第十五話
星川の想いを断った後、俺は立華さんや水野さんとも会う気にはなれず、ただ『用事があるから今日は一人で帰る』とだけメッセージを送って、その足でレミニスに向かった。
店に入ると、幸いそこに水野さんや立華さんの姿は無く、マスターがいつもの調子で俺を迎えた。
「いらっしゃいませ。今日はお一人ですか」
「えぇ、まあ。ブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
一瞬訝しむような視線を向けられたような気がしたが、マスターは普段と同じようにコーヒーを淹れ始める。
ただ、気のせいではないだろう。一人で来た珍しさも手伝って、何か怪しまれているのは間違いない。
やがて、俺の前にコーヒーが差し出される。
「それで、どっちですか?」
分かりやすい質問だった。
「どっちでもありませんよ」
「ふむ……嘘ではありませんね」
「気味悪いんで表情読むのやめてもらえますか」
「おや、不快でしたか?」
「いえ、俺の表情を読めるだけの洞察力が不気味です」
「そうでしょうね。そのレベルまで作れるとなると、読まれる事はほぼありませんから。……因みに、今までに何人居ましたか?」
「マスターで二人目です」
「それはそれは。まあ、その年でそんな事ができるとも普通は思いませんでしょうし、致し方無くもありますが。正直、興味深い限りです。これまで貴方がどんな人生を歩んできたのか」
「普通ですよ」
「普通、ですか。なるほど。しかしどうでしょう、貴方の人生を測る物差しは貴方の中にしか無く、貴方の物差しは貴方の人生に基づいて作られる訳ですが」
「それはそうでしょうね。なので、普通としか言い様が無い訳です」
「……貴方は、自分の事がよく理解できている様ですね」
「だからこそ、あの二人を」
「おっと、そこまで気付かれていましたか。これは手厳しい。お任せしても宜しいのですか?」
「構いませんよ。元より、問題無いと踏んでそうしたのでは?」
「無論です。ただ、期待通りとは言えないのですが」
「なるほど。ご期待に添えておりませんですか」
「いえいえ、期待以上という意味です」
「それは何よりです」
「……気は、紛れますか?」
「いえ、全く。傷付ける事にはどうにも慣れません」
「そうでしょうね。存じておりますよ」
「……そうですか」
やはり、この人の方が数枚上手だ。
切れ者にも程があるだろうと文句の一つも言いたくなる。
どうにも見透かされているようで気味が悪い。
誤魔化す様にコーヒーを啜った事も、それさえ分かり切っていたのではないか、と錯覚する。
勿論そんな事は現実にはあり得ない。未来の出来事を知っている人間など居ないのだ。それでもそんな錯覚をしてしまうのは、その予測が予知に近い精度を出しているからだろう。
そして、この人に限って知らないという事も無いだろう。俺はマスターに言葉を投げる。
「……水野さんの話を聞きました」
「ふむ……。続けてください」
さて、この促しにどのような意味があるのだろうか。単にそう言っているだけとも、或いは水野さんにまつわる話は複数あるという風にも受け取れる。
「星川柊、という名に聞き覚えは?」
「ありますね。それなら、話をされた覚えがあります」
「柊には楪という姉が居ます。そこから聞いた話ですが」
俺は星川から聞いた話を掻い摘んでマスターに伝えていく。
表情一つ変えずにそれを聞いて、こう返した。
「確かに、その話自体に偽りはありません。聞いていた通りです。ただ」
「ただ?」
「それには続き……いえ、前ですね。その前に、そもそも彼女がそんな事をする原因となる事件があります」
「そうでしょうね。水野さんがそんな意味の無い事をするとは考えにくい」
「なるほど。今日ここへ、それも一人で来たのは、その話をしたかったという事ですか」
「それもあります」
「まあ、ここで訊けなければ本人に直接聞くのでしょうし、話しましょう」
「ありがとうございます」
その後マスターから聞いたのは、何の変哲も無い、嫌がらせを受けていたような話だった。最終的に、金銭をせびられるようになって、星川から聞いた話に繋がっていったそうだ。勿論嫌がらせだって十分問題ではあるのだが、それだけであんな風にはならない気がしてならない。立華さんがそうであるように。
そして、俺は確信する。
水野さんが抱えている過去は、一つではない。あと幾つなのか、そこまでは分からないが、今聞いた話よりも更に重い何かを。
