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第十八話

 穏やかでありつつも鮮烈な多幸感に包まれながら、俺の意識はゆっくりと覚醒していく。


 瞼が重い。腕に力を入れると、眠りに就く前と同じく風香の体がそこに収まっていて、風香の匂いも漂ってきている。仄かに甘く爽やかな、品の良い香り。


 このままで居たいと、体が思ってしまうような。


「ん……せんぱい……そこ……」


 そんな妖しげな寝言に、俺の体が反応する。


 風香の夢の中で俺は一体何をしているのだ。というか、風香も一体どんな夢を見ているんだ。


 夢というのは願望の表れであるというのが俗説だが、まさかそういう事を望んでいるのだろうか。別段それに拒否感は無いし、確かに俺もその手の欲求は持っているが、そこまで即物的というか直情的にはなれない。


 いや、だからこそ夢として発現しているのか。


 そして、それが分かったところで、だから俺が風香をどうこうするという訳でもないのだが。


 そもそも今の俺にそんな事をする勇気は無い。臆病で、小心者の俺は、つい保身に走ってしまう。


 風香なら受け容れてくれるだろう。しかしそれが分かっていても尚、俺はその信用を信じ切れないで居る。


 ここまでしておいて、と思うかもしれないが、こういう事は結局のところ暴力と変わらない。一線を越えるというのは特にそういう側面を持っていて、後から『本当は嫌だった』と言われてしまえば俺はめでたくブタ箱行き確定だ。


 勿論、風香に限ってそんな不誠実な事はしないと思っている。だが、社会的な死のリスクが命そのものと同等以上の価値を持つ現代において、その行為に至るというのは要するに生殺与奪を握らせるに等しい。


 流石にそこまでの凶悪なものに出会った覚えは無いが、小さな裏切りはこの身で何度も経験している。信じてみてもいいのかなんて思った途端に、その悉くを裏切られてきて、俺は根本的に誰を信じる事もできなくなってしまった。


 それで実生活上に支障があったのかと言えばこれと言って挙げる事は無いが、強烈な悪意のその片鱗を見せられた結果として俺は幸せと快楽を外に求め享受する事そのものに極端な恐怖を覚えるようになった。


「せんぱい……すき、です……」


 寝言にも拘わらず上擦って嬌声じみた音を奏でる愛しい恋人に、俺は複雑な感情を抱く。


 想ってもらえるのも、求めてもらえるのも好ましい事だが、何故こうも艶めかしく生々しいのか。


 いや、そういえば思い当たる節が無いこともない。


 この間、一人でレミニスに行った時、マスターがこんな事を言っていた。


『初物でないのが不服ですか?』


 あの時は、昔に恋人がいたとか、そんな事だと思っていたのだが。


 直前にマスターと風香にそうだった時期があったという話をしていたせいだろう。もう一つ、考えられる意味を見落としていた。


 何とも、考えたくない事だ。決して処女厨という訳では無いが、あのマスターがそういうミスリードをしたという事に絶対に外れていてほしい予想が浮かび上がる。


 いや、ミスリードをしたというのは正確ではないか。されてしまったという方が正しいだろう。あれは殆ど俺の自滅だった。


 いつの間にか軽くなっていた瞼を持ち上げながら考える。


 そして辿り着いた結論は、その可能性も無くはない、というものだった。


「風香……」


 思わず、そう呟くと。


「はい?起きてたんですか?おはようございます。全然動かないので、まだ寝てるのかと思いました」


 と、返事が聞こえる。


 普段と変わらない調子の風香に、何故だかとても安心感を覚えた。


 今この時に、特別何が起きていたという訳でもないのに。


「おはよう、風香。俺はずっと起きてたけど、ちょっとな」


「なんですか?髪フェチの先輩的にはこの状況は堪りませんか?」


「いや、風香が寝言を言ってるのが面白くて、つい」


「なっ……わ、私、変な事言ってませんでしたか……?」


「ん?変な事ってなんだ?」


「うぅ……言ってたんですね」


「おい、何故そう断定した。今確定できる要素無かっただろ」


「先輩の声が分かりやすく調子っぱずれだったので。というかわざとでしょう」


「まあわざとだけど」


 因みに、相変わらず髪フェチのつもりはないが、風香の髪質は上等なシルクのような肌触りで、眺めているだけでもその感覚が思い起こされる。手入れも大変だろうから自制しているものの、触っていたい欲求は無尽蔵だ。


