

さらりと言ってのける麻衣に、紗季は戦慄した。  この子は、本気だ。  総務部のゆるふわ女子社員という仮面の下に、ハッカー並みの執念と行動力を隠し持っている。 「……すごいね。足はつかない?」 「抜かりないです。ログは改ざん済み。もしバレても、システムの誤作動か、外部からのハッキングに見えるように工作しました」  麻衣はニヤリと笑い、自分の爪を見つめた。今日は黒いネイルだ。 「啓介が作った『感動のサプライズ動画』。あれが流れるはずのタイミングで、私たちの『真実の動画』をぶち込みます。……楽しみですね、先輩」

「うん。……あ、そうだ。これ」  紗季は、昨日啓介から貰ったブランドのスカーフを麻衣に渡した。 「え、何ですかこれ。賄賂?」 「違う。啓介からの『お礼』だって。私には派手すぎて使えないから、あげる」 「げっ、あの男からの貢ぎ物? 呪われてそう」  麻衣は顔をしかめたが、すぐに何かを思いついたように悪戯っぽく笑った。 「あ、でもこれ、メルカリで売ったら結構いい値段つきますね。活動資金にさせてもらいます」 「好きにして」

二人は短く視線を交わし、それぞれのデスクへと戻った。  もはや言葉はいらなかった。  二ヶ月前、互いに敵対していた二人は、今や最も信頼できる共犯者となっていた。

その夜、紗季は自宅で結婚式の招待状への返信ハガキを書いた。  『ご出席』の文字を黒の万年筆で丸く囲む。  『お祝いのメッセージ』欄には、定型文ではなく、こう書き添えた。

『お二人の新たな門出が、真実の愛で満たされますように。 遠野紗季』

真実。  その二文字に込めた皮肉に気づく者は、まだ誰もいない。  紗季はハガキをポストに投函した。  カタン、という音が、夜の闇に吸い込まれていく。  賽は投げられた。  もう、誰も止めることはできない。    微笑みの仮面の下で、紗季は静かにカウントダウンを開始した。  あと三十日。  ガラスの城が崩壊するその日まで。


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