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光の届かない郵便受け

第一章 光の届かない郵便受け

二十九歳という年齢は、まるで薄いガラスの壁に囲まれているようだ。  外の世界は鮮明に見えるのに、こちらの声は届かない。あるいは、向こう側の熱狂が、フィルター越しのように少しだけ温度を失って伝わってくる。  遠野紗季は、オフィスビルの十四階にある給湯室で、ぬるくなったマグカップの底を見つめながらそんなことを考えていた。

「遠野さん、また顔死んでますよ」

背後からかけられた声に、紗季は反射的に口角を持ち上げて振り返った。 「生きてるよ、一応ね。麻衣ちゃんこそ、企画書の直し終わった?」 「今やってますー。っていうか、部長の指示が抽象的すぎるんですよね。『もっとこう、グッとくる感じで』とか、昭和の歌謡曲じゃないんだから」  入社三年目の後輩、麻衣は悪びれもせずに肩をすくめた。彼女の爪は、今朝見た朝焼けのような繊細なグラデーションに彩られている。自分の爪を見ると、先週塗ったベージュのネイルが、人差し指の先だけ剥げていた。

中堅のキッチンウェアメーカー、広報部。それが紗季の居場所だ。  自社製品の鋳物ホーロー鍋は、丁寧な暮らしを愛する層にはそれなりに知られている。新卒で入社して七年。仕事は覚えた。要領も良くなった。後輩のミスをカバーし、上司の曖昧な指示を翻訳し、トラブルの火種を未然に消す。  「遠野さんがいてくれると助かる」。その言葉は、かつては勲章だったが、今では呪いの言葉のように聞こえる。これ以上、上にも行けず、下にも降りられない。ただ、便利で手頃な緩衝材としてそこに在り続けることを求められているような気がして。

「あ、そうだ。遠野さん、これ見ました?」  麻衣がスマホの画面を突きつけてくる。 「三枝美月のインスタ。またバズってますよ」  心臓が、とくんと嫌な音を立てた。  画面の中では、完璧な自然光に照らされた朝食のテーブルが広がっていた。彩り豊かなサラダ、焼きたてのパン、そして湯気を立てるスープ。その傍らには、紗季の会社が販売している新作のマグカップがさりげなく、しかしこれ以上ないほど魅力的に置かれている。 『丁寧な朝が、私を作る。今日のマグは @tono_kitchen の新作。色が絶妙でアガる♡』  キャプションには、計算され尽くした抜け感のある文章。  フォロワー数、五十五万人。「美しすぎる料理研究家」としてメディアに引っ張りだこの三枝美月。  そして、紗季の高校時代の親友。

「すごい宣伝効果ですよねえ。弊社としてはタダで広告塔になってもらってるようなもんだし。遠野さん、高校の同級生なんでしょう? 今でも仲良いんですか?」  麻衣の無邪気な質問が、土足で心の中に踏み込んでくる。 「……まあね。最近は忙しそうで、あんまり会えてないけど」  嘘ではない。でも、真実でもない。  紗季は曖昧に笑って、マグカップの中身を流しに捨てた。冷めたコーヒーは、泥水のように黒く濁って排水溝に吸い込まれていく。  仲が良い、という言葉で括るには、私たち二人の関係はあまりにも歪で、そして重たかった。

定時を三十分過ぎた頃にオフィスを出た。  六月の東京は湿気を帯びていて、肌にまとわりつく空気が不快だった。地下鉄の駅へと向かう人波は、皆一様に疲れた顔をしてスマホを見つめている。  スマホの画面には、誰かの成功、誰かの結婚、誰かの出産、誰かの充実した週末が溢れている。スクロールする親指の動きに合わせて、焦燥感が澱のように胸の底に溜まっていく。  二十九歳。  結婚を意識していた三つ上の彼氏とは、半年前になんとなく別れた。「今は仕事に集中したい」と言われたが、その二ヶ月後に彼が別の女性と婚約したことを風の噂で聞いた。  仕事はある。生活に困窮しているわけでもない。友人もいる。  それなのに、なぜこんなにも足場が揺らいでいるような感覚に襲われるのだろう。まるで、自分だけがすごろくのマス目で「一回休み」を延々と続けているような。