「さて、どうでしょう。納得はいきましたか?」
「そうですね……話そのものには無いかと。腑に落ちない事があるとすれば……」
「なるほど。違和感はあると」
「いえ。違和感というよりも、あと幾つか、というくらいです」
「……やはり、期待以上です。ただし」
「分かっています。マスターから聞くつもりはありませんよ」
「なら、良いのですが。しかし、それで貴方はどうするつもりですか?」
「……考えは、あります」
「……余り気は進まないご様子」
「傷付けるのは、苦手なもので」
「そうでしたね」
マスターは納得したように頷く。
誰かを傷付けたくない、なんて綺麗事のような理由で無かったからだろう。
そうだ。
俺は自分勝手で我儘な人間なのだ。
傷付けたくないのは紛れもなく本心ではあるが、その根源にあるのは、そうする事で自分が傷ついてしまうのが嫌だという理由。
それを厭わないのなら。
「……貴方は、実に臆病な人だ。出会ってくれたのが貴方で、本当に良かったと思っています。正直、悔しくはありますが……」
「……なるほど。前の女、前の男ってやつですか。若干年が離れているような気はしますが、まあ、マスターは若く見えますから案外離れて見えないかもしれませんが」
「それもあるかもしれませんが、彼女は小柄な割に随分大人びて見えますから」
「確かに。それにしても、マスターと水野さんが……全くそんな風には見えませんでしたね」
「初物でないのが不服ですか?」
「……ふむ」
「おや。何かしら反発があると思っていましたが」
「それにそれほど興味はありませんから。まあ、言いたい事はありますが、それより今は……」
「なるほど」
水野さんの過去の事だ。
マスターと居て、それでもどうにもならなかった事で、果たして俺に出来る事などあるのだろうか。
「貴方にしか、できない事です。弱くて賢い、臆病者の貴方にしか」
「……誉め言葉として受け取っておきましょう」
「そうしてください。実際、彼女が必要としているのは、一人では生きていけない脆さです」
「……俺が」
「違いますか?」
「……いえ」
認めるのは癪だが、事実ではある。自覚はあるのだ。
だからこそ、俺は弱い自分を隠している。何故だかマスターにはそれを見抜かれていたようだが、まあそんな事は今に始まった事でもあるまい。
「どうにも、自信が無いようですね。今日誰か……いえ、星川楪さん、ですか。その告白を断った理由も、案外それだったりしますか?」
「いえ。星川とは、価値観が合わないんですよ」
「そうでしたか」
星川は、比較的人格者ではある。
それでも俺が星川を煙たく思うのは、その優しさが少々強引で力強いものだからだ。
相手の事情に踏み込み過ぎる、というのだろうか。
確かに相手の事情を知ってこそ取れる選択肢というのもあるだろうが、それにしたって踏み込む加減を知らない節がある。
勿論、誰にでもそれを求めるのは難しい事も理解している。
だが、俺が星川に余り好意的でない理由はそれだ。精神的に、あのタイプを気に入る事は無いように思う。
価値観が合わない、と一括りにしてしまうと若干語弊がある気もするが。
「ただ、そうですね。自信が無い、というのはその通りです。フった理由としては違いますが」
「なるほど。ですが、安心してください。貴方は今のままで良い。少なくとも、今の関係が変わるまでは、そのままで」
「弱さが人を救う……そんな事が、あり得ると思いますか」
「……それは、貴方が一番よく知っているのでは?」
まさか。
まさかこの人は。
いや、もしそうだとしたら、その慧眼にも説明がつく。
しかし、そんな偶然があるのだろうか。無いと断言する事もできないが、そんなまさか、とは思わずにはいられない。
「マスター、俺が水野さんと会うより前に、俺の事知ってましたか?」
「やはり、そうですか。貴方にとって、あの人は?」
「……何でしょうね。強いて言うなら、恩人ですか。或いは、目標か」
「そうでしょうね。ただ」
「分かっています。あの人と俺は全く違うタイプです。真似をしようとは、思ってませんよ。俺はただ、水野さんにとって、俺にとってのあの人のようになれたら、と思うだけです」
「それでは、やはり……」
「そういう事に、なるでしょうね。ただ、俺はそれでも構わない」
「……それでは、余りに貴方が報われない」
「……それで、良いんです。マスターの言う通り、孤独に生きる事はできないでしょうけど、自分を騙す事にはもう慣れました」