「要するに、夢の内容を覚えていると」


「……そういう事に、なりますね」


「その話、詳しく」


「絶対、嫌です!」


「だろうな」


 そうなるだろう。幾ら恋人同士になったとはいえ、そんな夢を見たなんて話は俺だって絶対にしない。女の子ともなれば尚更なのではないだろうか。


「……先輩、顔は見えませんけど、何かありました?」


「いや、うん。無いと言えば無いし、あると言えばある」


「どうでもいい事って意味ですか?それとも……」


「どっちだと嬉しい?」


「どうでもいいことだったら良いですね」


「じゃあそっちだ」


「それ、私がどっちって答えてもそう言うつもりだったでしょう」


「そうだな」


 どちらと答えても嘘にはならない。それぞれの意味を持っているものが、一つずつあるから。


 勿論それは正確な真実ではないが。


 それを嘘と誹るなら、世の中都合の良い事実だけを並べてばかりなのだから、そこら中が嘘吐きで溢れ返ってしまう。


 いや、既に嘘吐きで溢れているかもしれないが。


「先輩は卑怯です」


「そうだな」


「なんで、そんななんですか。あの人にも同じようなことを言った気がしますけど、無理矢理踏み込まれたって、私は」


「……風香が、そういう人だからだよ。傷付く事には慣れてますって、平然としてるから、そんな訳無いのに」


「……やっぱり、卑怯ですね。なんで、そういう事分かっちゃうんですか」


「なんでだと思う?」


「知りませんよ。知らないから訊いてるんですけど……話す気は無いんですね」


「無い」


「まあ、そうですよね」


「あぁ。……そろそろ、起きるか」


「ですね」



――――――――――。



 様子を見に行った風香曰く、立華さんはまだ眠っているらしい。


 顔を洗うのと着替えだけを時短で済ませた俺は、朝食の用意を始めながらそんな旨を聞いた。


「それにしても、先輩は朝から精力的ですね」


「いや、今日はちょっとな。因みに、今ホットコーヒーを飲みたいと思うか?」


「いえ全く。ちょっと暑いので。淹れるなら頂きますけど、積極的には要らないです」


「だよな」


 料理と言う程のものでもないが、料理をしながら俺は風香と会話を交わす。


 それから、どうも物珍しそうに風香が俺の手元を見つめているのに、少し経ってから気付いた。


「オシャレですね」


「オシャレか?結構適当なんだが」


「適切を当然のようにこなす、略して適当ですね」


「そんな大層なものでもないが。そもそも来客用だし」


「私はそもそもそんな器用な事できませんから。一人暮らしなのにフライパンが幾つもある理由はそれですか」


「あぁ、これな。そんなに分量も時間も正確さが求められないからできる事だな。菓子作りは面倒だぞ」


「……お菓子、作れるんですか?」


「まあ、簡単な物なら」


「例えば?」


「目に見える範囲に多量のクリームを使わないもの。見た目に気を遣わないもの。あとはシュークリーム以外」


「なるほど。ショートケーキとかはできなくて、タルトはできる、みたいな事ですね」


「そうだな」


「実は先輩って女の子だったりしますか?」


「どこから見たらそう見えるんだ?」


「女子力が高すぎて女の筈の私に立つ瀬が無いんですよ」


「そりゃ申し訳ない。あぁ、そろそろできるから立華さんを起こしてきてもらえるか?」


「別に謝ってもらう事じゃないですけど。分かりました、起こしてきます」


 言うなり、小走りに二階へ上がっていく風香。


 三人分の朝食を作り終えて、フライパンの上に乗せたまま火を止める。


 これで、少しの間はフライパンに残った熱が温かさを保つだろう。


 食器棚からプレートタイプのものを三枚出しておいて、俺は風香と立華さんを待った。


