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第三話

 頭上から、電子音が降ってくる。


 他に何も音が無ければ決して小さくはないその音が、俺の意識を急激に覚醒させる。


「ん~……?」


 スマートフォンの音だった。電話の着信ではない何かの通知音。しかも一度ではなく、三回、立て続けに。


 通知が表示されたままになっているそれを手に取る。


「う……眩し……」


 まだ光に慣れていない視界が、普段はなんてことの無いディスプレイの明度をやけに鋭く捉えた。


 辛うじて見えた時刻表示は五時二十二分。普段ならあと一時間くらいは寝ている。


 反射的に明度を下げて、ロック解除。通知は全て同じアプリに出ていた。


「あぁ……水野さんか……」


 そもそもよく考えれば、このアプリで連絡しているのは水野さんだけなのだが。


「えっと……?」


 三件の通知、それぞれの内容はこうだ。


『朝早くからすいません』


『今日の朝、駅から学校までご一緒しても良いですか?』


『構わなければ、いつも駅に着く時間を教えてもらえると嬉しいです』


「なるほど」


 水野さんらしい。


 主に、早い時間に連絡しておいて、いつでも動けるように準備しているらしいところが。


 何にせよ、起きてしまったのは仕方ない。早めに返信しておこう。


『いつもは七時五十五分。電車が駅に着くのが七時五十五分だ。もうちょっと余裕を持って行きたいならある程度合わせる。その時はまたメッセージ飛ばしてくれればいいから』


「っと……。こんなもんでいいか」


 送信。


「もう既読……早いな」


 殆ど張り付きっぱなしだったのではなかろうか。


 なんて考えているうちに返信が来る。入力も早い。キーボードでも繋いでいるのではなかろうか。


『分かりました。その時間を目安に待ってますね』


『オーケー。じゃあまた後で』


『はい』


 そうして短いやり取りが終わる。


「それにしても……」


 水野さん、待つなんて言っているが、律儀な彼女の事だから多分、十分前行動どころか三十分くらいは早く着いている気がする。


 いつもより二本くらい早い電車に乗るようにしておこう。


 もし水野さんが言った通りの時間に来て、俺が待つことになっても、それは俺の計算違いという事で。


「……そういえば二本早い電車って何分だ?」


 こういう日常生活上の小さな調べ物をする時、スマートフォンという道具は非常に親和性が高い。


 携行性特化型パソコンとでも言うべき小型軽量と、そのくせ必要充分のスペックを備えている。電池の消耗には勝てないが、気になるようなものでもない。


 強いて言うなら最大の弱点は耐衝撃性能の低さだろうか。精密機械なのだから当たり前と言えば当たり前で、それを意識しその上で細心の注意を払って使っているなら問題は無い。ただ、落としたら画面が割れた、という話はよく聞くところでもある。


「いつもより……三十分弱か」


 正確には二十八分早い。


 マージンを取って、あと覚えやすく、三十分早く出発すれば良いだろう。


「さて……」


 時間を潰す為に普段より念入りに身支度を整えて、それでも余計にかかった時間は早く起きてしまった分には程遠い。


 朝食でも摂るか。


 いつ以来だろうか。


 そんな風に、不健康な生活に体が慣れきっていた事に気付かされた早朝。カーテンから漏れている陽光の加減が、妙に新鮮だった。


「明日から、早く起きるか……」


 水野さんには感謝である。




――――――――――。




「おはよう」


「おはようございます」


 水野さんは俺の予想通り、とまではいかないものの、伝えていた時刻より二十分程早く駅に姿を見せた。


「なんで私より早く待ってるんですか」


「いや、待つなら俺が待てば良いかなって。というか、女性をお待たせするなんて恐ろしい事、女慣れしてない俺には無理」


「恐ろしいってなんですか、もう……。先輩って……」


「ん?」


 その時、何か言いかけた水野さんの、いつも通りに分かり難い表情が、少し険しく、鋭くなったように見えた。


 続く言葉も、言いかけたまま引っ込んでしまう。


「……いえ。やっぱりなんでもありません」


「そうか」


 気にならないと言えば嘘になるが、言いたくない事まで無理に聞くことも無いだろう。会ってから余り経っていないというのもあって、付き合い方が手探りのような距離感なのだ。


