13 アレン・ブロウという男
アレン・ブロウは今年で21歳になった若き侯爵だ。
父親も騎士で、国王の護衛を兼ねた側近として耳目を集める存在だった。
そんな父親がある日突然亡くなったのは彼が学園を卒業した直後。
表向きは病死とされているが、夫婦で参加した夜会の直後だっただけにいろいろな噂が飛び交った。
父親はその日のうちに死亡が確認されたが、同行していた母親は一命をとりとめた。
しかし、命を落とさなかっただけで酷い状態が今もなお続いている。
原因不明の病気とされ、治療方法は見つからず、ただ対処療法のみに頼るしかない。
しかも、その対処療法の薬というのが、恐ろしいほど高額であるにも関わらず、帰宅してからの発症だったため、王宮側に請求することもできなかった。
爵位は問題なく承継されたが、まだ騎士として駆け出しといえる程度の経験しかなかったアレンは苦労した。
辺境近くに小さな領地を持っていたが、維持することもままならず、父親が残していた貯えはあっという間に薬代へと消えていく。
若き侯爵の苦境を見かねた辺境伯が、領地を相場の価格で購入すると申し出てくれた。
領地を手放すのは断腸の思いだったが、母親の苦しむ姿を見ているアレンは決断した。
取引が成立した後、人伝に聞けばその価格は相場よりかなり低かったらしい。
もうすでにどうしようもない。
アレンは一人歯嚙みするしかなかった。
見かねたのか、国王はそんなアレンを第二王子の側近に引き上げた。
父親の死にも多少の責任を感じていたのだろう、王宮から支払われる給与も、同年代のものに比べると破格に高くなった。
しかし追いつかない。
母親の体がその薬に慣れてしまったのか、使用量が増え続けていた。
領地を売った金も残り少なく、給与を前借するしか暮らしが成り立たなくなった頃、アレンは一人の女性に出会った。
その女性はルーナという名前の子爵家の三女で、18歳だった。
薬を受け取りに行った病院で出会ったルーナは、質素なワンピースの腕を捲り上げて、入院患者の使ったシーツを抱えていた。
まだ若く弾けるような笑顔を見せるルーナに、日々の暮らしに疲れていたアレンは惹かれていく。
自由になる金もなく、思いを寄せるルーナに何も買ってやれないことを悲しく語るアレンに、ルーナは優しく寄り添った。
二人は共に貧しかったが、いつかは必ず結婚しようと誓いあう仲になっていた。
母親の病状は変わらず、ルーナとの結婚も遠く、明るい未来が思い描けない。
そんな時に宰相から持ち掛けられたのが、マリア・エヴァンスとの結婚だった。
宰相は言った。
「ラウム第二王子殿下の御子を身籠っているかもしれないんだ。いや、かなりその可能性は高い。だから今のうちに囲い込む必要があるんだよ。お前も知っているだろう? 王家の御子を宿せる可能性がある母体は貴重なんだ。絶対に手放すわけにはいかない。しかし、少々出自に問題があってね。今までの貴族令嬢たちのように、結果が分かるまで王宮で様子を見るということができないんだ」
なんとも身勝手な話だと思ったが、アレンは我慢して聞き続けた。
「そこでだ。誰かと婚姻を結ばせて、正妻という地位で囲い込むことになった。ほら、例の面倒な法律だよ。公妾は貴族の正妻でないといけないっていう、あれさ。もちろん仮初だから心配ないよ? そこで君に相談しているんだよ。もし妊娠していないとわかれば、すぐに離婚してもいい。その時はこちらで引き取るよ。妊娠していてそのまま公妾として継続するなら、別館を建ててやるからそこに住まわせれば良いだろう。そうなると、君が本当に結婚したい女性には申し訳ないが、内縁関係ということになるが礼は弾むよ」
アレンは無言を貫いた。
「君への礼は金だ。君の母親の治療費は生涯国が保証する。そして今君が抱えている借金もすべて清算しようじゃないか。どうだね? それほど悪い話でも無いだろう?」
まさに悪魔のささやき。
足元を見られるとはこのことだとアレンは屈辱を感じたが、先の見えない洞窟の中で、一筋の光明を見たような気になった。
後はルーナがどういうか……説得するしかない。
いや、このチャンスを逃したら自分の人生に這い上がるチャンスは二度とない。
アレンは、頷いてしまった。
その日は休みをとってすぐにルーナのいる病院へ向かう。
宰相からの話をすると、ルーナは泣き出してしまった。
「その人とは結婚しても仮初の関係って本当なの?」
「ああ勿論だ」
「私はあなたのお嫁さんになれないの?」
「もしその人が妊娠していたら……君は内縁の妻という立場になってしまう。でも、公妾の夫の場合、内縁といっても正妻と同じ権利を与えることができるんだ。公の場にも同伴できるし、侯爵家の内政にも関与できる。正妻と何も変わらないんだよ」
「本当に?」
「本当だ。それに妊娠していないことが分かれば、すぐに離婚できるんだ。たった三か月の辛抱なんだよ。それだけで全ての問題が解決できる。この話を飲めば、すぐにでも一緒に暮らせるんだ」
「三か月で離婚できるのね?」
「妊娠していなかった場合だけどね。僕を信じて納得してくれないか?」