都心から電車で二十分。駅から徒歩八分の1LDKが紗季の城だ。  築年数は古いが、内装はリノベーションされていて小綺麗だ。オートロックのエントランスを抜け、集合ポストの前で足を止める。  ダイヤルを回し、アルミの扉を開ける。  チラシやDMの束の中に、異質な輝きを放つ一通の封筒があった。  厚手で、クリーム色の和紙のような質感。宛名は流麗な筆文字で書かれている。切手は慶事用の特別なものだ。  差出人の名前を見なくても、それが何かは分かった。重みのある封筒を指先で摘まみ上げた瞬間、指の腹から冷たい電気が走ったような感覚に襲われる。

裏を返すと、金色のシーリングスタンプで封がされていた。  『M & K』というイニシャルが刻印されている。  Mは、Mitsuki。三枝美月。  ついに、届いてしまった。

部屋に入り、バッグを床に放り出すのも、ヒールを脱ぐのもそこそこに、紗季はローテーブルの上にその封筒を置いた。  部屋の照明をつける気にはなれなかった。窓から差し込む街灯の薄明かりだけが、封筒の白さを不気味に浮き上がらせている。  先月、久しぶりに美月からLINEが来たときのことを思い出す。 『結婚することになったの。紗季には一番に知らせたくて』  そのメッセージを見た時、紗季が最初に抱いた感情は「おめでとう」ではなく、「とうとう勝負がついた」という敗北感だった。  美月は全てを持っている。美貌も、才能も、名声も、そして今、完璧な家庭まで手に入れようとしている。  相手は大手広告代理店勤務のエリートだという。誰もが羨むような組み合わせ。完璧なシナリオ。

ペーパーナイフを使うのももどかしく、手で封を切ろうとして、指先が震えていることに気づいた。  深呼吸を一つ。  大丈夫。ただの結婚式の招待状だ。大人として、友人として、笑顔で祝福すればいい。それだけの話だ。  封を開けると、芳しい香りがふわりと漂った。紙に香水を吹きかけてあるのだ。高校時代、美月が愛用していた甘く重いバニラの香りではない。もっと洗練された、柑橘系とムスクが混ざり合ったような、今の彼女に相応しい香り。  中から出てきたのは、芸術作品のように凝ったデザインの招待状と、小さなメッセージカードだった。

『親愛なる紗季へ。あなたが来てくれないと始まらないわ』

手書きのメッセージ。  その文字を見た瞬間、十一年前の記憶がフラッシュバックした。  高校の教室。西日が差し込む放課後。黒板に書かれた落書き。そして、泣き腫らした目で紗季を見つめる美月の顔。 『紗季ちゃんだけは、私の味方だよね?』  あの時、美月は紗季の手を握りしめた。その掌の熱さと湿り気を、今でも鮮明に思い出せる。  私たちは共犯者だった。  いや、正確には違う。美月が主犯で、紗季はただの目撃者、あるいは事後処理係。けれど、あの出来事は二人の間に見えない鎖をかけた。逃げようとしても、鎖が食い込んで痛むだけだ。

スマホが振動した。  タイミングを計ったかのような着信。画面に表示された『三枝美月』の文字に、紗季は息を呑んだ。  彼女はどこかで見ているのだろうか。この部屋に隠しカメラでも仕掛けられているのではないかと、思わず天井の隅を見上げてしまう。  三回目のコールで、通話ボタンを押した。

「……もしもし」 『あ、紗季? 久しぶり! 今、大丈夫?』  スピーカーから聞こえる声は、テレビで聞く通りの、鈴を転がすような明るい声だった。 「うん、久しぶり。美月、元気そうね」 『元気元気。もう準備でバタバタしてて死にそうだけど。……ねえ、招待状、届いた?』 「今、ちょうど開けたところ。驚いたよ、すごく凝ってて」 『でしょう? 紙からこだわって選んだの。でね、紗季』  美月の声のトーンが、わずかに変わった。親密さを装いながら、決して拒絶を許さない響き。高校時代、彼女がクラスの空気を支配する時に発していた、あの声色だ。 『お願いがあるの。結婚式で、友人代表のスピーチをしてほしいの』

