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第二十四話

 秒針を数えるようにゆっくりと流れる時間。


 俺はこの静けさが嫌いではないのだが、不思議と寂しさを感じた。


 いや、不思議でもないか。理由は明白だ。この時間の中に、風香が居ないから。


 一番不思議なのは、自分がこれ程までに誰かに焦がれている事だ。


 風香に伝えた言葉は数知れない。けれど、まさかこんな言葉が本心から出せるとは、と思うような言葉が幾つも思い当たる。


 もう二度と誰かを信じたいなどと思わないつもりだったのに。信じて欲しいなんておこがましい願いは置いてきたつもりだったのに。


 自分でも意外なくらい、俺は風香のことが好きだ。風香に俺の気持ちを信じて欲しいし、風香のことを信じたいと思ってしまう。


 だが、それが出来ないことも、自分が一番よく分かっている。特に、後者は。


 俺は、自分以外の人間を信じられないのだ。


 始まりは、なんて事も無い、子供じみたイタズラだった。



――――――――――。



 小学四年生の時の出来事だ。


 オレンジ色の秋空。放課後の象徴の夕暮れ。落ち葉の山。体温を奪っていく強い風。校舎裏。隣のクラスの女の子。


 申し訳無さそうな顔で、声色で、その女の子が言う。


「好きです。付き合ってください」


 今の俺なら、決して見落とさないだろう。


 その表情の裏に隠された意図を。その声の意味するところを。


 だが、当然ながら当時の俺はそれが理解できなかった。


 そもそも、疑ってすらいなかったのだ。


 辛うじて上げられる接点が去年は同じクラスだった程度の、会話を交わした記憶も印象も希薄な相手が、自分に想いを寄せているなどという馬鹿げた話を。


 小さな俺が頷いて答える。


「いいよ」


 俺はその意味すら理解していなかったのに。


 子供なんてそんなものだと言えばそうかもしれないが、紛れもない自分の事だ。


 今にして思えば、愚かにも程があった。


 愚かさで言えば、今もそう大差無いが。


 その日は、家の方向が別という事もあって、学校の敷地を出た辺りで簡単な挨拶を交わして別れた。


 そして、俺が事の真相を知ったのは次の日の朝だった。


 下駄箱に、差出人不明の手紙が入っていた。いや、不明というのは正確ではないか。


 ただ、名前が記されていなかっただけだ。


『ごめんね。昨日の告白、ウソなの。ばつゲームでむりやりやらされただけなの。だから、ごめんなさい。昨日のあれはなかったことにしてください』


「……なんだ、それ」


 思わず声が出ていた。


 やけに可愛らしいメモ帳に綴られていた言葉の羅列をグシャグシャに丸めてポケットに突っ込むと、俺は早歩きで教室へ。そのままメモ帳は躊躇なくゴミ箱に捨てた。


 教室中の人間が俺を見ているような気がした。こっちを向いていない奴は頭の後ろ側にも目が付いているんじゃないかと思った。壁や窓ガラスさえ、俺を見ているような気がした。


 俺を見ている奴等が笑っているような気がした。そこらかしこから馬鹿にするような笑い声が聞こえてくるみたいだった。嘲笑なんて言葉は当時の俺のボキャブラリには無かった。


 そして担任の先生が教室に入ってくるのと同時に、俺は何か強い衝動に駆られて叫んだ。


「見るな!見んじゃねぇよ!」


 俺は教室を飛び出して、階段を駆け上がった。先生と一緒じゃなきゃ入っちゃいけないよ、と何度も言われていた屋上まで駆け上がって、入口の扉から死角になるところを選んで座り込んだ。


 目を閉じて、耳を塞いだ。


 誰かに見られているみたいな、嘲笑われているみたいな感じは消えなかったけれど、周りに人が居るよりは少しマシだった。


 しかし、そんな逃避はすぐに終わる。


 丁度一時間目の授業が終わった直後に、担任の先生が俺を連れ戻しに来た。


 滅茶苦茶に文句を言って、罵声を飛ばしたが、先生は何も言わずに俺を強引に教室へ連れて入って、無理矢理席に座らせた。


 教室中の視線が痛かった。馬鹿にする笑い声が大きく響いていた。それが実際にあったのか気のせいなのかを確かめる事はしなかった。


 俺はそのまま大人しく授業を受けた。内容は頭に入ってこなかった。


 俺は悪くないのに。なんで俺がこんな思いをしなきゃいけないんだ。俺は悪くないのに。


 そんな思考だけを繰り返している内に、何もかも馬鹿らしくなった。


 その時だった。


 今で言う、スイッチの入る感覚。


 一回目のそれは、単純に思考が加速するだけだった。


 ただ、それでも薄ら寒い現実への理解を深めるには十分だった。


 それ以降、俺の生きる世界は、息苦しくて閉塞的なものになった。自分の理解した事実に雁字搦めにされて、身動きが取れなくなった。人と話す事が極端に減った。少しずつ、蝕むように。


