第二話
水野さんのお願いというのは、本当になんてことない。
かえって年不相応くらいのものだ。
思い出すと、ちょっと面白くなってしまうくらいに。
『友達に、なってくれませんか?』
咄嗟に頷くことしかできなかったが、それはその場の雰囲気なんかのせいで、その言葉自体がどうという訳じゃない。
彼女とは、お互い殆ど活用していなかったSNSのアカウントを交換して、今は何と言うのだろうか分からないが、一昔前で言うところのメル友みたいな関係になった。まあ、学校で会うのだが。
現に、放課後という時間を使って学校の図書館に居るのだ。
「先輩」
「来たよ」
アカウント交換で分かったのは、彼女の下の名前だ。風香、という、なんとも雅な名前だ。
因みに、水野さんの方にも交換した情報から俺のフルネーム、澤木翔というのが知られている訳だが、それで呼称が変わる事は無かった。因みに俺が水野さんの呼び方を変えたという事も無い。
特に何か予め決めていた用事がある訳でもないし、多く会話を交わす訳でもなく、ただここに集まる。静かな時間を共有するだけの方が多いのに、何故だかそれが楽しくて仕方ない。
「あの……先輩?」
「ん?」
「先輩は、コーヒー、お好きですよね?」
「……そんな事話した?」
「アカウントのアイコン画像をコーヒーミルにしておいて、なんで分からないと思うんですか」
「あぁ、そういえばそうだった」
「……忘れてたんですか?って、そうじゃないです。そうじゃなくって、その……」
水野さんの声量が、いつにも増して小さい。図書館なのに、聞き取るのが怪しい。針が時を刻む音に掻き消されてしまいそうなくらい。
それに、相変わらず殆ど目元が見えないから表情が読みにくいが、ここ数日で随分分かるようになってきた。この感じは、ちょっと恥ずかしがっている、のだろう。多分。
つまり。
「喫茶店?」
「エスパーですか!?」
急に爆発したような大きさの声が響いて、心臓が跳ね上がった。お化け屋敷も裸足で逃げ出す不意打ちだった。
「ちょっ、声、声大きい……」
「あ、す、すいません……。でも、なんで分かったんですか?」
「流れと、表情で。まあ推測でしかなかったけど、エスパーとまで言ってもらえると嬉しいね」
そんな大それた事は何一つしていない。精々、状況と会話の流れを読んだだけ。
情報というのは、そこら中にありふれている。自分でも意識しない内に、多くの情報を発信しているものだ。それを汲み上げるコツさえ掴めれば、今みたいな事は別段難しい事じゃない。
「調子、狂います……。他の人と話す時は、私の方が今の先輩みたいな立ち位置なのに……」
「それは、経験の差じゃない?一年分の。それより、行くなら行こう喫茶店。お勧めのお店、教えてくれるって事で良いんだよね?」
「はい、一応そのつもりですよ。もしかしたら、先輩はもう知ってるかもしれませんけど」
「まあ、それならそれで」
お気に入りの店が同じだったら、それはそれで嬉しい気がする。
水野さんも同じ事を考えたのか何か期待するように、行きましょうか、と言って鞄を持ち上げる。
俺はその後に続く。
「先輩は、喫茶店には頻繁に?」
「どうだろう?コーヒーショップを喫茶店に含めるなら、多くの女子高生よりは行ってないと思うけど」
「なるほど。足繁く、と言う程ではないけど通っている、くらいですか」
「主観的過ぎて分からん」
「週に一回か二回、です」
「当たってる」
「それなら、やっぱり家の近くとか、いつも通る道にあるところですか」
「そうだな……まあ、大体は家の近辺かな」
「ですよね。なら、多分先輩の知ってるところではないと思います」
「偶然家が近かったりしなければ?」
「そうですね。先輩の家がで電車で通う距離という事は知ってますから、流石に近所ではないと思いますけど」
「確かに。というかそれはつまり、水野さんは徒歩圏内?」
「ちょっと遠いですけど、そうですね。ちょうど駅の反対側くらいです」
「じゃあ、そんなに遠くもないか」
「そうなんですか?」
「下り線は若干東に曲がっていくから、反対の意味が点対称的だと学校より近いかもしれない」
