第十一話
日も回った深夜。気まずい空気をそのままに、しかしいつまでもそうしている訳にもいかないという事で二人とも入浴し、多少でも時間を置いた事で少し落ち着いただろうか。
余談だが、本人の希望で俺が先に風呂を済ませる形となった。
その後、そろそろ寝よう、と切り出したのは俺で、今は水野さんと二階の廊下に居る。
「水野さんは……そうだな、この部屋で寝てくれ。暫く誰も使ってないし、掃除はしてるから埃っぽくもないと思う」
「え……あ、そう……ですよね。ごめんなさい」
「なんだ?言いたい事があったら言ってくれ」
「……それなら、一緒、じゃ……ダメですか?」
この言葉の意味するところは一つしかない。
一緒に寝てはいけないか、という問い。
警戒、する必要があるだろうか。社会的死のリスクは、やはりある。それは本当に水野さんの言葉一つで成立してしまう。
ただ、それは家に上げた時点で同じ事でもあるのだ。いっそ、二人きりになっただけでもあり得ないとは言えない。
そんな機会は今までにも幾らでもあった。家に上げたのだって今回が初めてという訳ではない。今までの中で、この状況が一番説得力に富んでいるというだけの事。
なら。
「ダメじゃない」
「……良いんですね」
「断られたかったのか?」
「いえ……一緒に居てほしいです。怖くて……先輩にまで嫌われたら、私……。今は一秒でも離れたくない……」
「……あぁ」
心臓が破裂するかと思った。
平静を装って返したが、気取られなかっただろうか。今のは上手く取り繕えた感じがしなかった。
まあ、今の水野さんにそんな事を考える余裕がある様にも見えない。もしこれが演技なのだとしたら役者として一線級で通用しそうだ。
なんて考えながら俺は自室の扉を開けて中へ入る。
そのまま水野さんと目を合わせないまま、俺はベッドに体を預けた。
「お邪魔します」
対して躊躇することもないまま、水野さんもベッドに入ってくる。
俺は壁の方を見たまま、背中にピタリとくっついてくる水野さんに小さく溢す。
「狭いな」
「……ごめんなさい」
「いや、責めてるんじゃなくて……あ~、やりにくいな」
「……先輩」
「なんだ?」
「なんで、嫌じゃないんですか……?私の事、知ってるなら……嫌いになっても」
そんなことは簡単だ。俺が何も知らないから。
だが、水野さんにとっては、知られたくない重大な秘密、それも自分が嫌われてもおかしくないような秘密を、俺に知られてしまっているような状態。
今なら、言っても良いんじゃないだろうか。言えるんじゃないだろうか。
「理由か……なんでだろうな?」
しかし俺の口から出たのはそんな誤魔化すような言葉だった。
今しか無かったのに。本当は何を知ってる訳でもないんだ、と言うタイミング。
あぁ、自分の卑怯者具合に腹が立つ。
精々俺が知っているのは、水野さんは重大な秘密を抱えていて、それは周りの人に嫌われるに充分な理由となるものであって、自分の事を嫌いな理由でもあるという事。
そうだな。例えば、俺が抱えている秘密なんかは、そういう物に当たるだろうか。
「……先輩がどこまで知っているのか、私は知りませんけど」
「あぁ」
「……忘れてくれなくてもいいです。今のままで、居てもらえませんか?……作り物でも、構いませんから」
「作り物か。造花でも、枯れるよりは良いって?」
「……はい」
「今のままで、いいんだな?」
「……はい」
「なら、そうしよう」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘嘘嘘。
俺はそんな事思っていない。思っていないのに、口から出るのはそんな言葉ばかりだった。
ずっとこうだった。大事な本心を言葉にできない。言葉にすれば消えてしまいそうで怖くなるから。
いつからだったか、そうやって嘘を重ねていく内に、心にも無い事を言って誤魔化すのは、やりすごすのはどんどん上手くなっていく。
嘘は、人をクレバーに、聡く、賢くしていく。そして同時に、ドライに、貧弱にしていく。
余裕は減っていくのに、余裕を見せる事だけは上手くなっていく。
