第一話
念の為R-15にしましたが、そこまで過激な表現や描写はありませんのでご安心ください。
また、お気付きになった誤字脱字の指摘、ご感想など頂けると幸いです。
年度で最初の長期休暇と言えるゴールデンウィークの明け、初夏の陽気を朝からジットリと感じさせてくる通学路に響く、昼には鬱陶しくなりそうな日差しと気温に負けないくらいの、なんとかギリギリ心地好く思える喧騒。
そしてそれを奏でる、俺と同じデザインの制服を身に纏った学生達。俺は、その中には居ない。
それ自体は、なんてことの無いありふれた日常の風景。
別に孤立させられているとか、そういう社会的には虐待に当たるような事は決して無くて、単純に俺があまり人と関わるのを得意としていない為にそうなっているだけである。
わざわざ弱そうな奴を仲間に入れたがる勇者及びその御一行なんて居ないという事だ。つまり、アウト・オブ・眼中。俺から何か接触しないのも理由だろうが。
学校に着くまでそれは変わらないし、着いたところで隣の席のよしみで話しかけてくるか、巻き込まれて会話に入るのが関の山。それもほぼ聞き役に徹している。
去年の今頃に、同じクラスだった明るく楽しく元気の良い奴の内の誰かに、つまらなそうだ、と正面切って言われたことがある。
確かに楽しくは見えないだろう。ただ、それは外から見た場合の印象がそう解釈しているだけで、俺が人生を楽しんでいないという事ではない。
現代社会において、一人でも楽しく生きていく方法なんてごまんとある。もっと言えば、一人の方が楽しめる場合さえあるだろう。
例えば読書。誰かに邪魔などされてはたまったものじゃない。だから図書館や図書室にある、静かにしましょう、というマナーなのかルールなのか微妙な項目は、読書に興味の無い者を遠ざける。そうして、たとえ人が多く居ても、一人で読書を楽しむ為の空間がそこに作られる。
勿論、読書以外にも一人で楽しめるものは多い。理由はどうあれ意図的にそういうものばかりを選んでいくと、俺みたいな根暗人間の完成、となる訳で。
当然そういう生き方を選んでいるような性格的人種は、面倒なことを好まないからそうなっている訳で。
「澤木~。ボーっとしてると減点するぞ~」
「あ、すいません」
こうやって、無駄な思考を巡らせて、日々の授業を惰性でやり過ごそうとかしていると注意されたりもする。
教師というのは存外よく見ているものだ。注意するべき惰性を、静かにしているならいいか、と敢えて無視してくれる教師は個人的に良い人である。つまり、この教科担当は好きじゃない。
「じゃあ減点しないから、八行目から次の頁の十一行目まで読む」
「はぁ……」
「はぁ、じゃないよ」
「……はい」
特別面白くもないそのやり取りに、教室が微かな笑い声に包まれる。
その小さな音も、俺がそれなりに真面目っぽく教科書を読み始めると収まって、読んでいる間は少しだけ、授業を真面目に受けている奴の注目が集まる。そして、読み終わったらすぐに霧散する。
ある。よくある事だ。
珍しくもなんともない。
視線の離れていく安心感が、日常に生まれる小さな緊張を和らげていくのも。
今俺が読んだところについて、教師が少しばかり解説なんかを挟んでいくのも。
本当によくある日常だ。
そんなよくある一日の授業を省エネルギーで乗り切った放課後、俺は学校の図書室に向かう。
日課というほど毎日は行っていないし、言ってしまえば早く帰りたいのだが、図書委員になった以上は仕方のない事である。
「というか、なんでこの学校は全生徒委員会に入らにゃならんのだ?」
面倒くさい。可能なだけ面倒を回避するために図書委員を選んだのだが。
たとえ放課後まで拘束されるとしても、完全下校時間までという活動時間に対して活動量が少ないだけマシだ。それにカウンター業務にしても、蔵書整理にしても、この静かで穏やかな図書室から出る必要が無いのも大きい。
ここは俺のような人間にとっては居心地の好い場所だ。基本的に静かな分ハッキリと聴こえる、紙の擦れる音とか、時計の針の音、時折人が移動する足音だったり、囁くみたいに静かな話し声も、割と嫌いじゃない。それくらいの音量が丁度良いのだ。
取り留めも無く、余計な考えを巡らせてながら、静かに図書室の扉を開ける。
今日はカウンターで貸し出しと返却の手続き。そう思って、カウンターに向かう途中、俺の意識は全く関係の無い本棚に、というかその近くに向けられた。