アレンは内心焦っていた。
これ以上お金の苦労はしたくないというのが本音だ。
もしルーナが嫌だと言っても、この話を手放すには惜し過ぎる。
もちろんルーナと別れるのは嫌だが……。
「わかったわ。三か月我慢する。それですぐに一緒に暮らせるのよね?」
「ルーナ……ありがとう。僕が不甲斐ないばかりに。許してくれてありがとう」
「いいの、あなたの苦労を見ているのも辛かったのよ。これで楽になれるのよね?」
「ああ、もう金のことばかり考える必要は無くなるよ。君にも宝石やドレスをプレゼントできる」
「嬉しい! 愛しているわアレン」
「ルーナ、愛してる。今日にでも君の家に話しに行こう」
「ええ、嬉しいわ。アレン」
アレンは肩の荷を降ろしたような気分で王宮に戻った。
宰相に報告に行くと、至極当然という顔で頷いた。
「君とマリア嬢の結婚式は、来週の日曜だ。ドレスはあちらで用意してくれるから、何も準備はいらないよ。夫婦の寝室も必要ない。客間を一つ与えてくれたらいいさ。三か月の辛抱だ。三か月後の診察でその後の方針が決まる。それまで頼むよ」
その足でアレンはルーナを迎えに行き、そのままルーナの実家であるウィンド子爵家を訪問した。
すでに跡取りもいるウィンド子爵は、アレンの言葉に頷いた。
「公妾か……形はどうあれ、君たちが幸せになるなら問題ないさ。娘をよろしく頼む」
アレンは彼女の家族の前でルーナに正式なプロポーズをした。
その翌日、すぐに病院を辞めてしまったルーナに、少し戸惑いを覚えたが、それだけ一緒に暮らしたいと思っていたのだと理解した。
屋敷の使用人は執事とメイド長、そして二人のメイドだけという、侯爵家としては考えられないほどの少人数だが、最低限とはいえ屋敷内は清潔に整えられていた。
ルーナは抱えてきた鞄を夫婦の寝室に持ち込み、その夜から早速二人は同じベッドで眠り目覚める日々を過ごした。
その翌日から、大規模な研修という名目で王宮内の人数がかなり減った。
第二王子の側近の中でも2人抜けたが、第二王子が自室で謹慎している状態のために、護衛の仕事がないアレンは、事務仕事も手伝うことになった。
慣れない事務仕事に悪戦苦闘していると、宰相から呼び出しが掛った。
「一度お前の正妻となるマリアのところに挨拶しとけ。今は実家に暮らしているが、覚悟して会えよ。田舎育ちということだが、言葉遣いもマナーも平民の中でも最下層級だ」
まさか第二王子のお手付きになったような貴族令嬢が?
第二王子を迎えに行ったとき、顔は見たことがあるが言葉は交わしていない。
アレンは半信半疑でエヴァンス邸に赴いた。
挨拶ということもあり、流行りの菓子を購入してエヴァンス邸のドアを叩いたアレンは啞然とした。
「なんだ? このどんよりとした空気は……」
アレンは屋敷の中に一歩足を踏み入れた途端に、そう呟いてしまった。
エヴァンス伯爵の案内でマリアの部屋に行くと、姉という女性がいた。
挨拶をすると、目を見開いておどおどと挨拶を返してきた。
その途端、部屋の中から何かが割れる音がする。
怯える姉の前に出て、アレンは躊躇なく部屋に入った。
壁に当たって砕けた花瓶が散らばる床に、メイドが座り込んでいる。
マリアという女は女性騎士に挟まれる形で、ソファーに押し付けられていた。
「誰だてめぇは! 見てんじゃねえよ! 出て行きやがれ!」
仮初とはいえ、これが我が正妻となる女かと思うと怒りが込み上げる。
こんな下品な女のために、愛しいルーナが日陰の身となるなんて……。
「おお! オトウサマとオネエサマじゃねえか。こいつらに言っておくれよ。あたいを縛り付けようとするんだ!」
マリアを冷めた目で見ていた騎士が、アレンの方を見てぺこりとお辞儀をした。
何度か顔を見たことがあるので、その騎士がロナルド公爵家の者だとわかったが、なぜここにいるのだろうか。
マリアの罵詈雑言を無視して、アレンはそんなことを考えていた。
徐に騎士が口を開いた。
「貴殿に白羽の矢が立ちましたか」
「ええ、そういうことです」
「まあ、そうでしょうな。文官では手に負えない。あの口汚さでは結婚式もままならないでしょう。ですが公爵様には私から伝えておきますので、ご心配は無用ですよ。あなたも下手に関わらない方が良い」
「そのようですね。一応エヴァンス伯爵に挨拶をと思って来ましたが、あなた方にお任せした方が良さそうだ」
「ええ、それが賢明でしょう。結婚式の当日は私たちで式場まで連れて行きますから」
「そうですか……では、そのように」
「いらぬ気遣いかもしれませんが、このような方というのは、他言無用で。第二王子殿下の評判に関わりますのでね。ご家族や使用人達にも内密になさった方が良いでしょう」
「承知しました。お気遣い痛み入ります」
アレンは結婚式さえ乗り切ればいい、後は一切関わるまいと心に決めた。
その思いは苦もなく叶えられることになる。
人手不足が祟り、結婚式の翌日から二か月間の地方出張が言い渡されたからだ。
ルーナには申し訳ないが、関わらないでいられるなら僥倖だとアレンは思った。
しかしその安堵が、三か月後には絶望に変わる。




