3 ローラの過去
エヴァンス伯爵家へたった一人で乗り込んできたローラは、娼館で生まれ育った娘だ。
母親が仕事をする夜間は、同じ生い立ちの子供たちと連るんでは、金持ちそうな客を狙っては金品をねだる毎日。
仲間の男の子は早くからケンカ慣れして、15を過ぎたら街の顔役の手足となり、危ない仕事を請け負って暮らしの糧とするのが常道だ。
少女たちは少し胸が膨らんでくると、母親が所属する娼館に上がることになる。
母娘が同じ客を取り合うなど、この街では普通のことだった。
ローラの体つきが変わってくると、娼館主はそろそろどうかとローラの母に囁いた。
曖昧な笑いで誤魔化していたが、ローラを娼婦にするつもりはなかった。
なんとか逃がす方法を考えていた時、自分の体が病に侵されている事を悟った。
そして母親は、古びた鞄の底張りの下に隠していた包みを取り出した。
その日から母親は、昼前になると微熱で怠い体を引き摺って、王宮へ続く大通りを歩く。
人々は顔色が悪く、乱れた服装の女に顔を顰め、近寄ろうともしない。
夕方までには戻らないと、娼館主から酷い折檻を受けることを知っている女は、空が橙色になり始めたら戻るしかない。
そうやって目当ての人物に会える事もなく、時間だけが過ぎていった。
そんな母親の後姿を遠くから見ていた娘は、母親のことを哀れな女だと思っていた。
今日も昼前には出掛けていく母親を見送り、もう一度布団を被ったローラが仲間の知らせを受けたのは、太陽が真上から西に動き出してすぐのことだった。
「開けるぞ! ローラ早く起きろ! お前の母ちゃんが大変なんだ!」
ローラが飛び起きて部屋のドアを開けると、仲良しのイースが立っていた。
「道で倒れていたのを見つけた奴が、担いで帰ってきたんだ。早く行こう!」
ローラは着の身着のまま駆け出した。
イースに連れて行かれたのは娼婦街の入口に近い食堂だった。
ローラの顔を見るなり、手招きして早く走れと言う食堂店主の顔は真剣そのもの。
食堂の椅子を寄せ集めた上に横たわる母親の姿に、ローラは息を吞んだ。
「かあちゃん!」
脂汗を流しながら、腫れあがった目をぎゅっと瞑っていた母親が、ゆっくりとローラの方へ顔を向けて、惨たらしく切れた唇を動かした。
「ローラ」
「かあちゃん! どうしちまったんだ! 何があったんだ」
「何もありゃしない。歩いていたら男たちに捕まって裏路地に連れ込まれただけさ。銭持ってくりゃ良い思いさせてやるってのにさあ、殴ってただ乗りたぁ最低でシケた奴らだよ」
「かあちゃん……大丈夫かい? どこが痛いんだ?」
「三人がかりで順番に無理やり突っ込みやがったから、今日はもう商売にはならないよ……ハハハ……バカにしやがって……ハハハ……ちくしょう」
ローラは母の頬に流れる涙を指先で拭った。
「仇はあたいがうってやる」
「そんなもんは必要ない。それよりお前に話しておかなくちゃいけないことがあるんだ。部屋に連れて帰っておくれ。あまり時間が無さそうだ」
ローラは頷くと、食堂店主とイースに頼んで母親を運んでもらった。
顔役に言って医者を呼ぶというイースを止める母親を見て、ローラはただ事ではない事を察知した。
いつもは客と寝るベッドに、ひとり横たわる母親の顔は酷く腫れて赤黒い。
ローラは唇を嚙みしめ、イースはローラの肩を抱き寄せた。
「イースもちょっと出ておいてくれ。ローラと二人で話したいんだ」
苦しそうに言葉を紡ぐ母親とイースを交互に見たローラは、イースに向かって頷いた。
イースは小さく返事をして、食堂店主と共に部屋を出て行った。
「ローラ、そこの引き出しの奥に銭を隠しているから、それであの食堂の親父に礼をしておいてくれ。物を渡すより銭の方が喜ぶさ。銀の3枚もありゃいいだろう。イースには残りの銭で美味いもんでも食わしておけ」
「うん、分かったよ。かあちゃん」
「さあ、これからが本題だ。落ち着いて聞くんだよ。あたいはもうすぐ楽になれる。そうだよ、やっと神様のところへ行けそうなんだ。この体はボロ雑巾より汚れているけれど、魂は汚れちゃいない。きっと神様が拾って下さる」