考える程に、嘘は自分を殺していく。胸の奥に棘が刺さったような痛みが、ずっと自分の嘘を認識させ続けてくる。
こんなにも痛い。こんなにも怖い。
自分で生み出した嘘が看破されるのを怖がる権利など無いのに。本当は全部嘘だと言いたいのに。
言えない。
最後の最後で、俺は保身に走ってしまう。最低最悪の嘘吐きだ。
今だってそうだ。
最悪だ。大切に思っている相手なのに。いや、だからこそ、なのかもしれないが、結果として俺は水野さんに酷い嘘を吐いてしまった。
その時、そんな俺の嘘を咎めるかの如く、水野さんが俺を呼ぶ。
「先輩……」
いや、そうではなかった。
呼ばれたタイミングのせいで錯覚してしまったが、どちらかと言えばその声は不安か焦りのような色を湛えていた。
「なんだ?」
「……こっち。向いてもらえますか?」
「……あぁ」
答えながら、俺はその場で体を半回転させて水野さんの方を向く。
近い。
同じベッドに入っているのだから当たり前といえば当たり前だが。
「……そのまま、抱き締めてほしいです」
「え」
「嫌なら、いいです……」
目の前で見せられた、涙に潤んだ瞳。何かを諦めたようなそれに、逆らう事はちょっとできそうにない。
そこまでを考えて先に自分の方を向かせていたとしたら相当なものだが、俺は水野さんの前で女の涙に弱い事を示唆するような情報を与えてしまったのだろうか。
何にせよ、選択肢は無かった。
「あっ……」
両腕を水野さんの背に回して少しだけ引き寄せると、小さく声を漏らした。
普段であれば絶対に考えられないような距離感だが、嘘やら秘密やら何やらと、余りに考える事が多いものだから妙な気は起きてこない。それだけは救いだった。
家には置いていないシャンプーのものだろう慣れない甘い香りにも、同じ人間なのか疑いたくなるような柔らかい肌にも、異質なほどの至近距離にも、比較的落ち着いた心拍を保ったまま居られる。自分でも驚く程に。
「……寝苦しくなる、かもしれませんね」
「暑かったら、離れるのか?」
「……嫌です」
「暑かったら、エアコンに頼ろうか」
「……嬉しいです」
見た目には、然程動かない。
言葉にはハッキリと感情が乗っていて、それも或いは表情であると言えるだろう。水野さんの表情はそういうもの、と関係する内に理解できている。
けれど、心から出てきただろうその言葉には、どこかぎこちなさが見え隠れしていた。
「……水野さん」
「……なんですか」
「……髪、触ってみてもいいか?」
「ふふっ……」
「なんで笑うんだ?」
「だって、最初に会った日に言ったじゃないですか。良いですよって。なのに、そんな事を深刻そうな顔で言うから、面白くって」
「そうだったな。じゃあ、失礼して……」
言いながら俺は、水野さんの腰までもある長い黒髪に触れる。上等なシルクみたいな感触がする。
気持ち良くはあるが、それよりも重要な事が他にあった。
水野さんが、自然に笑ってくれる。そこに、先程のようなぎこちなさは無い。
その事に内心安堵のため息を吐きつつ、俺はゆっくりと水野さんの髪を撫でる。
少なくとも不快感を覚えてはいないのだろう、暫くそのままされるがままなっていた水野さんが、ふと呟く。
「先輩とは、まだ会って二か月くらいしか経ってないのに、もう随分一緒にいるような気がします」
「そうだな。俺もそんな気がするよ」
「……あの」
「なんだ?」
「……やっぱり、なんでもありません。おやすみなさい」
「……あぁ、おやすみ」
――――――――――。
仄かに香る甘い匂い。柔らかさ。温もり。
そういう心地好さが、俺の意識の浮上を緩慢にする。
今までに感じたことがある訳でもないのに、慣れないそれに不思議と安心感を覚える。
このまま微睡みに浸っていたくなる。
せめて水野さんが目を覚ますまでは、このままで居たい。
なんて考えが気取られたのか。
「先輩……」
水野さんが呟いた。
やけに近くに感じる声だった。
「……おはよう、水野さん」
「あ、起きていたんですね。おはようございます。もう、起きますか?」
「起きてる確認した後に起きるか訊くのって、なんか変だな」
「ですね。でも、目覚めていたんですね、もおかしいですし……」
