第八話
朝。私はいつも通り目覚まし時計のアラームを頼らず、その十分前にベッドを抜け出して、身支度を始めます。
いつもと違うのは、低気圧で少し体が重いくらい。それだって、大して問題にはなりません。
身支度を進めながら、ついつい考えてしまうのは先輩のこと。
昨日、私に傘を半ば押し付けるように貸してくれた先輩は、雨に濡れながら走って帰って行きました。
きっと、寒かったと思います。梅雨には珍しい冷雨でしたから。
確かに、あの傘に私と先輩が入ったら狭く、二人とも濡れてしまって意味が無かったと思います。合理的判断、という点では、先輩のあれは正しかったのかもしれません。
それが間違っているとは言いませんし、先輩が私の体に気を遣ってそうしてくれたのも理解はしています。
「でも……」
先輩は、分かってない。
いえ、きっと分かった上で無視したんでしょうけど。
それは、優しさ。冷たくて、乾ききった優しさでした。
私が、自分のことなんて大切じゃないって、そう言ったから。
無理にでも、自分を犠牲にしても私を守ろうと。
先輩は、頭が回るのに、なんであんな馬鹿なんでしょうか。
昨日の夜、先輩と別れてから、何度となく繰り返した思考の先。その結論。一夜明けたら少しくらいは変わっていると思ったのに、全然変わってなんかくれなくて、そんな愚かな優しさが堪らなく愛おしくて、でもそれを向けられたら途端に落ち着かなくて、でも居心地は良くて。
「もうっ!意味分かりません……!」
何なんですか、この気持ちは。
恋。
そんな俗な単語が頭を過って、私は思い切り首を振ります。
「はぁ……何をしているんでしょう、私は」
確かに私は先輩の事が好き。ただそれは、心地好いから一緒に居たい、楽しいからお話ししたい、というだけの事。言葉にすれば、先輩が離れて行ってしまいそうな、弱い私。
先輩はきっと、私が弱いだけなら何とも思わないでしょうけど、付かず離れずな距離の取り方を微かに感じ取っている私は確信しています。
今のままの私が先輩に歩み寄ろうとしたら、距離を埋めようとしたら、先輩は近付かれた分だけ離れてしまう。
分かっていても、分かりやすく拒絶されたら、私は。
私は弱いから。
怖くて仕方ないんです。
私は私の事が大嫌いで、それは先輩に会う前も、会ってからも変わらない事です。
なのに、何故でしょう。
いえ、簡単ですね。私は、大嫌いな筈の私を、ある程度でも受け容れてくれる先輩に出会ってしまったから。その先輩にまで嫌われるのが怖い。
依存心、と言ってもいいのかもしれませんね。
このままだと、ヤンデレみたいになってしまうかも。
もしそうなったら、先輩は私をどうするでしょうか。
なんて考えながら、私はいつもの道を歩いて駅へ向かいました。
――――――――――。
駅に着いて、十分と少し。
いつもなら、先輩はもう来てる時間です。
先程駅を出たのが、いつも先輩の乗ってくる電車の筈で、本当ならさっきホームから出てきた集団に居た筈なんですけど。
トイレにでも行ってるんでしょうか。
そう思って更に数分待っても、先輩は姿を見せません。
何かあったのかも。
そんな不安が脳裏を過ったその瞬間、私のスマートフォンが不意に音を上げます。
いつも先輩とやり取りをしているメッセージアプリの通知音。
慌てて確認すると、
『ごめん。連絡遅くなった。風邪ひいたから今日は学校に行けない』
なんて書かれていました。
急いで返信します。
『分かりました。しっかり養生してください』
少しそっけなかったでしょうか。
いえ、余計な情報を増やすよりは、これくらいにしてちゃんと休んだ方が良いでしょうね。
「それにしても……」
風邪。
ごめんなさい。私が傘を忘れなければ先輩が風邪をひくことも無かったのに。
心の中で謝って、私は学校に向かいます。
時折誰も居ないガードレールの方へ話しかけようとして、その度に先輩が居ない事を思い出したり、授業の内容が全然頭に入って来なかったり、私は私の中で先輩がどれだけ大きな存在だったのか、一日かけて思い知りました。
それから、居ても立っても居られなくなって、
