2 父親の不義とローラという娘
頭の中が真っ白になっているマリアは、姉のリリーブランに付き添われ、明日の準備のために応接室を出た。
ドナルドはその後ろ姿を見送った後、眉間を押さえてソファーに沈み、静かに泣いた。
真面目一筋と思われているドナルドだが、妻が第二子を妊娠しているときに、娼婦を買った経験がある。
「なんというか、つい魔がさしたんだ。酒も入っていたし、断り切れなかった」
これが当時妻に自ら告白した言葉だ。
妻を抱けない寂しさを紛らわすように、妻に似た容姿の娼婦を何度か買ったが、空しいだけだと悟り、それきり娼婦街に足を踏み入れることは無かった。
マリアも生まれ、家庭も仕事も順調で、いつの間にか娼婦買いという過去を忘れた。
マリアが初等教育を終える年に、もともと体が弱かった妻が肺病を患った。
王都の空気は良くないと言う医者に従い、妻は実家に療養に行くことになった。
貴族学園の高等部に通っていた姉は、卒業のために屋敷に残ることになったが、まだ子供だったマリアは母と離れるのを嫌がった。
仕事で遅くなることも多い伯爵は、マリアのためにも同行を許した。
転地療養の甲斐もなく、妻が亡くなったのが今から3年前。
再婚を勧める者もいたが、伯爵は断り続けた。
妻の死から半年後、妻の父が亡くなり、妻の実家には病気がちな義母だけになった。
マリアは看病のために残りたいと言い、田舎とは言え学校を卒業させてやりたいという思いもあり、伯爵はマリアの残留を許可した。
そして長女のリリーブランが21歳に、次女のマリアが17歳になった年、まさに青天の霹靂ともいうべき出来事が起こった。
顔さえ覚えていない、かつて数回関係を持った娼婦の娘と名乗る少女が訪ねて来たのだ。
「お父さんなんだってさ、あんたが、あたいの」
「どういう意味だ。お前なんか知らないし、そもそも娼婦の子が私の子だと証明などできる訳もないだろう? 金が欲しくてそんなことをするなら、警備隊に突き出すぞ」
「いいさ、突き出しなよ。警備隊に言わせりゃあたいなんかお得意様さ。母さんが死ぬ間際に言ったんだ。お前の父親はエヴァンス伯爵だってね。そしてこれを渡してくれた。これを見せれば伯爵も納得するって言ってたよ」
そう言うとその娘は、粗末な布に包まれた家紋入りの王宮通行許可メダルを見せた。
「うっ……これは……」
「あんたのだろ? 母さんが貰ったんだって言ってたよ。安心しな、まだ誰にも見せてないから」
「うっ……渡したのではない。失くしたんだ。そうか……あの時落としたのか……よこせ。お前が持っていて良いものではない」
「やだね! これを持ってあんたの仕事場に乗り込んでやるよ。ははは! そうなりゃあんた、首になるんじゃないのかい?」
「……良いから早くよこせ」
「ああ、いいよ、ただし条件がある」
「なんだ。言ってみろ」
「あたいさぁ、一度でいいから貴族になって夜会っていうのに出てみたいんだ。その準備をしておくれよ。ドレスも靴もバッグもね。ああ、キラキラしたアクセサリーも欲しいな」
ドナルドは絶句したが、心の隅でそれで済むならという考えが頭を擡げた。
「どうなんだよ、バラされてクビになるか、あたいを夜会に連れて行くかの二択だ。別にあんたの娘だからって財産を半分寄こせなんて言っちゃあいないんだ。迷うほどでも無いだろう? せっかく父親が貴族だって分かってさあ、一度くらい貴族のまねごとをしたいっていう娘の願いくらい叶えておくれよ」
「一度だけ……一度だけ夜会に連れて行けば、そのメダルを返してくれるんだな?」
「ああ、そうだよ。誂えてもらったものを売れば銭になるだろう? その銭を握ってどこか遠くの街に行くよ。もう二度とあんたにもあんたの家族にも会うことはないさ」
「本当だな? 本当に消えるんだな?」
「ああ、しつこいよ!」
ドナルドはじっと考えていたが、意を決して返事をした。
「分かった。その条件を呑もう」
その日からローラはエヴァンス伯爵家の客間に住みついた。
同居している長女のリリーブランはもちろん、使用人たちも戸惑った。
食卓につけば、誰の許しも得ずに片っ端から手を伸ばすローラに、リリーブランは啞然とした。
フォークを握り、皿に直接口をつけてがつがつとかき込むその姿は、まるで野良犬だ。
ナイフは使い慣れていないのか、大きなステーキを半分にしただけで、齧り付く。
「美味いねぇ、これ。さすがはお貴族様だ。お姉ちゃんは毎日こんなもの食ってるんだろ? それにしては瘦せてるねぇ。残すのかい? 勿体ないと思わないのかい? へぇぇぇ、そりゃ驚いた。これだけあればあたいの仲間全員の腹を膨らすことができるだろうに」
テーブルクロスもナプキンも床も肉汁が飛び散ってシミになっている。
そんなことなどお構いなしに、ナプキンリングを手に持ってローラが言った。
「指輪にしちゃでかいし、腕輪にしちゃ小さいな。これもらっていいの?」
問いかけられたメイドがリリーブランの顔を見た。
リリーブランは真っ白なナプキンでゆっくりと口を拭ってから、口を開いた。
「よろしければお持ちになって結構よ。それはアクセサリーでは無いから持っていても仕方がないと思うけれど?」
「そうなの? へぇ~。きれいな柄があるからてっきり飾りもんだと思ったよ。じゃあ一個もらうね。ありがとう」
「……いいえ、どういたしまして」
ローラが大きな音を立てて立ち上がった。
「あたいはちょっと出てくるよ。なあにすぐに戻るから心配はいらない」
肉汁のシミがついたままのワンピースを気にすることもなく、食堂を出るローラ。
その場にいた全員がただ黙って見送った。




