タキシードの裏地
第十章 タキシードの裏地
帰宅した紗季は、部屋の電気もつけずにノートパソコンを開いた。 窓の外から差し込む月明かりだけが、キーボードを白く照らしている。 アサミから渡された黒いSDカード。それは指先に乗るほど小さいのに、鉛のような質量を感じさせた。
パソコンのスロットにカードを差し込む。 認識音が、静まり返った部屋に乾いた銃声のように響いた。 フォルダの中には、『Final_Act.mp4』という名前の動画ファイルが一つだけ入っていた。 最終幕。 アサミはこれをそう名付けたのか。
深呼吸を一つ。 震える人差し指で、ダブルクリックする。
動画プレイヤーが立ち上がる。 画角は昨日見たものと同じだ。薄暗い夕暮れの被服室。 タイムスタンプは、紗季が教室を出て行った直後の時間を示している。 無人の教室。切り刻まれたシンデレラのドレスだけが、惨劇の遺体のように床に横たわっている。 数秒の静寂。 聞こえるのは、廊下を走る誰かの足音だけだ。
やがて、教室のドアが勢いよく開いた。 入ってきたのは、美月ではない。 他校の制服――ブレザーを着た男子生徒だった。 背が高く、整った顔立ち。少し長めの髪を遊ばせている。 彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、口笛を吹きながらドレスに近づいた。
『うっわ、派手にやったなぁ』 男の声。 軽く、楽しげな響き。 彼は床に散らばる青い布切れをスニーカーのつま先で弄んだ。
『美月ー、これもうゴミじゃん』 彼が呼びかけると、ドアの陰から美月が現れた。 先ほどまでの「怯えた演技」をしていた美月ではない。達成感に満ちた、紅潮した顔をした美月だ。 『すごいでしょ? 啓介くん』
紗季の心臓が止まりそうになった。 啓介くん。 画面の中の男子生徒が振り返り、美月の腰に手を回す。 その笑顔。目尻の下がる優しいカーブ。 間違いない。 高橋啓介。 現在の美月の婚約者であり、大手広告代理店のエリートプランナー。誰もが羨む「理想の王子様」。 彼が、そこにいた。十一年前の犯行現場に。
『お前、本当にイカれてるよな』 『褒め言葉として受け取っておくわ。……ねえ、これでアサミは舞台に立てない。私が主役よ』 『当たり前だろ。お前以外に誰がいるんだよ』 啓介は美月を引き寄せ、深く口づけた。 背景には、切り裂かれたドレス。 二人は、他人の夢の残骸の上で、愛を確かめ合っていた。
キスを終えると、啓介はポケットからライターを取り出した。 『証拠隠滅、手伝ってやろうか? 少し燃やせば、ボヤ騒ぎに見せかけられるかもよ』 『だめよ。それじゃ大ごとになりすぎる。このままの方が、「誰かの悪意」が強調されて、私が悲劇のヒロインになれるの』 『ははっ、策士だなあ。そういうとこ、好きだよ』 啓介はライターをしまい、代わりに床に落ちていたドレスのレースの一部を拾い上げた。 『じゃあ、これは戦利品として俺がもっとくわ。今日の記念に』 彼はそのレースを胸ポケット――ちょうど、タキシードのポケットチーフを入れる位置にねじ込んだ。
二人は笑いながら教室を出て行く。 動画はそこで終わっていた。
紗季は画面の前で凍りついたまま、瞬きすら忘れていた。 全身の血が逆流するような感覚。 恐怖よりも先に、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
知らなかった。 美月と啓介が、高校時代から繋がっていたなんて。 あの結婚式は、単なる美月の独り舞台ではなかった。 あれは、「共犯者同士の祝祭」なのだ。 過去に一人の少女の夢を惨殺し、それを愛のスパイスとして消費した二人が、今また「理想のカップル」として世間の称賛を浴びようとしている。
「……うそでしょ」 紗季の声が震える。 啓介のあの爽やかな笑顔。 『美月の料理には心がある』と言った、温かい声。 『美月にとって高校時代からの親友である遠野さんに会えて光栄です』という挨拶。 全部、演技だったのか。 いや、彼は知っていたのだ。紗季が「あの現場」にいたことを。 美月から聞いているはずだ。「紗季も協力させたから大丈夫」と。 だから彼は、初対面のふりをして、紗季を値踏みしていたのだ。「こいつは裏切らないか」「使える駒か」と。
アサミの言葉が蘇る。 『美月以上の絶望を彼女に与えられるなら』 『中途半端な告発じゃ、あの女は復活する』
そうだ。 美月一人の悪事を暴いても、啓介が「知らなかった、騙されていた」と言って彼女を支えるふりをすれば、美月は「愛に救われた女」として復活するかもしれない。あるいは、啓介の権力で報道を握りつぶすかもしれない。 だが、新郎もまた実行犯の一味だとしたら? この動画が結婚式のスクリーンに流れたら。 二人は社会的に抹殺される。広告代理店のエリートと、人気料理研究家。その二人が過去に犯した陰湿で残酷な行為。 完璧な破滅だ。
紗季はパソコンを閉じた。 手が震えて上手く閉じられず、バタンと大きな音がした。 部屋の隅にうずくまる。 敵は美月だけではなかった。 あの完璧なカップルそのものが、巨大な悪意の塊だったのだ。
