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共犯者のテイスティング

第十一章 共犯者のテイスティング


汐留のラグジュアリーホテル、二十八階にあるラウンジバー。  そこは、地上で蠢く有象無象の悩みなど存在しないかのような、洗練された静寂に包まれていた。  高い天井、控えめなピアノの生演奏、そして東京湾を見下ろす夜景。グラスが触れ合うかすかな音が、上品なBGMのように空間に溶けている。

紗季は案内された奥のソファ席に、その男を見つけた。  高橋啓介。  彼は夜景を背にして、琥珀色の液体が入ったグラスを傾けていた。仕立ての良いダークグレーのスーツに、ノーネクタイ。その姿は、まるでファッション誌のページから抜け出てきたかのように完璧だった。  だが、今の紗季には、その整った横顔の皮の下にある、ドロドロとしたタールのような本性が見えてしまう。

「やあ、遠野さん。忙しいところ来てくれてありがとう」  紗季が近づくと、啓介はすぐに立ち上がり、スマートに席を勧めた。  その笑顔。動画の中で、切り刻まれたドレスを見て『派手にやったなぁ』と笑った顔と同じだ。 「いえ、とんでもないです。……素敵な場所ですね」 「気に入ってもらえてよかった。ここ、静かで話しやすいから好きなんだ」

啓介はウェイターを呼び、メニューも見ずにオーダーした。 「彼女には『キール・ロワイヤル』を。僕は同じものをもう一杯」  紗季の好みなど聞かない。  カシスリキュールをシャンパンで割ったカクテル。甘く、口当たりが良く、そして酔いやすい酒。  まるで、これから始まる会話のメタファーのようだった。

「突然呼び出してごめんね。美月には内緒だから、ちょっと緊張しちゃって」  啓介は人懐っこい笑みを浮かべる。 「いえ……。それで、サプライズのご相談というのは?」  紗季は努めて事務的な口調を保った。バッグの中で、あのSDカードが入ったポーチを握りしめそうになる手を、必死で膝の上に固定する。

「ああ、そうそう。実はね、披露宴の余興で流すムービーを僕が作ってるんだ。業者に頼むとありきたりになるから、僕のセンスで編集したくて」  啓介はタブレットを取り出し、テーブルに置いた。 「テーマは『美月のルーツ』。彼女がいかにして今の素晴らしい女性になったか、その軌跡を辿る映像にしたい」  画面には、美月の幼少期からの写真がスライドショーのように並んでいた。 「そこで、遠野さんにお願いがあるんだ」  啓介の指が、画面をスワイプする。  表示されたのは、高校時代のフォルダだった。

「文化祭の写真が欲しいんだ」  心臓が、早鐘を打った。 「美月が高二の時、クラス演劇で活躍したって聞いててね。でも、美月の手元にはいい写真があまり残ってないんだよ。遠野さんなら、オフショットとか持ってるんじゃないかな?」

試されている。  紗季は直感した。  彼は知っているのだ。あの文化祭で何が起きたか。自分がドレスを踏みつけ、美月とキスをしたあの場所の記憶を、わざわざ掘り返そうとしている。 「……文化祭、ですか」  紗季は慎重に言葉を選んだ。 「あんまり撮ってなかった気がします。バタバタしてたので」 「そう? 残念だなあ。美月、よく言ってるんだよ。『あの文化祭が私の原点だ』って。トラブルを乗り越えて成功させた経験が、今の自信に繋がってるって」  啓介はグラスを揺らし、氷の音を楽しんだ。 「トラブル、あったんだよね? 衣装が誰かに切られたとか」

逃げ場はない。  彼は正確に、紗季の急所を狙って矢を放ってくる。 「……はい。でも、美月がすぐにリメイクして、劇は成功しました」 「すごいよね、あいつ。逆境であればあるほど燃えるタイプだ。……犯人は結局、見つからなかったの?」  啓介の瞳が、爬虫類のように冷たく光った。  紗季を見据えるその目は、「お前は知っているだろう?」と語りかけている。いや、「俺たちがやったと知った上で、どう答える?」と楽しんでいる。