 少しすると、寝ぼけまなこもいいところで寝間着姿を無防備に晒した立華さんが、半ば風香に強制連行されてきたような形でリビングに姿を見せた。


「風香ちゃん……私、まだ眠い……」


「立華、休日はだらしないタイプなんですね」


「……あのさぁ」


「はい?どうかしましたか?」


「それは俺には見られたくない姿じゃないのか?」


「そうかもしれませんけど、先輩は悪くないので気にしなくて大丈夫ですよ」


 ぼんやりしていた立華さんが、朝食の気配に釣られたのか徐々に意識をハッキリとさせ始めた。


「いい匂いがします」


「そうですね。先輩が朝食を用意してくれたんですよ」


「まだフライパンから降ろしてないから、そんなに急ぐ必要は無いけどな」


「澤木、先輩……?あ、れ?あ、わ、私……」


「……着替えてきていいぞ」


「は、はい……!」


 立華さんが、とんでもない事をやらかしてしまったような顔をして、凄い勢いでリビングを後にする。


「ほら、やっぱり見たらマズかっただろ」


「それでも先輩に非は無いので」


「まあ、そうかもしれないけど、ちょっと申し訳ないな」


「下着姿とどっちがマシだと思いますか?」


「……ノーコメント」


「でしょうね」


 なんて間の抜けたやりとりをしていると、立華さんが戻ってくる。


 着替えと、顔を洗って、ちょっと髪も弄って整えてきたらしい。


 そういえば、朝なのに風香も立華さんも普段と変わらない様に見える。男の俺に詳しい事はよく分からないが、化粧をするのには時間がかあると聞いた事がある。そんな事をする時間があったのだろうか。


 少し気になる。ただ、こういう事は聞いて良いのかというのも分からない。


「おかえり。おはよう」


「はい、ただいまです。おはようございます」


「おはようございます」


「立華さんも起きた事だし、朝食にしようか」


「はい」


「楽しみです」


 そんなに過度の期待をかけられても少し困るのだが、まあ楽しみにしてもらえる事それ自体は中々に嬉しいものだ。


 俺はフライパンに乗ったままのそれらをプレートにそれぞれ一つずつ乗せ、テーブルに運ぶ。


 それから、昨日には用意してあった水出し緑茶も三人分のグラスと共にテーブルへ。


 三人で食卓を囲み、手を合わせる。


「フレンチトーストとベーコンエッグですか。なんというか、料理が得意っていうのもちょっと分かった気がします」


「でしょう?」


 と、何故か風香が得意気に言う。


 それ自体は褒められているみたいで悪い気はしないが。


 ただ、俺は思った事をふと口にしてみる。


「そんなに技術とか関係ないんじゃないか?」


「いえ、なんというか……どれも同じようにできてるじゃないですか。それって単純ですけど、凄いと思うんです」


「あぁ……そういう細かい事まで気付かれるのは、ちょっと恥ずかしいな」


「先輩って、なんだかんだ私と同じタイプですよね。努力は人に見せたくないというか」


「キャラじゃないからな」


「そうですかね?澤木先輩、生真面目で几帳面ですし、結構完璧主義っぽいじゃないですか」


「いや、俺はかなり適当に生きてると思うぞ。勉強もスポーツも頑張った事とか無いし、誇れるようなものは何も」


「でも先輩、成績良いでしょう?テストでは上から三番目くらいだとか……」


「あぁ、それはまあ。でも努力はしてないからな、実際」


「何もせずにトップスリー……」


「俺は出来る事をそのまましてるだけだから、それを褒められてもピンとこないんだよ。料理は確かに一人暮らしがそこそこ長いから努力と言えばそうなのかもしれないけど、勉強はな……。いや、できない人には本当に悪いんだけど、なんでできないのか分からないんだよ」