 人付き合いの広くない水野さんの事だ。余計な深入りをされるのが嫌なタイプという可能性も十分考えられる。ソースは俺、というやつである。


「このまま立ち話ってのもなんだし、とりあえず行こうか」


「そうですね」


 言って、並んで歩き始める。この時間帯だと駅から学校までの間は人通りが多くない上、一方向的で、道幅もそこそこあるので、並んでも邪魔になる事はまず無い。


「……この前も思ったけど」


「はい?」


「水野さんって、結構歩くの速いよね」


「踵のある靴ではないので」


「あぁ、そうか。ヒールだと歩きにくいから」


「そういうことです。単純に歩幅もあるんでしょうけど、より気を遣うならそっちですかね」


「なるほど。参考になった」


 踵が高くなると前傾にバランスが悪いとか、接地面積が小さくて横に傾くとか、そういう弊害があるのだろう。歩きにくいのも当然か。


 などと一人で納得していると、水野さんが冷ややかな視線で俺を見ている事に気付いた。


「……参考にしたいお相手が?」


「いや別に……あぁ、一人だけ?」


「居るんですね」


「居る。目の前に」


「……私ですか?私、踵のある靴は殆ど履きませんよ?」


「そうなのか」


「だって、私が履いても意味無いですから」


「……意味?」


 ハイヒールを履く意味とは。


 というかそもそも、あんな無理な姿勢を作って足に負担をかけそうな靴は何を目的に存在するのだろうか。


「あぁ……先輩はやっぱり男性ですね。あれがただのオシャレアイテムか何かだと思っているならそれは間違いですよ」


「と言うと?」


「身長が高く、脚が長く見えるんです。短絡的な言い方をすれば大人の女性に」


「……オシャレと何が違うんだ?」


「違います。身嗜みです」


「……分からん」


「まあ、いいですけど。女性には女性の都合があるんですって事だけ覚えておいてくださいね」


「あぁ……」


 得心行かぬ、とは正にこれだ。


 いや決して踵を上げる意味が分からないというのではなく、それがオシャレとどう違うのかというところが分からないのであって、確かに水野さんにはヒールを履く意味が無いと言った理由は分かった。


 要は、多少身長が高く見えても元が低身長だとそのメリットが小さい、ということだ。口調が随分悔しそうだったところを見るに、相変わらず気にしている様なので絶対に口には出さないが。


「先輩、本当にそういうこと無頓着というか、何も気にしてなさそうですよね。私が髪伸ばしっぱなしなのも特に気にしてない感じですし」


「なんか重そうだなとは思ってたけど」


「そうでしょう?別にだらしないとか思ってないですよね」


「……だらしないのか?」


「普通は」


「でも、動きを見てれば分かるぞ」


「何がです?」


「かなり丁寧にケアしてるんだなって。逆に、長いのによくそんなキューティクルを保てるな、と」


「なんで、そんな……余計なとこばっかり見てるんですか……!もう……」


 静かな抗議の言葉と共に、何かに弾かれたみたいに視線を外してしまう水野さん。


 俯いて、後ろ髪が前に。テレビから出てくるアレみたいな感じだ。


「ごめん。気に障ったなら謝る」


「……いえ、怒ってはいませんけど……恥ずかしいので、もう二度と言わないでください」


「分かった分かった」


「……本当ですか?」


「本当本当。分かってる。水野さんが隠れ努力家の秀才タイプってことが」


「全然分かってないじゃないですかぁ!」


 珍しく大声を上げる水野さんは、しかしどこか楽しそうに笑顔を浮かべていて、そんな風に平和な、悪く言えば頭の悪いやり取りを交わしているといつの間にか学校に着いていた。


