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第二十六話

 俺は、悩んでいた。悔やんでいた。


 もっと、他にやり方があったんじゃないのか。タイミングが悪かったとはいえ、徒に傷付けただけではないのか。


 一旦は上手く誤魔化して、問題を解決してからでも良かったんじゃないのか。


 そもそも風香の問題というのは、一体何だったのだろうか。


 母親とは本当に上手くやっている様だったし、問題という問題は無かった様に思える。


 家族関係でなければ、星川姉妹のことだろうか。


 いや、それにしては不自然な事が多過ぎる。それは違うだろう。


 だとしたら、一体何なのだろうか。それは結局のところ最後まで分からなかった。


 もしもそれに気付いていたら、俺の選択は変わっただろうか。


 もしもそれに気付いていたら、俺の未来は変わっただろうか。


 きっと、変わらなかっただろう。


 俺には最初からあの光景が見えていた。


 心の穴を埋めて、俺は信用を失って去る。


 一人でやり切って、独りで生きていく。


 そう決めていた。


 だと言うのに、やり切る事もできずに、中途半端なところで終わってしまった。


 だから、この悔いは、そういう悔いだ。


 何も、独りで居ることが辛いなんて事は無い。


 自分に言い聞かせる。


 風香と出会うまではそう思っていたし、実際そうしてこられたのに。


 何故か心が渇いた。


 慣れ親しんだ筈の孤独は、暫く見ない内に触れられない程熱くなっていた。


 後悔しても、俺に出来ることなど一つも残っていなかった。


 一度そう思ってしまったら、もう何にも気力が湧かなかった。


 ただ、俺は惰性で日々を過ごした。


 ルーチンワーク的に掃除や洗濯はこなしていたが自炊する気にはなれず、コンビニと家を行き来するだけの毎日。


 学校から出た課題を夏季休暇に入る前に全て片付けていたから、新学期までこうしていても問題が無いというのも拍車をかけた。


 気分転換に本を読んでも、ゲームをしても、全く気は紛れない。忘れることもできない。それどころか、自分は何をしているんだ、という罪悪感に苛まれた。


「期待し過ぎ、か……」


 ふと思い出したそれは、いつかのマスターからの言葉だった。


 一瞬、何かを掴みかけたような気がして、けれどすぐに頭が追い付かなくなった。


 理由も分からず腹が立った。


 何もできなかった自分に。何もできない自分に。何もしようとしない自分に。


 だが、できない事にまで手を出すのは性に合わない。それは、無為に傷を増やす、痛みを増すばかりだと知っている。


 それも、自分より相手に、だ。余計にタチが悪い。


 過不足のない、無理のない助力が優しさというものだ。


「……馬鹿らしい」


 俺は優しくあろうとした。それを隠そうとした。


 あの時、俺を助けてくれた姉さんのように。


 感謝されたくてやったのではない。感謝が欲しいなら、もっと不特定多数に関われば良い。


 俺はただ、風香の力になりたかった。


 自分のようになってほしくなかった。


 それを当然のようにしてくれたのが姉さんだった。


 だから俺は、誰から優しいと思われることも望んでいなかった。


 そして、失敗した。


 力不足だった。


 俺は、どこか驕っていたのだろう。


 自分は周りの多くの人間より物が見えていると。頭が回ると。鋭いと。


 万能感とまでは言わないが、近い物を感じていたのは事実だった。


 人の考えが読める、表情が読める。分からない事があるのは腹が立つ。


 それは、間違いなく驕りだった。


 もしかすると、少しばかり人よりそういう点において秀でていたのかもしれない。


 けれど、それが何だったというのか。


 結局はその優秀さへの驕りが、己が人生でたった一人と心に決めた大切な人を傷付けたのだ。


 それでは何の意味も無い。


 運命なんてものを信じるタイプではないが、俺はきっとそういう星の下に生まれたのだろう。


 そして、立ち止まった。


 周りはどこも真っ暗だ。なのにこちらを見つめているような気がする。


 一歩先に地面があるのかも分からない。自分が今どこに居るのかも定かではない。


 闇の中で、俺を嘲笑う声が響く。


 誰か。


 心が叫んだ。


 俺はどうやら、独りで居る方法を忘れてしまったらしい。


 俺はよくやく、孤独の意味を理解したらしい。


 こんなにも遠いのか。


 こんなにも狭いのか。


 ひどく不安になる静寂ばかりがそこにあって、時折感じる人の気配すらよそよそしい。


 自分が言った、風香が言った、孤独の理解の話を思い出す。


 あの時の事は、よく覚えている。誰かと居ることに居心地の好さを覚えるのが新鮮だった。


 なのに、その思い出すらも、どこか色褪せてしまって。


「どうしたら、良かったんだよ……」


 俺は、誰にともなく、祈りの様にそう呟いた。


 勿論、宗教者でもない俺に答えを告げる何者かなど居なかった。



――――――――――。



 夏休みが始まって一週間ほど経った頃。強い台風が直撃した。


 視界さえ奪われるような強い雨と、大きな風が吹きすさぶ。どこかで雷が落ちる。


 もう昼前だというのに、窓の外に見える景色は随分と暗い。銀杏並木が愉快な踊りを踊っている。