「……そう、ですか。本当に、すいません」
「気にしないでください。マスターが何を言わずとも、同じ道を辿っていたでしょうから」
「……それでも、すいません。貴方に期待してしまっている事の、懺悔です」
「……宗教には無傾倒なもので。俺には神の声を聞く事なんてできません」
「そうでしょうね」
マスターが、寂し気に笑う。
そんな顔は、初めて見た。
いつも眼鏡の向こうに窺える、柔らかくも鋭い視線は見る影も無く、ただただ祈る様に、それこそ神に赦しを乞うように、遠い目をしていた。
――――――――――。
家に帰ってすぐに夕食と入浴を済ませた俺が自分の部屋に戻ると、狙いすましたようなタイミングで机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
「なんだ?」
思わず、誰にでもなくそう訊ねてしまう。
ただ慌ててスマートフォンを確認すると、理由はすぐに分かった。
「水野さんか」
いつものメッセージアプリだ。
『今から、お話できませんか?』
『できる』
すぐにそう返信すると、間もなくアプリの通話機能の着信を知らせる音が部屋に響いた。
初めて耳にしたが、割とうるさい。
「もしもし」
『こんばんは、先輩。急でごめんなさい』
「気にしなくていいから。それより、話したい事があるんじゃないのか?」
その予想は、水野さんの性格から考えてのものだ。用事も無いのに話がしたいだとか言い出すタイプだとは余り思っていなかった。
のだが。
『いえ、特には』
返ってきたのはそんな言葉だった。
それを俺はどう受け取るべきなのだろうか。特には無いだけで細々とした話はあるのだろうか、或いは本当に何も無いのだろうか。
勿論、用が無いからと言って話をするのが嫌という訳ではない。そもそも俺は人と話す事それ自体は好きな方だし、水野さんとなら尚の事。
『やはり、ご迷惑でしたか?』
「いや、そんな事は無い。ちょっと意外だったけどな」
『そうですよね……なんででしょう。いつも先輩と一緒に帰っていたのが、今日はそうじゃなかったから、とかでしょうか』
「いや、俺に訊かれてもな」
『それもそうですね』
なんというか、いつもの水野さんらしくない気がする。普段なら、考えと心は一致しているだろう。自分の事をよく理解していると言い換えてもいい。
なのだが、今の水野さんは、考えている事と心がちぐはぐに思える。いや、それだと少し違和感があるか。
考えが心に追い付いていない、これだ。
「何か、あったのか?」
『それは、私のセリフです』
「俺は、毎日事件の連続……」
『そういうテンプレなボケはいいです』
「とは言ってもな……」
『連絡も遅かったですし』
「それは……すまん」
『いえ、事情があったんでしょう?それくらい分かりますよ。私は、その事情さえ教えてもらえれば』
「……分かった。話そう」
それから、俺が今日の放課後にクラスメイトの女子から告白された事、それを断った事などを水野さんに話す。
告白してきたのが星川である事や、星川から聞いた話、その後に行ったレミニスでマスターから聞いた話は伏せておいて、告白を断った後で誰かと並んで歩くような気分にならなかった事だけは伝えた。
「と、そういう事だ」
『なるほど。それで、先輩は屋上に行ってたんですね』
「……見てたのか」
『誰にも言いませんし、言ってませんから大丈夫ですよ』
「いや、そんな事はどうでもいいんだが……」
水野さんの生活態度から考えて、教師の誰かに伝えればそれなりの効力を持つはずだ。とは言え、生徒の誰それが屋上に行ったのを見たなんて話が問題になる事は無い。
勿論、立ち入り禁止である事に間違いは無いし、その場に教師が居たら咎められたのだろうが、後からそれを報告されたところで教師陣が重い腰を上げるとは思えない。防犯カメラでも設置されていれば分からないが、生憎とそんなものは無い。
「まあ、屋上に行った理由ならその通りだ」
『先輩に告白した人って、綺麗な人でしたか?』
「……どうだろうな。客観的には見た目だけでも充分モテるくらいには綺麗なんだと思うぞ」
『……主観的には?』
「……スカートが短いのがちょっと苦手だ。あと、髪を脱色してるのも」
『なるほど。染めるのも苦手ですか?』
「そうだな」
『なんというか、意外性も何も無くて面白くないですね』
「歯に衣着せなさ過ぎだろ」
『先輩ならいいかなって』
「まあいいけど」
『だと思いました』