 当然教室が違う訳だから、別れてそれぞれの教室へ。


 俺が教室の扉を開けると、既に四人居て、全員が女子、そして全員固まって話している。いや、話していた。


 その内の一人が俺の方に来て、声をかけてくる。


「おや?澤木翔。早いね」


「……なんでフルネームで呼ぶんだ、星川楪」


 仕返しのつもりでフルネームを呼び返してやるが、しかし彼女は欠片も意に介した様子も見せずにこう言った。


「そんな事よりさぁ、あんな子のどこが良いの?」


「……何のことだ?」


「ここから昇降口って丸見えなんだよね~、って言えば、意味、分かるよね?」


 なるほど。言いたい事はよく分かった。


 そもそも、どこが良いのか、という質問だけでも理解はしていたが。


 しかし。


「そう言われてもな。さっぱり分からん」


 あくまでシラを切る事にした。


「あっそ。物分かりは良い方だと思ってたけど、案外そうでもないんだね」


「みたいだな」


「……つまんな」


「悪かったな面白みの無い生き物で」


 皮肉交じりにそう返すと、やめたやめた、と踵を返して再び四人グループに戻る。


 さっき星川の言っていた、あんな子、というのは十中八九水野さんの事だろう。あれが個人の感情か、それともあのグループの総意か、そこまでは測りかねるところだが、少なくとも突っかかってきた張本人である星川は水野さんか、珍しく女子生徒と登校してきた俺か、或いはその両方を気に入らないという事だろう。


 一騒動去ったので大人しく自分の席に着くと、星川が俺に何やらグチグチ言っていた事を他の三人は不思議そうに訊いていて、それを見る限りだと、あれは星川個人の感情。発言力の分散している四人組の事だから、あの様子で総意という事もあるまい。話し声の大きさも、様子も、普段と何も変わらない。


 そこまで全てが演技とは考えづらい。


 それにしても、女子の情報網というのは中々驚異的なものだ。俺なんて図書委員の人間くらいしか学年違いの人を知らないのだ。星川がどの委員会に所属しているかは記憶に無いが、いつどこで水野さんの事を知ったのだろうか。不思議と言えば不思議だ。


 あんな子。星川の放ったその言葉が、どれだけの意味を持っているか。俺は当然、星川に好く思われてなどいないだろうし、そっちに掛かってそういう言い方になったという事も考えられない事はないが。


「いや……」


 そう考えるとおかしい。もし気に入らない人間同士がくっつくなら、自分とは接点が薄くなるのだ。わざわざ突っかかってくる理由が無い。


 合理性の観点から詰めるなら、星川は俺と水野さんのどちらかに対して好意的で、残ったもう一人には嫌悪感を抱いている、という事になるか。


 俺が星川に好かれる理由は無いし、もしそうなら水野さんを俺みたいな奴から守ろうとしていた可能性はある。


 ただそうすると、水野さんをあんな子呼ばわりした事に関して説明がつかないのだが。無理にでも俺を引き離したかったから水野さんへの興味を失わせるためにそう言った、と考えるには、それを言った時の敵意が明後日の方向に飛んでいた事が解せない。