『先輩。家の場所を教えてください』
そんなメッセージを送ったのは昼休みでした。
勿論すぐさま帰って来たりはしなくて、放課後になって確認したら返信があった、くらい。
『桜花川駅を出て、目の前の道を真っ直ぐ。突き当ったら左に曲がって、そこから十字路を三つ抜けた右側にある』
体調を崩しているとは思えない程情報が整理された、分かりやすい道案内でした。
そのお陰もあって、私は迷う事無く、澤木の表札がかかった、つまり先輩の家に辿り着きました。
――――――――――。
ピンポーン。
いつもより随分と遠く聴こえるドアチャイム。
朝よりはかなりマシな体調になって、まだ若干体は重いが、ベッドから出るだけでも苦労するような事は無い。睡眠は偉大である。
カメラ映像を見ると水野さんが何やら物珍しそうにキョロキョロしている。
ちょっと面白いが、いつまでも眺めている訳にもいかないので、玄関まで重い体に鞭を打って足を運び、鍵を開ける。
「水野さん、いらっしゃい」
「こんにちは。……ひどいガラガラ声ですね。大丈夫ですか?」
「大丈夫だったら休んでないなぁ……」
「減らず口が叩けるくらいの余裕はあるって事ですね」
「まぁ……そうだな。とりあえず上がって」
「はい。お邪魔します」
本当は、幾ら風邪を心配してくれていると言っても家にまで来てもらう気は無かったのだが、水野さんの気が済まないのだろうと思って家の場所を教えた。
妙なところで責任感を発揮する水野さんの事だから、俺が風邪を引いたのは自分が傘を持って行ってしまったからだ、なんて考えているのだろう。
実際のあれは、俺が後先考えずに、且つ水野さんの意思を無視した独断で行った事。なのだが。
「傘、お返ししますね。あと、ごめんなさい」
なんて、申し訳なさそうな表情でそんな事を言う辺り、俺の予想は正しかったのだろう。
「気にしなくていいから」
乾かされて、綺麗に畳まれた折り畳み傘を受け取りながらそう返すが、水野さんは相変わらず申し訳なさそうな表情のまま言う。
「でも、私がちゃんと傘を持っていたら、先輩は濡れて帰らずに済みましたよね……」
確かに、それも事実ではある。
水野さんが入念に荷物を確認していたら、傘を鞄に入れていれば、こうはならなかっただろう。
だが俺が言っているのはそういう事ではない。そもそも、そんなタラレバ話がしたいのではないのだ。
だから俺は、やや強引に話を締めにいく。
「あれは、俺がしたくてそうしたんだ。それで俺がどうなろうが自己責任だろ」
「ですけど……っ」
「じゃあ、分かった。気にするなとは言わないから、気にし過ぎないでほしい。正直、傘の一本、風邪の一回でそんなに気にされるのは……困る」
「……はぁ」
これでも水野さんはまだ、不服、と無言の圧力をかけてくるが、気にしない。
「それより、わざわざ家にまで来てどうしたんだ?」
「……心配で。先輩の症状がどれくらいか分かりませんでしたから。ご飯とか、マトモなもの食べてないかもって思ったら……。それにしても……先輩以外は誰も居ないんですね。来て正解でした」
「あぁ……実質一人暮らしだからな。他には誰も居ない。家族はずっと海外だ。年に一回、帰って来るか来ないか、って感じで」
「一人暮らし、なんですか?家の中片付いてて、全然そうは見えませんでした」
「部屋は散らかって……ゲホッゴホッ」
「あ、ごめんなさい。無理させちゃって……」
「いや、もう喉の調子が治ってないだけで、体調は随分良いんだ。熱も下がってきてるし」
「本当ですか?」
訝しむような視線をこちらへ向けながら、右手を伸ばしてくる。
ペタリ。
水野さんの手のひらが、額に触れる。
柔らかい。俺の手と比べると、やはり随分小さくて、指は細い。
街で偶然会った帰り際に手を繋いだ事もあったが、あの時よりも強く、押し付けるように触れている分、鮮明な情報として受け取る。
熱を測っているだけ、そう分かっているのに、心拍数が上がる。
こんな風に、水野さんと向き合う事は今まで無かった。慣れない感覚にドギマギしてしまう。
「ん……熱は殆ど分からないくらいですね」
