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山下邦夫の話③

 廃ビルに着くころには、あたりはすでに薄暗闇に覆われていた。途中で三度ほど電車を乗り換えてたどり着いたのは、県境の偏僻なところだ。田んぼが広がり、山も近い。外灯はほとんどなく錆びついた踏切のそばにひとつ、その先百メートルほどのところにもうひとつ。ここからでは他の光源は見当たらない。


 最寄りの駅で下りてから線路沿いに砂利道を歩いてここまで来た。駅から随分離れているが、次の駅はまだ大分先にあるようだった。その錆びついた踏切を越えたすぐのところに(くだん)の廃ビルは立っていた。

 

廃ビルの裏手には大きく蛇行した川が流れていた。廃ビルはちょうど、その川のカーブの外側と線路に挟まれるような位置関係にある。踏切からまっすぐに進んだ先には朽ちかけた廃墟のようなものが見えたが暗くてよくわからない。

 


「気をつけろ。この踏切は人が死んでる」



 卜部は廃墟らしきものの方を見ながらそう呟いた。



「え?」



 そう聞き返した時、突然踏切がけたたましい音を立て始める。


カンカンカンカン。

しかし電車が来る様子はない。


カンカンカンカン。

踏切は鳴り続けている。


カンカンカンカン。



「行くぞ」


 卜部はかなめの腕を引いてそう言った。踏切はもう鳴り止んでいた。


「い、今のは?」


 かなめが振り向きながら訊ねる。


「誤作動か何かだろ。気にするな。《《それとも何か見えたのか》》?」


 ちらりと卜部が振り向いてかなめを見る。


 かなめは首を横に振って少し早足で卜部の近くに寄った。本当は何かを見た気がしたが怖くて言えなかった。言えば見たことが真実(ほんとう)()ってしまう気がしたから。

 

 廃ビルに到着すると嫌な静けさがビル全体を包んでいた。こういう廃墟にありがちな落書きなどもなく打ち捨てられたままの姿で時だけが過ぎたような(おもむ)きだった。


 廃ビルにの前に立つと、卜部は三階のあたりをじっと見つめていた。しばらくすると「こっちだ」と言って正面扉の横にある破れたガラス戸から中に入っていった。迷うことなく何かに導かれるように卜部は進んでいく。

 

 廃ビルの中はかび臭い空気が充満していた。かなめは口元にハンカチをあててそれを直に吸い込まないようにしていた。カビや埃そのものではなく、それらに何者かの呼気や体液が染み付いているように思えたからだ。それはひどく毒性の強い悪意をそなえた分泌物で、家に帰って一人ベッドに横たわる時を見計らって姿を(あらわ)にするのだ。

 

 かなめがそんなことを考えていると、突然前を歩く卜部にぶつかった。


「あうっ」


「何ぼさっとしてる。ついたぞ亀。」


「かなめです。どこに着いたんですか?」


「山下が女を買った部屋だ。十中八九ここで間違いないだろう。」


 卜部は懐中電灯でドアの上にある『給湯室』のプレートを照らした。中に入るとがらんとした部屋の中に、どこからか持ち込んだであろう真新しいベッドが安置されていた。朽ちた建物に真新しいベッドという異様な光景のせいもあるかもしれない。しかしその部屋には、決してそれだけが原因ではない独特の気持ちの悪い気配が残っていた。


 かなめはその気配を知っていたが思い出せなかった。忌まわしい記憶の中に気配の正体を探ったが目ぼしいものは見つからなかった。ふと気になって窓から外を見ると先程の踏切が見えてぞくりとした。背中を冷たい汗が伝うのを感じる。

 

「ここからちょうどあの踏切が見えるんですね」


 振り向くと卜部の右後ろに男が立っていた。



「きゃあ!!」


 かなめは思わず叫んでしまった。全身に鳥肌が立ち一気に心拍数が跳ね上がる。血液がどっどっどっと太鼓のような音を立てて流れるのが耳の中で聞こえる。どうするの? 何をすればいいの? 人間? 誰? 幽霊?

 

 パニックになってあたふたしていると「大丈夫だ。落ち着け」と卜部の声がする。それは普段と何も変わらない様子の声だった。


「大丈夫だ。今俺たちに害を加えられる存在はここにはいない。姿が見えただけだ。それももういない」


「一体何だったんですか?」


 いつの間にかへたり込んでいた体を起き上がらせながらかなめは尋ねる。


「さあな。それを調べに来たんだ。というよりも、確認しに来たと言ったほうが正しい。さあ帰るぞ」

 

 こくりと頷いて卜部の後に続く。しかしかなめはひとりこびりつく不安を拭いきれなかった。なぜなら踏切で目にした何かは今の男ではなかったから。


 では私が見たものは一体何だったのか? その問はかなめにある種の不快感を与えた。まるで粘着質な床に足を取られるような。廃ビルの廊下は埃っぽくて乾燥していた。にもかかわらず、まとわりつくような不浄な気配が、床面からべたべたと足の裏にへばり付いてくるようだった。


 一刻もはやくここから立ち去りたい。それなのに、まるでゼリーの中を進んでいるような抵抗を感じるのは、あの踏切をもう一度横切らなければならいことを私のなかの何かが恐れているからだろう。


「またあの踏切のところを通るんですよね?」


 知らずに不安が口を突いて出てしまったことに自分でも驚く。


「いや。タクシーで帰る。」


「え!?」


 当然またあの道を歩いて帰るものだと思っていた。踏切を調べつつ。


「タクシーで帰るんだよ。せっかくこんな偏僻(へんぴ)な所まで来たんだ。旨い蕎麦屋があるはずだ。タクシーの連中はそういう旨い店に詳しいだろ」

 

 かなめは気が抜けてしまい何も言えなかった。卜部が自分を気遣ってくれているのか、単に好物の蕎麦を食べたいだけなのかはわからない。ただ卜部の発言のおかげですっかり憂鬱な気分は消え失せていた。足の裏にこびりつくべたべたとした気配もいつのまにか乾いた埃の感触に戻っていた。

 

 

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