「……謎だ」


 人の増え始めた喧騒の中、誰にも聞こえない程に小さく一言呟いて、俺はそれ以上この件について考えるのを諦めた。


 諦めきれたのか、と問われれば諦めきれはしないのだが。


 仕方のないことではあるが、諦めは気休め程度にもならなかったのだから。




――――――――――。




「水野さん」


「はい?」


 放課後、いつも通り図書室に来ている。先んじていた水野さんに変わった様子は無かった。


 心配していた様な事は無かったらしい。


「いつも通り」


「意味が分かりません」


「いや、前髪が眼鏡にかかって邪魔そうだなぁ、と」


「余計なお世話です」


 視線は手元の小説に向かっているのに、ジト目で睨まれたような気がした。


「だよな。変な事言ってごめん」


「……先輩、何かあったんですか?」


「駅から学校まで水野さんと一緒に歩いたくらいかな」


「そうですか。それでいつにも増して変なんですか」


「いつも変みたいな言い方だな、それ」


「実際そうでしょう?」


「……否定はしない」


「ふふっ」


 水野さんは本に視線を落としたまま、小さく笑う。


 表情は長い髪に隠れていたから見えなかったが、楽しそうな笑い方だった。


 見えなくても、魅入ってしまう。


「……またですか」


「ごめん。嫌なら、やめる」


「……嫌という訳では」


「水野さんも、相当変だと思う」


「先輩程じゃありませんよ」


 今度は少し呆れたように、それでも本からは視線を外さずに微笑む。


 おかしな話だが、水野さんの笑顔はそこまで顔には出ない。ならその表情はどこに出るかと言うと、水野さんの纏う雰囲気だ。


 空気感が、彼女を多様に表現してくれる。それは笑顔に限った話ではない。


 文学少女は、地の文で感情を表現するのだろうか。


 なんて突飛な事も考えてしまうくらいに、それは極彩色の可能性を秘めていて。


「先輩は、何か読まないんですか?」


「気が散る?」


「正直に言うとそうです」


「なら、俺も何か読むか……」


 幸い、図書室には漫画以外なら娯楽色の強い本も多い。ライトノベルを含む文学作品全般だが、生徒の希望が多いからなのか、ライトノベルがかなり充実している。


 俺は文庫本の並ぶラックから、まだ読んでいない中で気になったタイトルの一巻を持って水野さんの元に戻ると、それ以上視線を交わす事無く読書に向かう。


 ただ、視線はともかく、会話くらいは交わす事も多少なりある。


「先輩は、本を読んで泣いたことありますか?」


「無い。水野さんは?」


「ありません」


「……自分より幸福な人格に感情移入するのは難しい、らしいよ」


「……なるほど。不幸自慢みたいで我ながらイラっときますけど、納得しました。先輩もですか?」


「……いや、俺は多分理解力が無いだけだと思う」


「もし先輩の理解力が弱いんだったら、大体の人は人のレベルに達してませんよ」


「酷いなそれ」


 決して周囲の人間に対して俗だと思ったことが無い訳ではないが、能ある鷹は爪を隠すとも言う。


 平凡か平均未満に見えてその実、優秀さをひた隠しにして生きている狡猾な策士かもしれない。


 実際そういう人間が二十五人に一人くらいは居ると思っている。ただ勉学に秀でた人間などより遥かに頭の切れる、深い知性と鋭い洞察力の持ち主が。本人がそれを自覚しているかどうかは別として、だが。


 現実に、そういう人を数人、本当に片手で足りるくらいではあるが知っている。


「そうですね。なので、先輩の理解力が足りないという事は無いでしょう」


「今朝、クラスの奴に物分かりが悪いって言われたけどな」


「それはその人が先輩を理解していないだけでは?」


「まあ、理解される程の接点も無いしな」


「……先輩、本当に人と話さないんですね。自分の事言ってるみたいで嫌ですけど、クラスメイトとくらい普通に話すものだと思ってました」


「あぁ~……いや、そんなに話さないという訳でもないかな~」


「わざとらし過ぎます。誤魔化す気さえ無いんですか」


「まあ、今は水野さんと居るのが楽しいからな。会話に飢えてない、みたいな」


「私、そんなに話す方じゃないですよ」


「結構饒舌だと思うけどな」


「先輩も、普段人と話さないとか言う割に雄弁じゃないですか」


「銀だから」


「沈黙は金ですよ」


「知ってる。それ考えた奴はきっと天才だ」


「同感です」


 それから完全下校時間間際を知らせるチャイムが鳴るまで、俺と水野さんの過ごす時間は金だった。


 ページを捲る紙の擦れる音だけが、およそ一定のリズムを時計の針と共に刻んでいた。


 その沈黙は間違いなく何にも代え難い金で、賑やかしいのを好む人間には堪えられないだろう時間で、懐かしさにも似た温かい静寂感が心地好くそれを包んでいる。


 五時の十分前を告げる鐘の音の、八度目の余韻が切れたところで、水野さんがパタリと本を閉じ、代わりに口を開く。


「もう、帰らないとですね」


「だな」


「その、良ければ……」


「どっちにしても駅までは一緒だぞ?」


「いえ、そうではなくて、その……」


 帰り支度を手早く進めながら、手元の動きには似ても似つかない緩慢にたっぷりと溜めを置いた水野さんが何かを言おうとして。


「……やっぱり、なんでもありません。ごめんなさい」


「謝る事じゃない。けど、今じゃなくて良いのか?」


「はい。それは別に、明日でも、明後日でも」


「なら良いか。気が向いたら言って」


「はい」


 それでは、そう遠くない内に。なんて。


 目元の視認性が芳しくない表情で微笑む。


 なんて単純な魔法だろう。見えないから、見えにくいから、見ようとしてしまう。


「先輩。急がないと、門が閉まってしまいますよ」


「そうだな。まあ、乗り越えればいいけど」


「私、スカートなんですけど」


「見ないから」


「そういう問題じゃありません。急いでください」


「分かった分かった」


 小走りに校門まで急ぐ水野さんは、やはり長い髪がどこか運動の妨げになっていて、何度目とも知れない感想が浮かんできてしまった。

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