予感はあった。  けれど、実際に言葉にされると、胃のあたりが鉛のように重くなった。 「え……私が? 他にもっと適任がいるんじゃない? 大学時代の友達とか、仕事関係の人とか」 『何言ってるの。私のことを一番よく知ってるのは紗季じゃない。高校からの付き合いだし、ずっと私のこと、見ててくれたでしょ?』  見ていた。  そう、ずっと見ていた。  美月が誰を踏み台にし、誰を切り捨て、どうやって今の地位を築き上げてきたか。その輝きの裏にある影を、誰よりも知っているのは確かに紗季かもしれない。 『お願い。紗季の言葉が欲しいの。私の人生の門出には、紗季の言葉が必要なの』 「……美月」 『断らないよね? 私たち、親友だもんね』

親友。  その二文字が、鋭い棘となって紗季の喉元に突きつけられる。  断る権利など最初からなかった。十一年前のあの日から、紗季は美月の物語の一部なのだ。脇役として、彼女を輝かせるための背景として。

「……分かった。私なんかで良ければ、やらせてもらうよ」 『ありがとう! やっぱり紗季にお願いしてよかった。期待してるからね、とびきりの祝辞』

電話が切れた後も、紗季はスマホを握りしめたまま動けなかった。  部屋の静寂が耳に痛い。  テーブルの上の招待状が、判決文のように見えた。  友人代表の祝辞。  それは通常、新婦の人柄を称え、二人の友情のエピソードを披露し、未来への祝福を贈るものだ。  しかし、紗季の中に浮かぶ美月との思い出は、どれも美しい包装紙の下に毒を含んでいる。  嘘で塗り固められた友情の、どこを切り取れば「とびきりの祝辞」になるというのだろう。

紗季は立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プシュッという音が、虚しく響く。  一口飲むと、苦味が口いっぱいに広がった。  ふと、視線を感じて振り返る。もちろん誰もいない。  だが、窓ガラスに映った自分の顔が、ひどく怯えているように見えた。

美月は知っているのだろうか。  私が今でも、あの日のことを夢に見ることを。  そして、心の奥底で、美月の破滅を願っている自分自身がいることを。

紗季はノートパソコンを開き、新規ドキュメントを作成した。  タイトルに『祝辞』と打ち込む。  カーソルが点滅している。  白い画面は、どこまでも白く、底なし沼のように紗季を見つめ返していた。  書き出すべき言葉が見つからない。 「本日は、お日柄もよく……」  ありきたりな定型文を打ち込んでみるが、すぐにバックスペースキーを連打して消した。  違う。こんな言葉じゃない。  美月が求めているのは、もっと「私らしい」、つまり「美月の知っている従順で理解者である私」の言葉だ。  しかし、今の紗季の中にあるのは、どす黒い感情の塊だけだった。

もし。  もしも、この祝辞で、本当のことを言ってしまったらどうなるだろう。  三枝美月の本性を、あの会場に集まる数百人の前で、暴露してしまったら。  想像するだけで、背筋が震えた。それは恐怖なのか、それとも興奮なのか、自分でも判別がつかなかった。

紗季は画面を閉じた。  まだ時間はある。式は二ヶ月後だ。  それまでに、私は「親友」の仮面を完璧に被り直さなければならない。  いつものように。今までずっとそうしてきたように。

その夜、紗季は奇妙な夢を見た。  真っ白なウェディングドレスを着た美月が、断崖絶壁の縁に立っている。  隣には紗季がいる。  美月は満面の笑みで、紗季に手招きをしている。 『こっちに来て、紗季。ここからの景色、最高よ』  紗季が恐る恐る近づくと、美月は突然、その美しい顔を歪めて叫んだ。 『押して』  え? 『背中を押してよ。それがあなたの役目でしょ?』  紗季が手を伸ばすと、美月の体は重力に従ってふわりと宙に舞った。  落ちていく美月は、笑っていた。  そして、奈落の底から、無数の「いいね!」のハートマークが湧き上がり、彼女の体を包み込んでいく――。

汗びっしょりで目を覚ました時、時計は午前三時を回っていた。  心臓の早鐘が止まらない。  喉が渇いているのに、体を起こす気力もなかった。  布団の中で体を丸めながら、紗季はぼんやりと思う。  この結婚式は、ただの祝いの席ではない。  これは、審判だ。  美月にとっても、私にとっても。

こうして、憂鬱で、不穏で、そして逃れられない二ヶ月間が幕を開けた。  私の手元にあるのは、真っ白な原稿用紙と、出口のない過去の記憶だけだった。


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