そして、麻衣(アサミの妹)もこの事実を知らない可能性がある。 彼女が持っているのは、紗季が映っている部分までの動画だ。 もし、この「完全版」を見せれば、麻衣はどう思うだろう。 姉を壊したのは美月だけではない。あの優しそうな新郎も同罪だと知ったら。 彼女の復讐心は、さらに燃え上がるに違いない。
だが、それは同時にリスクも跳ね上がることを意味する。 啓介は賢い。そして美月以上に力を持っている。 もし感づかれたら、紗季はただでは済まないだろう。
翌朝。 紗季は、一睡もできないまま出社した。 コンシーラーで目の下の隈を隠し、濃いめのチークを入れる。鏡の中の自分は、戦場に向かう兵士の顔をしていた。
オフィスに入ると、すでに麻衣が来ていた。 「おはようございます、遠野さん! 体調、良くなりました?」 いつもの明るい声。 だが、その目は紗季の全身をスキャンするように観察している。 「おはよう。うん、薬飲んでだいぶ楽になったよ」 紗季は平静を装って席に着いた。
午前中の業務は上の空だった。 キーボードを叩きながらも、頭の中では昨夜の動画がリフレインしている。 昼休み。 麻衣が「ランチ行きましょう」と誘ってくる前に、紗季は先手を打った。 「麻衣ちゃん、ちょっといい? 話があるの」 麻衣が一瞬、訝しげな顔をした後、ニッコリと笑う。 「はい、いいですよ。また屋上ですか?」
今日は屋上ではなく、誰も使っていない第二会議室を選んだ。 ドアを閉め、ブラインドを下ろす。 密室。 「で、なんです? 覚悟は決まりました?」 麻衣が腕を組み、冷ややかな視線を向ける。 紗季は、バッグからSDカードを取り出すことはしなかった。まだ、早すぎる。 まずは、麻衣の意図を確認し、コントロールしなければならない。
「……やるよ。結婚式でのスピーチ」 紗季が言うと、麻衣は口笛を吹こうとしてやめた。 「へえ、意外。もっと抵抗するかと思いました。保身のために」 「保身じゃない。……私にも、清算したいことがあるから」 紗季は麻衣の目を真っ直ぐに見つめた。 「ただ、条件がある」 「条件?」 「私がスピーチをするまで、絶対に動画を表に出さないこと。そして、私以外の誰にも、この計画を漏らさないこと」 「当たり前でしょ。サプライズじゃなきゃ意味がない」 「それと……」 紗季は息を吸い込んだ。 「スピーチの内容は、私が決める。あなたの姉、アサミさんの無念を晴らすために一番効果的な方法を私が考える。だから、原稿の事前チェックはなしにして」
麻衣は目を細めた。 「……信用しろと? 裏切り者の先輩を?」 「信用しなくていい。でも、もし私が当日逃げたら、その瞬間に動画をばら撒けばいい。あなたにはそのスイッチがある。……私には、逃げ場なんてないんだから」 紗季の悲痛な響きに、麻衣は数秒沈黙した後、肩をすくめた。 「分かりました。当日、マイクの前で変なこと言ったら、即送信ボタン押しますからね」
麻衣が会議室を出て行った後、紗季は机に突っ伏した。 冷や汗でブラウスが背中に張り付いている。 まだ、啓介のことは話していない。 このカードは、最後の切り札だ。 麻衣の暴走を防ぎ、かつ美月たちを一撃で葬るための。
その時、スマホが震えた。 画面を見て、紗季は心臓が止まるかと思った。 『高橋啓介』。 連絡先なんて交換していないはずだ。 いや、美月のスマホから抜いたのか? それとも、以前会った時に名刺交換をしたか?(いや、していない)
恐る恐る通話ボタンを押す。 「……はい、遠野です」 『あ、遠野さん? 突然ごめんね、高橋啓介です。今、大丈夫かな?』 動画の中の声と同じだ。 軽やかで、自信に満ちた声。 でも今は、その声の裏に、ドレスを切り刻んだ残虐な響きが重なって聞こえる。 「……はい、大丈夫です。どうされましたか?」 『いやあ、実は美月のことでちょっと相談があってね。サプライズを考えてるんだけど、彼女の親友である遠野さんの知恵を借りたくて』
サプライズ。 その言葉が、不気味に響く。 『今日の夜、少し時間作れないかな? 美月には内緒で。場所は、俺のオフィスの近くでいいなら、汐留のホテルのラウンジとかどう?』
これは罠か。 それとも、ただの親切な新郎のふりか。 紗季は、昨日の由美の言葉を思い出した。 『戦況は変わるかもしれない』
もし、啓介に会って、彼の腹を探ることができれば。 彼が今でも、あの頃と同じ「共犯者」なのか、それとも「過去を忘れた成功者」なのか。 それを確かめるチャンスかもしれない。
「……分かりました。伺います」 『ありがとう! 助かるよ。じゃあ、十九時に』
電話が切れる。 紗季はスマホを握りしめ、震えを止めるように拳を作った。 十九時。 敵の本丸との接触。 タキシードのポケットに、引き裂かれたレースを隠し持っていた男。 その胸の内には、今、何が隠されているのだろうか。
紗季はデスクに戻り、定時までの時間を砂時計の砂が落ちるように見つめ続けた。 仕事の手は動かしていたが、頭の中では、今夜の会話のシミュレーションが無限に繰り返されていた。 ボロを出してはいけない。 私は、従順な「親友」であり、何も知らない「部外者」の顔をし続けなければならない。
しかし、彼女は知らなかった。 高橋啓介という男が、彼女の想像を遥かに超えるプレイヤーであることを。 そして、この「相談」が、紗季をさらなる迷宮へと誘い込む入り口であることを。