 台風というのは得てしてそういうものだが、家も窓までもがこうもガタガタと悲鳴を上げると、流石に若干の不安が襲ってくるものだ。


 無いとは思うが、急に屋根か窓か何かが吹き飛んだりしないだろうか、と落ち着かなくなる。


 スマートフォンから、メッセージアプリの通話着信を知らせる通知音が響いたのは、そんな九分九厘まで杞憂に終わるだろう心配事をしている時だった。


 立華さんからだ。


 受けなくてもいいのだろうが、俺は寝ぼけたフリをしてそれを受けた。


「おはよう……」


『こんにちは。澤木先輩って長期休暇に入ると生活リズムが崩れるタイプなんですね』


「……立華さんか」


『そうですよ。風香ちゃんじゃなくてごめんなさい』


「……謝る事じゃないだろ。それより、声震えてるけど大丈夫か?」


『雷、苦手なんです。それで、澤木先輩の声が聴きたくて……。風香ちゃんと仲違いしてる今なら、ちょっとくらいなら良いかなって思って』


「あぁ……」


 なるほど。


 中々に小悪魔的な誘いだった。


 乗る気は無いが、発想としては悪くない。


『澤木先輩……私、まだ諦めてないんですよ?』


「意外だな。あの話をしたら、流石に嫌われるかと思ったんだけど」


『……これは、私が仮にも同じ女だから言うんですけど、多分風香ちゃんも澤木先輩のこと嫌ってないと思いますよ?』


「……何故だ」


『なんで不服そうなんですか……。それで、理由はですね。女の子にとって、言葉って凄く大事なんです。男の人より、その意味を大事にしてるんです。……あ、平均的とか一般的には、ですよ?澤木先輩は、凄く言葉を大切にしてると思います』


「……それは知ってるが」


 姉さんに叩き込まれ、俺が自分なりに磨いた知識だ。


 女という生き物は男より言葉を大切にしている。だから、言葉に込められた、隠された意味を正しく読めれば、考えていることが分かる、と。


『帰ってよく考えたら、風香ちゃん、最後の最後まで先輩に嫌いとは言わなかったんです』


「いや……私の前から消えてください、って言われたんだが……」


『いつまで、とは言ってなかったですよ。あと、多分ですけど買い被りすぎです。あの時の風香ちゃん、あんまり考えずに発言してましたから。澤木先輩、どこか風香ちゃんに冷静さを期待してたんじゃないですか?』


「……そう、だな。立華さんの言う通りだ」


 確かに、俺は風香が強い感情の波にさらわれても、一度立ち返って考えてから発言するだろうと勝手に思っていた。


 それは、今までの風香を見てきたからこそかけた期待だ。つまり、信頼である。


 それがもし立華さんの言う様に、直情的に出た言葉だったとしたら、俺はとんでもない勘違いをしていた事になる。


 同時に、それでも嫌いとは言わなかったというのは、無意識的にでも言ってはいけないと思ったのだろう。


 更に言えば、もう一つ俺が思い違いをした理由があるのだが。


 自覚はあるのだが、俺は言葉の裏を読もうとし過ぎる節がある。それは、発言のトリガーとなった何かを探る、という意味だ。どんな心境から、どんな思考を辿って出た言葉なのかを考え過ぎるのだ。


 つまり、その癖のせいで俺は、裏の無い直情的な言葉にも裏を生み出してしまった。


 当然、それでは正しい答えに辿り着けない。


 そして、考え直す。


 最も直情的な発言を生み出しやすい感情とは何か。


「……そうか。怒らせた、のか」


『だと、思います』


 怒りのように攻撃的な性格の感情は、特に直情的な発言を生み出しやすい。


 それが強ければ強いほど、思考とは無関係な言葉が出やすくなる。


 あの時、風香は『私は先輩の言葉を、気持ちを信じてみようって思えたのに、先輩はそうじゃなかったなんて酷過ぎます』と言っていた。


 簡単な事だったのだ。


 風香は自分を嫌っていた。それは、誰かを信じられない自分に対する憤りだと思っていた。似ている、と思ったから。


 そして俺は風香に信じることを教えてしまった。それが、風香の心の傷を癒すことになると、そう思っていた。


 それがそもそもの勘違いだったのだ。風香は誰かを信じたかった訳ではなかった。信じたい相手は決まっていて、その人と信じあえるようになりたかった。


 時間はかかっても、自分の信じたい人は最後まで諦めずに居てくれると信じて。


 だというのに、それは実は最初から諦められていた事だった。


 風香は、そんな事実を知らされて、冷静ではいられなかった。


 自分の信じたかった人に裏切られたのだから、当然だ。


 俺は奇しくも、俺に他人への不信感を植え付けた出来事と同じことを風香にしてしまった。


 いや。その意味を理解できる様になってから、そして何より、あれほど頼っていいと言った上で裏切ったのだから、もっと酷い。最悪だ。


 そんなつもりは無かったとはいえ、風香にとってそれは関係の無い事だ。


 もっと、よく考えておくべきだった。


 もう、取り返しはつかないのだろうか。


 つかないだろう。


 これだけの事をしてしまったら。傷付けてしまったら。


 そんな事を考えていると、電話越しの立華さんの声が響いた。


『……澤木先輩。私と、付き合いませんか?』


 答えは、決まっていた。

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