「えっと……?点対称……あぁ、そう、そうですね。それなら多分近いと思いますよ。そんなに変わらない気がしますけど」
「違いない。どっちにしてもちょっと歩きたくない距離だ」
「ですね。自転車があれば近いんですけど。あ、それから、もうすぐ着きますよ」
「徒歩圏内って素晴らしいな。あの角の?」
「そうです」
道すがら、他愛のない会話に花を咲かせつつだと、実時間で三十分くらい歩いた筈なのだが体感的には半分にも満たないくらいだ。水野さんの話す速度が比較的ゆっくりで、声量が控え目だから、自覚無しに聞き入ってしまうのだと思う。
声が小さくても聞き取りやすいのは、きっとその緩いペースのお陰だ。車なんかの走行音が挟まっても、間に何を話していたかある程度予想できるから聞き返す事も少なくて済む。
視界の先、住宅街の中にある、機能性を無視したY字状の三叉路。その鈍角向こう側のところに鎮座する、テラスの付いた如何にもな建物。
外観からでも、落ち着いた雰囲気が伝わってくる。レトロとモダンの丁度いい塩梅にバランスが取れていて、俺の琴線に触れる要素をこれでもか、と兼ね備えている。
窓から暗めの木目調が覗いているのも、個人的にポイントが高い。
「良い感じ」
抽象的だが率直な感想を述べると、水野さんも表情を和らげて返してくる。
「そう言ってくれると思いました」
「これは今まで知らなかったのが悔やまれるレベルかもしれない」
「私の一番のお気に入りです。コーヒー、ここより良いところに心当たりがありませんし」
「そこまで?」
「はい」
水野さんが少し誇らしげに微笑む。
大きく動きこそしないものの、その表情には力強さを感じた。
そこまで言われると、流石に期待が高まる。
店の入り口であるシックな木製の扉を開けると、カウンターの向こうでカップを磨いている長身の若い男性と、老若男女問わない数名の客。学生服の姿は見えない。
文庫本を片手にカップを傾ける女性と、カウンターの中に居る男だけが、俺達の方に視線を揺らした。女性はすぐに手元に視線を戻す。
「いらっしゃいませ。……またですか」
「はい。いつもすいません」
水野さんに向けて呆れたような表情を浮かべながらの恐らく店主であろうその人が言う。
「いらっしゃいませ。ここは初めて、ですよね。彼女、勝手にハードル上げていたでしょう?」
「え?あ、はい。そうですね。何故それを……?」
「誰か初めての人を連れて来る時は、必ずそうなんです。褒めてくれるのは嬉しいですけど、ちょっとプレッシャーですね」
「でしょうね」
不思議な人だ。中性的な声。落ち着いた物腰。眼鏡の向こうに微かに窺える鋭い目つき。
喫茶店のマスター、という印象には少々若いが、貫禄のようなものが見え隠れしている。裏の顔さえありそうな得体の知れなさ、という意味で。
「……なるほど」
「……なんでしょう?」
「いえ。貴方が連れてこられた理由が分かった気がしまして」
「……?」
理由。お気に入りの喫茶店を教えてくれるというだけではないのだろうか。
疑問に思って見ると、水野さんは慣れた動きでカウンター席に腰を降ろしている。特に変わった様子は無い。
「先輩、隣にどうぞ」
「あ、あぁ……」
これだけ席が空いている中、異性と並んで座る事なんて初めてかもしれない。
だからどう、という訳でもないが。
水野さんに倣って彼女の隣席に腰を降ろし、鞄を膝の上に置く。
「ご注文は?」
「私はブレンドを」
「同じものをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
マスターが俺達の座る位置から少し離れてコーヒーを淹れ始める。
「先輩、コーヒーの味とか聞いてませんけど、大丈夫ですか?」
「その心配が必要なら、ちゃんと聞いてから頼んでる」
「それもそうですね」
コーヒーにはかなりの種類がある。酸味や苦味の強弱や質、独特なクセを持つもの、口当たり、香りの風合い、要素を挙げ出せばキリがないくらいに。
ただ、今まで色々試してきたが、これはちょっと、と苦手意識を持ったものは無い。
