第四話
あの朝から心配していたような何事かは、これと言ってその兆しを見せることも無く一週間程が経った。
考え過ぎ、という事もある。心配性の自覚はあるのだ。珍しく気の合う人と出会って、つまり水野さんの事なのだが、その人の周囲の事に過敏になっていただけかもしれない。
けれど、そう思っても疑心暗鬼は止まない。
水野さんに何も無ければ、骨折り損、杞憂だった、で済むのだけれど。
そう簡単に事が運ぶものだろうか。
考えれば考える程、どうも俺は悪い方悪い方へと考え込んでしまう。
確かに悲観的に備えを持っておけば取り得る手段は増える。何か起きた時に余裕も生まれる。
ただ、どうしても気疲れする性分ではあるのが難点だ。
備えあれば憂いなし、とはよく言ったものだが、備えばかりが重くのしかかっては下策も甚だしい限りである。
最悪の事態を予め考慮しておくことで難を逃れたことも無いとは言わないが、実際に役立った備えなどは一割を下回っているだろう。
そういう空振りや無駄で疲労感を覚える方が余程多い。
随分と、慣れたものだ。
惰性で時間を浪費するのも、ありもしない危険の可能性に心労を溜めるのも。
いや、順序が逆だろうか。無意味に疲れるから、惰性で生きるようになった。
いつからそうだったのかさえ、今となっては定かでないのだが。
ぼんやりと、またいつものように、特に有意義性を感じない思考を巡らせて、電車に揺られる。
今日は休日だ。予定があった訳でもないのだが、余りに暇を持て余したので街の中心へ足を運ぶ事にしたのだ。惰性で過ごすには適切な、それなりに何でもある場所だ。
電車を降りて、改札を出て右。よく来る場所だから良いが、この駅とその周辺は正直迷路だ。どこになにがあって、どっちへ進めばどこに辿り着くのか、都会に特有の巨大な建造物の中で方向感覚を失っている内にさっぱり訳が分からなくなってしまう。
俺だって、慣れた道以外を通ろうと思ったら迷う。大雑把な方向感覚がある程度染み付いているからまだマシだが。
「とりあえず……」
スマートフォンの画面で時間を確認すると、丁度十一時を回ったくらいだった。
あと三時間か四時間程度を弄べれば上々、といった具合だろうか。
いつもと同じ場所を見ていればそれなりに経つと思う。
と、歩き出そうとしたその時。
「先輩」
「ん?」
不意に、後ろから服の裾を引っ張られて、同じ方向か声がかかった。
喧騒に飲まれてしまいそうなくらい静かなその声に振り返ると、いつ見ても驚く程の長髪。水野さんが居た。
初めて見る、私服姿。白いブラウスに、膝下、より正確には膕までが丁度隠れる程のセミロング丈、アンバーのスカート、そして機能性重視の黒いサコッシュ。靴は、以前本人が言っていた通り、踵の高くないもの。水野さんらしい、落ち着いた雰囲気のコーディネートだ。長過ぎるくらいに長い髪も相まって、ミステリアスだとか、クールだとか、安直な表現の中ではそういうものが当てはまるだろうか。
というか、そこまで詳しく確認するまでもなく、俺の事を先輩なんて呼ぶのは水野さんくらいだろう。他に後輩の知り合いが居る気はしない。
「奇遇ですね」
「……奇遇って言うと一気に奇遇感が無くなるのは何なんだろうな」
「……確かに」
「でもまあ、凄い偶然ではあるな。というか、よくこんな人の多いところで見つけたな」
「先輩って、私と違って結構背が高いじゃないですか。私と違って。人混みの中でも簡単に見つけられましたよ」
「相当低身長を気にしてるんだな」
「それはもう。小さいと、女として色々と損しますから。それより、ご一緒して良いですか?」
「構わないけど、別に目的があって出てきた訳じゃないんだよな……。水野さんの行きたいところがあるならそっちに行こうか?」
「私ですか?私も特別決まった目的は……」
水野さんも、そう言葉に詰まる。
「……意外だな」
「目的も無く動くなんて、ですか?こっちのセリフですよ」
