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第十二話

 流れていく。通り過ぎていく。飲まれてしまいそうになるくらい、巨大な人の波。


 

ついさっきすれ違った人の顔もよく思い出せないくらいの、赤の他人。知らない人達。


 周りばかり気にしていても、相当の変わった人でもなければその仔細までは印象に残らない。



 なのに、そんな無関係な筈の他人が、怖い。なにもかも剥ぎ取られて、暴かれてしまいそうで、怯えてしまう。

自意識過剰なのは分かっているのに。


 俺の事なんか、誰も気にしてなんかいないのに。


 頭では分かっているつもりなのに、人の目を、他人を恐れてしまう。



 上手く人と付き合っていけない。壁のある人には、誰も近付こうとしないから。言葉は心が紡ぐものだということが、よく分かる。心が、言葉で人を遠ざけてしまう。



――――――――――。



「……うぁ」


 目が覚めた。


 酷く気分が悪い。


 もう殆ど思い出す事もなかったのに、何故今になってあの頃を夢に見るのだろう。


 忘れられるような事ではない。忘れてはいけない。それでも、思い出したいものではなかった。


「はぁ……」


 俺が、今の俺になった理由。苦い過去。何もかもが手遅れになった後の、何もかもに嫌気がさした俺だった。


 そこからどうしてこうなったのか、自分でも不思議だったが、今なら分かる。一旦何もかもを諦めてしまったから、それ以上嫌になるものが無かったのだろう。


 今は、それも随分と落ち着いて、ちょっと人見知りがしてネガティブ気味なだけの人間になった。


 ふと、スマートフォンを手に取って時計を見る。午前二時。眠りについてから三時間も経っていなかった。


 だというのに、苦い過去のフラッシュバックは、ひどく俺の目を冴えさせる。


 本を読むにも、コーヒーを淹れるにも、そんな気分にはならなくて、俺はただベランダに出る。何か考えがあっての事ではなくて、単なる気まぐれだ。


 深夜の街。家のベランダから見える範囲なんてのは知れているが、それでもその景色はどこか遠くにあるみたいで他人行儀だ。

 

駅の近くだったらこの時間にも人が見受けられるのだろうけれど、住宅街であるこの辺りに人の姿は無い。


 昼間に比べると随分涼しくて、風がとても心地好い。


 誰も居なくて、誰も俺の事なんか見ていない。街には人の気配なんて欠片も残っていなくて、こういうのを、街が眠っている、と表すのだろうか。


 静かだ。


 この静けさに、落ち着きを覚えるか、不安を覚えるかで、その人間が少し分かる。

 

 俺は、前者だ。

 

 夜が好きな人種。


 それは、自分か、他人か、誰かに対して後ろめたい何かを抱えている人間。それも、かなり大きな何かを。

 

 逆に、夜が苦手な人間は、自分を大切にできるタイプだ。もっと言えば、誰かに愛される事を素直に受け容れられる人間。

 