人間の注意というのは多くの場合、五感情報の七割を占める視野情報、その内の見慣れないものや大きな動きに強く向けられる。
面白生物を見つけたら誰でも視線を向けたり写真に撮ったりするだろう。今の俺はそういう状態だ。いや別に面白生物ではなくて普通の人なのだが。
上履きのラバーは赤色。つまり一年生か。後輩ということか。
正直、スルーしたい。けれど、それは余りにもあんまりだ。
少し可哀想になってくる。俺の視界が捉えているのは、本棚の一番上の段に手が届かない女子生徒が、そこから本を取ろうとしている、というテンプレのようで見る機会の無い、目の前にすると哀愁さえ漂うような光景だったから。
「あ~……水野さん?どの本か言ってくれれば取りますよ」
「え……?右から二番目です……」
「よっ……と。これで合ってますか?」
「はいっ……」
良心の呵責に堪えかねて、小さな、と言っても年は一つしか違わないけれど、彼女の言った本を取って渡す。
この図書室は、低身長の人への配慮が足りないらしい。よく考えれば、男子の平均より少し身長の高い俺がなんとか届くくらいなのだから、小柄な人ではなかなか届くものではないだろう。
次の委員会議で踏み台を入れてもらうように言っておこう。
「あ、ありがとう、ございます……。その……なんで、名前を?」
「名前?あぁ、水野さん、って呼んだから……?上履きに書いてあったのを読んだだけです」
「……上履き、見たのに、敬語なんですか?」
「いや、その……初対面ですし?」
ついつい典型的根暗な性格が露見しそうな、語尾の上がった確認調子になってしまう。
アホか。普通に人と話すだけの事なのに、慣れないにも程があるだろう。相手が女子というのを除いても、だ。
「……先輩が後輩に敬語を使うのは、少し変です」
「そう、かな?」
水野さんが無言で頷き、彼女の黒髪が揺れる。
今更だが、髪が長い。腰くらいまである。前髪も目の下くらいまで。眼鏡をかけているのさえ髪で隠れて分からなかった。
その長さで、鬱陶しくないのだろうか。というか絶対邪魔だろうそれは。
ただ、男の俺がそういうことを言うとセクハラになるかもしれない。今のセクハラはもう何でもアリだし、指摘するのは若干腰が引けてしまう。
と、余計な事を考え始めたところで、水野さんが小さく口を開く。
「変です。もっと先輩らしくして良いと思います。既に先輩らしいことをしてくれていますし」
見た目は凄く暗そうな印象だが、思ったよりずっとズバズバと物を言う。声量はイメージ通り小さいが。
正直に言うと、余りストレートに褒められると恥ずかしい。
「……分かった。敬語はやめとくよ。ところで……水野さんも図書委員?」
「……不気味なくらい当たりますね。そうです。図書委員ですけど、その口振りだと先輩もですか?」
「そういうこと。今日はカウンター」
「私は、蔵書整理です。……と言っても、並びの違うところを直すだけですけど」
「代わろうか?」
「……嫌味ですか?」
「いや、効率の問題」
「そういうことなら……お願いします。カウンターは任されました」
「はいよ」
事務的なやり取り。相手が図書委員だと分かったら、少し調子が出てきた感じが自覚できた。
仕事仲間、と言ってしまうと少々大袈裟だが、似たようなものだ。相手がある程度の事を分かっている前提ならトントン拍子で話が進む、というのはそれに限らずよく起きる事である。
まあ、嫌味っぽく受け取られてしまうかも、と思っていたからすんなり対応できたのだ。水野さんはなんというかどこか合理的らしい雰囲気を持っていたし、低身長というのは男性もそうだが女性も結構気にしているものだと聞いたことがあったから。
不思議な事だ。
確かに、低身長で不便な事は多いかもしれない。ただ、外見的特徴としての女性の低身長は、男性のそれよりもマイナスに働きにくい筈。何故気にするのだろう。
弱みだ、と感じているからだろうか。個人の価値観の問題だから、推測にも限界がある。
また取り留めのない、そして特に生産性も無い思考に身を委ねながら、本棚をチェックしていく。端から端まで、丁寧に背表紙に張ってあるシールの番号を、その並びを見て、違うところは取り出して入れ替えてやる。
こういう時に隣とか同じ棚の中でズレているならまあ良いのだが、面倒なのが明らかに戻す場所が間違っているパターン。そういう本があったら、それを持ったまま確認作業を続けることになる。あと、一回見た場所に戻さないといけないのもなかなか面倒だ。