電話越し、というのがこの場合正しい表現なのか分からないが、電話越しにクスクスと笑う水野さんの声が聞こえた。
マイクが近いのだろう、やたら水野さんの声が近くに感じる。息遣いまで拾っていて、この距離感は、それが機械越しのものと分かっていても少し緊張する。
同じベッドで寝た時の距離感に似ている。
『あ、そういえば先輩』
「なんだ?」
『今度行く、七夕祭りでしたっけ。あれって、先輩の家の近くなんですよね』
「あぁ、そうだな。家から祭りの音が聞こえるくらいには近いな」
『毎年、どんな感じですか?』
「どんな感じ……割と賑わってるんじゃないか?アニメなんかでありそうなイメージからそう外れてないと思うぞ。年寄りと子供ばっかりみたいなことでもなく、普通に若い人も居る」
『今時珍しいですね』
「そうだな」
言われてみればそうかもしれない。
個人的には一番近所でやっているのがそれというのもあって、全く不思議に思った事は無かったのだが、どうやら賑わっている祭りというのは最近では珍しい様だ。特に、俺や水野さんくらいの年の人もそれなりに居るというのは。
ただ、意外では無い。
ゲームやスマートフォンの普及に伴って家の中でできる事がいくらでもある時代になったのだ。それとは少し違うが、俺だって去年までと同じなら読書に耽っていただろう。
それを考えれば、どちらかと言うと祭りが老若男女問わず賑わっている状況の方が稀なのは間違いない。
「なんだかんだ俺も、去年まで行ってなかったし」
『家でコーヒー片手に本でも読んでたんですか?』
「何故分かる?」
『ボッチ仲間なので、行動パターンがなんとなく読めます』
「……つまり、水野さんも祭りには行かなかったと」
『はい』
「七夕祭りの事は知ってたのか?」
『毎年やってるのは知ってました』
「なるほどな」
まあ、七駅とは言っても駅の間隔が狭くてそう遠くもないし、近所と言う程近所でもないが知っていてもおかしくはないだろう。
それに、この辺りでは比較的大きいイベントでもある。
『そうです。行く前に先輩の家に寄っても良いですか?』
「いいけど、何だ?荷物を置いて行くのか?」
『それもありますけど、あの……泊まりに』
「……祭りの日か?」
『はい』
「立華さんも?」
『はい』
「……はぁ、まあ、分かった。今更だし。ただ、親にはちゃんと話を通しておいてくれ」
『ありがとうございます。分かってますよ』
「ならいいけどな」
言わずとも、流石に自分の親に連絡くらいは入れておくだろうが。常識として。
因みに俺の場合だともしどこかへ泊まりに行くとしても、俺が家に居ない事で心配するような人間が普段は居ない。それでも、家に置き手紙くらいはしていく。まあ泊まりに行った事も無いのだが。
『そういえば、先輩のお家って、結構広いのに綺麗ですよね』
「一人で整えておくのはそこそこ大変だけどな。まあ綺麗にしてないと落ち着かないんだよ」
『潔癖症ですか?』
「そこまでではない。自分の家が綺麗なら、まあ単純に自分の空間が整ってたらそれでいいから」
『なるほど』
「逆に、水野さんの部屋はどうなんだ?勝手に綺麗好きだと思ってるけど」
『それなりには。ただ、先輩のお家みたいに綺麗じゃないですよ。もう少し散らかってます。本とか積んじゃうんですよね……』
「まあ、分からないでもない」
『でも、先輩はあれでしょう。まだ読んでないゾーンが本棚の中にあるでしょう?』
「あるな。買ってくるなり読む事が多いから、二冊も置いた事無いけど。よく分からんが、まだ読んでないのがあると落ち着かなくてな」
『あ、私は逆ですね。まだ読んでないのがある方が落ち着きます』
「そういうもんか」
『そういうもんです』
意外と言えば意外だった。水野さんは、目の前にある物は全部片付けておきたいタイプだと思っていたのだが。
いや、趣味に関する事とやらなければならない事で違う考え方をしているのかもしれない。
俺だって、いつでも新しいものを楽しみたい、という気持ちが分からない訳ではないのだ。
実際に積む事は無いが、まだ読んだことの無い本への期待というのはある。
言い換えると、水野さんは、楽しみを残しておくタイプなのだろう。
と、水野さんが欠伸をしたのだろう音を、微かにマイクが拾った。
「水野さん、眠いなら寝た方が」
『……じゃあ、そうします』
「あぁ。おやすみ、水野さん」
『はい。おやすみなさい。七夕祭り、楽しみにしてますね』
「……あぁ。また」
『ではまた』