 俺は、誰かが俺を好きだと言ってくれたとして、恐らくそれを信じることはできない。もしそれが本心からの言葉だったとしたら実に申し訳ない話だが。


 それでも、俺は自分が嫌いだから、自信が無いから、そんな自分を好きになる人なんて居ないと思っているのだ。


 嘘吐きの自分が嫌い。


 信じることより疑う事を自然にしてしまう自分が嫌い。


 俺にとって、自己嫌悪は息をするより簡単な事だ。自信なんて、生まれるはずもない。


 そして、或いはそれを逃げ道にしてしまいそうな自分が、一番嫌だった。


 変わりたいと、変えたいと、何度も思った。


 それでも染み付いた癖というのは怖いもので、一歩すら踏み出すことはできなかった。


 嘘の鎧は強く堅牢で、安心と引き換えにどんどん大きく重くなっていく。


 いつか、その重さに耐えきれなくなった時、鎧に押し潰されてしまいそうになった時、鎧で防ぎたかったものから逃げる。


 すると、その時だけは少しだけ軽くなって、けれどまたどこかでその重さを背負っている事を思い出して、そんな風に嘘が積もって、荷物になっている事に気付く。


 いっそ、全て誰かに吐き出してしまえたら、少しは荷を下ろせるのだろうか。


 そんな事は考えるだけ無駄だった。


 どうせ誰にも話せやしない。


 できるのは精々が懺悔のような独白だけで、無宗教の俺にとって何の救いにもならない。


 俺は、俺と俺の嘘を咎める何者も居ない夜が好きだ。


 夜は、疑わない。夜は、信じない。どちらにも傾かない。


 闇は何にも染まらない。闇は欺いても闇のままだ。


 月や星達は太陽みたいには強過ぎない光で曇った心を照らしてくれる。少しだけ、外に光を見つけられる。雲外蒼天ならぬ雲外星天だ。


 夜は、俺に一番冷たくて優しい時間だ。


 そんな冷たい優しさでないと、感覚の麻痺するくらいの冷たさが無いと、俺の心は優しささえ痛くて拒絶してしまうから。


 夜風は、そんな冷たい優しさを思い出させてくれる。


 少しの間だけ、何も考えずに居られる。


 夜は、そういう時間だ。少なくとも俺にとっては。


 他人行儀な街。夜の帳。そういう徹底的な不干渉というのは、この上なく冷たい優しさだ。


 こんな嘘を吐いたんだ。そう告げたって、冷たい優しさはこう返してくれる。どうでもいいよそんな事、と。或いは、僕には関係ないよ、とか。


 全く無視するのとは違う。


 聞いて、理解して、それでもここではそんな事気にしなくていいと言ってくれるのが冷たい優しさだ。


 夜空は、暗い街は、不思議と理解してくれている気になる。見透かされている気がする、と言い換えても良いかもしれない。


 余りに重い何かは、きっとそういう風にしか受け容れられない。いや、受け容れる人間の自己満足なら勝手に受け容れた気になる事はできるのだろうが、それは本当の意味で助けにはならない。