「とか言ってますけど、教えるのも上手いですからねこの人」


「それは単純に物事をかみ砕いて説明するのが得意なだけだ。自分が何を分からないのかも理解できてない人に教えるのは無理」


「これが世に言う天才という人種ですか」


「天才ってのは生まれ持った才能に驕らず努力を重ねてきた変人の事だからな」


「案外、合ってるのでは?先輩も中々に変人ですよ。ところで、立華はテスト、大丈夫ですか?」


「大丈夫です。これでも一桁に入るか入らないかくらいの成績ですからね。中間の時は、風香ちゃんにギリギリ届かなかったんですけど」


「あぁ、それなら大丈夫だろうな」


「ですね」


「それにしても、このフレンチトースト、なんでしょう。甘いのに、しつこくない……」


「砂糖の代わりにマーマレードを使ったんだよ」


「……女子力」


「私もそう思いました」


「料理に男女は関係無い」


「それはそうですけど、フレンチトーストは女の子っぽいじゃないですか」


「言いたい事は分かるが」


 イメージとしては確かにそういう部分もあるが、そんな事を言い出したら、パティシエは一体どうなるのだろうか。


 いや、そもそもパティシエはフレンチトーストなど作らない気もする。洋菓子店に行った記憶など殆どないが、置いておけるものでもないし、イメージに無い。


 そうなると、気になってくるのは、フレンチトーストというのはどんな人間が作る物なのだろうか、という事。


 頭にフレンチと冠している以上、フランス発祥のような気がするが。いつ頃に考案されたのだろうか。時代背景によって随分とその印象が変わってくる。


 たとえば、砂糖が貴重な古い時代のものだったなら、それは品格ある場で、位の高い人間に食されるものだった可能性が高い。逆に、最近になってからできたのなら、それは家庭料理のような気がしてくる。いつの時代も、人間は甘味というものを比較的好む傾向にあるから、その手に入れやすさ次第で変わってくるはずだ。


 と、根も葉もない想像に任せて風が吹けば桶屋が儲かる思考回路を辿っていると、風香がそれに気付いて話しかけてくる。


「何を考えてるんですか?」


「フレンチトーストっていつどこの誰が作ったんだろうな、と」


「……気になりますね」


「だろ?」


「後で調べてみましょうか」


 そして、朝食を済ませた後に調べてみると、世界中さまざまな場所で似た作り方をされていたものがあっただとか、名前がつけられたのは十八世紀前半のアメリカだとか、全く予想もしていなかった情報が出てきた。


 ネットで調べた情報だし、決して確かな情報では無かったが、その意外さに俺も含めた全員が驚かされた。



――――――――――。



 夕方。二人が帰る直前に、俺はふと思い出した。


「そうだ。忘れるところだった」


「何をですか?」


「ほら、これだこれ。射的の景品。モデルガンはともかく、ぬいぐるみは俺の家に置いて行かれても困る」


「あ、そうですね。ありがとうございますっ」


「できればこっちも持って行ってほしいけど」


「ん……じゃあ、折角取ってもらいましたし。ありがたく受け取っておきますね」


「助かる」


 俺は風香と立華さんにそれぞれ紙袋に入れたままになっていたモデルガンとぬいぐるみを渡す。


 さっき荷物を纏めていた様子を見る限りだと、もう持ってきたトランクだかキャリーケースだかの中にそれを入れるスペースは無さそうだったから、タイミングは良かったのかもしれない。


