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待ち侘びた日のこと

遠くで花火の音が鳴っていた夜のことをふと思い出した。ドン、ドン、パッパ、離れているとそれくらいにしか聞こえなくて、残念に思う気持ちとほのかに漂う幻想的な気分とが入り混じる。窓から見上げても薄っすら雲がかかって黒々とした空が広がっているようにしか見えない。近くに灯りが少ないから何となく寂しさも感じて、コンポに差し込んでいたUSBから曲を流してみた。しばらくして何でもない日々の良さが歌われた曲に妙な具合に感じ入り、少しだけ泣いた。泣きはしたが心は満たされていて、夏にちょっとだけやってきてくれるセンチメンタルを味わったのだろう、その夜はぐっすり眠れた記憶。



比較的長時間、電車に乗っての移動。空いている時間帯だからすんなり自分の世界に入れたり、窓から風景を眺めれば季節の移ろいを感じていられたりもする。そろそろスーツも暑苦しくなり、身近なところに浮ついた話題もないからなのか普段の真面目な気持ちが少し重苦しく感じる。いかにも旅行の為という出で立ちで降車した夫婦を見つめていた時に、


<旅もいいよな>


と素朴に思い何となくスマホで行き先の候補を探したりしてみていた。春先に桜を愛でるつもりで計画していた友人との旅行が最終的にスケジュールが合わないために断念していたこともあって、どこかに心残りはあった。中途半端な時期だから、夏なら夏と決めて動いて行った方がいいのかもと思い始める。電車を降りて、空調のお陰でじめじめとした空気を感じずにいれたことを人知れず感謝している自分。幸い雨の予報ではない日だった。



駅構内のコンビニに立ち寄り、お茶とタブレットを買うつもりでドアをくぐった時、定員の女性の顔に少しドキリとする。はるか昔に恋心を抱いていた人と雰囲気がよく似ていた。ただ当時のその人に似ているということは自分よりは年下なのは間違いなく、淡い心を抱くようなメンタルではない。それでも「似ている」というだけでつい視線をそちらに向けてしまい、それによって相手に変に思われていないかどうか気になってしまう。知的な人だったし、自分の方が気遅れてしてしまうような関係だったが、店員さんも動きに迷いが無く、そして何より真面目そうな雰囲気を纏っている。その時の心情もどこか俯瞰するように眺めている部分がなかった訳ではないけれど、流石にレジで対応してもらった時には「ありがとうございます」と口にしていた。



『想いの残滓』



と言うには少し惜しいそういうなにか。微妙に、別の見方をすれば絶妙に、この世界は心を揺らしてくれるような配置なのだろうか。そう思うときがある。始まりの中にあったものは良きにせよ悪きにせよ後を引いて今の自分を作り上げている。移動中に道で見かけた白黒の猫とか、立ち寄った書店で見つけた意味深なタイトルの書籍とか、そういうものでさえもいずれ情緒の一部になってゆく。久々にそんな実感を持ちながら動いた日だった。




帰路、一日の疲れを感じてどこかで休みたい気持ちになった辺りで馴染みの定食屋が見えてくる。日はまだ落ちていないが、曇り空になってきたせいで仄暗い。入った時に中の灯りと客の様子でなんとなくホッと一息吐けて、改めていい店だなと感じた。表情からお互いの機嫌の良し悪しも分かってしまう僅かに気難しそうなところのある店主に「定食で」と注文すると、無言で頷いてくれた。いつもの奥の方の席に奥さが運んでくれるまでの間、一人旅の目的地だけでも決めてみようかなという気分になった。考え始めようとしたら、離れたところに設置してあるテレビに夕方の情報番組が映っているのに気づく。奇しくも「特集」としてこの夏に訪れてみたい場所で湖のある某県のことが取り上げられていた。



『花火大会』



当然のように出てきたキーワードに「おっ」と反応してしまう身体。資料としてまさに幻想的としか言いようのない光景が映し出されるとぼんやりとではあるけれどその場に立ち会った自分の気持ちが想像された。


「ほんとうにみんな気が早いね」



定食を運んできてくれた奥さんが満面の笑みで語りかけてくれる。どうやらテレビに釘付けになっていたことに気づいていたらしく続けて「行ってみたいの?」の訊ねられた。「はい。なんとなく花火が見たいなって」と答えると、


「確かにこの辺りだと花火ってあんまり無いもんね。あ、でも何年か前に遠くの方で聴こえてなかった?」


という会話に。


「3年くらい前だったように思いますね。それ以来花火の音とかしないですよね」


近所だから当然なのだけれど、その日のことを自分以外にも覚えている人がいることがなんとなく嬉しく感じた。店主も奥の方から現れて定位置からテレビを眺め始めた。



「息子が小さかった頃は花火大会あったのよ。せがまれてお父さんに連れて行ってもらったっけ」



若かりし店主の姿とその時の表情が目に浮かぶ。



「息子が言うには「花火は音がいいんだ」って」


「音ですか?意外ですね」


「近くで大きな音が聞きたかったんだって。『何にもない空で音がするのは凄い』って」



そう言われて花火の「音」の情緒を思い出す。あの夜のように「音」だけで知らされる花火の存在は、それだけでなんとなく切なさの入り混じった気持ちにさせてくれた。遠くから、音だけを聴いて光景を浮かべているその心にあったものは、喩え方は難しいけれど期待に満ち溢れていたことを思い出すような何かの証で、ドン、ドンというその響きがこの世界で特別なものだと知っている、誰かの記憶みたいで。多分、それが鳴り止んで欲しくはないんだとあの日の自分は感じていた。



あの、あの時間にあるなにかを。



浸り気味になって箸をつけるのを忘れていたことを奥から店主に指摘されてふと我に返る。色々感じていたせいか空腹だったのは確かなようで、特に白米の味が一層甘く旨く感じた。




いつか、この日の事も思い出すのだろう。夏を待ち侘びてしまった、この気持ちと一緒に。

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