「かあちゃん……」
「悲しんだらだめさ。楽になるんだ。むしろ喜んでおくれ。汚れたこの体は、娼館主が処分するから気にするな。お前はただ見送ればいい。でも見送ったらすぐに逃げな。捕まったらあたいと同じ人生になっちまう。いいかい? 絶対に逃げられる方法を今から言うから。必死で覚えるんだよ」
「わかった……」
「あたいのポケットの中に布に包んでいる物が入っているだろう? ああ、それだ。それを持ってエヴァンスっていう伯爵の家に行け。それはお前が生まれる1年ほど前に相手をした客の忘れもんだ。盗ったんじゃないよ? 逃げるように帰って行ったから慌てていたんだろう。次に来たら渡してやろうって思ってたのに、来やがらない。それっきりさ」
「なんなの? これ」
「あたいも知らない。でも模様があるだろう? これは家紋と言ってどの家の人間かが分かるようになってるらしい。ずっと王宮の前の道で馬車を見張ってたんだ。その模様はエヴァンスっていう貴族の家のものだ」
「それでどうすればいいの? 返して来ればいいの?」
「ああ、返してこい。その代わり礼金を貰うんだ。なあに、昔のこととは言え、娼婦を買ったことがあるなんて女房に知れたらコトだからさ。金は惜しむまいよ」
「その金でどうすればいいの?」
「その金で……この街から逃げな。あんたはきれいだからどこでもやっていけるさ。仕事の選り好みなんかせずに、ちゃんと働くんだ。大きな夢を見ちゃいけないよ? あたいみたいになるからね。地道が一番の早道なんだ。欲をかいたら命を失くすよ。いいかい? 食堂でも花屋でも何でもいい。食えりゃいいんだ。地道に働いて生きていきな。そのうち良いことも一つや二つ転がってるだろうさ」
「ひとりで?」
「ああ、ひとりが一番さ。仲間を増やすとロクなことは無い。長生きしたけりゃこの街のことは忘れて、どこか遠いところでひとりで頑張るんだ。できるだろう?」
「そんな……怖いよ」
「怖くないさ。この世で一番怖いのは生きている人間だ。悪霊も呪いもウソっぱちさ。糞くらえってんだ。良いことばかり言う人間が一番恐ろしい。それを忘れちゃいけないよ。人を信じるなんてバカのやることだ。ひとりが一番なんだよ」
「かあちゃん……もうすぐ楽になるの?」
「ああ、きっと明日か明後日か……どうかな……もうちょっと生きるかもしれないけれど、生きてりゃ客をとらなくちゃならないからね。もう……まっぴらなんだよ」
「そうか……かあちゃん、はやく楽になりたいんだね? 分かったよ。あたいは大丈夫だ。かあちゃんの言う通り、ひとりで生きていくよ」
「ああ、いい子だ。やっぱりお前は賢いよ。もしかしたら本当にそのエヴァンスって貴族が父親だったのかもしれないねぇ。だったら良かったんだけどねぇ……どうだろうねぇ」
眠るように目を閉じた母親の顔は穏やかだった。
何を思い出しているのか、少し微笑んでいるようにさえ見える。
ローラは少しでも早く、母親を苦しみから逃がしてくださいと神に祈った。
翌日の朝、冷たくなった母親の体を、汲んできた新しい水で清めてから、ローラは娼館主に知らせに行った。
娼館主は舌打ちをした後、従業員に業者を呼びに走らせた。
ローラがイースに知らせに行って戻ると、すでに母親の遺体は無かった。
娼館主に聞くと、すでに埋葬したとだけ言われたが、そんなことはウソだと知っているローラは、もう何も言わなかった。
後で事務所に来いという娼館主に頷いた後、ローラは母親の持っていた髪飾りとネックレス、そして布に包まれた家紋メダルだけをポケットに入れて裏口から抜け出した。
その日は付き添ってくれたイーストと一緒に森で眠った。
翌朝、娼婦街の様子を探りに行ったイースから、娼館主が探していると聞かされた。
「食堂の親父には、お前の言う通り銀を3枚渡してきたから安心しろ」
イースが買ってきたパンを齧りながら、ローラはイースに母親に聞かされた話を伝えた。
「そう言うことならもっといい方法がある。俺に任せておけよ。俺はお前の仲間だぜ?」
ローラは何も言い返せなかった。