インスタントとか缶コーヒーの類は淹れ方や挽き方が良くないだけだ。豆の質もあるかもしれないが。
とりあえず、この店に不安は無い。単純な帰結だが、このちょっと中途半端な時間帯にも客入りがあるという事が何よりの安心感を与えてくれている。
「先輩が一人で喫茶店に行くときは、何をしてますか?」
「何だろう。色々だけど、やっぱり本を読んでることが多いかな?」
「予想通りでした。私も本ばかり読んでるからですけど」
「ふむ……」
この店で、カウンターで、コーヒーカップを傾けながら小説を読んでいる水野さんの姿を思い浮かべてみる。
落ち着いた雰囲気の店内で、前が目元、後ろが腰くらいまである黒い長髪の眼鏡っ娘。絵になる。
と、ぼんやり目を閉じてよからぬ事を考えていると、目の前でソーサーとカップの重なる微かな音が響いた。
「お待たせしました」
――――――――――。
「なるほど確かに、水野さんが気に入ってるのも納得だ」
「でしょう?」
「恐縮です」
この店のブレンドは、言葉にしてしまえば単純だった。嫌味が無い。
だが、それはコーヒーだからこそ異質とさえ言える特徴である。
苦味と酸味のバランス、甘く柔らかい香りでそれらの調和を取り、クセが無く、誰もが楽しめるだろう味わいに仕上がっている。
親しみやすく懐かしささえ覚えるような温かみと、上品な深み。
若干アクセスが良くないとは言え、それ程極端に通学路から離れている訳でもない事を考えれば、常連になってしまいそうなくらいだ。
こういう比較をするのは余り好まないが、正直俺が知っている中で一番美味い。
「こんな良い店が近所にあるなんて羨ましいよ」
「とても恵まれてます。十分も歩けば着きますからね」
「俺が普段行ってるところも、それくらいかもしれないな」
「この辺りは喫茶店が多いですからね。意識的に探すと公衆電話くらいの感覚で見つかります」
マスターのその言葉に、水野さんが首を傾げる。
「公衆電話って、最近殆ど見ませんけど?」
「いや、確かに減ってるけどそれでも五百メートル四方に一つとか、最低限置かなきゃいけない法律か何かがあった筈。そういう意味で言ったんですよね?」
「そうですね。よく考えると、それより多い気もしますけど、イメージとしてはそれくらいかと」
「そんな基準があったんですか……知りませんでした」
「それだけ携帯電話やスマートフォンが普及した、と考えることもできますね。実際、緊急時以外に公衆電話を使う人を見る機会はめっきり減りましたし」
「平和の象徴みたいですね」
「使われないことが、って事か」
「はい」
「なるほど、その発想はありませんでしたね。……そういえば、大丈夫ですか?」
「はい?何がですか?」
マスターが、壁に掛けられたアンティーク調の振り子時計を指す。
つられて、俺も水野さんも、その指の示す先へと緩やかに視線を向け。
「……あっ!」
突如、ほぼ真後ろから水野さんの短い悲鳴が響いた。
「どうした?」
「ゆっくり、しすぎました。あんまり遅くはないですけど、連絡してないので心配されてしまうかも……」
「あぁ、そういう……なら、早く帰らないといけないな」
「そうですね」
と頷きながら、水野さんは鞄のファスナーに手をかける。
「今日は、良い店教えてもらったお礼に俺が出しておくよ。」
「あっ……ありがとうございますっ。お言葉に甘えて、失礼しますっ」
慌ただしく、その割に丁寧にお辞儀なんかをして、小走りに家路につく。
持ち前の長い髪はやはり、走るのにはちょっと邪魔そうだった。
「最初からそのつもりだったんですか?」
マスターが、水野さんを見送りつつの俺にそう声をかけた。
「何がです?」
「いえ、僕は構いませんが……こう言うのは失礼ですけど彼女、かなり面倒な性格ですよ」
「……分かってますよ」
「貴方も、相当らしいですけど」
「それも、分かってます」
マスターは、どこまでも見透かしているようで、ちょっと気味が悪かった。
それがたとえ、優しさからくる忠言のようなものだったとしても。