「確かに。まあ、起きるよ。日曜日だから別に起きなくてもいいけど。……ってか、今何時だ?」
「六時半くらいです」
「あ~……休みの日にしては早いけど……まあいいか。久しぶりによく眠れた気がするし」
「そうなんですか?」
「かなり。この体勢でも分かるくらい体が軽い」
「こんな変な寝方してるのに、負担になってないんですか?普段どんな寝方してるんですか」
「知らん。寝てるときの事なんか考えた事も無かった。よく寝返りを打ってるような気がするけど」
「……寝相は、悪くないんですよね」
「さあ?というかとりあえず、水野さんが避けてくれないと起きられないんだけど」
「あ、そうですね」
言って、俺の緩めた腕から抜け出してベッドを降りる水野さん。
温もりと柔らかさの離れていくのが名残惜しかったが、そんな事を言う訳にもいかない。
俺も水野さんに続いてベッドを降りる。
「よし、気分も良いし、コーヒーでも淹れよう」
「良いですね。……一緒に寝た後にコーヒーとか、ちょっと意味深な気がしますけど」
「余計な事を考えたら負けだ」
その意味が分からない程子供ではない。
だからこそ、心臓が妙な跳ね方をした。嫌な汗を掻きそうな、と言えば分かるだろうか。
全くもってそんな事実は無い。
「そうですね。今のは聞かなかった事にしてください」
「分かった」
「ありがとうございます。それと……えっと、着替え、荷物をリビングに置いたままにしちゃってるんですけど」
「いいぞ。着替え終わったら呼んでくれ」
「はい」
言って、水野さんは俺の部屋を後にする。
扉を閉める動きがやたら丁寧だった。
そして。
「はぁ……」
大きく溜め息。
今になって、異性と同じ床へ就いていた事実に落ち着きを失い始める。
心臓がけたたましくアラートを鳴らす。
うるさい。時計の針が動く音が遠い。目の前は鮮明だが、眩暈がしたみたいにクラクラして、耳の奥が熱くなる。
熱中症にはまだ少し早い時期だというのに。
「はぁ……」
また、溜め息。
そうだ、と思い至る。俺も着替えを済ませてしまわないと、と。
そう思って衣類箪笥から、ずっと同じ組み合わせで使っている適当な服を引っ張り出して、下から済ませていく。
面倒な服は選んでいないのに、上手く腕が袖を通らなかったり、ボタンを掛け違えたりしてしまう。
普段なら差し支えなくできる事が、何故かすんなりといかない。
何度も何度も、落ち着け、と自分に言い聞かせてみるが、これといった効果は表れなかった。
その間も、手は休めない。動いていると、少しは余計な事を考えなくて済みそうだったから。
それでもいつもより長くかかって着替えを終え、階段を降りる。水野さんが着替えているリビングの前を意識的に無心になって素通りし、洗面所へ。
歯を磨いたり、顔を洗ったりとしている内に、平日と然程変わらない身支度が整ってしまう。
漸く心臓が落ち着いてきた。自分が自分の中に返ってきた、とでも言うのだろうか。別に幽体離脱なんかをしていた訳ではないのだが。
正常な心拍を何度か確かめつつ洗面所を出て、一旦自分の部屋に戻ろうとした瞬間に、目の前でリビングの扉が開く。
「あ、先輩。着替え、終わりましたよ」
「あぁ、分かった」
返しつつ、俺はリビングに入る。
「それにしても、こんなに早くまたの機会が来るとは……昨日の今日だぞ」
「まあ、いいじゃないですか。コーヒー、楽しみです」
「あんまり期待されても困るんだけどな」
家には色々とコーヒーに関する道具が揃っている。数こそ無いが、種類だけなら喫茶店と遜色ない筈だ。
だが、コーヒーにはもう一つ、淹れる人間という不確定要素がある。同じ道具を使う事で同じ土俵に上がる事はできても、残念ながら腕と言うのはそう簡単に上がってくれない。
毎日のように、それも一杯や二杯ではなく、何十人何百人分と繰り返している人間には流石に遠く及ばないのだ。
「期待するのは自由じゃないですか。それに応えられるかどうかはまた別の話です」
「なるほどね。そりゃ気楽でいい」
とは言え、期待されれば多少なり応えてみたいものだ。
台所に立って、逡巡する。
「……朝だし、サイフォンにするか」
