28 空間の世界のマリア
もうずっと、まるで水の中にいるような感じだ。
昨日よりずっと何も感じなくなっているから、そろそろかなと考えていたら、誰かが部屋に入ってきたような気配を感じたが、うっすらとした光しか感じなくなったこの目では、確認もできない。
少しだけ指先が温かいような気がするが何だろう。
誰かが手を握っているのだろうか?
消えかける意識の中でマリアがそう考えていた時、慈愛に満ちた優しい声がマリアの心に直接響いた。
「マリア……お前を迎えに来た。本来ならすぐにでも連れて行くところだが、辛い思いばかりだったお前に、願いをひとつだけ叶えてやろうと思って私が自らきたのだよ。さあ、何なりと言ってみるがいい」
「願い? あなたはどなた?」
「私は森羅万象を司る者」
「願い……」
マリアは数秒考え、この状況をすぐに終わらせることを望んだ。
自ら魂の解放を欲したのだ。
魂の解放……すなわちそれは『死』だ。
創造主は一度だけ小さく頷き、マリアの魂を抜き取る作業を開始した。
しかし、マリアの枯れ木のような手を握り続ける夫を見た創造主は、その作業を中断して暫し待つことにした。
慌てふためく夫の姿を、マリアの代わりに観察していると、今度は医者らしき男が入ってきた。
マリアの魂はいつでも抜き出せる状態にしてある。
医者に突き飛ばされながらも立ち上がり、夫は再びマリアの手を握った。
「今がベストタイミングだよね?」
創造主はマリアの魂を掌に乗せて『空間』の世界へと戻った。
その世界では『ファイア』と『ブロウ』が待っていた。
迷った挙句、まだ名を取り上げていなかった事を思い出した創造主は先手を打つ。
「さあ、お前たちの愛するマリアの魂を連れて来たよ」
まず『ブロウ』が駆け寄りマリアの魂を抱きしめた。
まだ名を与えていないその魂は、ところどころ黒ずんでいるが、予想より遥かにきれいな球体を維持していた。
そしてマリアの魂を抱きしめている『ブロウ』ごと包み込むように腕を回した『ファイア』が創造主に聞いた。
「この子は幸せでしたか?」
「いや、そうでもないかな」
「そうですか……」
「だから当分の間、私がしっかり甘やかしていこうと思うんだ。でも君たちはそろそろ輪廻に参加しないとね。もう会えないと思っていた子に会えたんだ。それで満足しておくれ」
「勿論です。ありがとうございました」
そう言うと『ファイア』は『ブロウ』を促して、創造主の前に跪いた。
その二人に寄り添うように、マリアの魂が浮遊している。
「では、名を返してもらうよ。じっくり休んで再び我が作りし世界の礎となりなさい」
創造主がほんの少し指を動かすと、仮の器が消えて透明の球体が現れた。
二つの魂は数度マリアの魂の周りを浮遊したあと、スッと上空に昇って行った。
「今度は君に名を与えようね。君の名は……やっぱりマリアだな。でもその前に黒ずんでるところをきれいにさせてくれるかい?」
創造主は掌のマリアの魂を包み込み、数度大きな息をした。
指の間から光が漏れ始め、やがて光の粒となって下に落ちてゆく。
創造主が指先を広げると、まるでクリスタルのように光り輝く透明な球体が現れた。
「やあ! きれいになったねぇ。うんうん、君は素晴らしく美しい」
そう言った創造主は、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「マリア」
その途端、球体を核として人型が出現し、父親に連れ去られる前のマリアが出現した。
「きれいだね、マリア。こっちにおいで」
おずおずとしながらも、まっすぐ創造主に向かって歩を進めるマリアの顔は生気に満ちている。
「君はそんな顔で笑える子だったんだねぇ」
「神様ですか?」
「違うよ。神ではない。創造主と言われているみたいだけど、マリアには名前で呼ばれたいな」
「お名前ですか? なんとお呼びすればいいでしょうか?」
「子供の頃は『アース』って呼ばれてたよ」
「アース様?」
「うん、いいねえ。マリアに呼ばれるとなんだかとても嬉しい」
二人はニコニコと笑いあった。
アースに手を引かれ、マリアはポスッとその胸に倒れ込んだ。
アースはマリアの髪を撫でながら、ゆっくりと話し始める。
「覚えているだろう?」
「はい。私は死んでしまったのですよね? だからかしら、辛さとか悲しみとか怒りとかの感情が、全部なくなっちゃったみたいです。なんだかとても素直な気分で嬉しいわ」
「そうかい? それなら魂を修復した甲斐があったというものだ。死んだっていうのは、近いけど違うな。まあ器は壊れたから『死』といえばそうだが、完全に壊れきる前に私が救済したからね。だから君の魂は摂理に従った浄化には回れないんだ」
「浄化? 魂の浄化ですか? 本で読んだことがあります。神様が死んだ人の魂をきれいにして、また生まれ変わらせるって」
「ふぅ~ん。誰が言ったんだろ。近いとこ突いてるねぇ。偶にいるんだよ、記憶を持ったまま浄化に耐える強いのが。そのうちのどれかかな? まあ、いいけど」
「でもアース様は神様じゃないのでしょう?」
「うん、神様じゃないね。神様って呼ばれてるのも私が作ったから」
「……?」
マリアが小首を傾げてアースを見上げた。
「マリア……難しいことはいいさ。それより君はちょっとの間ここにいなさい。私の話し相手をしてくれると嬉しいのだけれど、どうかな?」
「はい、喜んで。でもアース様ってどうして透けて見えるのですか?」
「ん? まだ透けてた? ちょっと待ってて。すぐ直すから」
そう言うとアースはギュッと目を閉じて、すぐに開けた。
「あら! はっきり見えるようになったわ」
「これでいい? それともマリアの好きな感じにも変えられるよ?」
「好きな感じ? 猫とか?」
「マリアは猫が好きなのか。でも猫だと君を抱きしめてあげられないでしょ? やっぱり人型の方が良くない?」
「だったら……物語に出てくる王子様とか?」
「王子さまねぇ……いいけど、実際の王子ってロクな奴いないよ? じゃあこんなのは?」
アースは再び目をギュッと閉じた。
銀色のまっすぐな髪が腰まで伸びた美しい顔立ちの30歳くらいの男性が現れる。
「まあ、きれいな方! 素敵です」
「そう? じゃあマリアが飽きるまではこれでいこうかな」
二人は微笑み合って立ち上がった。
アースは銀髪を揺らしながらマリアに話しかける。
「マリア、私のためにお茶を淹れてくれるかな?」
「はい、私でよろしければ喜んで」
二人は歩き出した。
数歩歩くとマリアにとって見慣れたキッチンがあった。
「これって……」
「うん、君が使っていたキッチンだね」
「どうして?」
「どうして? その方がマリアも喜ぶかなって思ったからさ」
「ありがとうございます。アース様」
「うん、マリアの笑顔は私にとってご褒美だからね」
「すぐにお茶を淹れますね」
「ああ頼むよ。茶葉もカップも全てそのままだから使いやすいでしょ?」
マリアは一度アースを振り返り、ニコッと笑ってから戸棚に手を伸ばした。
紅茶を運んできたマリアを膝に座らせて、アースはゆっくりとカップを口に運んだ。