「俺ってそんなに理屈っぽく見えるか?」
「それなりに」
自覚無いんですか、とでも言いたげな呆れた様子でそう告げてくる。
俺は、形容し難いプレッシャーに後頭部を掻くしかできない。
「……先輩?」
「なんだ?行く場所決まったのか?」
「一応。それで、先輩はサブカルチャー的なものには?」
「ある程度……?嗜む程度かな」
「なるほど。では、行きましょう」
言って、パッパと歩き出す水野さん。
「どこ行くんだ?」
「マロブです。この前のイベントの新刊が入ってると思うので」
「本だったら同人誌でも良いんだな」
「やっぱり、そうですよね」
「何がやっぱりなんだ?」
「ある程度というのは重度のマニアが誤魔化す常套句だということです」
「……抜かった……。そんな罠を張っていたとは……」
「これでも、長い間策を練っていたんです。ライトノベルとか読んでるのは知ってましたけど、どこまで浸かっているか分からなくて、いざそういう話をした時にドン引きされたらどうしようって。その不安が解消されて安心しました」
終わってみれば驚く程自然で、鮮やかな手並みだ。
舌戦が必要になる分野で水野さんを敵に回すのは、怖いからやめておこう。
「なるほど……結果オーライか」
「そうです。先輩が先輩で本当に良かったです。たった一人の、気の合う人ですからね」
「えらい大役だな。俺に務まるのか?」
「先輩は、知っている人みたいなので、きっと」
「知っている?」
「はい。知っている、と思います」
「そうか」
何を知っているか、それはどうも言いたくないらしい。
もしそうじゃなかったら、という一抹の不安が残っていて、しかもそのリスクがヘッジを取るくらいには大きいもの、という事。
そうなると、俺はせめてその期待を裏切らないように願っておく事くらいしかできない。もしかするとそういう風に、余り気負わせないように、という気遣いなのかもしれない。
などと考えていると、水野さんがポンと質問を投げてくる。
「先輩はマロブ、よく行くんですか?」
「そこそこ行くかな。ラノベの書店特典……付録?が、トラとかマーズより個人的に好みなんだよ」
「なるほど。同人の方はイベント参加勢とかだったりしますか?」
「いや、会場まで行くのも面倒だし、委託待ち。あとは時々知り合いに頼んだりしてるけど、それくらいだ。一限でイベント限定だったら諦める」
「そこまで希少価値の高いやつってそんなにあります?」
「無い。割と長いこと好きな人の作品で一回だけあったけど、不評だったのか委託してくれるようになった」
「そうですよね。以前より随分とユーザーの声が届きやすくなりましたし、SNS様様って感じです」
「だな」
話に一区切りついたこのタイミングで、丁度目的のマロブが入っているビルの前に到着した。
「ここ、来るの初めてだったら絶対迷いますよね」
「というか、分かりにくいよな」
「ですよね。トラの方も相当ですけど」
「あっちも確かに随分だな。しかもこっちと違ってエレベーター使わないと行けない」
「まあ二つあるだけ温情でしょう。こっちの階段は、エレベーターの動きが遅いわりに階段の角度キツくて……私にはこっちも辛いです。はぁ……」
角度の厳しめな階段を、小柄な水野さんは息を乱しながら俺の後ろに着いて上る。
休日の割に人は少なく、狭い階段の踊り場で誰かとすれ違う事も無い。だから水野さんの呼吸が乱れ過ぎないように、ペースを合わせて行ける。
「エレベーター、使えばいいんじゃないか?」
「使わなくてもいいエレベーターを使うのは、負けた気になるので絶対に嫌です」
「そうか……大変だな、色々」
「息、上がってるので、説得力はありませんけど……慣れました」
「なら、良いんだけど。……この階で合ってるよな?」
「はい、ここですよ。もう一つ上に行くと店は同じですけど銀色シールが貼ってある感じのフロアです」
「だよな」
銀色シールというのは、十八禁な作品に貼ってあるシールの事。
