9 エヴァンス伯爵の苦悩
帰宅早々に執事から報告を受けたドナルドは、その足でリリーブランの部屋に向かった。
「お父様……」
リリーブランは茶会で聞かされた話を全て伝えた。
「ああ……とんでもないことになった。お前も酷い目に遭ったな。私のせいでお前に辛い思いをさせてしまった……申し訳ない」
「これからどうすれば良いのでしょう」
「実は今日、私も同じような話をされたんだ。昼休みに訪ねてきた男性に、同僚の前でひどく罵られた。その人は王宮官吏だが、私とは面識のない人だった。その人の娘さんも婚約者をマリアに寝取られていると言っていた」
「まだ被害者は増えるのかしら……お父様、私はもう外には出たくありません」
「うん、そうだろうな。分かるよ、お前の気持ちは。私だって明日からどんな顔をして仕事場に行けばよいのか分からないよ。それにしても……あの女……殺してやりたいな」
「こんな大それたことをローラが一人でできるでしょうか」
「ああ、それは私もそう思う。誰かとんでもない悪人が操っているのかもしれん。いっそ全てを告白して警備隊に訴えようか……」
「警備隊が取り扱ってくれるでしょうか? 第二王子殿下の名前まで出てしまっては……」
「そうか、そうだな。王家の意向もあるだろう。明日にでも上司に相談してみよう。きっと王家に近い人に繋げてくれるはずだ。しかし、そうなると私は職を失ってしまうし、まだ婚約者も決まっていないお前は、縁遠くなるだろう……どうしたものか……」
「慰謝料となると爵位も売らなくては賄えませんわ。平民になるのですね……」
「そうだな。そう言えばカリアナのお義母様が、マリアを養子にして爵位を継がせたいという話をされていた。もしエヴァンス伯爵家の株を売ったとしても、ローズの実家の爵位をお前が継げば……いや、今はそんなことを考えるのは止めよう。まずローラを捕まえることが先決だ。ローラが定宿にしているホテルは分かっているのか?」
「ええ、レーナが教えてくれました」
「明日は取り急ぎ、王家の意向を確認してくる。明後日にでも乗り込んで現場を押さえてやろう。お前は不自由だろうが、家に籠っていなさい」
「わかりました。どうかお気をつけて」
食事どころではないドナルドは、先触れを出して上司の家に向かった。
「明日と言っておられたのに、こんなに遅い時間に訪問されるなんて。お父様もきっと焦っておられるのだわ」
そのままベッドに入ったリリーブランだったが、うとうとするだけで眠ることができなかった。
父親が帰宅した音を聞いたのは、星さえも眠る深夜のことだった。
本来なら朝まで待つべきだが、リリーブランが待ちきれず起き上がる。
ガウンだけを羽織り、父の部屋に向かった。
「お父様? お帰りなられましたの?」
返事がない。
開けようかどうしようか迷っていた時、後ろから声がかかった。
「お前……まだ起きていたのか。そうだな、眠れるわけ無いな。話をしよう。執務室に来なさい」
リリーブランは父の部屋の前で夜番をしていたメイドに声を掛け、紅茶を持ってくるように指示をした後、急いで執務室に向かった。
寒くないかと心配する父の声を適当に受け流して、ソファーに座った。
「結論から言う。噂は概ね本当だった。ただし第二王子殿下が言うには、体の関係があるのは殿下だけらしい」
「えっ! もう王室に行かれたのですか?」
「ああ、それほどの緊急事態ということだ。とんでもない状況だよ。このまま放っておいたら私たちにも逮捕状が出て、拘束されていたかもしれん」
「そんな! どういうことです?」
「あいつは……いや、あいつらは気分が高揚する薬物を売っている。その薬物は依存性が高いだけで、薬が切れるとまともな思考能力に戻るらしい。そして数時間から数日後には禁断症状を起こし、再び薬物を欲するのだそうだ。そんな危険極まりないものを広めるだなどと……それも高位貴族の令息達を相手にしてだ。恐ろしい話だ」