確かめて、水野さんは俺の額から手を離す。
「あぁ……」
それが、水野さんの手が離れてしまう、感覚の寂しさから来たものだという事は気取られなかっただろうか。
心配そうに俺の顔を覗き込んでくる水野さんは、しかし俺の顔を見て少し安心したように表情を和らげる。
「先輩?」
「なんだ?」
「今日は、私に色々任せてくださいね」
「なんだ、色々って」
「ご飯の準備とかです。ゆっくり休んでください」
「いや、流石にそれは……悪いかな、と思うんだが……。あ、いや、分かった。任せるから、そんなに睨まないでくれ」
「分かれば良いです。病人は大人しく看病されてれば良いんです。その為に来たんですから」
なんて、優しく微笑む。
その時、俺にはちょっと気になる事があった。
「……ところで、水野さんって、料理得意なのか?」
「得意と言えるような腕はないですけど、ダークマター生成するようなテンプレができる程器用でもないですから、安心してください。普通です、普通」
「あぁ、そんな創作の世界でしかできないような事は期待してないから大丈夫。……普通。普通ね。そう言う人に限って上手いっていう逆フラグテンプレは?」
「ありません。レシピ通りにやればできる、くらいです」
「なるほど、普通だな」
「そうでしょう?」
大して面白い事も無い、と自嘲気味な作り笑いを浮かべる水野さん。
それが、水野さんが俺に気負わせないようにした事だというのは、すぐに分かった。
「……ありがとうな」
「な……なんですか、急に」
「なんだろうな?水野さんは何の事だと思うんだ?」
「……風邪っぴきの癖に。とりあえず!大人しく温かくして待っていてくださいね」
「あぁ」
俺の返事を待たずに立ち上がって、キッチンの方へ。
そこで、ふと足が止まる。
「ん?大したものは無いけどある物は使って良いぞ?」
「いえ、あ、それもそうなんですけど……急な事なのでエプロン持ってなくて。制服、汚したくないので」
「それもそうか。じゃあ……っと」
俺は二階にある自室へ向かう。
階段の途中で制止するような声が聞こえたが、それは当然無視。
確かに体はちょっと重いが、そこまで極端に心配されるような事ではない。トイレに行くのとそう変わらない。
箪笥からエプロンを引っ張り出して、水野さんの居るキッチンへ戻る。
「全くもう……そんなに風邪を長引かせたいんですか?」
「そんなつもりはないけどな。場所言って探してもらうより、この方が早いだろ」
「そうですけど……」
「とりあえず、これ。使うんだよな?可愛い感じじゃなくて悪いけど」
「使います。可愛い感じとかはどうでもいいです。機能重視で」
「水野さんらしいな」
「そうですね。そんなことはどうでもいいので、とにかく先輩は大人しくしててください」
「……分かった」
心配、させてしまった。のだろう。
それだけ水野さんは責任を感じているという事。
余り茶化すのは、良くないか。
そんな考えもあって、今度こそ俺は唯々諾々と、水野さんに従う。
「気にし過ぎだよ……」
エプロンを身に着け、冷蔵庫の中身を確認し始めた水野さんに、俺はそんな感想を浮かべていた。
――――――――――。
「……ぱい」
「んん……?」
「おはようございます。ご飯、できましたよ」
不意に視界に飛び込んでくる、長い黒髪。その向こうに、柔らかな表情を浮かべた水野さんの顔。
それから状況が整理できるまで、随分時間がかかった。
俺はどうやら、水野さんに勧められるまま待っている内に眠っていたらしい。
「……あっ、水野さんごめん!」
「お気になさらず。風邪で疲れが溜まっていたんですよ、きっと。休めるうちに休んでおくのは良い事です」
「なんかそれだと、毎日気が気じゃない生活を送ってるみたいだな」
「誰かに追われてるとか、そんな感じですか?」
「そうそう、そんな感じに聴こえる」
「強ち間違いでもないでしょう?ほら、根暗な女に付き纏われてますし」
「根暗な女……?誰だ?面識あるかな」
分かりやすくからかうような調子で俺が言うと、水野さんは視線を逸らしていつもよりずっと小さな声でこう返す。