同人誌にまで貼ってあるかどうかは知らないが、美少女ゲームの箱の背表紙部分には付いている。銀色に青文字で十八と記されているアレだ。
「先輩はどうするんですか?」
「何?」
「目的が無いと言っていたので」
「あぁ、そうだな……折角だし、水野さんの探すのを手伝おうかな」
「そうですか?確かに助かりますけど……」
「俺の事なら、もう目当ての物は手に入れてるから、気にしなくていい」
「……それなら、お言葉に甘えさせてもらいますね。えっと……これと、これ、お願いできますか?」
「任された」
――――――――――。
なんて話をして、それぞれ探し始めてからおよそ三十分。
水野さんと分担して目的の新刊を見つけ、今は店を後にしている。
比較的時間がかからない内に見つかったのは運が良かったのだろう。
同人誌というのは多くの場合背表紙と呼べるような部分が無い。正確には、殆ど面でなく三角形の頂点のようになっているのだ。これは主に十八禁の同人漫画に用いられる言葉だが、薄い本、と言われるだけはある。
それでズバリ何が言いたいかというと、普通に本棚に並べる感覚で配置されるとどれがどの本なのか分からない、という問題が起きる。ぶっちゃけると探しにくい。
最新刊の間は多くの場合書店の方で、表紙面が目に付くように陳列してくれているが、少し日が経つとそういう見つけにくい状態になってしまうのだ。同人誌が多くの場合に使うサイズだと面向きで置いておくのに少々場所を使い過ぎる、という問題もあるのだろうが。
それは文庫本と根本的に異なり、イラスト、つまり絵を見せることを主目的としている関係で、致し方の無い事でもある。
先を歩く水野さんに着いていくようにしながら、そんな事を考えていると。
「最近は、ビニール袋でも中身が見えない安心感ありますよね」
と、水野さん。
「分かる。前がどんなのだったか覚えてないけど、黒いのに変わった時に、これ作ったやつ天才だなって思ったのは覚えてる」
「黒じゃなくても、中が透けて見えなければそれでいいですけど、確かに黒い方が安心感はありますね」
「ところで、今どこ行こうとしてるんだ?」
「もうすぐ着きますけど、喫茶店です」
「この辺りにもあるのは分かるけど、入った事は無いな。どんなところなんだ?」
「そうですね……コーヒーより紅茶の方が美味しいです。静かで薄暗くて、ムーディーな感じですね。店の方とは注文とか以外で話したこと無いので、他の事は知りませんけど」
「なるほど」
そう説明をされてからほんの間もなく入ったその店は、確かに水野さんの言葉通り照明が控え目で、静かだった。窓はあって、カーテンもかかっている訳ではないが見事に高層建築の影に隠れてしまって、陽は射さない。
張り詰めた空気というのとは違うが、騒がしいくらいが丁度良い人には少し居心地が悪いかもしれない、一種の物寂しさのようなものがある。
「先輩は、苦手じゃないですよね」
「ここの空気感のことなら、イエス」
「だと思いました」
「俺は水野さんに何を知られているんだ?」
窓のすぐ脇のテーブル席に向かい合うように腰を降ろしながら訊ねると、水野さんはほんの気持ち眉を顰めて返す。
「……先輩とは気が合うんですよ」
「あぁ……つまり、水野さんも」
「基本ボッチ気質ですからね」
「遠巻きに俺もボッチ扱いされてるな?」
「間違ってはいないと思いますけど」
「……まあ、否定はできないんだけどさ」
俺が人付き合いのメリットより、人対人の間に生じるギクシャクや紆余曲折に巻き込まれる面倒をデメリットに感じ過ぎる節があるのは自覚している。
だからといって人を避けている訳でもないが、少なくとも烏合の衆の仲間に入るつもりは無いし、その集団の一部にだけやたら深入りするのも色々と物議を醸しそうで恐ろしい。
そんな古びたつり橋渡りをするくらいなら、水野さんのように一人で静かに過ごす事が苦にならないタイプ、気の合う人と、折に触れて一人の寂しさを分かち合えるように時間を共にする方が気楽で快適だ。