図書室の広さなんてたかだか知れているが、それでも面倒なものは面倒である。そもそも何故本棚に戻すだけで違う場所に入るのか。自分が手に取った本の場所くらい覚えていてほしい。それができないならせめて十進分類の使い方くらいは覚えてもらえないものだろうか。
「はぁ……」
内心で愚痴を呟きながら確認作業とイレギュラーの訂正をしていく。
長いこと続けていると低いところを確認するのが辛い。なんて、今カウンターで暇そうに座っている水野さんの前で言ったらボコボコにされそうだ。
根に持ちそうなイメージ。勿論ただの先入観であって、もしかするとそんなに気にしていないかもしれない。ただ、嫌味か、と訊いてきた時、表情が乏しい彼女から冗談の気配は感じられなかった為にそう思い込んでいる。
どちらにせよ、そう深く関わる事も無いだろう。気は合いそうだが。
俺も水野さんも、一人で居る事に慣れている人間なのだ。あの目は、そういう目だ。
淡々と、作業をこなしていく。
何故あんな申し出をしたのだろうか。そんな微妙な後悔の念があと少しのところで漸く浮かぶ。
嫌というのではないし、俺がこっちを受け持った方が高効率で終わると思ったのも確かだが、別にあの提案をする必要性があったかと自問してみる。
自答はすぐに浮かんだ。水野さんがこの作業をしているのを見続けたら、ちょっといたたまれない気持ちになった気がする。それで良しとしよう。
「……これを、ここ。こっちは、そこ、っと……よし。終わった」
それほど激しい運動ではないが、地味に体力が奪われた。省エネモードで稼働していて良かった。
負担のかかっていた関節を伸ばしつつ、俺が本来するはずだったカウンター業務の持ち場に戻ると、水野さんが小さく頭を下げて迎えてくれる。
「お疲れ様です」
「あぁ、うん……ありがとう」
俺は言いながら少し乱雑にカウンターの椅子に腰を降ろす。
「こちらこそ、ありがとうございます。……帰ってほしい訳ではないですけど、帰っても誰も文句は言いませんよ?」
「知ってる……疲れたからちょっと休んでから帰るよ」
「そうですか」
水野さんが椅子の回転する座面をクルリと動かして、カウンターの方へ向き直る。
改めてみると、やっぱり髪が長い。どうしても気になる。
ふわふわと不規則に揺れ動く綺麗な流線軌道に、視線が釘付けにされてしまう。
そして、そんな風にずっと見つめていれば当然気付かれてしまう訳で。
「……何です?」
「いや、なんというか……こういう事は言っていいものなのかなっていう躊躇が……」
「構いませんよ?別に、嫌な事だったら無視しますし」
そういう割り切り方は正直嫌いじゃない。というか、結構好きかもしれない。ただ、ドライな性格に惹かれるからといって、決してマゾではない。
「あ、そう?それなら言うけど、髪長いなって。まあそれだけなんだけど」
「そうですね。不気味なのか何なのか、話しかけられることが減って助かっています」
「あぁ……。でも、そこまで伸びると重そうだけど」
「それも、はい。ありますよ。試しに、後ろ髪だけ持ち上げてみますか?」
「……いや、それはちょっと」
「良いですよ。減る物でも無いですし」
「いやその、女の子の髪は命って言うし……」
「私の体にそんな大事なものはありませんよ」
そんな反応に困ることを言われても、本当に困る。
いや心底困る。だってどう返しても地雷じゃないか。
「……あのさ」
「何でしょう?」
「もうちょっと自分を大切にしようよ……」
「……そんなに大切にしたいものなんて、ありませんから」
その言葉が、ひどく冷たかった。そのトーンが、凍てつくようだった。
水野さんに何があったか、俺が知る訳じゃないのに、途轍もない寒気がした。
心を槍で穿たれたみたいな、ゾッとする虚無感が、彼女の元から通り過ぎて行った。
「……ごめん。何か、気に障ったなら謝る」
「……その言葉に先輩は、責任を持てるんですか?」
「……ごめん」
再び俺が謝ると、ふっと、突風が過ぎ去っただけの事、とばかりに元のトーンで水野さんが言う。
「はい。赦します。代わりに忘れてください」
「どこまで?」
「今のだけです。それと、出来れば、なんですけど……」
長い前髪の向こうから、視認性の良くない上目遣いをしてくる。囁くような小さな声での、小さなお願い。
少しだけドキッとした。
人生で初めて見るものには、やはり緊張や好奇心やらでそうなってしまうのだろう。
それで久しぶりに、高揚感というものを思い出した。