恥ずかしいのか、反撃の手立てが思いつかなくて悔しいのか、どちらかは定かでないが顔を仄かに赤く染めながら。
「……それなら、良いんですけど」
「本当にさ、根暗とは思ってないから、安心してくれ」
「……そんな事は気にしてません。それより、ご飯できたって言ってるじゃないですか」
「だな。折角作ってくれたんだし、冷めないうちに」
「分かれば良いんです」
満足そうに声を弾ませ、俺をテーブルに促す水野さん。
「凄いな」
「いえ、そんな……簡単なものだけですよ?」
そういえば、水野さんは努力を人に見られたくないタイプだったか。
余りそこをつつき過ぎると後が怖い。
「じゃあ……そうだな。ありがとう、水野さん。いただきます」
「どういたしまして。お口に合うと嬉しいんですけど。私も、いただきます」
自嘲気味だが、優しい微笑みを浮かべながら。
まだ、気にしているのだろうか。わざわざ家まで見舞いに来てくれただけでも、充分過ぎるのに。
俺はそんな雑念を頭の隅へ追いやって、水野さんの手料理を口へ運ぶ。
「あ、美味いな」
「……なんか、微妙な反応ですね。まだメシマズキャラに期待してました?」
「……両極端のどっちかだったら面白いとは思ってたけど」
「つまらない普通で悪かったですね」
「いや、安心した。普通に美味いって事は、日頃から料理するんだろ?」
「……先輩も、一人暮らしなんですから日常的に料理しますよね?食材もそこそこ揃ってましたし」
「あぁ、そうだな。……そうだ、今度は俺が料理しようか」
「……え?それってどういう意味ですか?」
「また、今度は見舞いとかじゃなくて、普通に遊びに来ないかって……あ~、嫌ならいいけど」
「じゃあ、今度また来ましょうか」
俺は目を見開く。
「割とアッサリ決めたな」
「迷って欲しかったんですか?」
「というより……男と思われてないとか?」
「あぁ、そういう事……それなら、先輩の事はちゃんと男の人だと思ってます。ただ、心配要らないかなって。先輩みたいな小心者は、私を襲おうなんて気、起こさないと思って」
「……その評価は微妙だ。微妙過ぎる」
「でしょうね。でも、事実でしょう?」
「まあ、否定はできないけど」
確かに、俺は小心者で、臆病者の自覚がある。
だが、それは仕方のない事だ。
俺は誰かと居る安心感よりも、誰かに見られている不安の方が大きいのだ。
誰に後ろめたさがある訳でもない。強いて言うなら俺は自分が嫌いなだけ。誰も信じられない自分への嫌悪感がそうするのだ。
では最初に他人を信じられなくなったのはいつか、という話なのだが。
「先輩?どうしたんですか、難しい顔をして。苦手なものでも入ってました?」
「俺の家に俺が苦手なものなんてある訳ないだろ」
「あ、それもそうですね。でも口に合わなかったという訳でも……」
「ないない。まだ体の調子が戻り切ってないのか、ちょっと不安になってな」
「……そうですか?」
「あぁ、ごめん。なんか妙な空気にしちゃったな」
「あ、気にしないでください。それで言うなら、私が余計な事を思い出させたみたいな感じもしましたし……」
「ん~……まあ、そしたらこの話はここで」
「ですね」
その後は特別何も起きず、二人で食卓を囲んでいた。
俺にとって、こんな風に誰かと食事を摂るのは久々で、中々良いものだと思い出しもした。
例によって口数そのものはお互いに多くなく静かだったが、そこはいつもの沈黙は金理論である。
そういえば、たとえ静かでも、自分以外に誰かが居てくれて落ち着くなんて感覚は、水野さん以外に感じた事が無い気がする。少なくともここ数年ではそうだ。
そして、俺はそんな未知に近い感覚が、水野さんが帰るのを見送った後に、また予想もしない変化を遂げた事に、自分の事で驚く事になった。
「俺は……」
いや、気のせいだ。気の迷いだ。
風邪で体が弱っているところを心配して来てくれたから。
そんな事で、そもそも水野さんにとってはお礼か贖罪かのつもりでしてくれた事で、こんな気持ちになるのは、水野さんにも迷惑に思われるだろう。
それは。
そうした考えから浮かんだ感情は、俺を余計に困惑させた。