本当は水出しを用意していればもっと良かったのだが。暑いし。
無いものを嘆いても仕方ないので、そっちはまたの機会にしようと決心する。
「サイフォン、良いですね。慣れてるんですか?」
「素人に毛が生えた程度」
「そうなんですか?割と手際良く見えますけど」
「まあ、見た目に楽しいから、ついサイフォンを使いがちだな」
「確かに、理科の実験みたいですよね。男の人は好きな気がします。あの人もサイフォンが一番楽しいとか言ってた気がします」
「マスターか」
「はい」
水野さんがサイフォンの中を食い入るように見つめながら答える。
このお湯が重力に逆らって上って行くのは確かに何度見ても不思議である。理屈は分かっていても、重力に逆らって動く事の難しさを人間はよく知っているのだ。
「そんなに珍しいか?」
「一般家庭には、まずありませんからね。道具一式揃えるだけでもそうですし、管理も面倒らしいじゃないですか」
「まあ、確かにちょっとは手間もかかるけどな」
ロートから視線を離さない水野さんと、話しながらも攪拌に集中する俺。
二人とも、意識はコーヒーを淹れる道具に向いている。なんだかんだコーヒー党なのだ。
「あ、わぁ……凄い、ですね」
すぐ隣で感嘆の声が上がる。
泡、粉、液が、綺麗に三層を作っていたから。それは、攪拌の上手くいったサインであった。
「一番慣れてるからな」
「これは……」
水野さんが分かりやすく喉を鳴らす。
頃合いを見て、俺はサイフォンの加熱を止め、素早く二度目の攪拌。
「今日は、特別上手くいったかもしれない」
「いつもでは無いんですね」
「まあ、派手に失敗することは無いけど、こんなに綺麗なドームが出来てるのは初めてだ」
より詳しく言うなら、盛り上がったドームの表面が泡になっている、だが。
パシャッ。
水野さんが、いつから持っていたのかスマートフォンのカメラを使って、そのドームを写真に収めた。
「これは、壁紙にします」
「地味じゃないか?」
「背景なんですから、地味で良いんです」
「そういうもんか」
「そういうもんです」
話しながら、ロートからフラスコの方に戻っていくコーヒーを眺める。
「サイフォン、面白いですね」
「そうだろ?」
「また来た時も、良かったら」
「あぁ」
また、また今度、の予定が増えた。
他の人とでは避けてきた事なのに、水野さんとだったらそれに全く抵抗感が無い。
それは、サイフォンの中を上っていくお湯よりも不思議な感覚だった。
こういうのを、温かい気持ち、と言うのだろうか。なんて一人で合点しながら、俺は丁度良く入ったコーヒーをカップに注いでいく。
「はい、水野さん」
「ありがとうございます」
水野さんは両手で大事そうにカップを受け取って、ゆっくりと口に運ぶ。
「……美味しい。昨日のにも不満はありませんでしたけど、数段上ですね」
聞いて、俺もカップを傾ける。
「……確かに、これは美味いな」
昨日の夜と比べて、どころか、俺が今まで淹れた中で断トツに美味い。
プロのレベルには流石に及ばないながらも、かけ離れたものにはなっていない。その当たりの違いはおそらく豆の質や管理なんかの問題だろう。
「これが毎日飲めたら幸せですね」
「そうだな」
「……本当に」
「何?」
「いえ、なんでもありません」
「そうか」
水野さんの言った意味が分からなかったという訳では無い。
けれど、余り深く追及するような事でも、もっと言えば重要な事でさえ無かった。
期待。そう一括りにしてもいいのか、という点を無視すれば、それは期待だった。
決して軽くはないが、だからといって重くもない期待。
俺の背負っている業に比べれば、遥かに軽い。
「……先輩?」
「ごめん。また余計な事考えてた」
「いえ、良いんです、それは。そうじゃなくて……」
「……いいから、無理しないでくれ」
「……はい」
水野さんの戸惑いは、理解できるつもりだ。
それでも俺は、俺が辿った道で、棘に傷つく人を見たくない。
無為に自分を追い詰める姿を見たくない。
それが水野さんであれば尚の事だ。
「……コーヒー、美味しいですね」
「あぁ」
それが、或いは手遅れであったとしても。