 根拠と呼べる程のものは無いし、或いはそれさえ自己満足なのかもしれないが。


 最初、そういう受け容れ方をされると、頭に来る。裏切られた気になる。どうでもいいとはなんだ、と。


 だが、落ち着いて考えてその意味に気付くと、どこかで確かに救われた自分が居る事を知る。


 少なくとも、俺はそうだった。


 だから、せめて俺は、そうして受け容れるより他に無い誰かを、水野さんを、そうやって救いたい。


 これはエゴだ。俺のエゴ。自分勝手な我儘だ。それでも、誰かの助けになるなら、誰の助けにもならない自己満足よりはずっと良いだろう。


 気付けば、俺は目を覚ました理由さえ忘れていて、一つ小さな決意を胸に、穏やかに眠りについた。



――――――――――。



「おはようございます、先輩」


「おはよう、水野さん」


 駅前の広場、いつもの場所で挨拶を交わす。


「……私、先輩と一緒に眠ったんですよね」


「なんで今思い出すんだ」


「今じゃないです。朝からずっとですよ。起きたら一人で、寂しくて。先輩が居てくれたら……って」


「あ~、その、なんだ……」


「そんな変な意味じゃありませんよ?でも、また一緒に……じゃなかった、またお泊りしたいです。また、行っても良いですか?」


「あぁ、そういう事なら勿論良いぞ。ラノベとコーヒーくらいしかないけど」


「充分過ぎますよ。それに、先輩も居るじゃないですか」


「……まあ、そりゃ俺の家だからな」


「……先輩は、そういう人でしたね」


「あんまり褒めるな」


「褒めてません」


 そりゃそうだろう。俺だって、まさか本心からそんな事は言っていない。


 水野さんも言う様に、俺はそういう人なのだ。


「まあ、それはいいです。充分理解してますし……それより、行きましょう?」


「オーケー。行こうか」


 促されるまま、水野さんに着いて歩き出す。


 長い髪が揺れる。相変わらず綺麗な軌跡を描いて、ゆらゆらと。


 視線が気になったのか、こちらを振り向いた水野さんの視線はやや冷たいものだった。


「……髪フェチ」


 ボソッと、小さく呟くようにそう放った。


 確かについつい目で追いかけてしまうが、別に性的興奮を覚えるからでは決してない。


「違うって。猫が猫じゃらしを追いかけるのと同じだ」


「じゃあ、先輩じゃらしですかね。でも、よく考えると動いていない時に触りたいって……」


「おっと、この流れはマズい。このまま続けると髪フェチ認定されてしまう気がする」


「だったら諦めて髪フェチで良いんじゃないですか?」


「それはガチの髪フェチの人に失礼だから」


「それは……確かに」


 よし、流れを掴んだ。


 と思った矢先、水野さんがとんでもない事を口走る。


「あ、それなら先輩がガチの髪フェチの人になれば良いんじゃないですか?」


「なん……だと……!?」


 その発想は無かった。いや、その発想は要らなかった。


 確かにそうなったら髪フェチと言っても良いのだろうが、そもそも性癖というのは後から増えるものなのだろうか。増えるとしても、意識的に増やしたらそれは癖と言えるのか。


「……もしなったら、真っ先に水野さんが被害に遭うな」


「いいですよ、それくらいなら」


「いいのかよ」


「だって、別に先輩が私の嫌がる事するなんて思ってませんし。嫌って言ったらすぐ止めてくれるでしょう?」


「……あぁ、まあ、そのつもりだけど、保障はできないだろ?」


「大丈夫です。私の目から見た限りですけど、先輩は限りなく臆病者なので、本気で嫌がったら理性が欲求を上回ると思います」


「誰でもそうだろ」


「そうだったら性犯罪や殺人事件は起きませんよ」


「……確かに」


 不思議な事だ。髪フェチの話からどうしてこんな真面目な話題に転換するのだろう。


 会話の深刻さの浮き沈みが激しいのは今更では無いし、珍しい事でもないが、謎ではある。


「それが分かった上で、先輩は大丈夫だと思います。安全です。とっても」


「どう反応していいものか……」


「これは、普通に褒めてます。本当に、先輩ほど安全な人は居ないと思ってます」


「まあ、そういう事なら、ありがとう、でいいのか?若干、意気地なしと言われた気もするんだが」


「良いじゃないですか、意気地なしでも。根拠も無く肝が据わっているよりはずっと良いです」


「そりゃそうだけどな」


 男としては、ちょっと複雑だ。


「目は口ほどに、ですよ、先輩」


「おっと、そんなに分かりやすかったか」


「慣れですかね。若干ずつ機微が読めるようになってきました」


「それは、ちょっと悔しいな」


「まだ本気で隠されたら分かりませんよ」


「何の事だ?」


「……先輩は表情を隠すのが上手過ぎるんです。何をしたらそんな離れ業が身につくんですか?」


「特に何も、って言ったら信じられるのか?」


「いいえ。でも、話したくない事まで聞き出そうなんて思ってませんから」


「別に、今更話したくない訳でもないけど、面白い話じゃないから。わざわざ話すような事じゃない」


「そうですか」


 水野さんはそれ以上掘り下げない。


 多分、水野さん自身にもそういう話に心当たりがあるのだろう。


 話したくない事、知られたくない事というのとは少し違う、話す意味が無いような話を水野さんも持っている。


 だから、余計なところまで踏み込んでこないし、こういう時にパッと話題を切り替える機転が利く。


「そうです、先輩。今日、帰りにレミニスに寄りませんか?」


「良いね。行こう」


「先輩って、こういう付き合いとかって良い方なんですか?」


「そうでもない。誰かと遊びに行く事なんて殆どないし。たまに……年に一回くらいとか」


「でも、私とはよく休日にも会ってくれるじゃないですか」


「そうだな」


「理由、訊いてもいいですか?」


「……まあ、いいけど、無意味に疲れないからとかそんな理由だぞ?水野さんに負担かけてないか心配になるくらい、気が楽で」


「前にもそんな事言ってましたけど、それは大丈夫ですって。それに、その理由でガッカリしたりもしませんよ」


「ならいいんだけど」


 水野さんの表情は柔らかい。


 それを見ていると、不安に思う必要は無いのかもしれない、なんて浅薄な考えも浮かんでくるのだが。


 頭の奥で、それを咎めてくる自分が居る事に気付く。


 緩んだ糸がピンと張り詰めるような感覚に。


「……先輩?」


「ん、どうした?」


「あれ……?あ、気のせいだった、かもしれません」


「そうか」


 鋭い。


 今のは割と本気で表情を作っていたつもりだったのだが、どうも機微が読めるようになってきたというのは本当だったらしい。


 俺にだって、知られたくない事はある。それにつながるような事はできるだけ伏せておきたいのだが、勘付かれるのも時間の問題かもしれない。


 せめてもう少し、俺が今の俺になった理由を知られずに居たい。


 知られても、問題は無いのかもしれない。違和感を持たれたって、そこから何があったかまで察する事は流石にできないだろう。


 それでも、気を付けておくに越した事は無い。


 いずれ、自分の口から話さなければならない時が来るとしても。

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