旅館㊺
呆気にとられて反応が遅れた女将達をよそに、水鏡は頭から血を流して白目を剥いた。
力をなくした水鏡の首がガックリと垂れ下がると、今度はまるでゴム毬のように跳ね上って白目のまま天井を見上げた……
「《《とざいとうざいぃぃぃ》》!!!!」
水鏡の口から唐突に、聞き覚えのない、甲高いしわがれ声が響き渡った。
「さあさあさあ……此処に見えるは、古からの大悪党、老舗の旅籠が隠した秘密は、生贄、お捧げ、血塗られ候……!!」
「絶体絶命の危機を迎えた主様の一行は、憐れ憐れ!! 見るも無惨な拷問の果に忌むべき姿にかわるのか!?」
「やんや!! やんや!! それとも危機を見事脱して、まばゆい旭を摑むのか……刮目して……ご覧遊ばせーーーーー!!」
水鏡は何かに憑かれたように白目を剥いたままカカカカカカカと高笑いを続けている。
その場にいる全員が状況を理解出来ずに困惑している隙に、卜部は唇を噛み切り身体を縛る見えない力に血を吹きかけた。
ぶちっ……
気持ちの悪い音がして卜部の身体は自由になる。
卜部は水鏡の側に転がり込むとかなめを抱き寄せた。
「離れるんじゃないぞ!! 冴木の手を解け!!」
かなめは卜部に腰を抱かれたまま翡翠の手を縛った紐を解きにかかった。
卜部は白目を向いてカカカと高笑いをする水鏡に触れて耳打ちした。
「御屋形様、御屋形様、危のうございます。危のうございます。急いで此処よりお逃げください」
それを聞いた水鏡は高笑いをやめると途端に真っ青な顔を浮かべて絶叫した。
「きぃいいぃいいいええぇえええぇぇええ!!」
「敵襲じゃああああああぁああああああ!!」
耳をつんざくような叫び声はぐにゃぐにゃと景色を歪め始める。
それがただの聴覚の異常ではないと気が付いた女将はハッと我に返って叫んだ。
「幸恵!! 殺れ!!」
女将の命令で襲いかかってきた幸恵に卜部は茶色いガラス瓶を投げて寄越した。
幸恵は反射的に蛆の封じられたガラス瓶を叩き割る。
「呪法……友引忌」
卜部はガラスの破片にまみれた瀕死の蛆と幸恵に向かって自身の血を浴びせた。
するとたちまち幸恵の身体が無惨に裂かれて瀕死の蛆と同じような姿になった。
幸恵と三谷の頭部は共鳴するかのように目から血を流し、涎を撒き散らしながら痛みに藻掻き苦しんだ。
断末魔の叫びをあげる怪異。
奇声を放ち続ける水鏡。
叫び声はもはや聞こえず、頭の中で響く耳鳴りに変わり、その場にいる誰もが立つことができないほどの激しい頭痛に見舞われた。
卜部も耳を塞いで膝を付いたその時、怪音を嫌った御神体が怒りの形相で音の根源である水鏡に向かって襲いかかってきた。
蠢神は大きく口を開き、両手を突き出してこちらに向かってくる。
身体を挟んでいた船はガラガラと壊れ、その胴体が露わになった。
異様に長く伸びた胴体、その腹からも背からも人間の足のようなものが乱雑に生えている。
無数の足をバタバタと動かしながら蠢神は水鏡を目指す。
空間はさらに酷く歪んで蠢神が水鏡に触れるより先に卜部たちを飲み込んだ。
音が消えて神殿に静寂が戻る。
女将と千代、松永と坂東はまだ残る頭痛に頭を押さえながら立ち上がった。
見ると卜部たちの姿は何処にもない。
幸恵と三谷の亡骸に目をやると、遺体の傍らに胴から上がねじ切れた蟲虫蠢神の下半身があった。
それは小刻みに痙攣しながらタタラを踏んでいる。
まるで逃げた獲物を追うように。