合わない人と無理に関係を持つ程気疲れする事も無い。
ただ、ずっと独りで居るのは寂しいものだ。
例えば自分以外に自分と同じ形の生物を見たことが無ければ話は変わってくるのだろうが、今の日本にあってそんな環境に置かれている者は居ないだろう。識字率よりも必ず高い割合の人間が、自分以外の人間という存在を知っているのだから。
「先輩、また何か妙な考え事をしてますね」
「よく分かったな……」
「どんな事を考えてたんですか?」
「ん?そうだな……言葉を知ってる人は孤独の意味を理解できるんだな~って」
「……どういう思考回路してるんですか」
「意味が分からない、じゃないんだな」
「意味は分かりますよ。言語を獲得するのは他者とコミュニケーションを取る必要に迫られた場合だ、と言いたいんでしょう?そうじゃなくて……さっきの話からなんでそんなに飛躍してるんですか」
「……まあ、色々な」
「釈然としません……」
俺の回答にそう言いながら、不服そうに口を尖らせる。
ただ、だからといってそれ以上追及してくる事も無い。
「なるほど……」
つい、そんな言葉を口にしてしまう。
「どうかしました?」
「ん?いや、紅茶がオススメって言ってたからどうしようかと思ってたんだけど、一通り見たら決まった」
「あぁ、そういう事ですか。なら……」
水野さんがテーブルの端に手を伸ばして呼び鈴を鳴らすと、少々お待ちください、という声かけから程なくウェイターがやって来る。
「お決まりですか?」
「はい。アールグレイを」
「私はダージリンをお願いします」
「アールグレイとダージリンですね。かしこまりました」
丁寧に、且つ素早く注文を取ってカウンターの向こうへ退く。
「アールグレイ、好きなんですか?」
「好きな方だけど、選んだ理由を聞かれてるなら単純に気分」
「そうですか。……本、読んでも良いですか?」
「あぁ、良いよ」
特に話を掘り下げる気は無かったのか、鞄からカバーのかかった文庫本を取り出して、読み進めていたらしい途中のページを開く。
挟んであった栞を、裏表紙と最終頁の間に挟み直して、視線を落とす。
相変わらずの長い前髪が眼鏡にかかって鬱陶しそうだが、しかし水野さん自身はそれを気にすることも無く、かなりのペースで読み進めていく。
見開き端から端まで読んで、ページを捲るまでが大体二十秒くらい。
どんな内容なのかはカバーがかかっている以上分からないが、ライトノベルのような読みやすい作品にしたって早い。
その速度でちゃんと読めているのだろうか。俺もそこそこ早い方だと自負していたが、その速度だとちょっと自信が無い。
「先輩は……私が本を読むのを眺めているだけで、不思議と、どこか楽しそうです。何故でしょう」
視線は本からちっとも外さずに、俺に疑問を投げかけてくる。
そもそもが落ち着いた控え目な声だが、いつもより更に小さなボリュームでそう言う水野さんは、読書にそこそこ集中しているようだ。
ここが外ではなく家だったら、或いは一人であれば、もっと本の世界にのめり込んでいるのだと思う。
「なんでだろうな」
「自分でも、分からないんですね」
「面目ない」
「いえ……不快でないなら、いいんです。明確な理由があると、もっと安心できたかも、しれませんけど……」
なるほど。
いきなり本なんか読み始めたけど、俺がそれに嫌悪感を持っていないか、という話だったらしい。
「そんな事気にする奴なら、水野さんと一緒に居ないだろ」
「……そういう事なら、良いですけど。先輩は、やっぱり変な人ですね」
「嫌か?」
「私としては、好ましい限りです」
「なら良かった」
静かな会話。店内も静かなものだが、多分他の客には聞こえていないくらい静かな声でのやり取りだった。
それから注文した紅茶が出て来るまでの水野さんは、声の出し方を忘れてしまったみたいに、すっかり読書に集中していた。