 友人だと思っていた人間とも、優しいと思っていた担任の先生とも、血の繋がった家族とさえ。


 この世界は、嘘で溢れかえっているのだと思った。


 この世界に、信じて良いものなど何も無いのだと思った。


 それで、何もかも捨ててやろうと思った時、ふと冷静になって、人間が何もかも捨てられる程強い生き物でない事を知った。


 それから俺は、信じる必要のない誰かの理想や想像が描かれた、現実とは何の関係も無い本の世界に入り浸るようになっていった。


 信じなくても誰にも何も言われない空想という世界が、ひどく綺麗に見えた。


 現実は、信じないと生きていけないのに信じられないものが多すぎると、強く感じた。


 丁度、その頃だ。姉さんと出会ったのは。


 姉さんがしてくれたのは、この社会を動かしている経済のシステムの話だった。


 いや、もっと身近な言い方がある。お金の話だった。


 お金とは何か、という話をしてくれたのだ。


「一万円札が一万円という価値を持つのは、何故だと思う?何故あんな紙切れと物を交換できるのか、考えた事はあるかな?」


「……?一万円札だから?」


「正解だよ。厳密には、一万円札を、皆が一万円分の価値のあるものだと信じているからだ」


「信じる……」


「いや、すまない。厳密には信用というのだけど、小学生に話すには少し難しいと思ってね。信じると言ってしまった」


「信じるのと信用は、違う?」


「全く違う。信用というのは、これまであったもの、その実績に与えられた評価の事だ。対して、信じるというのは経歴の無い不確かな現在や未来にかける期待を指す言葉」


「……?」


「難しいかな?」


「……お金は信用があるから、経歴が評価されてるから価値がある」


「そうだね」


「だったら、お金を作るって……?」


「……痛いところを突くね。……正直言うと、分からない」


「……だったら、もう一つ。信頼って何?」


「まあ、解釈は人による。信じると同じ、と言う人も居るけどね。私は、信用と信じるの間だと思っているよ。実績と実力の評価を信用し、その評価にそぐう仕事に期待すること」


「……よし。分かった」


「素晴らしいね君は。自分なりに噛み砕いて理解する力を、その若さで持っている。大人でもそれができない人は多いのだから、それは素晴らしい才能だ」


「分かると楽しいから、もっと知りたくなるんだ。知って、分かれば、騙されずに済む」


「そうだ。ただし、力は正しく使わないといけない。例えば包丁を人殺しに使うのは間違っているだろう?知識や言葉も例外ではない。時として、言葉というのは刃物よりも人を傷つける。君がされた様に。その痛みを知っている君は、その痛みを与える方法を知っている」


「……する方法を知っているという事は、しない方法を知っているという事」


「そう教えたね。そういう事だ。良いじゃないか」


 そんな風に、俺は姉さんから色々な事を教えてもらった。


 姉さんの話は今考えても小難しいことも多かった。それでも、知らない事を知っていくことは面白く、興味深かった。


 そして、姉さんの話が面白いものだから、家が近所というのもあってよく足を運ぶようになり、いつの間にか常連のようになっていったのだ。



――――――――――。



 たまに考える。あの出来事が無かったら、俺はどんな風に生きていただろうか、と。


 正直、想像もつかなかった。


 今の俺にとって、今の在り方は当たり前のものになり過ぎている。それがもし違っていたら、という予測を立てるのは即ち、余命数ヵ月を伝えられた悪性腫瘍の患者になったのを仮定するような気分と同じだ。


 そもそも、何も知らず解さずでのうのうと生きているよりも、今の自分が幸福だと俺は思っている。


 知る事は面白い事で、考える事は楽しい事だ。好きこそものの上手なれ、という言葉がその分野にも当てはまるのだとしたら、きっと偉大な哲学者や倫理学者として名を残した思想家達も同じような楽しみを見出していたのだろう。


 しかし、それなら何故俺はこんなにも己の在り方に悩んでいるのだろうか。


 間違っていないと信じていた、信じたかった選択の、何が果たして過ちだったのか。

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