「でもなぜ? なぜそんな噂にまでなるのですか? もちろん薬物の売買は許しがたい事ですが、売買とローラの噂が結びつきません」
「あいつらはその薬をローラが宿泊している部屋だけで使わせていて、絶対に持ち出すことはさせない。あの部屋で薬物を買い、そのまま使用するんだ。そして薬物の影響が消えた頃に解放する。そうすれば確かに足はつきにくい。しかし女性のいる部屋で、貴族令息が朝まで過ごしているという事実は残る。それが噂の真相だよ。ちなみに医師によると、その薬物の影響がある間は、性的行為はできない状態になるそうだ」
「まあ……でも、でもお父様? では第二王子殿下はなぜ?」
「王族は皆、幼少期からあらゆる薬物に耐性をつける訓練を受けている。例え他の令息たちと同じように摂取したとしても、症状は出なかったのだろう。そして、その場にいたローラに手を出した……。そんなところだ」
「王族がそんなに簡単に手を出すなんて」
「お前も知っているだろう? 王族に関しては子孫を残すことが最重要なんだ。だから王太子殿下や第二王子殿下が、たとえ婚約者がいる令嬢に手を出そうとも、何の問題にもならないさ。行為の後、数か月間様子を見るために王宮に留め置かれるが、妊娠していなかった場合は、問題なく日常に戻って行くんだ。寝取られた側はその事実を知っていても知らん顔をするのが暗黙のルール。眼を瞑り口を噤む」
「そんな風習が? わたくしは今日お聞きするまで、存じませんでした」
「ああ、さすがに家を継ぐ娘には手を出していない。長女以外の貴族令嬢から物色しているのだろう。うちの場合、マリアは王都にいなかったからな……と言っても、この渦中にいるのが、そのマリアを名乗らせてしまったあの女だが」
「ローラがマリアではないということはお伝えしたのでしょう?」
「もちろん伝えたさ。でも、そのことは口外しないよう固く命じられた」
「どういうことですの?」
「もしローラが第二王子殿下の子を身籠っていた場合、貴族令嬢でないと拙いということさ。ましてや娼婦の娘で、父親が誰かもわからない女が産んだ子が、唯一の王位継承権を持ってみろ。大変なことになる。だからマリアとしてこのまま様子を見ることになった」
「王命ですの?」
「ああ、その条件を呑むなら、被害者からの訴えを全て退けて下さるそうだ。もちろん爵位も存続し、慰謝料も発生しない。頷くしかなかったんだよ」
「それは……」
「現時点で判明している薬物依存者は、全員明日拘束される。もちろん秘密裏にな。そして依存症が抜けきるまで隔離されて治療を受ける。治療と言っても軟禁状態にするだけらしいが。今のところ一番酷いのがデリク・ロナルド公爵令息だ。ロナルド公爵も同席されたが泣いておられたよ」
「そうでしょうね」
「なんせ高位令息が多い。これも奴らの狙いだろう。表に出すわけにはいかない。家の存続に関わるからな。全ては秘密裏に進む。しかし表沙汰にはならんが、マリアの記憶が消えるわけでは無い。マリアの姉であるお前のところに来てくれる男は……いない」
「それでは我が家の存続が……」
「だからその場で宰相閣下が決めて下さった。隣国だが宰相閣下の遠縁に当たる方で、前々から結婚相手を探して欲しいと頼まれていたそうだ。伯爵位で豊かな領地もある家の次男だが、結婚しても継ぐ爵位も用意してあるらしい。心配はいらない。しかし、奴らを捕縛するにあたっては、いろいろ噂なども飛び交うだろう。だからお前は早急に隣国に行け」
「そんな!」
「それがお前のためだ。エヴァンス家はお前が産んだ子供に継がせることで了承も得てもらえる。何も問題ない」
「……お父様」
「もう寝なさい。明日も大変な1日になるぞ」
「はい、わかりました。それでは休ませていただきます」
リリーブランは沈痛な面持ちのまま自室に入った。
寝ろと言われても眠れるはずもない。
身動ぎもせず、窓が明るくなるのをずっと見ていたリリーブランだった。




