29 新しい領主として
屋敷の引き渡しを終えたアレン・ブロウ侯爵は、同行する使用人たちと共に馬車に乗り込んだ。
走り出した馬車の窓から身を乗り出すようにして、遠ざかっていく屋敷を眺める。
街道を曲がり、もう見えなくなっても乗り出したままのアレンの手を執事が引き寄せた。
「危ないですよ」
アレンは何も応えず、座席に座った。
馬車の中は静かで、動き続ける車輪の音だけが響いている。
頬杖をついて窓の外を眺めているアレンの前に、そっとハンカチが差し出された。
驚きながらも受け取るアレンの目に、ランドリーメイドだった少女の顔が映った。
「マリア様はカレントの草木染が好きだと仰っていました」
「そうか……君は彼女の声を知っているのだね。僕は……悲しいけれど一度も聞いたことが無いんだよ」
」
「そうですか……それはカレントの草木染で作ったのです。どうぞ涙を拭いてください」
「涙を? 拭くって……」
その時ようやくアレンは自分が泣いていることを理解した。
「生まれ育った屋敷が人手に渡ったのですから、悲しくて当たり前です」
ランドリーメイドの声に、アレンは心が締め付けられた。
「きみ、名前は?」
「アリサです。実家は育成牧場をしています。今は軍馬が多いですけど、昔は皇族の方の馬も出荷したことがあるっておじいちゃんが言ってました」
「そう、それは凄いね。君はアリサっていうのか。アリサはいくつになるんだい?」
「私は17歳ですよ?」
「17歳か……マリア嬢も確か17歳だったよ」
「そうですか。私がお目に掛った時はすでに酷く瘦せておられて……とても同じ年とは思いませんでした。そうですか……17歳ですか」
「うん、酷いことをしてしまった」
「でもこれからマリア様の愛した土地のためにみんなで頑張るんですよね? 私も精一杯お手伝いしますから! 元気を出してください」
「ああ、心強いよ。頑張らないとね。マリア嬢の代わりにやることはたくさんあるはずだ」
「そうですよ! ご主人様」
アレンは薄緑のハンカチを握りしめて無理に微笑んで見せた。
握ったハンカチをじっと見たアレンは思った。
ルーナも出会った頃は木綿のハンカチだったのに、いつの間にシルクのハンカチを使うようになったのだろう。
自分で刺したんだと嬉しそうに見せてくれたあのハンカチは、どこにいったのだろう。
捨ててしまったのだろうか。
ゴワゴワした手触りの洗いざらしたハンカチのような毎日を送っていたあの頃は、些細なことで幸せを嚙みしめていたのに。
ガタンと馬車が大きく揺れ、王都から出たことを告げる。
ここからは轍のところだけ石が敷かれた街道となる。
途中の街で一泊すれば、もうカレントだ。
先発したみんなが領主館の清掃も終わっている頃だろう。
そう思ったアレンは腕を組んで目を閉じた。
翌日の早朝、宿を出て一行はカレントを目指した。
街が近づくにつれ、アリサが饒舌になり、指をさしながら観光案内をし始める。
アリサの話を聞くともなく聞きながら、長閑な牧草地風景にアレンの心の澱が洗い流されていった。
「素敵なところだね」
「はい、カレントはとても良いところです」
「マリア嬢もこの地を愛していたんだろうね」
そう言いながらアレンは膝に抱いている小さな木箱を撫でた。
それは純白のレースに包まれたマリアの遺骨だ。
レースは彼女が被っていた結婚式のベールで、アレンはそのベールを今度こそ優しく解きたいと考えていた。
本来ならドレスも一緒に埋葬すべきなのだが、そのドレスは土に汚れ、袖と膝の部分が破れていたため、諦めたのだった。
「なぜこんなことに?」
そう言ったアレンに応えたのは、今回同行を申し出てくれた馭者だった。
「屋敷に着いたときに、奥様に突き飛ばされて転んだんですよ。突き飛ばされたって言ってもそれほど酷くやられたわけじゃないのに、なぜか踏ん張らずに肩からこけたのです」
それを聞いたアレンはとても驚いた。
「いつだ? 気づかなかった」
「そりゃそうでしょう。ご主人様は屋敷に着くなり、振り返りもせず執事さんと話されていて、その後は帰ってきた奥様を抱き寄せるのに忙しかったから」
「そうか……僕は本当に無能な男だな。視野が狭すぎる」
アレンは拳を握りしめて悔恨の念を新たにした。
奥様……本来であればマリアこそがそう呼ばれるべき立場だったのに、ルーナがそう呼ばれることを喜び、喜ぶルーナを諫めもしなかった。
馬車から降りる時さえ、エスコートしたかどうかさえ覚えていない。
「今更だ……今更だよね」
アレンはもういないマリアに語りかけた。
馬車がゆっくりと停まる。
マリアが納められた箱を大事に抱えながら、馬車を降りたアレンは、領主館の小ささに驚いた。
「ここか……うん。いい屋敷だね」
領主館は古びてはいるが堅牢な作りで、一階の窓の下までは石組みでできている。
庭には草が生い茂り、もう長いこと人が住んでいないことを知らしめていた。
「お疲れさまでした」
先着していた使用人たちが集まってくる。
みんな腕まくりをして額に汗を浮かべていた。
もうすぐ本格的な冬が始まるというのに、カレントは王都より随分暖かいのだろうか。
「着きましたよ、マリア嬢」
アレンは木箱に語りかけた。
「ご主人様、あっいや、領主様ってお呼びした方が良いですよね。領主様、1つご報告があります」
「何かな? 困ったこと?」
「困ったことというより、マリア様のご遺族の事です」
「ご遺族……お祖母様がご健在だという事だったが?」
「ええ、ご指示通り着いてすぐに探したのです。見つかったのですが、マリア様がこの地を出られてからすぐに入院されたのですが、それがあまり環境の良くない場所で……」
後ろからアリサが声を掛けた。