「じゃあ、また学校でな。楽しかった。それと、先に連絡さえ入れてくれればまたいつでも来てくれていいから」


「はい。私も、楽しかったです。お祭り、誘ってくれてありがとうございました。私も先輩も、多分誘われなかったら行かなかったと思いますから」


「あ、そんなそんな。私が行きたかっただけですから。でも、そうですね。私も、楽しかったです。また、三人で遊びに行けたらいいですよね」


「ですね」


「そうだな」


 夕暮れ時というには若干気が早くあるが、雰囲気は正しくサンセットのそれだ。


 こんな気分になる事自体が、それこそ本当に心の底から楽しかった事を如実に表していて、気恥ずかしさを覚える。俺は少し視線を逸らして、それを誤魔化した。


 気付かれなかっただろうか。


「それでは、私達はそろそろ」


「また来ますね」


「あぁ。じゃあ、またな」


「はい」


 俺は姿が見えなくなるまで扉を開けておいて二人を見送る。


 名残惜しかったと言うのが一番分かりやすいだろうか。


 掛け値なしで、至極単純に楽しく思えたのだ。


 多くは小学校の頃にでも経験しているだろう感想を高校生にもなって浮かべているのはひどく滑稽だが、それが俺の本心なのだ。


 いつか諦めた筈の、眩しいもの。それが風香と、立華さんと、三人で過ごす時間は、間違いなくその一つだった。


 そして俺はその輝きを大事に胸の奥にしまい込むように、家の扉を閉じた。



――――――――――。



 風香と立華さんを見送ってから程なく。


 ピンポーン。


 ドアチャイムが鳴った。


 丁度駅との間を往復したくらいのタイミングだが。


「はい?」


『立華です』


「ん?どうした?忘れ物か?」


『いえ……少し、お話したくて。出てきて貰えると嬉しいんですけど』


 正直、今から外出するのは少し億劫なのだが、わざわざ戻って来てまで話したい事があるという立華さんを追い返すというのは流石に申し訳無い。


「まあ、いいけど。ちょっと待っててくれ」


『はい』


 返事は殆ど待たずに受話器を戻し、急ぎ足に玄関を出ると、視界に日傘が飛び込んできた。その柄を握っている白い手は、間違いなく立華さんのものだ。


 着いて来るように言われた俺はしっかりと戸締りをして、立華さんを追う。


 目的の場所も伝えられないまま歩く。居心地の悪さを覚える事は無いものの、恐ろしい程に会話が無い。それは、これからされる話の重大さを物語っている様だった。


 やがて、近所の公園に辿り着いて、陽の当たらない大きな影を作る木の根元に立華さんが腰を下ろす。


 俺も、同じ木陰に腰を据えた。


 すると、立華さんが夕暮れ空を見上げたまま、ゆっくりと剛速球を放つ。


「付き合いませんか?」


 その意味を理解するのに、一秒とかからない。しかし、その言葉を真っ直ぐに受け止める事は出来なかった。


「それは……なんだ。どこにそんな要素があったんだ」


「ありませんよ、そんなの。ただ、私は澤木先輩と一緒に居たら幸せになれるって、そんな予感がしたんです。知ってますか?私の予感って、当たるんですよ」


「知らないな、そんな事は。それにしても、残念だな。好かれてる訳ではないのか」


 と茶化すと、しかし立華さんは至って真面目な表情で俺を見つめた。


「好きか嫌いかなら好きですよ。でも別に、まだ恋には落ちてないってだけで」


 まあ、出会って間もないのだ。そんな期待は端からしていない。そもそも、今の俺がそんな期待をするのは余りに不誠実というものだろう。


 今の俺には、風香が居る。勿論そんな事はおくびにも出さずに話しているのだが。


「それなのに、付き合おうって?」


「はい。恋をするのは、今からでも遅くないですよね?」


「確かに、恋に時間は関係ないだろうな。早過ぎる事も、遅すぎる事もない。仮面恋人が本物のカップルになる事もあるんだから、付き合ってから好きになっても問題は無いな」


「ですよね?だから」


「でも、悪い」


「……なんで、ですか?」


「理由か。理由があったら諦めてくれるのか?」


「……それは」


「なら、言う必要は無いな」


「すっごく勇気が要るんですよ。せめて理由くらい」


「教える義務は無い」


「……私の事」


「嫌いじゃない。どっちかで言うなら、立華さんと同じで好きな方だ」


「澤木先輩なら、私の体の事も」


「そんなのは、俺じゃなくても良いだろ」


 小さな抗議の連続を、全て途中で遮って切り捨てる。考える暇を与えないという意図もあるし、この方が分かりやすく拒否されている感じがするだろう。或いは、幻滅されるかもしれない。


 しかし、それでも躊躇は無かった。


 正直、心苦しい気持ちはあって、それは確実に俺の喉を締め付けてきたが、それがかえって俺を冷静にさせた。


 立華さんがもし、俺の事を異性として好きだと言ったのならこんなあしらい方をするのもそれはそれで不誠実に当たるが、決してそうではないと先に伝えられている。だからこそ、これ程冷淡で居られる。


 もっと感情的に詰め寄られたら、俺は立華さんの手を取ってしまったかもしれない。彼女の華奢で儚い印象を受ける細身を抱き締めてしまっていたかもしれない。


 俺は、そうなる前に立ち上がりつつ、確かめるように突き付けた。


「もう、いいか?」


 立華さんは、一瞬躊躇って、俺を呼び止める。


「……風香ちゃん、ですか?」


「……だとしたら?だとしたら、立華さんに何ができるんだ?」


 そう吐き捨てて、数秒、数十秒と待って、俺は立華さんの言葉がこれ以上続かない事を確認して公園を後にした。


 振り向く事さえしないように心掛けたから、立華さんが果たしてどんな表情をしていたのかは分からないが、俺はその夜、いつもの半分も眠れない程の酷い自己嫌悪に苛まれた。

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