4 夜会準備
ローラがエヴァンス伯爵邸に入ってから数日、ドナルド・エヴァンスは約束通り商会を呼んだ。
ドナルドの頭の中は、とにかく早く終わらせたい……それだけだ。
誰かの古着ではなく、自分のためだけに仕立てられるなんて初めての経験であるローラにとって、全てのことが新鮮だった。
サイズを測るのでワンピースを脱ぐように言われ、なんの躊躇もなく脱ぎ捨てるローラ。
貧しい暮らししか知らないローラは、素肌の上に直接服を着ることなど当たり前だったが、数人のメイドと仕立屋の方が戸惑いの表情を浮かべていた。
少し遅れて入室したリリーブランが慌ててローラにショールを巻きつけて言った。
「あなた……コルセットもシュミーズも着ないの?」
「何それ?」
「あっ、いいえ、ごめんなさい。何でもないわ」
続けてくださいと言われた仕立屋が、気を利かせて見本のシュミーズドレスを渡した。
メイドはすぐローラに着せ、採寸が再開された。
リリーブランはローラに付き添って、彼女の好みに合うドレス選びを手伝った。
ひと通りのデザインが出来上がり、靴とバッグとアクセサリーも選び終えたのは、すでに夕食時間近くになっていた。
「ドレスを作るのって一日仕事なんだね。貴族令嬢っていうのも大変だ」
「そうでもないわ。採寸が終わっていればそれほど時間は掛からないし、流行のデザインも限られているから。サイズを変えないようにする方が大変よ」
小首を傾げて不思議そうな顔をするローラに、リリーブランは少しだけ親近感を持った。
「後は待つだけよ。出来上がるまでには何日もかかるの」
「へぇ~、そうなんだ」
「出たい夜会は決まっているの?」
「分かるわけ無いじゃん。できるだけ地位の高い人の息子が来るようなのがいいねぇ」
「地位の高い方の? それはなぜ?」
「ん~……高位貴族の令息ってやつを見てみたいだけさ」
「そう? 別に変わらないと思うけど。でもそれなら少しは言葉遣いとかマナーを覚えた方がいいわ。恥をかくだけよ」
「言葉遣いまで直すのかい?面倒だな。それにマナーって言ったって食事をしなければ問題無いだろ?」
「あるわよ。話しかけられて無視するわけにはいかないでしょう? 今のままでは会場に入る事さえできないわ。それに夜会の料理はおいしいわよ?」
「ちえっ! 面倒だな」
「あなた、何も食べないし飲まないし、話もしないつもりなの?」
「いや、そういうわけじゃないけどさぁ。誰に習えば良いんだよ」
「うっ……お父様に相談してみるわ」
その日の夕食はドナルドも同席し、3人でテーブルを囲んだ。
昨日経験済みのリリーブランは、ローラを完全に無視し、マナー通り美しい所作で食事を進めた。
ローラの餓鬼のような食事ぶりに、すっかり食欲が失せたドナルドが、リリーブランに向かって言った。
「一度きりの夜会だが、これでは我が家の評判が地に落ちる。お前が少し教えてやれ」
リリーブランは心底嫌だったが、表情に出すこともなく返事をした。
「畏まりました」
そんな二人をチラチラと盗み見しながら、ローラは2枚目のステーキに手を伸ばした。
食事を終えたリリーブランがメイド長を部屋に呼び、マナーに関する相談を始めた。
ローラにはなるべく関わりたくないメイド長だったが、リリーブランの頼みでは断ることができない。
翌日から二人掛かりでローラへのマナーレッスンが始まった。
口うるさく言うと癇癪を起すローラに溜息を吐きながら、メイド長は言った。
「3つで良いです。3つだけ叩き込んでください。でなければ夜会への出席はできません」
「そんなに怒んなよ。どうすれば良いんだ?」
ドレスができるまでの間に可能なことは少ないと判断した二人は、最低限の所作と最低限の言葉だけを教えることにしたのだ。
「良いですか? 返事は『はい』です」
「ああ」
「お辞儀はこうです」
「めんどくせえな」
「挨拶は『ごきげんよう』というのです」
「なんだそれ?」
メイド長とリリーブランは根気よく繰り返しローラに教え込んだ。
カーテシーを教え込むのに丸2日を費やしたが、もともと運動神経は良いのだろう、付け焼刃としては及第点を与えられる程度にはなってきた。
「でもさぁ、何か話しかけられたらどうすりゃいいんだ?」
「扇で口元を隠して、何も言わず私の耳元に囁きなさい。私が代わりに返事をしてあげるから。あなたは絶対に喋らないで」
「分かったよ。ってことは一緒に来てくれるんだな? 助かるよ」
「ええ、一緒に行くわ。お父様から命令されているし。あなたはその日だけ、私の妹ということになるわ。妹は母方の実家に住んでいて、社交界にもデビューしていないから、顔が知られていないの。マリアっていう名前よ」
「へぇ~、マリアさんかぁ……姉さんって呼べばいいのか?」
「お姉さまと言いなさい」
「はいはい、承知いたしましたよ。お・ね・え・さ・ま」
そんなローラを見ながら、父の言葉を思い出し、リリーブランは溜息を吐いた。
『あれを連れて夜会に行け。あれこれ聞かれたらマリアだと紹介するんだ。何もしゃべらせるな。田舎で育ちでマナーができていないから、私が代わりにお話をお伺いしますとでも言えばいい。ひと通り会場の雰囲気を味わわせたら、すぐに戻ってこい』
きちんとした貴族令嬢としての教育を受けてきたリリーブランにとって、父の命令は絶対だった。
心の中では簡単に言ってくれると悪態をついたが、口には出さずに頷いた。
父親が選んだ夜会は、スノウ伯爵家の夜会だった。
スノウ家当主の奥方が、筆頭公爵家の縁続きであることから、参加者も多くローラが目立ちにくいと判断したためだ。
調べてみると、参加者の多くは若年層であり、料理よりもスイーツが多く並ぶことも好ましい。
「このパーティーなら、それほどボロも出さないですむだろう。絶対にアレから目を離すなよ。当日はメイドも数人連れて行き、しっかり見張らせろ。先方には何か言い訳をしてメイドを同伴させる許可を取る」
しかし、この判断がエヴァンス伯爵とリリーブランを絶望の淵に突き落とすことになる。