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地下二階の共犯契約

第十二章 地下二階の共犯契約


新宿・歌舞伎町の端にある激安カラオケボックス。  タバコと安っぽい芳香剤が混ざった匂いが充満する地下二階の個室は、汐留のラグジュアリーホテルのラウンジとは対極にある、世界の掃き溜めのような場所だった。  だが、今の紗季には、この防音扉で閉ざされた狭い空間こそが、唯一呼吸のできるサンクチュアリだった。

「……で、話って何ですか? わざわざこんな所に呼び出して」  小野寺麻衣は、不機嫌そうにソファに足を投げ出していた。テーブルには、ドリンクバーのメロンソーダが毒々しい緑色の光を放っている。  紗季は無言でノートパソコンを開き、テーブルの上に置いた。 「見て。最後まで」  短い言葉と共に、再生ボタンを押す。

アサミから託された『Final_Act.mp4』。  画面の中で、夕暮れの被服室の惨劇が再生される。  麻衣は最初、ふてぶてしい態度で画面を眺めていた。しかし、動画の後半――紗季が部屋を出て行き、入れ違いに男子生徒が入ってきた瞬間、彼女の表情が一変した。  身を乗り出し、画面を食い入るように見つめる。  啓介がドレスを蹴り、美月とキスをし、笑いながらレースをポケットにねじ込むシーン。

「……は?」  麻衣の唇から、乾いた音が漏れた。 「なにこれ……こいつ、新郎じゃん」 「そう。高橋啓介。美月の婚約者よ」  紗季は冷静に告げた。 「彼は知っていたの。全部。知っていたどころか、あの現場で美月の行為を称賛し、楽しんでいた。……今日、彼に会ってきたわ。彼は今でも、あの日のことを『美月がヒロインになるための必要な儀式』だと思ってる」

麻衣の肩が震え始めた。  それは恐怖ではなく、煮えたぎるような激怒だった。 「ふざけんな……ふざけんなよ!」  麻衣が叫び、テーブルをドンと叩いた。メロンソーダが波打ち、数滴がテーブルに散る。 「姉ちゃんは……姉ちゃんは、あいつらの『愛の演出』のために生贄にされたってこと? 単なる女の嫉妬じゃなくて、カップルの暇つぶしだったってこと!?」 「そういうことになる。……そして彼は今、私に圧力をかけてきてる。『美月を守れ』ってね。守れなければ、私を潰すと脅されたわ」

紗季は麻衣の目を見た。  そこには、昨日の屋上で見せた冷酷な計算高さは消え失せ、傷ついた獣のような純粋な怒りだけがあった。 「麻衣ちゃん。あなたの計画通り、私がスピーチで美月だけを告発しても、多分うまくいかない」 「……どうして」 「啓介がいるからよ。彼は美月以上に頭が切れるし、権力も金もある。美月が叩かれても、彼が『彼女は精神的に不安定だった』と擁護して、美談に書き換えるかもしれない。最悪の場合、全てを私の妄想として処理して、逆に私たちが訴えられる」

麻衣は爪を噛んだ。ジェルネイルがカチカチと音を立てる。 「じゃあ、どうすればいいんですか。このまま指くわえて見てろって?」 「ううん。逆よ」  紗季はパソコンを閉じ、麻衣の方へ体を向けた。 「二人まとめて葬るの。結婚式という、彼らが主役の最高の舞台で」

紗季はバッグから一枚のメモを取り出した。  汐留からの帰り道、震える手で書き出した「作戦案」だ。 「啓介は私に、披露宴で流す『サプライズ動画』の素材提供を求めてきたわ。彼は自分で編集すると言っているけど、素材は私が出す。ここにチャンスがある」 「動画をすり替えるんですか? でも、編集権があっちにあるなら、事前にチェックされますよ」 「そう。だから、正面からは突破できない。……でも、式の進行そのものに細工ができれば話は別よ」

紗季は声を潜めた。 「麻衣ちゃん、あなたは総務部よね。社内の機材管理とか、イベントの手配に詳しいはず」 「まあ、一通りは」 「今回の結婚式、二次会の幹事は会社の後輩――つまり、あなたが担当することになってるって聞いたけど」 「ええ、表向きは『慕ってる先輩のために』って立候補しましたから。二次会で暴露映像を流すつもりでしたし」 「二次会じゃ弱い。本番の披露宴じゃなきゃダメ」  紗季は麻衣の手を掴んだ。 「私が啓介の懐に入り込んで、披露宴の『システムの隙間』を作る。あなたはそこから、この動画を流し込んで。……私のスピーチを合図に」

麻衣は紗季の手を見つめ、それから顔を上げた。  その瞳に、怪しい光が戻り始めていた。 「……先輩。やっぱりあなたも、あっち側の人間ですね」 「え?」 「性格が悪いってことですよ。美月たちより、ずっとタチが悪い」  麻衣はニヤリと笑った。それは、初めて見せる「共犯者」としての笑顔だった。 「いいですよ、乗りましょう。あの胸糞悪い王子様と女王様を、公開処刑にしてやる」

「ありがとう。……それと、もう一つ大事なことがあるの」  紗季は表情を引き締めた。 「これから式までの二ヶ月間、私たちは会社では『今まで通り』に振る舞うこと。いや、今まで以上に、私は美月の親友を演じ、あなたは私を慕う後輩を演じる。そして裏では……」 「裏では、完璧な『爆弾』を組み立てる」  麻衣が言葉を引き継いだ。

「あの動画、データもらえますか? 私のパソコンスキル、なめないでくださいよ。ただ流すだけじゃつまらない。もっと効果的な演出、考えますから」 「頼もしいね」  紗季はSDカードを麻衣に渡した。  二人の指が触れ合う。  それは友情の握手ではなかった。血判状に拇印を押すような、重く、冷たい契約の成立だった。

「カラオケ、歌います?」  麻衣がリモコンを手に取った。 「一曲くらい歌わないと、怪しまれるかもしれませんよ」 「そうだね。……何入れる?」 「『シンデレラ・ハネムーン』とかどうですか?」 「古いよ」  紗季は苦笑し、グラスを掲げた。 「乾杯しましょう。私たちの、反逆のシナリオに」

麻衣もメロンソーダを掲げた。  プラスチックのコップがぶつかり合う、安っぽい音。  だが、その音は、汐留の高級グラスの音よりも、はるかに強く紗季の胸に響いた。

モニターには、誰も予約していない曲の歌詞が虚しく流れている。  『さよなら、昨日までの私』  偶然流れたそのフレーズを見ながら、紗季は思った。  二十九歳。  私はもう、誰かの人生の脇役ではない。  ここから先は、私が書く。  インクではなく、毒と嘘で塗り固めた、最高の祝辞を。

密会は一時間で終わった。  二人は時間をずらして店を出た。  歌舞伎町のネオンが、雨上がりのアスファルトに反射してギラギラと輝いている。  その光の中を歩きながら、紗季はスマホを取り出し、美月にメッセージを送った。

『啓介さんと会ってきたよ! 素敵なサプライズになりそう。全力で協力するね♡』

送信ボタンを押す指に、迷いはなかった。  既読はすぐについた。  画面の向こうで、美月が満足げに笑っているのが目に浮かぶ。  笑っていればいい。  その笑顔が凍りつく瞬間まで、精一杯、幸せな花嫁を演じさせてあげる。

紗季はヒールの音を高く響かせ、雑踏の中へと消えていった。  戦いの幕は、静かに、しかし確実に上がり始めていた。


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