紗季は、乾いた喉にキール・ロワイヤルを流し込んだ。 「……ええ。迷宮入りです」 「ふうん。まあ、時効だよね。それに結果オーライだ。あのおかげで美月はヒロインになれたんだから」  啓介は笑った。  その軽薄な口調に、紗季の中でどす黒い怒りが湧き上がった。  アサミの人生を壊しておいて、「結果オーライ」。  こいつは、美月よりもタチが悪いかもしれない。美月には承認欲求という人間らしい(けれど肥大化した)動機があった。だが、この男にはそれすらない。ただのゲームなのだ。

「ところで、遠野さん」  啓介が声を落とした。 「最近、美月の様子が変だと思わない?」 「……変、ですか?」 「うん。なんか怯えてるっていうか、イライラしてるっていうか。……誰かに脅されてるとか、心当たりない?」

空気が凍りついた。  紗季は息を止めた。  これは、アサミや麻衣のことか? それとも、紗季自身の挙動を疑っているのか? 「……いえ、特に聞いてませんけど」 「そうか。遠野さんなら何か知ってるかと思ったんだけどな。なんせ『共犯者』だしね」

カチャン、とグラスを置く音が響いた。  共犯者。  その単語の響きに、紗季の指先が震えた。 「……え?」 「あ、ごめんごめん。言葉が悪かったかな。『親友』って意味だよ。苦楽を共にした、ね」  啓介は悪びれもせずに手を振った。  確信犯だ。  彼は、紗季が動揺するのを見て楽しんでいる。テイスティングしているのだ。紗季の恐怖の味を。

「美月はさ、ああ見えて脆いんだよ。虚栄心で膨らませた風船みたいなもんだ。針で突ついたら一瞬で割れちゃう」  啓介はつまらなそうに言った。  愛する婚約者を語る言葉ではない。まるで、壊れやすいおもちゃの所有者が、その扱い方を説明しているようだ。 「だから、遠野さんには引き続き、その風船が割れないように守ってあげてほしいんだ。……余計な『針』が近づかないようにね」

それは明確な警告だった。  アサミや麻衣の動きを封じろ。そしてお前自身も余計なことをするな、という命令。   「……もし、守りきれなかったら?」  紗季は、自分でも驚くほど低い声で問い返していた。  啓介は一瞬、きょとんとした顔をし、それからこの夜一番の深い笑みを浮かべた。 「そんなこと考えたくもないな。僕、壊れたおもちゃには興味ないんだ。すぐに捨てちゃう性格でね」  そして、彼は付け加えた。 「もちろん、おもちゃを壊した人間にも、責任は取ってもらうけど」

背筋に悪寒が走る。  美月が破滅すれば、彼は美月を捨てる。  そして、その原因を作った人間――紗季――を、社会的に抹殺する力を持っていることを匂わせている。大手広告代理店のネットワーク、マスコミへの影響力、そしておそらく彼の実家の権力。  紗季ごとき、指先一つでひねり潰せるのだ。

「……そろそろ行こうか。美月が待ってる」  啓介がチェックのサインをした。  立ち上がり際、彼は紗季の耳元で囁いた。 「スピーチ、楽しみにしてるよ。最高の『賛美歌』をね」

ホテルのエントランスで彼を見送った後、紗季はその場にへたり込みそうになった。  夜風が冷たい。  美月という「表の女王」の背後に、啓介という「闇の王」がいた。  二人は、互いの歪んだ欲望で結びついた、最悪のカップルだ。

紗季は、バッグの中のSDカードの感触を確かめた。  アサミは言った。『美月を殺す覚悟』と。  だが、それだけでは足りない。  この男も道連れにしなければ、本当の意味での解決にはならない。  しかし、どうやって?  あんな怪物を相手に、私一人で?

その時、ふと麻衣の顔が浮かんだ。  『姉の復讐代行者じゃない。あの子自身の怒りを燃やすための燃料として、私を使ってる』  麻衣なら。  あの予測不能で、捨て身の狂気を秘めた麻衣なら、この男の計算をも狂わせることができるかもしれない。

紗季はスマホを取り出し、麻衣の連絡先を表示させた。  もはや、麻衣は敵ではない。  毒を以て毒を制すための、劇薬だ。

「……もしもし、麻衣ちゃん?」  紗季の声は、震えていなかった。 「話があるの。……今度は、私の『条件』じゃなくて、提案を聞いてほしい」

汐留のビル風が吹き荒れる中、紗季の二十九年の人生で最大の賭けが始まろうとしていた。


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